アヤカシ太夫♂とイロオトコ

 



讀メヌ閒違ヒ叩ク雨
不審紙增ユル帳簿ノ山
溜め息スラモ枯レ果テテ
削レ逝クハ刻ノミカ

兩替商ノ裏側ニ
澱ンダ數ノ業ノ末
紅ノ(マナコ)ノ覗ク闇ニ
遠ク聞コエル珠ノ音

 

 


 翌、昼四つ。
 小春日和の朗らかな陽光が世を照らす昼下がり。

 黒町屋の、普段は華の気配も無い勘定場にしては珍しく、ガヤガヤと入口より中を覗く人だかりができていた。
 男衆のみならず遣手や番頭、新造や禿、花魁、奥の方には大旦那までも。
 その様が何だ何だと更に人を呼び、何時の間にやら左右の出入口を埋め尽くすひと騒ぎとなっている。

 その中心にて居るは、無心で帳簿へ向かう弥次郎であった。



 時を少したり遡る。

 半刻程前より、弥次郎は黒町屋の勘定場を視察していた。
 昨晩の売り上げを勘定する帳付け役の男二人・平助と長松の手元、そして付けられていく帳面を、手元の手控えに何やら書き記しながら眺めている。

「…なぁ。昨日の宵藤、よぉく喘いでいやがったな?」
「嗚呼、意中の男がようやっと逢瀬に漕ぎ着けたんだ、そりゃぁ悶えるだろうよ」

 そんな雑談を交わしながら、売立帳と大福帳をたらたらと着けていく。
 “ぱち、ぱち、……ぱち、ぱち、…"
 写しや手控えも無く、算盤の進みも遅い。
 その様はやっつけ仕事に見え、やがて見兼ねた弥次郎が口を開いた。

「私語はいつもか、」
「嗚呼?」

 長松が振り返る。

「だから何だって言うンだよ?」
「私語は集中せぬ証拠だ、帳簿の狂いに如実に反映される。慎め」
「さっきからうるせェんだよ、役人様は声がでけェなァ!」
「それと、写しを怠るな。計算し内容精査後原本と写しを同時に付け見比べるが最低限だ」
「手前…、」

 バン、と未整理の帳簿を叩き、平助が吐き捨てる。

「お前偉そうな口を叩きやがるな?こんだけの量を毎日毎日だ、やる気も失せるってモンだぜ!」
「それとも何かァ?一人でこの量をこなせるってェんなら見直してやっても良いぜ?」

 両脇より捲し立てられ、零れるは小さな溜息。

 ……この二人。
 帳簿仕事を押しつけ、楽をしながらも弥次郎が音を上げる様を笑うつもりなのであろう……。

「…… その言葉、忘れるなよ」

 ほんのりとだけ呆れた顔で、其処を退け。と手仕草。
 腰を下ろす弥次郎を挟み、腕を組んで佇む二人。

 フゥ…小さく漏れる吐息を呑み込み、弥次郎はまず文机に広げられた帳簿をパラパラと眺めた。
 ……後、(たもと)より自らの算盤を取り出すと、その上に置かれた指がにわかに動き出す。

 “パパパパパパパパパパパパパパパパパパパパ、"

 速い。
 五本の指がそれぞれ別の生き物の如く、激しく滑るは躍り狂う様で。
 しかし一定の旋律を保ったまま、同時に右手の筆も又サラサラサラサラと滑らかに帳面を走り続ける。

「なん…だと…」
「すげぇ…!」

 記入済みの帳面が流れる様に直されていき、真っ新な帳面はあっと言う間に埋められて行く。
 原本と写しが同時に仕上げられ、神速とも言える速さで帳簿が積み上がっていく。

 二冊目が埋まった頃には、うわさを聞き付けた男達、仕事上がりの女達により、好奇の人だかりが出来ていた。
「し乃雪太夫の男に似た色男の役人が、何とも恐ろしい速さで算盤仕事をしている」…あっと言う間に大見世中に広まり、それはまるで珍しい大道芸を見物するかの如く。
 偶々通りがかった大旦那すら、「……ほぉ?」と覗き見る始末である。

