弍人ノ思ヒ交差シテ
始マリマスル慘劇ノ
豫感湛ヘテアノ元ヘ
身ノ毛モ彌立ツ蟲ノ中ヘト
御身震ワセ飛ビ込マン
身ヲ滅ボス蛇ノ山ヘト
御身竦マセ乘リ込マン
其レガ最期ト知リ得ドモ
其レガ運命ト知ル故ニ
数日後、武家屋敷門前。
毎度の如く、屋敷の壁の周りを数人の野次馬が珍しもの見たさに囲み、何も見えぬ故にやがて去って行く。
もう毎日同じ様な事を繰り返されておる故、門前に立つ番人はこれ如きに動じる気力をすっかり無くしてしまっている。
しかし、この日は少々様子が違った。
白地に真っ赤な椿をあしらった着物姿の、ある女が近付いて来る。
日常の中に不意を突いて現れた其れに対し、番人の目は釘付けとなった。
新雪の如く白き肌。
剣を糸にした様な白銀の髪。
紅の瞳と唇、……色香を漂わせる佇まい。
欠伸出かけの顔のまま、門番は其の姿を目にし、時を止めたかの如く停止した。
この世の人とは思えぬ、天女の如き美女が。自分の目前までゆっくりと歩いて来て……止まった。
番人の心臓が、否応無しに高鳴る。
無意識に顔が紅潮し、番人は何か問おうとすれど、言葉は上手く思い浮かばぬまま。
……普段は武骨な男か年寄り程度としか話をしない。
町娘とも言葉を交わした事の無い自分が、雲の上に居る様な天女となど……。
「……もし、」
其の美しさにほぅと惚けていた番人であったが、掛けられた滑らかな声で我に返り、殊更顔を紅潮させる。
「……如何致しまして御座いんす?」
「はっ?あ、嗚呼……」
然程高くはないが、柔らかく、耳にした者総ての心を落ち着かせる様な、不思議な声。背の高い其の容姿にぴたり見合う声だ。
番人も例に漏れず、夢見心地を胸に抱きつつ、しかし此処は仕事……と気を奮い立たせ。
「なッ 何用だ、此処は茶屋では無い、ぞ」
「ふふ……面白い御方。
吉原より参りまして、中間様達のお部屋に御用がありまして御座いんす」
「吉原?……嗚呼、」
――― ……確か、吉原には天女の如き遊女がおると聞いた事がある。
中間共が呼んだのか?
何だ、今宵の中間部屋は随分奮発しおる……
妄想が頭を満たし番人の顔がほんのりにやけたが、しかしはたと自分の顔の緩みに気付き、引き締まる。
無駄に姿勢を正し、知らず流れる汗を拭きつつ、番人は中へと手を指す。
「あい分かり申した。さ、中へ」
言えば、女は白百合の如き可憐な笑みを湛え、返した。
「有難う御座いんす」
そうしてしずしずと屋敷の中へと去り行く後ろ姿を、門番は鼻の下を伸ばしつつ見送り。
あの様な女を抱くのか……羨ましい。
少々不満気に姿勢を正した所で、もう一人の客人が遠くより歩いて来る事に気付く。
今度は見慣れた男だ。勘定奉行の元にて働く、色黒の肌に眼鏡の男……藤原弥次郎。
金銭管理の為にこの武家屋敷を良く出入りする人間の一人であり、この門番も弥次郎とは幾度と無く言葉を交わしている。
今日も、何時もの帳簿と風呂敷片手に歩いて来、番人に深く会釈をする。
「やあ藤原殿、今日も精が出ますな」
「志田君こそお疲れ様です……今日も帳簿確認をさせて頂きます」
「分かり申した。嗚呼、所で藤原殿、」
「? 何か、」
踵を返しさっさと去ろうとした所を呼び止められ。
弥次郎は眉をしかめ振り向くが、其れが常であると知る番人は構わず続けた。
「記憶違いやも知れませぬが、……銀髪の遊女と言えば、あの噂の遊女ですよね?」
「……嗚呼、そう言えば其の様な噂があった様な……」
「吉原の妖太夫、其の佇まいは天女の如き美しさなり、とか何とか」
