噂ハヤガテ風ト消ユ
命ハヤガテ巡リユク
季節ハヤガテ冬ト成リ
涙ハヤガテ凍リユク
ちらり、ちらり。
今年は初雪の便りが早い。
一度地へ降り立った白きものが風に吹かれ、再び舞い上がる。
其れは彼の周りをくるくると廻り、やがて消えていった。
道を急ぐ彼にとって、きぃんと冷え切った空気が酷く肌を刺す様に感じる。
着流しの細い肩に掛けられた羽織の中に入り込んだ北風が、くるくると渦を巻いて抜けていく。
先日やっと奉行所の拘束より解放されたし乃雪は、再び奉行所へと急いでいた。
昨日出た結論……佐原蘭樹は御咎め無し。寧ろ、藤原弥次郎・土御門清慈両者の証言にて「郁千代を助けようとした」と言う事が実証され、お褒めの言葉を貰う始末。
……問題は、土御門清慈の方である。
奇っ怪な術と『金の成る壷』を用いて不正に武家屋敷総取締を儲けさせた挙げ句、其の息子・郁千代を殺し金を巻き上げようとした……そう、取締である樋口慎之介本人の口より出たのだ。
其の言い分に傍にてじっと耳を傾けていた清慈は、自らについて何も語ろうとしなかった。反論は愚か頷く事すらせず、只黙って事の成り行きを見……其れだけであった。
無論、弥次郎やし乃雪の言い分も聞かれたが、其れ以上に周囲の人間達の噂や証言の方が大きく、たかだか二人の力では如何にもならぬ状態にまで陥っており。
故、結局は周囲の証言と状況証拠にて、清慈の刑が先日確定したのである。
奉行所の入り口にて面会の手続きを済ませたし乃雪は、一目散に牢獄のある建物へと駆け込んだ。
数人の罪人が閉じ込められておる其の部屋の最奥にある、最も暗い牢獄。
妙に静かな其の牢獄の前に座り、し乃雪は震える唇で中の男に声を掛ける。
「総、ちゃん」
「………… 蘭樹か、」
あの静かな声が、牢獄の奥より柔らかく語り掛けて来る。
目が慣れて来た辺り、薄汚れた着流しに髪を結い上げ、し乃雪に背を向けて正座したままじっと動かぬ其の姿を見出す。
……振り向こうとする様子は微塵も無い。
「余り……この様な姿を見られたく無かったな」
「何を今更。
…… 未だ、生きていてくれて……良かった」
「何、施行まで三日あるでは無いか。慌てずとも暫くは此処に居るよ」
顔を見せぬまま、しかし其の声に暗き色は微塵も無い。寧ろ、あの穏やかな笑みを今尚湛えているかの如く、春の日の柔らかさをし乃雪に伝えて来る。
「だって……打ち首獄門なんて、」
「然るべき罪さ」
「…………」
暫しの沈黙に、冷え切った空気が漂う。
「なぁ総……否、清慈。本当の事を教えておくれ」
「……」
「俺には如何しても腑に落ちぬ。お前さんは何故に反論しなかった?今のお前さんを見ても、無益な殺生を嫌う昔と変わらぬ『総次郎』にしか見えぬ。
其の様なお前さんが……誇り高き陰陽師のお前さんが」
「……、」
「………… 頼む。この通りだ」
「……」
清慈が、ゆっくりと振り向く。
格子より手を伸ばし、土下座をするし乃雪の頭を辛うじて撫でる。
促され顔を上げたし乃雪の瞳が、澄んだ水に沈めた紅玉の如く。
「……昔は……皆、この瞳を怖がっておったね」
「……ん……、」
「私は、お前の瞳が一番好きだ」
「!…………っ……」
視界が、ぼやけ。
ずっと見ていたかった清慈の銀の瞳を、見る事が出来ず。
ぽた、ぽたり……涙が、何度も膝を叩く。
清慈の声が、顔が、余りにも……優し過ぎて。
「……何を言っても、何も変わらぬよ。
言い訳するつもりは微塵も無い」
「言い訳等ではない!!