 ふと、弥次郎の手がぴたり止まる。
 漸く気付いたらしい、がやがやと騒がしい周囲を見回し。

「見世物ではない。去れ、去れ!」

 ほんのり苛立ち含む口調にて散らされ、其処でようやっと皆詰まらなそうに去っていった。


 噂を聞きし乃雪が顔を覗かせた時には、大量の帳簿は総て黒く埋められていた。
 原本、写し、そして手元の手控えを交互に見遣り。
 後、別の紙数枚にサラサラと何やら記し、それらが埋まった所で漸く弥次郎は顔を上げた。

 呆然と眺めていた平助と長松に、紙を差し出す。

「今後はこれに沿って管理せよ」

 帳付けの手順を簡易的ながら丁寧に纏めた、指図であった。
 それを見、顔を見合わせた帳付け役二人。
 思わず膝を突き、「……参りましたッ!!」と土下座を向けた。



「……何ぞと思うて来てみれば、」

 算盤を袂に入れつつ部屋を出た弥次郎、楽し気なし乃雪の声で漸く視線のみ向ける。

「……何用だ、」
「ご挨拶じゃの?」

 笑いながら。

「凄まじい算盤裁きであった。このまま此処で働くも良いのではないかえ?」
「……源三(げんざ)に会いたくない故、無いな」
「そうかえ、残念じゃ。
 で、此処は如何であった?」

 言われ初めて、大きく息を吐く弥次郎。

「此処では無い」
「ほう、」
「間違いは多く杜撰な事に変わりは無いが、あのズレとは全く違う、只の怠慢だ。
 先程其処にあった他の廓の帳簿も覗いたが、其方も違った」
「なれば、黒町屋は"違う"と」
「指導は要る。あくまで此度の件とは別、と言う話だ」

 一言そう釘を刺した所で、廊下奥より現れるは弥次郎似の傾奇者。源三郎が二人を見付け、「おお、」と駆け寄った辺り、弥次郎が僅かな舌打ちを零す。

「嫌われておるな?源の字」
「同じ下りを昨日も聞いたぜ…」

 とほほ…零した後、再び上げられた顔は何時もの源三郎。

「それはそうと。
 聞いて来たぜ、此処が使っておる両替商。
 やはり衣紋坂、鴻池家の分店である佐伯家だ」
「佐伯家… 佐伯家健勇か、」
「お?知っておるのかい」
「衣紋坂の両替商位、知り得ておらねば仕事は出来ん」

 またチクリ、言の葉で刺される源三郎。
 チ…と舌打ちしたそれを、弥次郎は又もや気にすら留めぬまま。

「今は随分小さな両替商に任せておるのだな。癒着か…?」
「そもそも、黒町屋の懇意を知らねぇ辺りでお前の仕事も怪しいもんだがよ?」
「今朝勘定所で見た記録では一昨年まで三井家であった筈だが。
 ……否、今は問題ではないな」

 源三郎の皮肉すら意に介さぬまま、彼はすとし乃雪を見遣った。

「明日、佐伯家を洗う」
「これからでは無いのかえ、」
「時間が足りなさ過ぎる。それに、今宵はまだ此処の帳簿洗いが残っている。
 ……あの様子では、叩けば叩く程過去の帳簿不備も出て来るであろう事、然もありなんだ」

 眼鏡を取り目頭押さえる姿、その眼下にうっすらと影が落ちている。
 その背を、し乃雪はそっと、猫を撫でる様にさすった。

「弥次郎さん、今宵は休みなさいな」

 優しき声色。
 驚いたのであろうか、細められていた弥次郎の目が見開かれ、その瞬く間のみ動きを止め。
 ……しかし、直ぐ元の眉間となり、眼鏡が戻った。

「……この仕事が終わってからにさせて貰おう」
「誰か別のお役人さんは、」
「言った筈、別の仕事を任せてある。
 それに、引継ぎは精度を落とす…欠け落ちる"情報"が出て来ては支障となる」
「ふふ……何処までもお役人さんじゃの?」

 弥次郎の瞳に再び光が灯った様を見遣り、し乃雪は微笑んだ。

 その様を眺めていた源三郎。
 詰まらなさそうに口元を歪ませ、それきりであった。



 * * * * * * * * * *



 夕の刻よりぽつ…ぽつ、と降り出した久々の雨が、屋根を叩く。
 さらさらと流れる水音が心地良く、しかし弥次郎が取った宿ではまるで他人事の如く遠い。

 あれより、弥次郎は持ち込んだ帳簿を睨み続けている。
 時折数のズレを見つけては原本と写しを照らし合わせ、自らの手控えと照らし合わせ、直し、不審紙(ふせん)を貼り置き、一より見直す。
 何度も、何度も、それは何かに脅迫されているかの如く、弥次郎は繰り返し続けている。