「……まさか。其の様な人間が、」
「其れが先刻、物凄い別嬪さんがこの門を通って中へ入って行ったんですよ……銀の髪に見た事も無い位白い肌の女で、吉原から来たと。
なれば、やはりあの噂の遊女だったのかとねぇ……心の臓が壊れるかと思いましたよ」
「ほぉ……、」
興奮気味に話す番人の言葉に弥次郎はじっと耳を傾け、やがて口を開く。
「貴君が其処まで興奮するとは。余程美しかった様子、」
「間違い無く今中におります故、よもや藤原殿も擦れ違うやも知れませぬぞ?」
「はは……」
まるで信じないような乾いた笑いが、弥次郎より零れる。
「其の様な女が本当におるならば、死ぬまでに是非お会いしたいものですな……では」
「はっ、お疲れ様に御座る」
見送る番人を背に、弥次郎は一つ会釈をし、またいそいそと門を潜る。
少し歩いた所で、眼鏡をくいと直し。後、弥次郎は少々残念そうに呟いた。
「……其の様な『女』がおったら……な」
先に語った通り、この屋敷は"弥次郎"にとっては見慣れた所だ。
とは言え、情報収集と勘定に用の無い所には一切足を踏み入れた事が無く、一概に武家屋敷とは言え其の敷地はまだまだ広い。
玄関は潜ったものの、はてさて困ったな……。そう考えつつ、中庭へ差し掛かる。
丸く蕾を膨らませた冬椿の生け垣を何気無く眺め……
生け垣の中に、違和感。
其れに誘われる様に、弥次郎は庭へ降り、鯉と金魚が優雅に泳ぐ池の畔へと立った。
椿の花はまだ咲いておらぬと言うに、真っ赤な花弁がひとひら。
生け垣の中で一際大きな株の上に、ぴらりと乗っている。
弥次郎はひたり足を止め、声を掛けた。
「…… 誰か、居るのか?」
すると、其の茂みがカサリと小さく音を立て、其の陰より低く小さな声が弥次郎へと語り掛けた。
「……意外じゃのぉ、この様な所でお前さんに会う等」
「私は仕事だ。し乃雪太夫、お前こそ何故に此処に居る?間者か、」
「一文ズレの件じゃあ同じ穴の狢であったろう?」
「……」
ぐうの音も出ない。
「俺は中間部屋へ行くと言うただけじゃ。中間部屋と言えば裏賭博であろうて、」
小さく笑い声。後、彼はほんの少し陰より顔を出した。……間違い無く、し乃雪である。
「何か、お前さんは知っておるのかえ?弥次郎さん」
「……金回りがおかしいと源三から聞いた、これより帳簿を洗い直すつもりだ。
太夫は、」
「中間部屋へ行ってみるさ。裏賭博にも興味あるしな」
「……其の『姿』のまま行くのか……?」
「何、これも一つの武器じゃ」
其処まで話をし、弥次郎は立ち上がり。
人の来ぬ間にと踵を返した時、し乃雪は言う。
「弥次郎さん、」
「、」
「お前さんも、気を付けられよ。この屋敷、何か嫌な"匂い"がしおる」
思いも寄らぬ一言に、弥次郎は眼鏡の奥にて僅かな苦笑を漏らし。
去り際に、呟いた。
「先の事で懲りたさ……忠告、痛み入る」
美しき日の本の四季は、冬を間近に控えていた。
この宵、鳥の産毛の如き雪がひとひら、先刻まで白き遊女が隠れておった冬椿の上へとふわり降り立ち、漸く眠りの季節を迎え。
ぐんと冷えた空気が身の温もりを奪い、命ある者達は皆身を竦ませた。
し乃雪は、中間部屋より少し離れた廊下の暗がりに居た。
人気の全く無い其処で、肩に顔を埋める男の頭を撫で、ぞくりと身を震わせ。
男は獣の如く其の肌を愛撫しては息を荒らげる。
「……旦那ったら、助平だこと」
「君の様な人を手に入れれば、男は誰でもこうなるだろう?