……お前の言葉に、嘘なんか無い……!」
「……蘭樹、」
「俺の我が儘……頼むから、聞いておくれよ……な?」
悲痛な叫び声に、聞き耳を立てていた周囲の囚人達が息を呑む。
「…………本当に、我が儘な子だな……蘭は」
小さな溜め息が、笑みと共に白い息となって流れ、消える。
自分の頭を撫で続けていた冷たい手が離れた辺り、淡々たる口調で紡がれ始めた。
「なれば……何処から聞きたい?」
「右近とは……如何言う関係じゃ、」
「最初からだな……長くなるぞ?」
「右近は私の弟子だ。
伊賀より来たと言う右近と左近の二人が狐である事は、本人達が城へ来た時に申していた。
右近は隠密であったが、「もう汚い仕事はしたくない」と私の弟子となり、城代のある命にて諸国を……右近と左近と、三人で廻る事となった。
……江戸に寄り、あの武家屋敷へ滞在なさっておった藩主へ挨拶に廻った折、郁千代坊ちゃんと出会ったのだ」
「……」
「江戸にて我が命であったものの情報も掴んだ故、暫く滞在する事にした。……しかし、其れが良くなかった。
郁千代は父親に構って貰えなかった故、様々な書物を読み漁る事が趣味であった。其の中で……蠱毒を記した本を、既に持っておった。
私は内々にて手放すよう説得した……しかし、郁千代はあろう事か……」
「……右近を狐蠱にしてしまったのか」
「…………嗚呼」
小さく頷くと、清慈は唇を噛み締め、其れより口を開く事を躊躇う。
少しの間、其の場の空気が凍り付いたかの如く、時を止めた。
「………… 右近と左近には、悪い事をした……坊ちゃんにも、樋口様にも。
総ては……私に力が無き故」
「何処がじゃ……お前さんは、最善の策を取ったではないかえ」
「…………、」
やがて、牢獄の入り口より面会の終了を知らせる声。
し乃雪はすっかり冷え切った体を乗り出し、格子へと手を掛け。
「済まぬ、もう少しだけ時間をくれ!!」
入り口へ向かい叫べば、番人は其れ以上何かを言うでも無く、重い扉を少しだけ閉めてくれた。
……あの番人も又、彼等の話に耳を傾けている一人であるらしい。
また少し外の喧騒が遠くなり。
し乃雪は其の指で清慈の頬に触れた。
「最後に……もう一つだけ、教えておくれ」
「…………」
「…………なぁ、何故にあの時、俺を殺めなかった?」
「……!」
くん、と、ほんの少し清慈の顔が上がり、其の瞳に驚きの色が浮かぶ。
しかし直ぐに表情が陰り、やがて伏し目がちに小さく零す。
「……気付いて、いたのか」
「否……漸く総て"思い出した"……
其れに、今し方の話で確信したよ。
わざわざ城代が"陰陽師"土御門を諸国漫遊に出す程の用事……隠密を陰陽師の弟子として従えさせたとなれば、其の命は城代ではなく"陰陽寮"からのもの……。
土御門分家・佐原の生き残り、且つ"妖神"の成れの果てである俺の暗殺、若しくは紛失した"御神体"探し位しか思い付かぬ。
……其れに、俺が蛇蠱に憑かれておる事を知った時の一言が……気になった」
「……」
清慈より、小さな溜息が漏れた気がした。
「しかし俺は申した筈だ、長生きする気は無いと。
お前さんも、俺の首を欲しておろう?