「其処までやるか、」

 いつの間にか、部屋の入口にて源三郎が居る。
 ほんの少しだけ雨の音が近い。……ちら、と目を遣れば、行燈に照らされた自分と同じ顔が、微笑んだ。

「…… 嗚呼」
「巻き込んだな、」
「そもそもの話だ。
 "弥次郎"は勘定所の仕事にて黒町屋へ来た。止められる訳がない」

 違うか?…弥次郎が、僅かのみ口角を上げる。

「それにしても、"やりすぎ"だ」
「これが、"仕事"だ」
「傍目に見れば、何かに追われておる様にも見得るが」
「……」

 帳簿へ、視線が落ちる。
 其処に覇気は無い。

「数とは、"合わせるもの"ではない。
 "最初から合ってなければならぬ"ものだ」
「、」
「"弥次郎"は、仕事を全うするのみ。過程が如何あろうと、数を揃える。揃えねばならん」
「数は噓をつかねぇ、…とか、聞いたな」
「此度は数が嘘をついた、故に問題なのだ。
 …… 良い加減、お前も"数"を呑み込め」

 又、不審紙を一枚。
 何枚も貼り散らされた紅色のそれ。
 弥次郎の瞳に血の飛沫の如くちらつき、

「"お前は俺にはなれない"、…前に誰かさんが言っておった気がするな?」

 睨め上げる様に視線を向ければ、既に源三郎の姿は無い。

 また少し、雨の音が遠くなっていた。




 * * * * * * * * * *



 翌、朝五つ。

 昨晩の雨は未だしとしとと降り続き、しかし雷は鳴らぬで良かった、と源三郎は胸を撫で下ろす。
 降って尚湿度感じぬ冷たき空気の中、見返り柳を過ぎて衣紋坂。その端に、佐伯家は店を構えていた。

 頼もう、と弥次郎が声を上げれば、「はいはい、」と出て来るは人の好さそうな初老の男。…弥次郎を見るに、みるみる血相を変えた。

「! こ、これはこれは藤原様!? 如何用で、」
「佐伯家健勇、話は聞いておるか?」
「あ、は、はい “女が売り直された件"、で、しょうか…?」
「"帳簿の不一致の件"だ」

 やはり……と、皴の顔より血の気が引く。

「"やはり"、とは?」
「いえいえいえ此方の話で! ほら、一昨日山村様にご指導賜りましたもので」

 背後で、源三郎とし乃雪は顔を見合わせた。…恐らく、黒町屋へ立ち寄る前に山村は此処へ寄ったと言う事。
 弥次郎も又、ちらり背後を見る。 …す、と目を逸らした源三郎を見、しかし何も言わぬまま視線を戻し。

「その件で、今一度帳簿を改めたい。…差し支え無くば、佐伯殿が"帳簿をつける姿"も」
「えっ!?」

 狼狽。
 …何かある。

「何か問題が?」
「いえ!いえ、そんな…只、」

 モゴモゴと少しばかりの躊躇を見せるも、佐伯は腹を決めた様に漸く頷く。

「……分かりました……本日だけで宜しければ……」



 話を聞くに、数日前に帳付け役が行方をくらましてしまい、今は主人である佐伯が一人でこの両替商をやりくりしていると言う。
 暫く忙しさが続いた中で山村の指導、相当応えている様子。……吉原遊廓の売り上げを一気に預かっている事を考えればむべなるかな。

 整理済みの帳簿に目を通しながら、弥次郎はぱらぱらと帳簿へ目を通す。
 …見る限り、"殆ど"問題は無さそうだが……。

「嗚呼、裏へは回らないで下さいませ!」

 店の奥へ失敬しようとしたし乃雪と源三郎を、佐伯は少しばかり語気を上げ叫んだ。
 嗚呼こりゃ失敬、と頭を下げ、二人は其処で佇む。
 弥次郎が二人を見れば、源三郎は少しばつが悪そうに頭を掻いた。
 …その傍、し乃雪は只じっと、どんよりとほの暗い店の奥を見詰めている。