……其れにしても、噂の"妖太夫"が男であったとはな」
「人は見掛けに依らぬものです故……」
唇を求めるし乃雪に応え、男の其れが重なろうとする直前。
低く甘き声が、男の耳を擽る。
「……約束です、訊きたき事が」
「嗚呼……、」
「金の成る壷の噂……旦那は聞いた事は、」
「何だ、教えてくれれば金は要らぬと申すから、何を尋ねられるかと思えば……。
知っておるよ、有名な話だ」
其の細い身をそろそろと撫でさすり、身を捩らせるし乃雪の肌に口付けつつ。
「私が此処へ来る直前だから、少なくとも三月か……城代が知っておったな。
此処には米沢藩より陰陽師が来ており、武家屋敷総取締の配下におるのだが……其の陰陽師、取締の息子に勉強を教える傍ら、何やら奇天烈な術にて取締の懐を潤しておるそうな」
男は意地悪い笑みで、帯の結び目に手を掛け。
「其の息子を手懐ければ、私よりも詳しく聞けるやもな……
……其れより」
「はい……、」
「…………私の側室にならぬか?黙っておれば男だと分からぬであろう、」
「!……ふふ、御冗談を……
なれば今だけ、貴方様の側室にさせて下さいませ……大名様、」
やがて、二人の間から言葉は消え。
只、艶やかな衣擦れの音と艶めかしい喘ぎが、其の暗がりに色香を漂わせた。
「ちっ……何をしておるかと思えば、」
偶々居合わせ、慌てて遠くの陰へと隠れていた弥次郎が小さく舌打ちする。
し乃雪を心配していた弥次郎であったが、どうやら杞憂であったらしい。寧ろ余計な場面に出くわし、彼の表情は不機嫌に歪む。
しかし、今まで聞き回っていた噂に対する確信。其れを得ただけでも収穫……
弥次郎はふと頭上を見上げ、剥き出された梁を見付け、軽々と飛び付く。
天井をがこんと外し、彼は鼠の如くするりと天井裏へと回った。
何度も上った天井裏、梁の配置は覚えきっている。
……詰まる所、取締の息子を探せば、何か分かるやも知れぬと言う事。
運の良い事に、取締である樋口慎之介とは仕事柄顔見知りであったし(とは言え、今日は樋口が終日外出との事にて話を聞く事が出来なかったのだが)、其の流れで息子の顔もちらりとだが見た事がある。……確か、郁千代と言う名であった。
陰陽師の事を訊いた時、訊かれた者は皆必ずと言って良い程取締の息子を口にしていた……間違いは無いだろう。
……しかし、何故に陰陽師が子供に勉強を……
疑問は尽きぬまま、弥次郎は蜥蜴の如く天井裏を這い、屋敷の奥へと目指す。
勘定仕事ではまず足を運ぶ事の無い場所だ。
……ある程度進んだ後、自分の乗る床……天井の隅より漏れる光を見付け、覗く。
常なる勘定部屋とは別の筈だが、帳簿と文机が並ぶ部屋。
……思った通り、公にはせぬもう一つの勘定部屋らしい。
一つの広い座敷に数人が座り、黙々と帳簿を整理している。其の帳簿には……普段は見ぬ様な金額。其れも、記されている帳簿の題は「壷代」。
「……何とあからさまな、」
誰に聴こえるでも無い小さな声で呆れ返る。
恐らく此処より様々な帳簿へ振り分けて行くのだろうが、其れにしても。
廊下の方へ音も立てず降り立ち、障子戸に手を掛ける。
「失礼」
言うが早いか、勢い良く障子を開ける弥次郎。
其処に居た数人が大層驚き、手元の帳簿を隠そうと慌てふためく。
「ふッ 藤原殿!?」
「なな何故にこここの様な所へ、」
部屋を一瞥する弥次郎。……一人の元へ立ち、見下ろした。
「其の後ろに隠しておる"帳簿"。
見せて貰おう」
「いや、あの、これは、あのですねまだ帳付けが」
「見せて、貰おう」
弥次郎の異様な威圧に、帳付け役達はやがて沈黙し。
……ス……と、降参したかの如く、帳簿を差し出した。
弥次郎が指示し、ずらりと並べられた帳簿の列。
壁際にて冷や汗を流す帳付け役達を余所に……一瞥の後、袂より算盤を出し、弾き出す。
見比べ、弾き、手控えへ何やら書き止めを繰り返した後、低く唸る。
「"壷代"とは?」
ビク、と身を震わせた帳付け役達、一人が震え声で返した。
「……あ、あのですね、 つつ壷からお金が……溢れて来るものでして」
「其の様な事があるか」
「有り得るんですって! ……そうだ、副収入ですよ只の」
「出処が不明な以上副収入とは言えぬ」
言いながら帳簿をなぞり、……
”壷代”、”祈祷料”、”調伏費”……
"郁千代様専用"。
其処に記載された額は、"三百五十三両"。
子供に充てるには余りにも高額……俄かに弥次郎の目が細められる。
「何故に郁千代殿にこの額が動く?」
「よッ養育費です、何せ……樋口様のご子息で……」
「随分と漠然と書かれておるが、詳細は?」
「……いや、えと…… あっほら陰陽師の方から今色々習っておりまして!」
「陰陽師に、"この額"、だと?」
「…えっと……あの、すみませんあの、其れ……」
だらだらと冷や汗を流し続ける男。
……やがて、大きな溜息と共に頭を垂れ、漏らした。
「……其の帳簿を書いたのは……郁千代様です……」
「……何だと?」
「中身は……郁千代様で無くば分からぬもので……」
泣きながら平伏す其の男、他の帳付け役達もばつ悪そうに溜息を漏らす。
――― 郁千代が…… 子供が?
