アヤカシ太夫♂とイロオトコ

 


遠ク鴉ガ鳴ク頃ニ
一文ニ狂ウ女ノ生
淚知ラヌ帳簿ノ墨ハ
知ラヌ顏シテ乾キユク

眼鏡ノ奧ノ寄ル眉ニ
手控提ゲテ來タル影
傾グ羽織ト竝ブ黑
誤差ノ底ニハ何棲マフ

 


 


 …… 珠を弾く、音がする。


 “ぱち。 ぱち。 ぱち。 ぱ……  ぱち、ぱち。“


 秋風に枯葉薫る屋敷の、行燈揺れる奥の部屋。
 人の気配せぬ、冷え切った空間で。


 “ぱち。 ぱち。 ……  ぱち、ぱ、……ぱち。“


 弱々しいその音、不揃いの旋律が、響く。


 “ぱ……

 ぱち。“


 文机の上にて開かれたままの、帳簿。

 墨の香り新しい、数の群れ。



 その墨跡の一つが、

 “ ……ひくり “

 震えた。



 * * * * * * * * * *



「……で、故に清花(きよはな)は売られ直されて今もおる、と」

 浮かぬ顔にて返すし乃雪に、眞鶴は眉根を潜め、続ける。

「酷い話よね、たった一日とは言え、あの子この日を楽しみにしていたのにさ」
「そうさのぉ…」

 流石にこればかりは、俺とて手の打ち様が無いわえ…伏せられた銀の長い睫毛を読んだ眞鶴、それ以上の言葉も無く「それじゃあね」と部屋を出、夜の準備へと戻っていった。

 どうも、清花は一日早く年季奉公を終わらせ、自由の身となる筈であった……が、たった一文の帳簿不備にて、今日も年季明けならなかった、との話。
 外の世を楽しみにしていた清花の、瞼奥に焼き付いた笑顔より色が消えた心持がし、大きな溜息と共にいつもの出窓へと腰を下ろす。

 ─── …ん?

 その不穏な空気にし乃雪が気付いたのは、必然であった。

 散り始めた楓の枝葉が揺れ騒ぐ故では無い。
 遠くより近付いてくる複数の足音、それを目撃し、若しくは察して足を止める人々の気配だ。
 何ぞ?とざわめき達が向いている方向へ何気無く見遣れば、黒い塊が澄んだ空気の向こうより此方へ近付いて来る。…馬に跨った黒い羽織、其の後に続く黒羽織達。奉行……役人の列である。

「…… 皆で遊びにでも来たのかえ?」

 冗談を独り言つも、詰まらぬ言の葉。何時もは傍に居るであろう友人が隣に居ない事に、再びの小さな溜息にて嘆く。

 と。
 眼下へ差し掛かり来た其の集団、先頭の馬に続く男に、目が行った。
 見間違いかと思ったが、否。背が高く、肌が浅黒い男だ。珍しく眼鏡をかけた、集団の中では一際若い、……本多髷(ほんだまげ)を結っている……?

「んん??」

 二度見した。

 自分の知るあの男は、確か浪人の様な総髪であった筈。月代(さかやき)等一寸も無い、只紐で結っただけ、であった。しかし、あの男は。

 新吉原唯一にして無二の太夫の熱い視線を、その男は察したのだろうか。く…と目のみを一瞬向け、しかし直ぐ気まずそうに逸らした。

 間違い無い、涼し気なあの眼。見慣れた顏。
 ……眉間の皴が深い所は気になるが…。

「……源三郎……??」

 黒町屋の前にて止まる、黒服達。
 じぃっと、し乃雪はその集団を…あの男一点を見詰め、ニヤリ笑んだ。

 他人の空似かとも思ったが、彼の眼には源三郎にしか映らない。
 そう確信した瞬間、その身は部屋を転がる様に飛び出していた。


 ─── ガ、カァー… ガ、カァー…

 不可思議な烏の声が響く。


 黒町屋右手の細い袋小路。
 し乃雪が玄関を出た直後、あの男がいそいそと其方へ向かう姿を見た。
 厠かよ、と笑いながら覗けば、何やら分厚い手控えをパラパラとめくりながら思慮している。…その横顔はやはり見慣れたもので。

「源の字!」

 袖を引けば、予期しなかったであろうその身があれよと言う間に均衡崩れ、倒れ掛かった所で身ごと羽交い絞めにした。

「う、わ!? な、」
「やはり源の字じゃあ無いかえ」
「はァ!? 何だ、離し……」

 眉間の皴を一層深くしたその顔、しかしほんのり違和感を覚えた。
 …態度が、違う。

「無礼だぞ、貴様!? 黒町屋の女か!?」
「眼鏡なんぞ掛けておった故、気付くまで掛かったわえ。何じゃ、かつらまで着けおって」
「かつら!? 何を、」
「お前さんはそう言えば何を仕事としておるのじゃ?金遣いもなかなか荒いし…ん?」

