今宵最期ノオ話ハ
身ノ毛モ彌立ツ報ヒ事
朔月ノ夜ノ惡梦鬼
手招キシナガラ息潛メ
蝋燭弌夲遠クノ間ニテ
ユラヽ搖レテ待チテ候
これはな…… 二つ山向こうで起こった、本当の話じゃ。
若い御用聞きで、染谷幸信と言う男がおった。
酷く穏やかで、虫一匹踏み潰せぬ様な男じゃ。
周りからは「何故に御用聞きなんかに、」とからかわれ、肩身は狭かったらしい。
しかし、其れでも幸信は御用聞きから足を洗おうとしなかった。憧れであった故に、な。
何故に幸信が御用聞きになったのか?
其れは、幸信が暮らして居る其の国では、神隠しが流行っておった故じゃ。
可哀想に、幸信の両親は元服した数日後に神隠しに遭い、残ったのは大量の血と腕だけ。
故に、健気な幸信は真相を知ろうと御用聞きになった、と言う訳じゃ。
さて。
其の幸信が何時もの通り日の暮れる帰り道を急いでおると、道端に一匹の蜘蛛がおった。
まるまると太った女郎蜘蛛であったが、昨日の雨で巣を壊されたのか……どうも移動中であったらしい。
道に出来た水溜りのど真ん中であっぷあっぷと溺れておった。
幸信は何も考えず、其の蜘蛛をちょいと摘み上げ、助けてやった。
「可哀想に、今度は落ちるんじゃねぇぞ」とか何とか言いながらのぉ。
蜘蛛はちょい、と前足を一本振り上げた。
―――まるで、礼をするかの様に。
幸信が其の姿を見、安心して去って行く姿。
其れを、蜘蛛はじっと見詰めておった。
其れから半年近く経ったある春の日。
蜘蛛を助けたり蟻を助けたりなんざ日常茶飯事であった幸信は、女郎蜘蛛の事なぞすっかり忘れておった。
幸信には、嫁も身内もおらず、一人暮らしであった。
両親はあの事件で居なかったし、幸信は随分晩熟故に色恋沙汰とはとんと無縁であった。
そんな中。何時もの様に御用聞きの仕事から帰る途中じゃ。
春先の夜はまだまだ寒い。
小走りで夜道を行くと、家の直ぐ近くに見慣れぬ女が佇んでおった。
見た目遊女の様な身形で、この季節外を歩くには酷く寒そうな格好じゃ。
しかし女に寒そうな様子は無く、幸信を見るなり、ふ、と笑みを浮かべた。
酷く綺麗な女じゃ。
真っ直ぐな夜空の如く美しい黒髪で、謎めいた雰囲気を湛えた―――幸信には、勿体無い程の女であった。
幸信は女に言った。
「この夜更けに如何なされた?寒かろう、」
女も口を開く。
「夜分申し訳ありませぬ…… 今夜泊めさせて頂きとう御座います」
幸信に断る等と言う選択はなかった。
勿論、下心も無い。
返事二つで「嗚呼、こんな所で良ければ」と受け入れてしまった。
囲炉裏に火を入れ、話を聞けば、女は吉原の女郎だと言う。
名は「阿弥」。
親に売られ、散々こき使われ、嫌になって逃げ出してきたのだと。
「お願い申します、暫くかくまって下さりませぬでしょうか」
必死な目で訴える彼女に同情を覚えたのであろう。
流石に幸信は一晩考えたが、朝になって阿弥を暫くかくまう事にした。
阿弥は涙を流して喜んだ。
有難う御座います、と何度も頭を下げ、両手で幸信の手を握り、感謝した。
阿弥は、良く働く女であった。
幸信が仕事で居ない間、阿弥は家の事を進んで遣ってのけた。
幸信が家へ着けば旨い飯をこさえて待っていたし、朝起きれば炊き上がった白飯を準備し、三つ指付いて迎えた。
幸信は何時しか阿弥に惚れていた。
しかし、如何しても「嫁になってくれ」と言う事が出来ず、しどろもどろしながら毎日が過ぎた。
そんな或る日。
阿弥は何時もの様に囲炉裏の傍で着物の解れを直していた。
其れをじっと見ながら茶を啜っていた幸信は、何気に阿弥に問うた。
「なぁ、お阿弥。何故にこの家へ来たんだ?
