アヤカシ太夫♂とイロオトコ

 



雨闇向コフニ燈ル燈ハ
數ヲ喰ラヒシ澱ミノ光
帳簿ノ墨ヲ搖ラス手ハ
怠惰ニ枯レシ黑キ影

重ク澱ンダ珠ノ音ニ
滑リ行ク指ハ何ヲ呼ブ

 


 


 店裏にある蔵を、丁稚は開けてくれた。
「普段旦那様は此処に立ち入る事がないので大丈夫だと思います」と、なかなか出来た少年の様。
 広く、薄暗く、黴と樟脳のにおいが漂う…が、三人が待機するには十分過ぎる程。有難う、と丁稚に言えば、少しだけ思いつめた様な目で「……宜しくお願いします」とだけ言い、去っていった。

「…… ?」

 丁稚の言に訝しむ源三郎を他所に、弥次郎は蔵の書物を手に取り、し乃雪は外の様子を伺う。
 今宵は夕の緋色は空を照らす事も無く、鼠色が深く、蒼く、世を包んでいく。
 やがて、蝋燭を着けず闇の中より外の様子を伺い続ける二人を見、少し飽きたらしいし乃雪が一言「忠臣蔵の様じゃ」とだけ笑った。

 向かいの屋敷が少し活気付き、しかし今宵は雨。木戸は閉められており、窺い知れるは其処より漏れる僅かな光と遠くの音のみ。……否、どうやら先の丁稚だろう。ス、と少しだけ木戸が開かれ、光がもう少し零れる様が見えた。

 夜四つ程に、灯りが消える。……此処までは、恐らく何も起きてはいない。
 すわ、そろそろ動き出そうか、中を見た方が良いか…と、飽き飽きしつつあったし乃雪が立ち上がった辺りだ。

 再び、木戸の隙間より灯った。

「?…… 、」

 俄かに三人の視線が向く。
 その中、し乃雪がぽつり、零す。

「…… 重怠い」
「風邪を引いたか、」
「心配有難う、そうでは無くてな。あの灯り、何か"重怠い"ものが……」

 誘われるように、ゆるり…し乃雪が木戸へ近付く。
 続き、源三郎、少しだけ遅れて弥次郎も又、木戸へ。

 小雨に落ち着いた中庭よりそっと木戸を開ければ、その更に向こう…廊下を挟んだ障子が、煌々と灯りを受けている。

 そして。
 弱々しく、しかしはっきりと、"それ"は三人の耳を掠めた。

 “ぱち、ぱち、ぱち…ぱ……ぱち、ぱち…"

「……算盤だ」

 弥次郎が漏らす。
 しかし障子の向こうに人影は欠片も見えず、只算盤の珠が弾かれる音だけが、静かに、しかしはっきりと跳ねる。

 “ぱち、ぱち、ぱち…ぱ……ぱち、ぱち……ぱち、"
「?」「!」

 弥次郎と源三郎が、同時にひくり動いた。目を見合わせ、それは確信に変わる。
 算盤の"音"に、違和感。規則的なそれではなく、

 “ぱち、ぱち、ぱち…ぱ……ぱち、ぱち……ぱち、"

「…数が……"逃げておる"……?」

 し乃雪が呟いた刹那。
 二人はバ、と屋敷へ上がりパンと勢いよく障子を開け放った。
 途端、

 “ジャラン!"

 文机に無造作に広げられた帳簿の山、部屋の真中に転がる…"算盤"。
 すぐさま、弥次郎は帳簿を掴み取り中を見る。

「…何だと?」

 それは、昼間見た筈の…弥次郎があの場で"ズレが認められない"と判断した筈の、あの大福帳。
 急ぎ自らの手控えと確認する。……計算された末尾が、違う。
 否、

 “ふる、ふるふる……ふる。"

 変化しかかった末尾のその数字が、震え、歪み、…… パチン、と変化した。

「……如何言う事だ…?」

 触れど、切り貼りされた痕跡も無い。墨は乾き、指に着く事も無い。
 その背後、し乃雪と源三郎もまた、顔を見合わせていた。

「……見たか?」
「算盤が"浮いておった"のぉ?」

 細い指で、し乃雪は算盤を手に取る。しっかりと使い古された…黒檀の珠なのであろう、黒豆の様に光る算盤だ。
 触れれば、ひんやりと冷たいが……珠が、頑なに動かない。

「如何だ、雪?」
「触られる事を拒んでおる様じゃの」

 なれば、俺の出番かえ?微笑みながら、懐より一枚の短冊を取り出した。
 ……文机の上にある筆を借りようとするが、すと弥次郎が自らの矢立を差し出し。
「優しいの、」と笑えば、刹那の視線のみが向けられた。

 するする、と何かの文字を滑らかに短冊に記し。
 黒檀の算盤にくるり巻き付け。
 それを部屋の中央に置き、弥次郎を「此方へ」と促す。

 しなやかな指が印を組み、何言か口の中で呪を唱えた途端。

 “ボォ……!"