あの蛇蠱がお前さんの仕業ではないとしても、弱り切ったあの時の俺なれば……
"鬼神"を殺めるは容易かった筈」
「…………其処までお見通し、か」
そう漏らした清慈の笑みは、何処か今にも泣き出してしまいそうな危うさを含み、塗れ色の悲しみを零す。
し乃雪の表情は、何時の間にか柔らかなものになっている。まるで、総てを悟ってしまったかの如く。
「……俺は、お前さんの僕として造られる筈であった者。
お前さんになれば、喜んでこの命を差し出したものを……」
「蘭……樹……」
するり、格子を抜けようとした白い指を、清慈の同じく白く冷たい指が捕まえる。
其の瞬間だけ、あの夜と同じく雪色の肌同士が混ざり合い絡み合ったが、其れがお互いの錯覚であると頭の隅にて認識するのに然程時間は要らなかった。
清慈は未だ切なげな笑みのまま、しかしまた少し悲しみを湛え、し乃雪の目をじっと見つめた。
……心身削り切った様なし乃雪の顔が、目に映る。
不意に銀の瞳が濡れ、やつれた頬を一筋の涙がつぅと流れ落ちた。
「…… 、」
流れた涙を隠す様に、清慈は僅かに俯く。
し乃雪の指を離さぬ清慈の指に力が入り。
やがて、酷く掠れた声が、震えながら紡ぎ出された。
「…………蘭……
これは……遺言だ」
「……」
漸く絞り出された、最期の、言の葉。
「……蘭樹……きみは、生きろ。
きみを殺めようとした者の事等、皆忘れてしまえ。
生き抜いて、生き抜いて、人として、幸せになってくれ……
…… きみが生きて居てくれていた……そしてこれからも。
其れが、私の一番の……喜びであり、願いだ」
もう、清慈の表情は分からない。
すっかり俯いたまま、握られていた手も落ちる。
「……さぁ……
もう………… 行きなさい……」
俯いたまま。
もう、其の端正な顔を……自分しか見られなかったあの笑顔も、瞼に焼き付ける事は叶わない。
し乃雪の口元がひくり……と何か言いたげに震えた。しかし、何か言葉が浮かんで来る筈も無く。
薄暗い牢獄に居る其れは、抜け殻の如く。只、動かない。
「………… 不器用な……男だな…………
お前さん、は」
言葉と共に、し乃雪の頬も又…… 濡れていた。
* * * * * * * * * *
……
獄門……其れは、斬首の後に其の首を三日三晩人目に晒す刑。其の後の遺体は弔う事すら許されず、自然に腐り消えて逝く様を待つのみ。
清慈の安らかな頭が固定された獄門台を囲む格子の外。
其の首が風に吹かれ艶を無くした髪が揺れる様を、し乃雪が放心したまま座り込み、見詰めている。
薄い服のまま座り込む天人の、少し離れた壁に寄り掛かる源三郎。
彼は酷く歯痒そうに唇を噛み、しかし其の身に触れようとはしない。
し乃雪の髪もまた、強く吹き荒れる風に引かれ、揺れる。
瞬きする事すら忘れ去ってしまった其の瞳は泣き腫らして乾ききり、光すら消え失せている。
獄門台の側に転がっている縛られたままの胴も……空に掲げられている頭も。
もう三日目だと言うに、乾いて痩せ細る事も腐乱し落ちる事も無く、美しいまま其処にいる。
「………………」
し乃雪の体はすっかり冷え切り、現に居る事を忘れた人形の様。
源三郎の中を、焦燥と煩わしさが犇めいていく。
側に居る事しか出来ぬ無力感が、……もどかしい。
「……源三郎」
「ん、」
まるで生気無き、弱々しく掠れた声が、彼を呼ぶ。
返事すれば、ぽつり、ぽつり……粉雪の一粒が舞うかの様に、言の葉が零れ落ちる。
「面白いと、思わぬか……、」
「……、」
「"鬼の子"の話……さ。
一度のみ聞かされた其れが、真の話であったと……
故に"あの儀式"を俺に施されたのだと……
幼馴染みの首と胴が離れて、初めて……思い出すとはの……」
「、」
「……もっと早く、この事を思い出せておれば……清慈は……」
「し乃雪」
「……」
「お前は悪くない」
源三郎の其の一言が、彼に届いたのであろうか。
光消えた瞳がふと瞼の下へ隠れ、途端、細い体がぐらり揺れ。
其のまま、冷たい地面へと倒れた。
白い大地へ委ねられた其の体を、源三郎が抱きかかえる。
瞼の奥へ消えかけた其の目から、枯れた筈の涙が今一度だけ伝った。
「……もう良いだろう、雪……
お前は清慈の後を追うつもりか」
「………………」
「……雪……、」
何かを言いたげに表情無き唇が動き、空風の如き声ならざる声が漏れる。
しかし其れを遮るかの如く、源三郎は華奢にて力無き其れを温め擦りながら。
「今は何も言うな。今は何も考えるな。
し乃雪、お前は決して悪くない」
「………………
総ちゃんも……
郁千代、も……
右……近…………も…………
"里"の、皆……も…………
俺が…………」
「…………」
「………… 俺……が……殺……め」
「やめてくれ!」
力無きし乃雪を、強く抱き締める。
酷く痩せた其の体は人形の様に冷えきり、頼りなく柔らかい。
「もう……自分を責めるな!