今一度見れば、……確かに其れは子供が丁寧に書いた様な文字。
そして支出ではない……"収入"。
普通に考えれば、郁千代が……子供が、稼いできた、と言う事になるが。
「この帳簿、勘定所にて改めさせて貰おう。
追って勘定所より指示を出す」
開かれていた帳簿を閉じつつ、帳付け役達を睨める弥次郎。
「して、話を聞きたい。
郁千代と、……件の"陰陽師"とやらは、何処に?」
「あの…… 如何しても、です?」
「何故に訊く、」
落胆した様相の男が、しょぼくれた顔を向ける。
「郁千代様は、其の……あの、」
「さっさと申せ」
「…… 怖くて……酷く頭の切れる御子で……
此度の事は、わしらの事は、どうか郁千代様には御内密に……!!」
――― 何故に郁千代に怯えている?
目を細めつつ、ふと気付く。
頭を下げ続ける男の、ちらり見えた腕……
其処に、蜘蛛の様な痣が、見えた。
* * * * * * * * * *
廊下を心持ち急ぎ歩く少年は、まだ幼さ残る其の顔に、酷く焦りの色を湛えていた。
其処は、武家屋敷管理に関係のある人間のみが通る事を許される廊下。
常であれば、年端も行かぬ子供がこの様な所に居る筈が無い。しかし、彼……郁千代だけは、この廊下を通る事を許されている。
郁千代が向かうはこの屋敷の最奥。其れこそ、限られた人間しか入れない部屋である。
妙に薄暗く長い廊下が漸く終わり、暗がりの中にぼんやりと浮かぶ真っ白な襖を躊躇も見せず開ける。途端、内部に閉じ込められていた淀みと蝋燭の光が外へ流れ出し、郁千代の桜色をした頬をぬるりと撫で去って行った。
数百の蝋燭が四方を囲む、特別な部屋だ。
真中に在るは、猫一匹入る程度の大きさをした青磁の壷。
……縁こびり付く黒い何かが、さわ…さわ…と僅かに震えている。
其の前に座り印を組み、何かを唱えている陰陽師……土御門清慈の姿。
清慈は開かれた襖の方へゆっくりと振り向き。
……其の顔に表情は無い。
「先生……やっぱり先生がやったんだろ!」
先に口を開いたのは郁千代だ。
「最近様子が変だと思ったら……何をしたんだよ!」
「……もう、良いでは無いですか……坊ちゃん」
清慈の目がついと細められ。表情無きまま、清慈は淡々と言葉を紡ぐ。
「貴方も貴方の父上も充分至福を肥やしたでしょう?
