「この子の七つの御祝いに
御札を納めに参ります」
……さわさわさわ……
気持ちの良い涼やかな風が、未だ濃い緑色を宿した木々を柔らかく揺らす。
先日と同じ美しい景色を全身に受け、早良は何時もと同じく沈み行く日光をじっと見詰めていた。
其の顔に浮かぶは、不安。早良には少々珍しい表情だ。
日中、早良と弥次郎は宿へ引き篭もり、数言喋った程度で後はずっと黙ったままであった。勿論、早良は思惑あってじっと考えていたのだが、弥次郎が何故に同じく考え耽っていたのか、早良には分からない。
今宵……否、日が落ちる少し前より、只一件見つけた親子を張るつもりだ。とは言え、実の所全く以て確信を得られておらず、早良の表情が優れぬのは其の為である。
……昨日の調査で『子二人の家庭』を見つけられず。故に、今宵姥捨ては言わずもがな、子捨てが行われる確証は全く無いままであった。
蜩鳴く中、……しかし日没と共に虫の音がぴたりと止み、早良の眉がひくりと震える。木を登り標的の家の屋根にて先刻よりじっと待機していた彼は、やがて足元……家の中にて妙にざわつき始めた事に気付き、身構えた。
藪の中で同じく様子を伺っていた弥次郎が、早良に見える様頷く。ちらと弥次郎へ目を向けた早良は玄関の方へ這い動き、そっと下を覗いた。
子供と、母。
まるで七五三の様な…おめかしさせた女児の手を引き、しかし母の身なりは特段変わったものでは無い。彼女は表情無きまま、嬉しそうに跳ね回る女児を連れ、日陰った道を北へ。
…… 東。
親子が少し離れた所で早良は屋根からストンと降り立ち、傍らに弥次郎が駆け寄る。
「…… 九十九神社の方か」
「………………」
歩き始める早良。
手控えに其れを記したらしき弥次郎、其れ以上何を言うでも無く早良の後へ続いた。
* * * * * * * * * *
暗くなり行く早さは夏よりも短く、鮮やかな群青色に染まった空が美しい。…だが、やはり昨日に同じく虫は鳴かず、烏の不吉な鳴き声が辺りを包み込む。
ぞっ……と肌が粟立ち、早良は思わず密集した木々の向こうへ目を凝らす。しかし闇の中に蠢く漆黒は見える筈も無く、無数の気配だけが早良の肌をびりびりと刺激し続けている。
小一時間、母子は暗い道を歩き続け、やがて山道へ。
松や山毛欅が生える山道に少しずつ桜の木が混ざり始め、気付けば辺りは桜の木に覆われていく。
目前に古めかしい大鳥居。上へ続く長い石階段の両脇を挟むかの如く鎮座する獅子狛犬の側、まるで其の変化の如く、二人の無骨な男が立ちはだかる。
「……何を…しておる…?」
何言か話した女と片方の番人は、少ししてくんと顔を上げ。もう一人の男が懐より小袋を、そして其の小袋より丸薬らしき黒い小粒を取り出す。腰にぶら下げた瓢箪と其の丸薬を女に渡せば、女は不思議そうに顔を見上げる童を促し、飲ませ。
「……薬?」
早良が思わず呟いた其の数言の間に、あれ程嬉しそうに飛び跳ねていた童の様子が変わった。かくん、と腕が垂れ、魂が抜かれたかの如く大人しくなってしまったのだ。
「!?」
ふらり、ふら。
危なげな足取り、しかしまるで風無き水溜まりの如くしんと鎮まったまま。女は男二人に軽く頭を下げ、童の手を引き、果ての見えぬ程に長く続く石階段をゆっくりと上って行った。
……何事も無かったかの様、番人達は石像の如く其処に立つ。
母子の姿が闇の奥へ紛れ行く様を見送り、早良は躊躇無く立ち上がる。
隣で隠れていた弥次郎が「おい、」と小声で静止するも、早良は自信を宿した目で弥次郎を見。弥次郎は其の瞳に何を見たのか、やがて目を伏せた。
暗闇の奥から現れた見慣れぬ風貌の少年侍。無論番人達は眉根を寄せ、一歩真中へ寄り、少年の前を塞ぐ。
「見慣れぬ顔、何用じゃ」
「宿で暇であった故散歩しておったら道に迷うてな、上へ登れば見えるかと」