清慈も言ったのであろう?
生きろと……幸せになれと!
お前は……生きるんだよ!!」
「……………」
表情無いまま目は閉じられ、もう一筋。
流れようとした涙が、しかし頬の途中にて止まり、形を失った。
源三郎は、其の身に顔を埋め、泣いた。
し乃雪を此処まで狂わせ、壊してしまった『何か』が、今は猛烈に憎く、恨めしい。
獄門台を睨み付ける。
清慈は、安らかな表情で眠ったまま。
只……「蘭樹を頼む」、と。そう、呟いた様な気がした。
――― 俺はお前じゃあ無え、土御門清慈。
心の内にてそう啖呵を切りつつ、己もまた冷え切り震える体。
抱き上げた其れは、酷く軽い。
ちらちらと降っていた粉雪が数を増し、温もり失くした世に降り積もって行く。
源三郎は、抱えた其れを大切に守る様に、踵を返した。
* * * * * * * * * *
………………
ず
ずず
ずずず
明かり一つ無く、生温い水の中。
もう明ける事の無い、夜。
腹の上より自分の顔を覗き込む、大きく重い鱗の感触。
ちろり、ちろり
冷たい唇を確かめるかの様に、舌が触れ。
もう動こうとしない肢体を愛おしむ様に、闇の中に白く浮かぶ太い胴はゆっくりと這い回る。
――― …… 嗚呼、俺は……死ねたのか。
妙な感覚が脳天を掠め、同時に生まれたものは……楽になれたと言う妙な安心感。
肢体がふわり水の中に浮いたまま。
きっと、この体は……
あの時の夢の様に、
喰い尽くされ、
消え行くのだろう。
其れも、良い。
自分らしい最期だ。
「…………蘭樹、」
蛇は、語りかける。
聴き馴染みのある、柔らかくも低い声が、じわりと響く。
「もう……あの蛇鬼など、居ないよ。
目を開いてご覧」
――― ……俺は、目を開けている筈なのに、
「……きみの中で、眠らせてくれ。
ずっと……共に」
其の言葉に、漸く冷たい指がひくりと動き。
ゆっくりと開かれた瞼の奥に隠れていた色無き瞳が、遠い水面に浮かぶ同じ色の月を……
この体を抱く、狐とも人とも付かぬ白き獣の姿を捉えた。
五本の長い尾が、柔らかく揺れる。
剣の様な銀の瞳が、愛おしそうに自分を見詰めている。
其の気高き獣が誰であるか、何処かで知り得ていた。
嗚呼、懐かしい……温かな、感触。
彼は、獣の背へ、手を回し。
柔らかな毛並みを抱き締め。
重なり、繋がった、其の部分が……熱く、心地良い。
「……有難う……」
獣は、首筋に顔を埋めたまま……微笑んだ。
* * * * * * * * * *
「……雪、」
突然認識した赤い光に眉間を寄せた所で、遠く懐かしき声を見出す。
其の光が瞼を通した故のものである事を知り、酷くぼやけた頭を横へ倒した後、し乃雪は漸く瞼を開けた。
……しかし、急に目を刺した真っ白な日光に何も見る事が出来ず、再びきつく目を閉じ、布団の中へと潜り込む。
「……雪、目を覚ましたのか?」
「…………、」
眩しいんだよ。と言おうとしたが、ひゅると喉を風が通り、其れだけだ。
……嗚呼、泣き明かした故か。其処まで思った所で、記憶が津波の如く押し寄せ。