後はこの壷さえ私に返して戴ければ良い事」
「其の様な事をしたら皆が死ぬぞ!」
「承知の上」
静かな語り口調であるが、強い。
郁千代はぴくり体を震わせ、清慈を睨む。清慈は其れに構う様子も無く、再び壷と向かい合い、印を組んだ。
と。
郁千代の足元をすり抜ける一匹の鼠。
其れは白い閃光の如く清慈目掛け跳び掛かり、爪を立てる其の瞬間、隠密の少女の姿へと変化し。
寸での所でかわした清慈は、其の姿に声を上げた。
「……左近!」
「やっと本性を現したな、土御門!!」
振り向き様に投げられた苦無の一本が清慈の頬を掠め、蝋燭を斬る。
ぱたり倒れ火が消えた様を清慈はちらと見、間髪入れず振られた忍刀を身翻し避ける。
刀身を回し向かい来る銀の閃は鉄扇に受けられ、ギィン、と火花を散らした。
「やはり右近を利用したのだな……右近を返せ!!」
「落ち着け左近!!きみは何を、」
「問答無用!!」
片手にて受けた清慈は少しずつ押され始め、しかし空いていた左手にてもう一つの鉄扇を取り出し横に薙ぎ。
重い一撃が忍刀を弾き飛ばし、左近は跳び退いて距離を取る。
「チィッ!!」
舌打ちの後、直ぐに体制を立て直し。ボッ、と空中に灯った炎が忍刀に纏わり付き、紅く色付いた其れは再び清慈へ振り下ろされ。が、清慈の純白の袖にぐるりと絡め取られ、動きが止まる。
焦げた臭いが鼻を掠め、袖よりちりちりと煙が上がった。
「この卑怯者」
左近が悲痛な唸り声を上げる。
「右近を騙し連れ出た挙げ句、武家屋敷を騙し金儲けか……人の顔をした鬼め」
「左近……、」
清慈は息を呑む。何か言い訳をするでも無く、悲しき色を湛え。
焦げた袖をぐいと引き、ぶちりと千切り離した。
…が、何かに気付き、表情が俄かに変わる。
「……左近!」
「!?」
「伏せろ!!」
突然振り被った清慈の声に驚き、左近は反射的にしゃがむ。
振り被って投げた鉄扇が重い音を立てて回り飛び、投げられた先はあらぬ方向…左近の背後。
状況が掴めぬまま左近は振り向き、しかし其処にあった光景に彼女は凍り付いた。
"……ざわっ……。"
其処にあるは、つい今まで立ち尽くしていた少年……否、彼を守るかの様に体中を隙間無く埋め尽くす、青蜘蛛の群れ。
掌程もある巨大な蜘蛛達はざわざわざわと小刻みに身震いを繰り返し、蹴散らした筈の鉄扇はずぶずぶと蜘蛛のざわめきに呑まれていき。
……やがて、何も無かったかの如く、其れは消えた。
「……な、」
青褪める左近の目前にて、青蜘蛛達はざわ…ざわ…と音を立て、波打つ。
青蜘蛛の海よりぬるり現れた郁千代の表情は、子供とは思えぬ程に不敵。
「させないよ」
歪んだ笑顔が、言葉を失った左近と睨む清慈を見据える。
「……如何言う事だ……!?」
「きみが勝手に勘違いしているだけ、みたいだけど?」
言うが早く、足元にてうねっていた影が青黒い波となり襲う。
呆然と立ち尽くす左近の前、清慈がブンと鉄扇にて凪げば、水が弾ける様に八方へ飛び散った。
だが其れでも数匹は防ぎ切れず、カサササと清慈の身を走り胸へ辿り着いた瞬間。
蜘蛛はずるりと其の皮膚の下へ入り込み、清慈は悲鳴を上げて其の場へ蹲る。
左近が恐怖に尻餅を着いたのと、体内へ入り込んだ無数の青蜘蛛の痣が清慈を駁に染め上げたのは、ほぼ同時であった。
「……な……何故、だ……何故、」
「左近と言った?きみ……右近の妹君とか?