躊躇無くあっけらかんとそう口にした少年の言葉尻に、嘘は無いと感じたのか。番人の片方は刀から手を離したが、もう片方は厳つい顔を面白く無さ気に歪ませ、溜め息と共に言い放つ。
「今宵村の者以外御法度だ。この道を降りよ、村に着けば分かるだろう?」
「ふぅん……今宵は祭りか?」
「貴様には関係無い!童め、さあ帰った帰った!!」
しっしっ、と少年を追い払う仕草をすれば、
「ふん、詰まらぬ」
残念そうに眉をしかめ、後ろ髪を引かれる様に踵を返した……其の刹那。
突然振り被る少年。全く余所者は……と愚痴を零そうと口を開いた男の鳩尾に、少年の腰にある刀の鞘がズンとめり込む。男の瞳が見開かれ、時が硬直した。
「なっ……」
突然起こった其れに驚くもう一人が体を揺らした瞬間、鳩尾にめり込んだ鞘から抜かれた刀の柄が居合いの勢いで其の顎を殴り飛ばし。
二人の番人が力無く地に沈んだのは、奇しくも全く同時であった。
「……無茶苦茶が過ぎる」
物陰にて息を潜めていた弥次郎が呆れ声を漏らす中、しかし早良の表情は硬いまま。
「手伝え、隠すぞ」
「確か、噂を聞いたな…お前は江戸一の剣豪の一人息子だと。
父親譲りと言う事か、」
「弥次郎」
「何だ」
「今は関係の無い話だ。違うか?」
「…… 失礼、慎もう」
浮かぬ早良の言に弥次郎がそうあしらった頃、二人の番人は着物を剥がれた挙げ句、其の帯で桜の幹に縛り付けられていた。
何とも滑稽な姿……が、二人は頬をひくりとも動かす事無く。
「行くぞ」
まるで果ての見えぬ程に長く続く石階段を軽く見上げ。
そう声あげると同時、早良は勢い良く駆け上がり始める。…其の後ろを、弥次郎も又続いた。
長く、長く。
延々続く石階段、踏み締める度に足指より温かさが失われ行く。
深い闇の中、先にあるであろう社は未だ影すら無く、規則的に並び続ける四角の石と両脇を挟む桜の木々に軽い目眩を覚える。
桜の奥に広がる宵闇湛えた森の中、……早良はずっと気配を感じていた。
恐らく先刻から時折鳴くあの烏達なのであろうが、其れにしても何処か肌を刺す様な殺気は無数の方向から向けられ、頭の後ろ側で警鐘が鳴り続ける。
……何かがおかしい。
もうどれだけ上ったであろうか、しかしまだ着く気配無く。
…気付けば、後ろを付いて来ているであろう弥次郎の姿は随分小さく向こうにあった。
「遅いぞ弥次郎!」
「……嗚呼、…… ?」
「根性を入れろ!まだ先は長いぞ」
「…… おい早良、この気配は」
「止まるな、先を急ぐぞ!!」
早良がそう一喝した、其の時。
大きな声で驚かせてしまったのか、突如周囲の木々がざわざわと激しく揺れ、ガアガアと無数の烏達が飛び出して来る。其の圧倒的な数の闇鳥に二人は只体を低くし、頭を護るしか術が無い。
「っつ……」
「烏!?」
鉤爪に掻かれ、嘴に突かれ、鎌鼬の如く渦巻く烏の大群は程無く桜木の闇へと消えて行った。
全身にある古い刀傷の上から新しく細かい傷を作った早良は、弥次郎を心配し振り向く。が、
「……収まったな、」
何事も無かったかの如く佇み、すわ記録せねばと手控えを取り出す、何時もの姿。
「……」
「何か、」
「案じて損したわ……行くぞ」
「? 嗚呼」
其の言葉の意味が分からず、怒った様な足取りで踵を返した早良の背を、訝しみつつ見送る弥次郎。
だが。
「……ぐ!?」
思わぬ弥次郎の悲鳴。
「今度は何だ、」と呆れ気味に振り向いた其処には、顔をしかめ首の後ろを弄る弥次郎の姿があった。
「如何した、」
「否……蜂か? 何かに刺されて、」
言いながら取り出した其れは、弱い月光を反射し鈍く光る銀色の針だ。
「何だ……針か?」
「弥次郎!其れは、」
「…………あ……―――――」
ぐらり……弥次郎の大きな体が揺れ、一度目は留まるものの反対側へ再び傾き、……其のままドサリと倒れてしまった。