総てを思い出した所で霧が晴れる様に意識は覚醒したものの、しかし其の心に未だ雨は降り続いたまま。
「雪、おい。大事無いのか?」
ゆっくり顔を出せば、冷たい空気と共に源三郎の心配そうな顔が覗き込む。
見知った顔……少しだけ安堵を覚えたし乃雪であったが、反射的に何か言おうとした所で、又妙な隙間風が喉を通って零れるのみ。
「……」
「未だ顔色が悪いな。気分は、」
「………」
「聞こえねえな、大丈夫かい?」
「…………」
「……雪……お前、まさか声が」
頬に触れた温かく大きな手を、し乃雪は苦笑を浮かべながらそっと払い除ける。
心配し遣るなよ、源……そう言いたそうで。
源三郎は何か反論しようとしたが、……痩せ細った肩に自らが羽織っていた襦袢を掛け。
其のままグイとし乃雪を抱き締めた。
し乃雪の頭が源三郎の逞しい胸に抱かれ、突然の温もりに彼は目を白黒させた。が、源三郎は其の様子に優しくも真剣な眼差しを向ける。
「?……、」
「雪…… 一度しか言わぬぞ」
「…………」
「お前は未だ何か勘違いしておるやも知れねぇが……
あの男が処される前に、聞いた」
「、」
「清慈はな……お前を殺めに来た訳では無い。
命を密かに破り、純粋にお前を案じ、会いに来たんだよ」
「!」
「其れを隠していたのは、左近に事が知れたらお前の命が危ないと気付いていた故だと。
……過去にお前とあの男との間で何があったのか、俺はほじくり返す気も無ければ興味も無い。
だが……あの男は、誰よりもお前を好いておったんだよ。
………… 信じてやれ」
「……っ…………げ、ん……」
掠れきって声になり得ぬ吐息が、涙と共に漸く絞り出される。
胸元をきつく掴んだまま、し乃雪は震えていた。
優しさが……沁みる。
其の心が、余りに暖かくて。
そして、この身が……恨めしく、悔しい。
「余り自分を戒めるな、雪。
お前は何時か言っただろう?何があっても嫌わないでくれ、と……
…… 安心して、此処に居れば良い」
「………………」
「お前さんの友はずっと傍にいるぞ」
「……」
泣き腫らした目で見上げたし乃雪は、何度も何度も、頷いた。
友の癖に優しくし過ぎぞ、源の字。……そう言いたげな表情に対し、源三郎は意地悪そうに片眉を上げ、軽く笑む。
やつれた其の顔は柔らかに笑み、其の涙は嬉し涙へと変わっていた。
と。
場の空気にほんの少しの潤いと温もりが混じった辺り、其の美しき静寂を破る微かな足音。
まるで猫が階段を駆け上がるかの様な軽やかな足音であったが、其れに源三郎気付いた時には既に遅し。
がらり。勢い良く襖が開かれ、其の暗がりより顔を出したのは、魚篭を片手に心配そうな顔を浮かべる狛虎であった。
「源!源!! 太夫は…… あ」
言い掛け、しかし目に飛び込んだ景色に場違いである事を瞬時に悟ったのか。
ば、と恥ずかしそうに離れた二人にくるり背を向け、狛虎は咳払いを一つ零した。
「……あ、す すまんさ」
「あ、いやこれはだな狛虎」
「俺、散歩に」
「何を勘違いしていやがるんだよ!何もしてねぇから、入れ!