此処は村の中でも外れの方だ……余程理由が無ければこの様な所へ逃げ込むまいて」
阿弥ははたと其の手を止め、ちょっと困った様な顔をしたが、やがてすと三つ指を付き、頭を下げた。
「実は…… 私は、貴方様に何時ぞやか助けて頂いた者です」
幸信は其の言葉に首を傾げた。
阿弥の顔にとんと見覚えが無い。
これ程の別嬪ならば覚えても居ようものだが、……全く記憶に無い。
「何時であったかのう…… 俺がお前さんを助けたと?」
「ええ、思い当たりませぬでしょうが」
「ふむ、まっこと申し訳無い……この様な別嬪さんを忘れてしまうなど」
「いえ、覚えていらっしゃらなくて結構に御座います。
……其れで、是非恩返しをしたく参りました」
少々ばつの悪い気持ちではあったが、恩返しであると。
嘘を付いてまで自分に尽くすなどと言う事はあるまい、と、幸信は無理矢理自分を納得させた。
「否、しかし俺は恐らく大した事をしておらぬ。
其の様な小さな事でこんなに恩返しなど、申し訳が立たぬ」
「いえ……命を助けて頂きました故、これ位では恩返しにもなりませぬ……
其れで、続きが御座いまして」
「続き、」
「もし…… 差し支え無くば、私をお嫁に貰って頂きとう御座います」
勿論、寝耳に水。否、其の言葉は其れ以上の衝撃であった。
幸信は酷く驚き、文字通り飛び上がった。
両親が居ない今、こんな頓馬に嫁だと。
独り生きて死んでいこうと考えておった矢先であった故、恐らく心の臓が口から飛び出た程であったろう。
「よ……良いのか、こんな俺に……?」
恐る恐る聞けば、阿弥は「どうぞ、良しなに」と頭を垂れた。
其れこそ、綺麗な綺麗な笑顔で、な。
申し訳無く思いつつも、程なくしてささやかな祝言を、二人は挙げた。
……しかし、幸信には少々引っ掛かる事がある。
言わずもがな、阿弥を何処で助けたのか、じゃ。
自分は御用聞きをしている故、普通は其の仕事の中で誰かを助けたと言うのなら分かる。
しかし頓馬な幸信は、実は御用聞きになってから誰を助けたと言う事は一度たりとも無いのじゃ。
ならば小さかった頃か?……まさか動物の恩返しではあるまいと、笑っておった。
だが、阿弥は其の事について一向に口を割ろうとはしない。
幸信も、無理に訊くは悪いと思った様子。
そんな考えは夜になれば直ぐに吹き飛んだ。
流石遊女、阿弥は床上手だったのさ。
其れこそ記憶が飛ぶ程に幸信は阿弥に抱かれ、やがて男の心は阿弥への愛と情で満たされていった。
……幸せだったのだとよ。
其の様な生活は数ヶ月程続いた。
酷く穏やかな毎日であった。
実の所、阿弥には一つの特技があった。
何処からか持って来た糸と機織りで、この世のものとは思えぬ美しい反物をこさえるのが、彼女の特技であった。
まさか阿弥は鶴か、と最初は冗談半分で疑ったが、織っている姿を見た所で特段何も無かったし、阿弥は阿弥のままであった。
嗚呼何だ、とちょっとだけがっかりしたらしい。
其の反物は高く売れたが、ゆっくりと織られて行く故に幸信の家が突然裕福になると言う事は無かったし、幸信も阿弥も其の穏やかな毎日が幸せであった。
程無くして、阿弥は身篭った。
早速子が出来たと幸信は喜び、阿弥がくすぐったがるのを他所に、出始めた腹をさすっては嬉しそうな笑みを浮かべる。
阿弥も、そんな幸信をよう好いておったようでな。
二人の仲睦まじい姿は、周囲を少々苛付かせる程であった。
しかし、幸せな時間はそう長く続く事は無かった。
秋口に差し掛かったある日。
幸信が家へ帰ると、家は妙にしぃん…とし、明かりが無い。
もう直ぐ子が生まれる阿弥がそう遠くへ出掛ける筈が無い……考えながらも家に入ったが、しかし家には阿弥が居る気配も無いし、飯や機織り等の跡も無い。
不安で堪らず家を飛び出し、其の夜一晩中彼方此方を探し回った。
しかし結局阿弥は見付かる事無く、無常にも夜は明けてしまった。
酷く疲れ、一旦家へ戻ったが、やはり人気は無く。
幸信は少々休む事にしたが、疲れが溜まったのであろう。
其の日は死んだ様に夜まで眠りこけてしまった。
事が起こったのは其の夜じゃ。
真っ暗で、すっかり家の中は冷えきっており、其の肌寒い中。
小さく丸まったまま起きようとしなかった幸信であったが、まどろみの中……ふと、何かの物音が耳に入り、目を開けた。
─── ざわ、ざわ…… かさかさかさ…………
……何の音だ?