嗚呼、ならばきみも狐なのか、」
壮絶な苦痛に喀血を始めた清慈の前に、郁千代は佇み、左近を見上げる。
不気味な笑みを絶やす事無く、しかし蜘蛛達で身を固めるは凡そ人ならざる姿。
「面白いね。
先生は右近を元の姿に戻そうとしていたのに、きみはそんな先生が嫌いなんだ?」
「……!?」
「どうしてそんな事をするのか理解に苦しむけれど。
狐一匹位如何でも良いじゃないか、悪人を裁けるなら忍でも蟲毒でも同じ事。
父一人幸せに出来ぬ忍なんざ、虫に食われてしまえば良いじゃない」
「……如何して、」
「"何が"?」
其の瞳に、曇りは微塵も無い。
……左近は、顔を引き吊らせ、唇を震わせた。
人への、初めての"恐怖"であった。
「……左近、逃げ……ろ……!」
血の涙を流しながら崩れ落ちた清慈が、掠れた声にて叫ぶ。
しかし左近は動く事も出来ず、只がたがたと震えるだけの姿に郁千代は微笑む。
「きみも、右近と一緒に悪い人退治しようよ。
さあ、」
蜘蛛の這う小さな手は、がたがた震え止まらぬ左近の、涙に濡れた頬をそっと撫で。
小さな手の皮より浮き上がった青蜘蛛が数匹、がさがさと左近の身を這い、ずぶり沈む。
「あ……あ…………、」
「何だか弱い者虐めしているみたいだな」
そう、郁千代が無邪気に笑った。
と。
"……ざわっ、"
部屋を埋め尽くしていた青蜘蛛の波が突然騒ぎ出す。
何かの気配に感付いたのであろうか、黒い波は音ならぬ音を立てて入り口を避け、郁千代の体へと逃げ込み始めた。
「ん?」
青蜘蛛の異変に気付き、郁千代が周囲を見回した其の時。
"ヒュゥゥゥ……"
"キヒヒ……ウフフフ……"
廊下の暗がりより響く、不気味な笑い声。
同時、冷気が旋風の如く回りながら部屋を舞い、蜘蛛達が霜を纏って粉微塵に散った。
「え……っ、」
何が起こったのか。
振り向いた郁千代の額にパシンと札が貼られ、其の背より青蜘蛛の群れがが小さな悲鳴を上げつつ吹き出し、次々に焦げ消える。
「……?」
ぴらり、
眉をしかめた郁千代は札を捲り、目前に佇む人物を見上げる。
……両脇に三眼の人魚を従え、左手にて印を組んだまま、うっすらと光を放った紅い眼にて自分を見下ろす……美しい人。
し乃雪であった。
「……成る程。"蟲毒"かえ……」
静かに零すし乃雪。
「…………た、……太夫……、」
口よりボタボタと血を垂れ流し、しかし其の表情に安堵の色を浮かべながら、左近が呟く。
其の左近を見、しかしし乃雪は口を開こうとはしない。
只、其の淡く輝く瞳でぐるりと蜘蛛の海である其の部屋を見渡し、紅玉の如き瞳が…其の刹那。
眼球が赤黒く染まり、金の瞳が浮かんだ。
其の眼、まさしく"鬼神"の。
左近の喉が、ヒ…と小さく鳴る。
「この"鬼"に盾突く気かえ?」
地を這う様な、唸るような低き声。
途端、瞬く間も与えず蜘蛛達総てが竦み上がり、地や壁に溶ける様に……消えた。
「……お前は何だ?」
酷く不機嫌そうに睨み上げ、郁千代が漏らす。
「正真正銘、人の子じゃ」
普段見ぬ程に怒りを浮かべた表情にて、し乃雪が吐き捨てる。
「其の人の子が、何の用だ?」
「俺のものを返して貰いに来たのさ」
「ここにお前のものは無い、帰れ」
体内に残った蜘蛛数匹を掌に這わせようとするが、し乃雪に対しすっかり怯えてしまったらしい。郁千代の袖の中へと逃げ込み、出て来ようとしない。
郁千代は驚き、再びし乃雪を見上げ。しかしし乃雪は気にする事無く、血溜まりの中で動かぬ清慈へしずしずと歩み寄った。
「……総次郎……」
ひくり……ほんの少し。動く様子も無かった清慈の指先が、し乃雪の声に応ずる様に震える。
し乃雪の表情に柔らかさが戻り、しかし直ぐに其の紫色の体を抱き締め。
「……今助けてやろうぞ、」
「触るなよ、折角死にかけ……」
「笑止!!」
無理矢理に向けた蜘蛛達を、し乃雪の喝がパァンと蹴散らす。其の一匹がぱちんと郁千代の頬を叩き、小さな体が後ろへ転げた。
し乃雪の眼が、悲しげに揺れている。
抱き締められた清慈の腕が、震えながらし乃雪の頬へ。
「………… ら…………」
漸く息が漏れ、声ならぬ声が苦しげに呼ぶ。
据わらぬ首を持ち上げ、し乃雪は額に指で印を描き。
懐より取り出した札を千切り自分の口に含み、清慈に口移しで与える。
途端、どす黒い汚血と焼け焦げた蜘蛛の塊が十数匹、其の口よりぼたぼたと零れ落ち、し乃雪の着物を染め上げ。
最後の一匹がぼとりと落ちると共に漸く清慈の胸が大きく動き、色の抜けた肌に赤みが戻った。
「総ちゃん、」
「…………蘭……
其の、"眼"……は」
「……」
「嗚呼、……でも、其れは……"人の顔"だね……」
血に濡れた口元が、弱々しく笑む。
し乃雪の金の瞳が涙に濡れ、宝玉の如く美しく揺れた。
「……畜生」
ふと。
背後にて聞こえた言の葉がし乃雪の表情を再び堅くさせ、冷たい眼を向ける。
拳を震わせ、俯いたままの郁千代だ。
顔を上げきつく睨み付ける其の目には、子にあるまじき恨みの色。
「お前等……僕のものを何処まで崩す気だ…!」
「舐めた口利くんじゃないよ小童!!」
郁千代の叫びがまくし立てられ、小さな体が僅かに竦む。
低き声と共に刺さる、金の眼光。 ……先程見せた"鬼"の眼が自身へと向けられ、背筋に蜘蛛達とは違う冷たい何かが走る。
「何が悪人を裁くだ!