ほれ、雪だって目覚めたんだからよ」
其処まで言うなら、と、狛虎は酷く申し訳無さそうに脚を踏み入れたが、し乃雪の前に座った頃には何時もの狛虎。
彼は魚篭を自分の横へ置くと、さも嬉しそうににかりと笑う。
「太夫、気が付いたんだな!!大層心配したのさね」
「未だ調子が良くねぇからな。余り無理はさせるなよ」
「分かってるからに!」
半ば生返事でそう返した後、横に置いていた魚篭をすと差し出す。
「でな太夫、これ!」
し乃雪が受け取り中を覗くが、其の中は白い粉状のものがびっちりと詰まっているのみ。
しかしし乃雪が軽く首を傾げる其の様に構う様子も無く、狛虎は続ける。
「これ、ちょいと季節外れだけど岩魚と山女さ!
朧がある場所を教えてくれて、其処に住む魚は常に脂が乗ってて、食えばどんな奴でも元気が出るのだと!
土地の主が悪くならぬ様に塩で手を加えてくれた故、今食えるからに!」
「…………?」
「さあ、ちょいと手ぇ突っ込んでみるさ!!」
俺に?
ほんのり目を輝かせ、し乃雪は言われた通り、魚篭の中へ恐る恐る手を差し入れ。
少し弄れば、数匹の脂がたっぷり乗った川魚が姿を現した。
其のどれもが丁寧に頭と腑を取り除かれてあり、軽く酢で〆てある様子。
「さぁさぁ、其のままガブッと行くと良いさ!」
「こら狛虎!だから余り無理をさせるなと……嗚呼ッ!?」
言うが早く、し乃雪は大口を開けて魚を一尾、口へと突っ込んだ。
源三郎は目を点にしていたが、やがて生唾を飲み込み、旨そうに齧る様を二人は見入る。
バリバリと熊の如く骨ごと噛み砕き、やがて尾鰭だけを残した所。
口を暫くもごもごさせていたし乃雪は、大きく目を見開き。
「………… 旨いな」
「あっ」
「狛、一人一尾か?もう喰うてはいかぬのかえ?」
さり気無く出た其の、声。つられ、源三郎は驚きと喜びに酷く頓狂な声をあげ、同じく目を見開いた。
「雪、お前声……」
「! ……ふむ、出たのぉ」
「何?太夫、声が出なかったのか?腹が減ってたからじゃないからに?」
「あ」
狛虎の余計な一言に、今度はし乃雪の方より妙な声が上がった。
……五日以上何も口にしていなかった……今更思い出す。
同じく気付いた源三郎も、大きな溜め息を漏らし。
「…… 何だ、腹が減っていやがったからかよ」
「……もう少し友人である俺を労ってはくれぬのかえ?」
「労るも何もなぁ……今の食い意地を見てしまったらよぉ、」
「まぁまぁまぁ……皆で喰おうさ!沢山捕って来たからにな!」
漸く……本当に、漸く。
し乃雪は、心より笑った。
源三郎と狛虎、二人は意とせず顔を見合わせ、安堵の笑みを交わした。
未だ、し乃雪の心は、暗い。
しかし其れ以上に、今は"死ぬな"と言ってくれる人が居る。
生きている意味など……
其れで充分。
「……難しいな、」
魚をかじりつつ、ふとし乃雪が漏らす。
「何がだ?」
「ふふ……生きるも死ぬも、さ」
そう、何処か愉しげに笑う姿に、源三郎は笑い返しながらも……
知り得てしまった、見え隠れする危うげな『何か』を、彼は恐れていた。
(其れはまた、別の話にて。)
兎に角。
今のし乃雪に生気が戻り始めただけでも良しとしようか……
寒空に雪化粧する景色を見上げながら、源三郎は胸の内に其の思いをそっと仕舞い。
「死ぬ時は死ぬ、其れで良いんじゃぁ無ぇのか?」
「……そうじゃの、」
「其れまでは仕方ねぇ、傍には居てやるからよ」
「なれば、お前さんの為に長く生きねばならぬな……フフ、面倒じゃのぉ?」
そう……
『何があろうとし乃雪を離さない』。
源三郎は、約束したのだから。
蠱毒 完