 其処まで言いつつ、その月代にさわさわと触れていた手が両の手となり、にわかに其の頭を掴んだ。
 …感触が、本物の"肌"なのだ。

「貴様、誰かと勘違いしておるのか!? 離せ、離せと申している!!」
「……なぁ、源三郎?」
「源ざ…??」
「この頭よ。本多髷になぞ、いつ結った?
 昨日まで総髪であっただろう?まさか今朝唐突に思い立ったのかえ?」
「おーい、其処までにしてやってくれや」

 背後より、声が聞こえた。
 聴き慣れた声、…今胸元に居る男と、同じ声が。

「何ぁにやってんだ雪の字よ?」

 ……まさか。
 心の臓を跳ねさせ振り向けば、其処には見慣れた源三郎が覗き込んでいた。

「源、の字…!?」
「嗚呼、何だお前さん?新しい男かよ?」
「えっだって、」
「……いい加減にしろ、」

 バ、と手を振り払われ、男が服をはたきながら立ち上がる。
「全く、」と取り落とした手控えを拾い上げたその姿、しかし何度見ても源三郎と瓜二つ。

「…… 真に、他人のお役人さんであったのかえ…」
「似ておるか、」

 からからと笑いながら並び立つ、役人と源三郎。
 顔かたちは同じと言っても良い程、しかしそれ以外は綺麗に真逆だ。
 …女物の羽織が似合う総髪の遊び人と、三つ紋の黒羽織を身に纏った本多髷の堅物役人。
 そして、明らかに違うは眼鏡と"眉間"。

「……嗚呼、似ておるどころじゃあ」
「そりゃあ"いとこ"故なぁ」

 言いつつ、バン、と黒服の背を叩けば、男は少し見開いた目で源三郎を見遣り、しかし直ぐ視線を戻した。
 それを聞き尚呆然と座り込んだままのし乃雪に、源三郎は言い放つ。

「まぁこの際だ、紹介しておこう。
 従兄弟の弥次郎(やじろう)だ、藤原 弥次郎」

 弥次郎と呼ばれた男は、眼鏡をクイと直し只一つ「……フン、」と鼻を鳴らした。




「何かあったのかい、」と源三郎、弥次郎と二言三言言葉を交わした所で、通りの方より声。
「藤原くん、何処だ」……恐らく、馬の上に居たあの奉行の声だろう。急ぎ向かおうと身を向けた弥次郎に、源三郎が

「弥次!後で寄れよ、」

 と付ければ、弥次郎はひら…と手のみで返し、それのみであった。


「遊女が売られ直された件かえ?」

 し乃雪が訊けば、ふむ、と源三郎。

「それもある、が。どうもな、吉原中の帳簿で細かな"数"違いが増えておるらしい」
「"数"、」
「俺もあいつから聞き齧った程度だがな。…まぁ、今宵お前さんの部屋へ寄ってくれるらしい故、」

 話はその時訊こうぜ?と、手に持った土産を見せた。早う何時もの部屋へ向かいたいらしい。


 通りに出れば、黒町屋の大玄関前にて奉行達と大旦那が言葉を交わしている姿が見えた。
 何時見ても異様な空気纏う、南蛮の外套に身を包んだ"大旦那"……そして、あの奉行は近頃どうやら噂されている"遣り手"の勘定奉行、山村 良旺(やまむら たかあきら)
 その傍にて、手控えに筆を走らせ続ける弥次郎の姿がある。
 …詰まる所、この黒服達は勘定所の役人達なのであろう。

「おーい雪!最中の月買って来たぞ、食おうぜ」

 先を歩き裏の口方向より呼ぶ源三郎を追いつつ、し乃雪の目は見分中のその様をとらえる。

「……吉原の総取り纏めとしても、此度の件は重く受け止めるべきであると愚考するが。
 現に、こうして年限のズレが出て来たのだ。廓総出で洗い出しする必要がある」

 告の色を滲ませる、山村の言葉。

「ふゥン…」

 大旦那はいつもの調子にて、のらり、口を開く。

「一日二日、どうせ誤差じゃあないですか…
 人の生のたかが一日、何も変わりません。
 違います?」

 中へ入らんとしたし乃雪を、その言葉は引き留めた。
 弥次郎の手が
 “ひく…"
 震えて止まった様を、見た。

「…… "誤差"、…ですか」

 低く、低く零れた、言の葉。
 し乃雪は何も言わず、只その言葉に目を伏せた。



 * * * * * * * * * *



 弥次郎がし乃雪の部屋へ顔を見せたのは、夜四つ。
「失礼する」との一言にて襖を開けた弥次郎、「遅かったな、」とほろ酔いの源三郎を見るや微かな舌打ち。

「嫌われておるのかえ?源の字」

 笑いながらし乃雪が問えば、

「こやつは昔からこうよ」

 二人より少し離れた所に胡坐をかいた弥次郎に、そう零しながら猪口を差し出せば、しかし手仕草のみで断られ。
 源三郎の眉根がひくりと寄った後、

「この通り。詰まらん男だ、」

 はは…と苦笑が漏れた。


「それにしても。
 随分掛ったのぉ…よもや、今時分までお奉行様が下に居ったとか、かえ?」

 外はとっぷりと暗く、ともすれば遠くより艶めかしい声すらも聞こえそうな辺りだ。
 相変わらず開け放たれた出窓からはひんやりとした風が流れ込み、紅葉がくるり弧を描きながら去っていった。