手前がやっておる事は只の人殺し、只の強盗!!
お前が殺めて良い命等、一つも無い!!」
ぴぃん……と、場の空気が張り詰める。
ボトン、
郁千代の肩に貼り付いたまま死んだ蜘蛛が地へ落ち。
途端、小さな身が崩れ、跪き。
やがて両手を突き、郁千代は肩を震わせ始めた。
清慈の体より力が抜け、安堵したかの如くし乃雪へともたれ掛かる……が、し乃雪の表情は未だ固い。
「……蘭樹?」
「未だ……何か、"居る"」
刹那。
異様な気配が、辺りを刺した。
"……カタカタ、カタ"
在らぬ方向より、何かが揺れ震える音。
振り向けば、其れは部屋の中央に置かれたあの青磁の壷。
其れは次第にカタタ、ガタガタ……と大きくなり。
「……未だ分からぬか、この小童め」
し乃雪の肌を冷や汗一つ流れた所で、郁千代の叫び声が響く。
「……お前等、いい加減にしろ……!!
右近、出ろ!!!」
"ガタン!!"
壷が床へ転がり、蓋が転げ落ちる。
途端、無数の青蜘蛛の塊が黒煙と共に溢れ返り、ぞわぞわと蠢く塊の奥より、咆哮の如き悲鳴。
其の中よりぬるり現れたもの……金の毛をどす黒い斑色に染め上げ、あちこちより蟲の脚を生やした、狐だ。
「……右近!」
清慈と、意識を失いかけていた左近の呟きが重なる。
獣はし乃雪の其れと非なる紅黒い瞳を左近へと向け、口より黒煙を零し、低く唸った。
其の姿に、左近は涙を溜め。
ずるり、ずるり……と、漸く動く腕だけで少しずつ近付いていく。
少女であった筈の姿は何時しか銀の毛の狐へと変わり、彼女はキュゥ……と寂しげに鳴き声をあげた。
「左近……!駄目だ、右近はもう……」
「総次郎、」
左近を制しようと体を持ち上げた清慈を、し乃雪は制止する。
驚き目を見張った彼に、返って来た答えは……柔らかな微笑みと、軽い頷き。
清慈は何かを言いたそうに唇をひくと震わせたが、しかし其れ以上詮索する事も無かった。
左近は止まらない。
青蜘蛛が次々と左近に入り込み、体内を侵食していき、這った跡に血の道が出来。
ぶるぶると震える前足が、右近の前足にそっと触れる。
唸り続ける右近は左近に対しても同様に牙を向ける……が、しかし其れ以上何かをする様子も無く。
やがて、其の者を漸く思い出したかの様に、其の鼻先でツンと軽く左近を突付き。
血の涙に塗れた頬を、優しく舐め始めた。
"ざ、わっ"
左近の中にて身震いした蜘蛛達は、銀の毛の合間より這い出し……やがて、右近の体内へと戻っていった。
「……右近……、」
清慈が、声を上げる。
二匹の狐はやがて元気に立ち上がり。
おぞましき姿の右近と血に塗れた左近、体を擦り寄せ合い、幸せそうにじゃれ合う。
其の静かな音と二匹の声だけが、部屋を柔らかく包んだ。
「……何で、右近が……」
一番面白く無いのは、主である郁千代だ。
ふと清慈が顔を上げると、郁千代の顔は驚きと怒りで酷く歪んでいた。
見た事の無い形相に、清慈の肌が総毛立つ。
し乃雪は其れを察し、清慈の背に触れた後、ゆらり立ち上がった。
「……先生も裏切った、右近まで裏切りやがって!!」
「のぉ……郁千代と言うたかえ」
怒声を斬る様な低く落ち着いた声に、郁千代は鋭い目を向ける。
し乃雪の眼にあの金の威圧は無い。
……紅玉の瞳が、憐れむ様に向く。
「父上に喜んでもらいたいだけなのに、何で皆離れていくんだ!? 僕は何か悪い事をしたのか!?ねぇ!?」
「お前さんはほんに純粋じゃのぉ……救い様の無き程に」
ふ……と、溜め息と共に零される言の葉。
「なぁ郁千代、お前さんは何故に其処までして金持ちになろうとする?」
「だって、お金があれば父上は機嫌が良いんだもん!」
「ほぉ…… 其の様な事をせなんでも、お前さんの父上は機嫌が良い筈じゃがの?」
「父上が色々な人からお金を貰っておる位知っておる!
