アヤカシ太夫♂とイロオトコ

 



精度ノ闇ニ、
竝ブ影。

 


 


 ………

 たしか、気付いたのはひと月前辺りだったと思います。


 うちで預かった帳簿が、預かった翌日に今一度見ると、何処かしらがたった一文字だけ"変わっている"んです。

 最初は大慌てで、全員総出で直していました。
 おれも、丁稚とは言え漸く算盤が使えるようになったから…って駆り出されて。皆、必死でした。


 気付いたのは、帳付け役の太郎松さんです。
 …貴方様みたいな、とは行かないけど。
 すごく真面目で、数は太郎松さんに任せておけば安心でした。

 でも、帳簿の其れは毎日続くんです。
 二日目も、三日目も。
 四日目になり、太郎松さんは苛立った旦那様から犯人扱いされ、首にされました。
 旦那様は太郎松さんが横領の為に一文ずつごまかしていると考えたんです。
「そんな事が出来るのはお前しかいない」と。

 ……でも、太郎松さんを追い出した翌日…五日目になっても、また一文だけズレたんです。
 帳簿の内たった一文、其れも全部の帳簿なので、何時しか旦那様は諦め、帳簿を其のまま勘定所へ流す様になりました。

 ……其れで、其の後……

 半月位、経った頃でした。真夜中です。
 其処の……丁度、蔵の真向いにあるあの部屋に、行燈が灯っていました。
 パチパチと、算盤を弾く音が小さく聞こえていました。
 旦那様が遅くまで仕事をしているのかと、思っていました。

 でも、違った。

 其処を通る前、おれは旦那様がお休みになられている所を見ていました。
 太郎松さんはもういない、誰なんだろうと、障子を少しだけ開けました。

 …… 旦那様が其の部屋で使っていた古い算盤が、パチパチと珠を鳴らしながらフワフワ浮いていたんです。

 おれは怖くなって、其れきり、逃げて、翌朝皆に言いました。
 あれは、夜中に算盤が勝手にやった事だ、あの算盤は妖怪だと。

 誰も信じませんでした。
 旦那様は「丁稚が出しゃばるな、誰かに言うたらお前を野に放る」と……




 * * * * * * * * * *



「仔細、丁稚の寛太に聞いた」

 翌、明け六つ。
 佐伯家の暖簾を掛けに出た佐伯を、一言が刺す。

「はッ…!?」
「店の奥にて起こった件を、隠しておったそうだな」

 身を震わせながら、声の方を向く、佐伯。
 朝霧の中、修羅の形相にて此方を睨む藤原弥次郎の姿が、其処にあった。

「な…んの、事…やら……?」
「一文違いの件、この店に巣食っていた怪異によるものであったと聞く」
「ヒェ!…あの餓鬼…… えっ… …と、藤原様、これはあの」

 明らかに狼狽隠せぬ佐伯。
 弥次郎は、しかし眉の一つも動かさぬまま、続けた。

「此度の件、誠に勝手ながら"対処"させてもらった」
「……へ? 対処、」

 弥次郎の懐より取り出されるは、黒檀の算盤だ。
 見慣れたものではあるが、何やら札により巻かれている。

「えッッ…」
「今更"返せ"とは申すまい?佐伯。
 案ずるな、此度の件は妖の所為。
 表に出した所で咎めは出来ぬ案件だ。
 一文違いも、"一旦は"収まろう」
「さ…左様ですか!? 良かっ…」
「だが、佐伯家健勇。お前の行動は看過出来ぬものである」

 ズイ。
 一歩、藤原が、踏み込む。
 余りの"圧"…佐伯は図らずも、一歩下がる。

「あっあの、申し訳御座いません!公表し店の評判が落ちる事が怖あて…ッ」
「先の、"早急に人を雇う"通達、覚えておるな?」
「はッはい!」
「太郎松を雇い直せ」

 は…?と、佐伯の目が点となった。

「太郎松を、ですか?」
「"お前が冤罪で首を切った"太郎松を、だ」
「!?」

 其処まで聞かれているとは。
 スゥ、と、初老の顔が青ざめる。

「探し、見付け、詫びろ。
 冤罪であったと頭を下げろ。
 許されるまで帰ってくるな。
 そして、雇い直せ。
 勘定所からの助けはきっちり十日で切る。
 以後の指導は追って伝える、心せよ」