急ぎ弥次郎の体を起こすが、どうやら薬を盛られているらしく、気を失っている。
途端、早良はぞっと青冷め、急ぎ其の重たい体と共に桜の木陰へと隠れた。
……確実にあの忍が近くに居る。
先刻の烏の騒ぎも、あの男の仕業なのだろうか。
警告を退いた己等への報復のつもりか。
だが、此処で戻る訳には行かなかった。
奉行からの命であっただけでは無い、早良自身の心情が其処には絡んでいる。
「弥次郎……許せ、」
木の幹へ寄り掛からせ、一向に起きる気配の無い弥次郎へ、早良はぽつり呟く。
"ざわり……"
風で不吉に音を立てた木々のざわめきで其の声は流されたが、彼の瞳に宿った強き意志が、僅かな月明かりにちかりと瞬いた。
ざわ、ざわざわ
相変わらず木々が騒がしく、あちこちから侵入者を刺す気配が止まない。
じっ……と気配を殺し、周囲の様子を探る。相変わらず感じるは無数の烏の視線……恐らく、この中に。
すう、と胸に冷たい空気を吸い込み、正面を見据え。
早良は、走り出した。
在らぬ方向より其の殺気が放たれて居る事に、彼は全く気付かぬまま。
まる何かの術が解けたかの如く、其れから境内まではすぐであった。
石段を駆け上がる早良の息が上がり始めた辺りに、麓の石鳥居よりも大きな古い鳥居が姿を現す。
其のまま最後まで登り切ろうとした時、明らかな人の気配。
咄嗟に漆の剥がれ掛かった鳥居の影へ身を隠した。
先刻童を連れていた女だ。
表情無いまま一人足早に拝殿の裏から現れ、ととっ……と石階段を降りていく。
童の姿は無く、しかし女は其れを気にする事も無ければ、拝殿の方を振り返る事も無かった。
「…………」
距離を置き、其の姿が遠く桜の森の奥へと消えかけた辺りを見計らい、早良は鳥居の影より這い出。
漂う妙な違和感に、彼は小さく首を傾げる。
―――……何故にあの女は童を気にせなんだ?
詰まる所、あの女と童は……
ガァー、ガァー……
再び騒ぎ出した烏共の鳴き声にはっと我に返り、顔を上げて周囲を見渡す。
相変わらず、この付近を包む沢山の気配が此方へ向いており、"忍ぶ者"の気配を見出す事は難しい。
もしあの黒い男が"鴉天狗"であれば……若しくは"鴉天狗"と言う異名を持つのであれば、あの烏達の中に身を隠す術を用いているのだろうが。
ちりちりと肌を刺す威圧感を相手に全身の感覚を研ぎ澄ませつつ、早良はゆっくりと先刻女が出て来た方へと足を運んだ。
拝殿の、裏。
余り手入れされていないのであろう、拝殿の土壁が崩れかけており、日も当たらぬ故苔むした地面を其の砂が白く染めている。……しっとりと湿った空気が、異様に重く冷たい。
其処には、もう一つの社があった。
早良の背よりも少し大きい程度しか無い真っ赤な鳥居が幾重にも並び、社まで一本の道を作っている。
少し弧を描いている故、社の扉が如何なっているのか、此処からは見えない。
恐る恐る、近付く。
律儀に鳥居を潜って近付けば、其の狭さ故に忍の格好の餌食となろう。わざと横へ回り、最後の鳥居の左側よりそっと覗く。
扉は開いていた。
閉め忘れた様な様子では無く、元々しっかり閉まる扉では無いらしい。キイキイと音を立てて揺れながら、狭い其の中にて見え隠れするは……表情一つ変える事無くじっと座り続ける、先刻の童である。
「…… おい、其処の」
試しに小さく声を掛けてみる。が、童はまるで人形の様にじっと座ったまま反応しない。
まさか、先刻の薬か?訝しみつつ、今度は少々声を張り上げ、再び声を掛けた。
「其処の童!聴こえぬのか!?」
「無駄だ」
何も居ない、気配すらしなかった直ぐ背後より突然掛けられた声。振り向くより先に刀に手を掛け、振り向き様抜き掛けた刀身に二筋の閃光がギィンと音を立てる。