だから、僕も父上にお金をあげればきっともっと構ってくれるんだ!!」
「…… 子の心親知らず……、」
し乃雪の目が伏せられる。
其の仕草に、清慈は何かを思い出した様子であったが……呑み込む。
し乃雪は其れに気付く気配を見せず。
「しかしな郁千代。何故に呪詛等と言う物騒なものを用いたえ?
右近に青蜘蛛を使役させ青蜘蛛の呪い返しを"かわす"考えは良い、が……お前さん、其のやり方は最も間違った方法じゃ」
何時の間にか、其の白磁の顔より笑みは消えていた。
訳分からず聞いていた郁千代は、……気付いたのか、次第に表情が強張っていく。
"ぐる……"
し乃雪の背後より、獣の唸り声。
……郁千代の背は、凍り付いた。
「人を呪わば穴二つ……呪詛は必ず主に還るもの。
じゃがの……『蠱毒』となった狗や狐が自ら怨念を持ち動き出してしまうと、一人二人程度の陰陽師では手が出せぬ。……残念な事にの」
"だんっ"
し乃雪の背後にて何かが地を蹴る音。其の頭上を飛び越え姿を現した其れは、狐蠱・右近。
憎しみを湛えた形相の怨念は、この世のものとは思えぬ程に不気味な声を上げながら、真っ直ぐに郁千代目掛け跳び掛かる。
"ギャァァァッッ!!"
「ひっ……」
すっかり身が竦んだ郁千代は只立ち尽くす。
刹那、白きものが郁千代を覆い抱き締め、地へと倒れ込んだ。
し乃雪だ。
把握した郁千代は、「あっ……」と小さく声を上げ。
小さな身を抱え狐蠱毒をかわし、しかし身を翻した其れはクンと向きを変え、し乃雪の背へズンと強い衝撃。
一瞬であった。
いとも簡単にし乃雪の体をすり抜け、腕の中に居た郁千代へと衝撃が突き抜け。
"ゴシャ………!!"
耳を覆いたくなる様な、音。
バシャンと弾ける、血。
し乃雪の腕の中で、其れはカクン……と、力を失った。
「………………」
訪れる、静寂。
し乃雪を凝視していた、左近と清慈。
し乃雪は、動かぬまま。
雪の様に美しかった着物も、月光の髪も、総てをどす黒い血の色に染め。
人であったものを抱き締めたまま、動かない。
「……蘭樹、」
清慈が不安げに声を上げたのと、暗い廊下より一人の男が駆け寄ったのは、ほぼ同時。
真っ先にし乃雪の肩へ手を掛けた男は、今まで身を隠しつつ様子を伺っていた弥次郎であった。
「太夫!!」
「…………」
死人の様に冷たい、し乃雪の肩。
まさか未だ右近が……眉をしかめた弥次郎であったが、やがてし乃雪は頭を垂れたまま、ドン、と床を力一杯殴り付ける。
「……… 分かっておる……。
これが、"理"ぞ……」
其の声は、絶望を色濃く湛えた悲しみの声。
意味を知らずとも何かを察した弥次郎に、総てを知る清慈は首を横に振り。
彼等の影と溶け静かに眠りに着いた右近へ、左近が駆け寄る。
二人の男は只、少年だったものを抱き締め続けるし乃雪の慟哭を見詰めていた。
其れより何も、出来なかった。