其れは、普段は物置に使っておる一番奥の部屋の方より聞こえ来る。
否、音ともつかぬ其れは、何かが小さく蠢いているかの如く、引っ切り無しに聴こえて来て薄気味悪い。
奥の部屋。
阿弥を探しに行った時は、確かに何も居なかった筈。
幸信は起き上がり、其の部屋へ向かう。
何と無く嫌な、冷たい空気が幸信の身を撫でて行く。
真っ暗な家の奥へ、一歩、一歩。
襖に手を掛けた時、音はぴたり、と止まった。
……やはり、何かが居る。
生唾を飲み込み、冷や汗を一雫落として。
幸信は、そっと襖を、開いた。
――― すぅ。
真っ暗な其処には……何も、居ない。
只、相変わらず道具が部屋の隅へ積まれており、其れだけじゃ。
気配も無い。
高鳴る心の臓が一気に収まり、何じゃ鼠か?と思った……
其の時じゃ。
“ゴトン”
幸信の目の前に、突如棒の様な物が降って来おった。
続き、黒い水の様な物がバシャッ!と足元へ落ちる。
驚いた幸信はとっさに足元へ目をやった。
腕じゃ。
血にまみれた腕が一本……否、腕のみならぬ。
髪の毛、目玉、片方の乳房。
人間の欠片が、其処にはゴロリゴロリと転がっておった。
「ひッ……!!」と、幸信は青褪め、息を呑んだ。
頭が錯乱し、状況が分からず、幸信は見上げてしまった。
見てはいけぬものを、見てしまったのじゃ。
見上げた其処に居ったのは―――
阿弥だ。
……否。
其の下半身は、蜘蛛であった。
阿弥は、無数に居る同じく下半身が蜘蛛の赤ん坊達にバリバリと食われておった。
否、一斉に食う事を止め、赤ん坊共は幸信を……見詰めておったのさ。
「ヒイイイイイイ!!!」
幸信は狂乱し、腰を抜かした。其の場に尻餅をついた時、食われ続けておった阿弥の片目がギョロリと幸信の方へ向いた。
悲鳴に反応した赤ん坊達が蠢き……
ザワ……ザワ……
ザワザワザワザワ…………!!!
幸信は動く事も出来ず、蜘蛛達は幸信の腹や頭を、手を這い回り、まるで津波の如く何処へとも無く逃げて行ってしまった。
残されたのは、阿弥の食われかけた残骸と、恐怖で我を失いかけた幸信じゃ。
狂乱が収まらぬ。
阿弥の……否、化物の残骸が、幸信をずっと見詰め続けておった。
血を滴らせ、ヒク……ヒク……と痙攣しながらな。
幸信は其のまま、ヒィヒィ言いながら少しずつ後ずさった。
頭の中は白くて黒く、もう訳も分からぬ。
兎に角逃げねば……思い、這いずりながら玄関まで来た。
“ガッ"
何かが幸信の脚を掴む。物凄い力で、冷たい手が幸信を離そうとしない。
ざぁっ……と血の気が引く。真っ青な顔で、震えながら脚を見た。
片腕も片目も無い阿弥が、臓物を引き摺りながら追いかけてきておった。
「あんたぁ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
わなわなと震える唇から引っ切り無しに紡ぎ出される、詫びの言葉。
幸信は訳も分からず、悲鳴をあげ、手を引き剥がそうと必死で阿弥を蹴り続け、もがいた。
やがてブツッ、と音がして身体が軽くなり、幸信は夜の外へと只管逃げて行った。
……千切れて残った腕を、脚にぶら下げたまま、な。