「…否、帳簿を精査しておった」
「嗚呼、成程」
「帳簿、ってお前さん…吉原中のあの量をか?」
「左様」

 し乃雪より差し出された茶と菓子は受け取った弥次郎、行燈に揺れる横顔は僅かに血の気が薄い。

「流石に一日では終わらんだろう、」
「故に、泊まり込みで明日以降も続ける。
 全く、扱いが稚拙過ぎるのだ…塵は積もり山となる等、分かり切った事であろうに」
「まさか、一人でかえ?」
「他の者には他の仕事がある」

 其処まで、淡々と受け答える弥次郎。
 茶をひと啜り、……漸く、寄ったままの眉間がほんのりほどけた。

「……どの帳面も、末尾にズレがあるのだ」
「言うておったな、一文やら二文程度のズレだと」
「ズレの無い帳簿は無かった」
「其処まで!?」

 数字にとんと縁のないし乃雪ですら、源三郎と声が揃う。

「吉原は複雑だが、"料金"は大抵決められておる。
 故、元の金額と擦り合わせてしまえば何処でズレが生じたかは追える筈……」
「が、その口振りでは"まだ"なんだな?」
「口惜しい事に。恐らく、意図的なものとそうでないものが混在している故だろう。
 そしてもう一つ、」

 出されていた最中の月を口に含む弥次郎。バリと噛んで茶で流し込み、表情一つ変えぬまま。

「原本と写しが混在しているのだ。…吉原が此処まで雑な運用だとは、」
「一式揃えば良いと言うものでは無いのかえ?」
「"管理の杜撰さ"が問題なのだ」

 行かねば。と立ち上がった弥次郎、しかし何やら思慮を巡らせていた源三郎が独り言つ。

「…どうも、数だけを追って如何にかなるモンでは無い気がするぜ」

 ひたり。
 弥次郎の脚が止まり、視線が源三郎へ向いた。

「……他に追う術があると?」

 まぁ焦るなよ、と促され再び腰を下ろした弥次郎に、し乃雪も又零す。

「そうさの、…勘定違いと写し違い、両方が有り得る、との事であろう」
「嗚呼」
「総ての帳簿が何処かしら間違うておるのであれば、数のみを追うではなく」
「"人"と"場所"を追え、ってな」

 源三郎が言葉を続ける。

「弥次、お前さんは帳面を揃えてから最初からそうするつもりであったんだろうが。
 だが、此度はそれじゃあお前さんが先に壊れるぞ」
「全帳簿のズレを如何追えと、」
「そもそも、その"全帳簿"はどの時点でのものだ?大方、締めた売立帳を山村の指示で搔き集めたモンであろう」
「締め前のものもだ。……だが、確かに現時点では記帳直後のものではない。
 原本と言いつつ"手動で写し直したもの"である事が否定できぬか…あの量を?」
「なれば、何処かで"嘘"をつく者がおる、と言う事じゃの?」

 ぱりん、と小気味良い音を立てて菓子を頬張りつつ、し乃雪が笑む。

「何処で、誰が、あの帳簿の山をすり替えたか……か。
 末尾のみ変えると言う手口は一貫している……一箇所に集まる"場"……奉行所へ辿り着く"前"……下流より上流へ上り、"澱み"を見付ける必要……」
「そこが分かれば、罠を張る事位は出来そうだな」

 く、と酒を含んだ源三郎。
 思慮を回転させ続ける弥次郎の背をぽんと叩くが、弥次郎の反応なきまま。

「二箇所は分かったな、お前の所の勘定所、吉原遊廓取り纏めである此処"黒町屋"の勘定場」
「勘定所と黒町屋の間で既にズレが生じている事は把握済みだ。此処は候補に入る、明日精査する」
「もっと他に……例えば、帳簿の一時預かりとか、なぁ…」

 と、はっと弥次郎の眼鏡が源三郎を捉えた。

「"両替商"、」
「お?」
「有り得ぬ話ではない。預金、手形発行、送金…必ず帳簿ごと両替商へ持ち込む。
 ……この近くの両替商は門前の衣紋坂か」
「あすこはかなりの数の両替商があるぜ?」
「毎度違う両替商に持ち込む莫迦はおらん」

 ぴしゃり、言の葉で斬り落とされる源三郎。チ…と舌打ちしたそれを、弥次郎は気にも留めぬまま。
 その様が面白いのだろう。し乃雪はくつくつと笑いながら弥次郎の湯呑に茶のお代わりを注いだ。

「お役人さんも大変じゃの?」
「それが、役人たるものだ」

 明日は忙しくなる……。
 熱を取り戻した湯呑を傾けながら、弥次郎の眉根は再び皴を取り戻していた。