 "ぱち、ぱち、ぱち…ぱち、ぱち、ぱち…"

 算盤の音は、人並の速度。
 時折「えぇと… これは十と三両、六文…」と独り言を零しつつ、

「頼もう、」

 客が一人、帳簿の包み片手に来店。

「嗚呼これはこれは、弓塚さん!毎度どうも…」

 帳付けの手を止め、対応。
 馴染みの客らしい、にこやかな笑顔と共に話は弾み、手続きはすれど仕事は手癖のもの。
 ……やれやれ、と再び文机に腰を下ろした佐伯、目の前に広がる計算途中の帳簿を見、

「……えぇと…… まぁ、合っとる、か」

 さらりと暗算にて書き込み、算盤を再開した。

「…、」

 一連の行動を目のみで追っていた弥次郎、……少しばかり口角が下がったまま、再び手元の手控えに視線を落とした。


 その後一刻程、佐伯の動きを見続けた弥次郎。し乃雪がふわ…と小さなあくびを零した辺りで、「其処までで」と佐伯を止める。
 戸惑いながらも見上げた佐伯よりすと帳簿を手に取り、原本と写し、そして何時の間に着けていたのか…自らの手控えにある、計算されているらしい数字。その三つを見比べ、やがてふぅ…と吐息を零した。

「…… 大方は、問題が無い様子」
「……で、ですよね?」

 安堵しかけた佐伯に、しかし弥次郎は鋭い視線を向けた。

「だが、一部に些細な間違いが見受けられる。
 忙しさに(かま)けて間違いを正当化する様なれば早急に店を締めろ。
 先ずは人を雇い円滑に回るよう手配しろ」

 論にて叩き落す様な物言い。
 流石の源三郎も弥次郎よろしく眉根を寄せ「おい、」と出掛かったが、弥次郎の言葉は続く。

「勘定所より一人、暫く此処に着けさせる。新入りだが帳付けにおいては信用なる男だ。
 今一度申す。"十日猶予を言い渡す、早急に人を雇え"。以上だ」
「……! ありがとうございます…!!」

 佐伯がそう頭を下げる刹那、表情が複雑そうに見えた事を、三人は見逃さなかった。



「…… あの男では、無かったが」

 暖簾を出、少し歩いた辺りで、弥次郎が零す。

「帳面にあの特徴的なズレは無かったが。
 ……積み上がっていた帳面も、間違いはあれどあの"一文ズレ"では無かった。が……」
「何か、違和感があるな」

 源三郎が続ける。

「見たか、雪?あの顔、」
「…嗚呼、何だか嫌そうであったのぉ?それに、」
「、」
「俺だけであったか?あの、店の奥に……何か、重怠い奇妙な"感じ"がしたな」
「嗚呼、雪があすこに行きたがったのは」
「問題は佐伯ではなく、"店"にあるのやも知れぬよ」

 暫し、三人は考えを巡らせる。
 番傘を叩く雨は静かに縁を流れ、無言の間を舞い落ちていく。

 と。
 奥の裏口がカタンと音を立て、人が出て来る気配がした。
「おッ?」と源三郎が見れば、恐らく佐伯家で雇われている丁稚だろう。すわ、と源三郎が番傘を投げ捨て駆けていき、それに気付いた丁稚と何やら話し始める。

「……何をしておるのじゃ?」

 訝しみつつ、番傘を拾いつつ。二人が丁稚と源三郎の方へ駆け寄った辺り、源三郎が丁稚へ「有難い!」と声を上げていた。

「何が有難いと?」
「話は着けたぜ」
「だから、何の、」

 順を追って話せ、と暗に促す弥次郎に、源三郎はニ、とずぶ濡れの笑みを向けた。

「『一晩張らせてくれ』と、この小僧さんに頭を下げたんだ。
 どうやら、やっぱり此処十日の間に裏で気味悪い事があったらしい。
 解決出来るならと、協力してくれるそうだ」

 何とまぁとんとん拍子に…。
 笑いながらも「お見事じゃ」と零すし乃雪、対し弥次郎は少し不服そうに眉間の皴を深めつつ。
 ただ一言

「……致し方ないか……」

 と、ぼやいた。

 ……眼下の影、心無しか色味が増している。
 弥次郎の言葉に二つの意味がある事を、し乃雪だけは気付いていた。