闇モ闇夜ノ新月ノ夜
黑町屋ニ燈ハ要ラズ
始マリマスルハ百物語
夏ノ夜ノ恆例行亊デ御座ヒマス
九十九話ガ終ワリマシテ
トリヲ飾ルハ案ノ定
吉原遊廓ノ妖怪狐
シ乃雪太夫ト相成リマシテ
丑寅ノ刻ヘト差シ掛カリマス
其れは、必ず月の無い夜に始まる。
夏の暑い空気も、丑寅の刻へと差し掛かれば冷たい其れへと変わって行く。
しかし、其れ以上に冷気を帯びた吉原の、只一角。
其れは身の毛を撫で、すぅ…と消えていった。
黒町屋では、盆でも正月でもない只一日、休みの日がある。
其れはし乃雪の権限で無理矢理休みにさせた、一部の者には圧倒的に大評判の……
一部には、途轍もなく忌み嫌われる日だ。
し乃雪主催、百物語の日である。
毎年、黒町屋のみならず他の茶屋からも遊女と其の客が集められ、元々は小規模であった其の会は、何時の間にか遊廓ひっくるめた一大行事となった。
勿論百物語と言うからには定員もあり、今年はし乃雪の友人が増えた事もあって、今宵も二十五人の満員御礼だ。
勿論、真夏の世の百物語など珍しいものでも何でも無い。
が、し乃雪主催のこの催しだけは、噂の一つとして必ず上る程。
何故か。
其れは、し乃雪の百物語は百まで行い、"とり"……其の百話目は、"吉原の妖狐太夫"し乃雪本人が話を紡ぐ。
故に、百話目の蝋燭を消した時に必ず"怪異"が起こる……と言う噂故だ。
普通、百物語は、すれば怪異が起こるとされる百話目を執り行う事はせぬ。
其れは所謂一時の涼を楽しむ為の会であり、度胸試しであり、不吉な事をわざわざ起こす様な莫迦な真似はしない……其れが常。
だが、其れでは詰まらないと言う人間も居る。
この会はそんな怖いもの知らず達の楽しみとなっていた。
日が暮れてから始めてしまったら一日では終わらぬ、と言う理屈にて朝から始まった百物語。
昼夜の飯と中休みも終わり、夜が更けるに連れ、身の竦む様な怪談へと変わって行く。
九十九話目が丑寅の刻に差し掛かり、今の語り手は吉原一の花魁、眞鶴である。
「…… 其れ以来、其の女はぱったりと姿を見せなくなり、女が飼っておった猫だけがこなたの吉原で生きておるのでありんすえ」
「………」
しぃん、と、其の場に静寂が走る。
話をじっと聞き入っていた殆どの者は、流石の眞鶴の話術と内容に身体を竦みあがらせ、暫く身動きを取ろうとしない。
しかし、し乃雪だけはにこにこと笑みを絶やさぬまま、其の話に聴き入っていた。
「し乃雪太夫、わっちの今宵の話は如何でありんしょうかえ?」
にっこりと、何時もは客の前で見せる事の無い爽やかな笑顔をし乃雪に向ける眞鶴。
し乃雪は話を振られた所でにぃと笑い、顔を上げる。
「なかなかじゃ、上手くなったのぉ姉さん」
「有り難う御座いんす」
「しかし、其の様な話は何処で聞いたのじゃ?姉さん、お前さんの作り話ではあるまい、」
「お客さんの受け売りさ、つい最近時雨屋の遊女が一人消えたと耳に挟んでねぇ」
「成る程のぉ……な、面白い話であったよの?狛虎、」
「……皮肉からに?」
脚色された化け猫物語に眉をしかめ続けていた狛虎。
話を振られた途端、口をへの字に曲げ、ぽつりと其れだけ呟いた。
最近、この吉原では怪異が絶えず、百物語で使う材料には事欠かない。
襖に出て来た幽霊絵の話。河童の話。鵺の話。
果ては今し方の化け猫話、鉄呉服の若旦那の話まで。
し乃雪と源三郎が対峙した化物語は総なめに出揃っていた。
……無論、総て怖く怖く脚色されていたが。
其の話が出た時、当の鵺と河童本人……朧と霞は特に顔色を変える事無く聴き入っていたが、どうも狛虎は相当後悔しているらしい。
話中はずっと源三郎の隣で彼の袖を引っ掴んだまま、終始俯いていた。
「さて、九十九本目の蝋燭……消して来るよ」
振袖を揺らしすっと立ち上がった眞鶴が、にや…と、美しくも薄気味悪い笑みを浮かべる。
し乃雪が「早う参れ、」とだけ言い、眞鶴が出て行った襖がぱたんと閉まった所で、其の場に居た人々がほんの少しざわめいた。
一人の客が言う。
「のぉし乃雪さん、百話目は本当にしちまうのかい?」
「お前さんは話を聞いておらんかったのかえ?
するよ、其の為の今宵じゃ」
今の客の言葉にぴくりと眉を動かしたし乃雪、ほんの少しばかり気を悪くしたらしい。
すと立ち上がり、ぱんぱんと手を叩いた。
「さあ、此処で怖気付いた者は今帰れよ!百話目は眞鶴が帰って来たら執り行う故にな!」
数人、立ち上がり。
口々に「すまなんだ、」「いやはや充分冷えたわ」と誤魔化しを言いつつ出て行く。
しかし思った程人数は減らず、残りの者は皆、笑みのまま顔を強張らせている。
「……ほぉ、今年は兵揃いじゃな?小便ちびっても自分で片付けて帰れよ?」
言えば、其の場がどっと笑いに包まれる。
瞬く間のみ冷えた空気が払拭され、緩んだ。
し乃雪もまたにっこりと笑みを浮かべて真ん中へ陣を取り座れば、隣に居た朧が腕を組んだままし乃雪へぽつり言う。
「毎年百まで話すのか?我は少々飽いたぞ」
「あと一話じゃ、我慢し遣れよ…… 面白いぞ?」
「まぁ、『彼奴』は律儀故にな。
しかし毎年大変であろう?二日に分ければ良いものを」
「ん?百物語は分けられるのかえ?」
「やった試しは無いが。
我は闇に住まう側ぞ、怪異なぞ珍しくも無い」
「嗚呼―……そうであったな、」
「……何、忘れておったか?」
「すっかりな、」
「戯け、」
朧の顔が呆れと共に漸く緩む。
後、ぱたんと襖が開いた所で部屋の者全員が雑談を止め、一斉に其の方を見た。
「消して来たよ。 さぁし乃雪太夫……最後じゃ」
行く前よりも何処か怯えて見える、眞鶴の顔。
若干強がりが入っているのか、其の手はずっと握り拳を作ったまま開こうとしない。
「眞鶴、大丈夫かえ?」
「何を言っているんだい、此処で抜けたら残った意味が無いじゃないか…… さ、百話目を」
「…… 分かった」
し乃雪の隣に眞鶴が座り、誰からも気付かれぬ様に彼の手を握る。
し乃雪は其れに小さく笑みを零した後、しかし目を伏せ。
再び顔を上げた時、別人の様に表情が無くなっていた。
「ならば。
覚悟は良いな?」
空気が、音も無く張り詰める。
幾人かの唾を飲み込む音。
其のどれもを確認する様に一呼吸置いた後。
ぽつり……し乃雪が口を開いた。
「これはな…… 二つ山向こうで起こった、本当の話じゃ」