あの、"黒い男"だ。苦無二本が、早良の首を真っ直ぐ狙っていた。
「貴様……!!」
「忠告した筈だ」
圧倒的な力で無理矢理押し飛ばされ、早良の体が重心をずらしぐらりとよろける。
踏み留まり刀を横に凪ぐと其れはヒュウと男の残像を切り裂き、右より閃。
飛んで来た針を全て刀で打ち落とし男の懐へ飛び込み、刀を斬り上げたがやはり手応えは無い。
「ちぃっ!!」
舌打ちし、刀を鞘に納め数歩間を空け。
再び目前より忍が消えた瞬間不意に背後に気配を感じ、無意識に振り向き様居合い抜けば、切り裂いた物は丸太。
首に冷たい物がぴたりとあてがわれ、早良の体はぴたり止まった。
……気配の消えた筈の其の方向に、忍は居た。
「…………っ、」
空気が凍り付き、刃と肌の合間を冷たい汗が一筋通り、落ちる。
あてがわれた苦無は其のままに、忍は止まった空気を揺らすかの如く唸る。
「其処までして幕府に忠義を尽くすか」
「……違う!」
突如投げられる、言葉。
頭に血が上り反論しようとしたが、ぐ、と首の苦無に力が入る。
ぷつりと裂けた肌から錆色の血が染み出し、先に流れた汗と混じった。
「何が違う、」
「っ……
子を道具の如く扱う者共が許せぬだけじゃ!!」
「其れのみで命をも投げ打つか」
「幼少より親から離され独り生きねばならぬ子供の気持ちなど……貴様には解るまい!!」
「フン……相手が上方でもか」
「……! 今何と、」
不意にもたらされた其の言葉に、早良は自らの耳を疑うかの如く問い返す。
有り得ぬ……只其の一言が頭を過ぎ、彼の体に殊更強く力が入った。
「幕府が……ならば貴様も幕府の、」
「言うて何が変わる?」
「否……変えてやる、この己が!!」
強い、決意。
早良の首にあてがわれた苦無が、ほんの少しだけ震えた気がした。
其の気配を察し、其れまで気付かれぬ様に懐刀に伸ばしていた手を引き抜き、振り上げる。抜かれた白銀色の刃が月明かりを受け弧を描き、忍の手甲を裂いて苦無が落ちた。
「!っ、」
声にならぬ程の小さな悲鳴を漏らし、忍は早良の体を突き飛ばして跳び下がる。とっさに左手を庇い右手に新しく苦無を構えると同時、早良もまた刀と短刀を構え、両者の目線が交差し。
ぴぃん…と、時が張り詰めた。
肌を刺す様な冷たい風がほんの少し場の淀みを潤し、あれ程騒ぎ立てていた烏達さえもしんと静まり返る。
「…………」
「………… 、」
先に動いたのは忍。
しかし攻め行った訳では無く、軽く目を伏せた後、只改めて立ち直るのみ。
「?」
訝しむ早良に、忍は目を細め。
懐より何かを取り出し、其の場へカシャンと落とす。
「………………
貴様の言葉、聞いた。
真に本心ならば、城下の『藤雅』へ独りで来い」
「藤雅……飲み屋か?」
無意識に問い返した時、社より"何か"がカサリ動く気配。
あの童子か…?早良の気が其方へ向いた、刹那。
“ザア!!!"
一斉に、無数の影が早良を覆った。
あの"烏"。
闇鳥達の身で視界を塞がれ、無数の声にて耳が塞がれ、
ほんの、刹那の事だ。
顔を上げた時、既に忍の姿は闇に溶け消えていた。
……追うべき影すら、元より無かったかの如く。
残るは、先刻忍が落とした"何か"のみ。
「……」
周囲の気配をぐるりと見回した後、早良は刀を仕舞い、其れに駆け寄る。
拾い上げると、使い古された眼鏡であった。
其れを握った手に力が入り、きりりと微かに悲鳴を上げる。
早良は顔を上げた。空を仰ぐ其の瞳に月光が跳ね、鋭く輝く。
「…… 如何様でも来い……か」
ふと、本来の目的を思い出した早良は、少々慌てた様子で社の方へと振り返った。
其処には既にあの人形の如き童の姿は無く、只赤く色付きかけた桜の葉が一枚、ひらりと落ちるのみ。
「ちっ……こっちもして遣られたか、」
歯軋りと共に、力任せに懐刀を幹に突き立てた。