 其の場に膝を突いた佐伯、其の目に涙。…其の重さを、自覚したのだろう。
 人目はばからず泣き出した佐伯を尻目に、弥次郎はやはり眉一つ動かさぬまま、踵を返した。


 朝霧の向こうにて、し乃雪と源三郎は弥次郎を待っていた。
 目も向けず歩き続ける弥次郎の傍、二人は並んで歩き出す。

 無言で、弥次郎は黒檀の算盤を差し出した。
 其れを受け取ったし乃雪、はんなりと笑みを向ける。

「これは、俺が"然るべき所"へ納めよう」
「……手数を掛けた」

 弥次郎の口より、似合わぬ言葉。
 驚き見れば、弥次郎と目が合う。
 源三郎と同じ、鳶色の瞳。……硬い仮面の様な男の口角が、ほんの少しだけ、緩んだ。

 朝霧は、じきに晴れるだろう。
 しっとりと濡れた空気の中を、三人はまるで散歩するかの様に、吉原へと歩いた。




 * * * * * * * * * *



 黒町屋へは、後日直々に山村が出張り、追徴金と罰金の命令が下った。
 藤原始め勘定所の精鋭達が一斉に黒町屋の帳簿を洗い、たった数日であっと言う間に纏められ、言い逃れの隙は与えられなかったとの事。
 其の間は再び見世物にされたらしく、藤原が野次馬共を追い払った回数は数知れず。

「この通り、追徴金と罰金、占めて五百参十六両を言い渡す」

 手渡しにて受け取った支払い通知書にさらり目を通した大旦那、只一言「…ふゥン、」とだけ零し。
 聞けば、大旦那の鶴の一声にて其の日中には支払いが終わったと言う。

 …山村ある所に藤原あり。
 山村が黒服達を引き連れ帰る中、山村に何言かを伝えた弥次郎、すと列より外れ。
 何時もの様に眼下を眺めているし乃雪の下へ立ち、頭を下げた。


「無理をし過ぎじゃあないのかえ?藤原さん、」

 数日の挙動を黒町屋の面々より聞いていたし乃雪、玄関へ降りるなりそう声を掛ける。
 …意外にも、弥次郎の顔色は良い。眼下の影は薄く、表情も心なしか明るく見えた。
 が、其れには答える気はないらしい。

「し乃雪太夫。これを」
「ん?」

 差し出される、小さな風呂敷包み。藤色の其れを受け取り、許しを得て中を見れば、小さな一重の漆箱に詰められた、色とりどりの透明な菓子。
 錦玉糖(きんぎょくとう)であった。

「これは…京のものじゃあ無いかえ、手に入れるも難しいのに。良いのかえ?」

 宝物をしまう様に蓋をし、し乃雪は問う。

「…源三にも、宜しくと」
「自分で言いなさいな」
「面倒になる」

 言い切った弥次郎に、「そうかえ、」と、し乃雪は笑った。


 高く、高く、澄んだ空。
 鳶が無く爽やかな声が、吉原中に響き渡る。

「礼と言うては何だが…其れとも、お前さんはもう知っておるかえ?」
「、」
「清花……年限間違いの女の事じゃ。
 今更遅いが、正されたよ」
「……そうか、」

 ふわり流れる風が、二人の袖を揺らす。
 弥次郎は空を見上げ、目を閉じ、すぅ…と、大きく呼吸をした。

「"数"は、ようやっと戻ったよ。お前さんの尽力の賜物じゃ。
 あとは、……"人"が守れるか……じゃの」
「数を疎かにしたのは我々の方だ」
「、」
「……数は、嘘をつかぬ……本来であれば。
 今後は管理のみならず「方法」を制度化していかねばなるまい……
 …最も、人とは"澱むもの"だ」

 鳶色の瞳に映った鳶が、くるうりと心地良さそうに円を描く。
 其れがすとし乃雪に向き、紅玉の瞳に問う。

「生くる為に数を生み出した"人"は、何時か"数"の澱みに呑み込まれよう。
 其の時…… 我々は、正せると思うか?」

 し乃雪は、其の問いに答えることが出来なかった。




 * * * * * * * * * *



 暮六つ。

 勘定奉行を通し、三つのお触れが緊急に言い渡された。

 一、帳面の管理方法を改めること
 一、原本・写し・手控えを明確に分けること
 一、端数・年限・日割りを必ず三者照合する仕組みを作ること
 各詳細、追って各店に指示を出す……

 人々が立札に集まり、何ぞ何ぞと話し出す。
 其の隣で、此度の"一文ズレ事件"が尾鰭を生やし、瓦版屋が次々と紙をばら撒き始めた。


 少しばかり離れた屋敷の屋根に、二つの"影"が並んでいる。
 夕の旋風に吹かれながら其の様を見詰めている、"遊び人"姿と"役人"姿……

 同じ顔の二つの"影"は、金の相貌と銀の相貌をチカリ光らせ。
 やがて、枯葉を二枚たり残し、其れぞれの方向へと姿を消していった。


 ─── ガ、カァー… ガ、カァー…

 不可思議な烏の声が、響いていた。




 数喰 完