 青黒い炎が算盤より立ち上がった。

「なん…」

 一歩下がる弥次郎。眼鏡に反射した炎は、しかし熱を持たぬ冷たきもの。
 やがて炎が落ち着き、三人の前に姿を現した者がいた。

「成程、正体はお前さんかえ?」
「これ…は、」

 狼狽見せる弥次郎に、し乃雪が微笑む。

「お前さん、"見える"のじゃの?
 算盤の付喪神じゃ」

 枯れ木の如き細い手足に、黒檀の算盤珠の頭。
 ぱっくり割れた口からはじゃらじゃら、じゃらじゃら、音が漏れる。
 ちりちりと囲む青黒の炎がふわ、と舞い、それは小さな目に漸く三人を映した。

 〈…… なぁに?〉

 老婆の様な、子供の様な……掠れた囁き声。

「のぉ、帳簿の数を一文だけ弾いておったのはお前さんかえ?」
 〈うん、〉
「何故にその様な事をしておる?」
 〈生きる為〉

 淀みなく答えられ、誰からとも無く息を呑む気配。

「生くる為、と?」
 〈数の澱みは、わしの、糧…〉
 〈昼は、数が綻ぶけれど、明るい…人も臭い…〉
 〈夜は、数だけが残る…〉
 〈わしが乱せば、〉
 〈たった一文字だけ、〉
 〈沢山、淀んでいく…〉
 〈嗚呼、沢山……たくさん……〉

「年限がずれているものがあった」

 弥次郎が、口を開く。

「あれで女一人の人生が狂った。あれもお前か」

 弥次郎に目を向けるし乃雪。
 がま口の如き口が、ニヤァ…と笑んだ。

 〈嗚呼、…あすこは、よぉく…"淀んでくれた"ねぇ…〉

 し乃雪の瞳に緋色が灯る。
 懐より形代を出した刹那、源三郎が静止した。

「源、」

 見れば、源三郎の目が言う。
 “見ておれ"、と。

 藤原の握り拳が、震えている。
 ゆるり、歩き出し、付喪神の傍を通り。
 文机に音を立てず座る。
 僅かにに震える手で帳簿を並べ直し、該当する写しを並べ、手控えを揃え、算盤を取り出す。
 右手には、置いてあった筆。
 左手が添えるは、算盤。

「……」

 すぅ……と、弥次郎は深く息を吸い。
 指が、滑らかに動き出した。

 帳面が、整えられていく。
 澱みが、丁寧に直されていく。
 それは、まるで間伐。
 それは、まるで浚渫(しゅんせつ)
 帳簿ならざる"それ"が、正しき"帳簿"へと変化していく。

 付喪神は、小さな瞳でそれをじっと見つめていた。
 何も言わず、止める事も無く、穏やかに。

 やがて、最後のひと数が弥次郎の筆によって直された時、付喪神は嬉しそうに笑った。

 〈うん…… 腹、いっぱいだ〉

 あの青黒い炎も、算盤頭の姿も、無い。
 只、呪札を巻かれた算盤の珠が音も無く戻り、……それきりであった。


「弥次、」

 ふらりと立ち上がった弥次郎…崩れかけた身を、源三郎が支える。

「大丈夫か、」
「無理もない、"三日"も妖と対峙しておったのじゃ……それでは精神が削れよう」

 その場に座らせ、息を整えさせる。
 ……黒檀の算盤に語るかの如く、弥次郎はか細く、言を零す。

「……あの算盤の仕業ではない真の"間違い"。
 どの位あったと思う?」
「"真の"、」
「…… 二割だ」

 黒檀の算盤を、弥次郎は震える手で手に取る。
 石の様な硬さの珠。ひんやりとした、重い算盤。

 弥次郎は何も言わない。
 只、その算盤をそっと撫でるのみであった。