消エ逝ク記憶
温カナ腕
優シキ眼
摩リ替ワリ逝ク、其ノ貌。
弌番欲スル物ハ、貴方ノ其処ナノニ
離レ逝ク、愛シキ貴方。
其處ニ居ルハ誰ガ腕ゾ?
分カラヌ儘、縋リ、眠リ行ク。
我ハ待トウ。
何時マデモ待トウ。
喩エ何ヲ待ツノカスラ分カラナクナリテ
我ガ我デ無クナリヨウトモ。
「…………
源三……郎……」
今まで、すやすやと
柔らかな寝息を立てていた
柔らかな唇から
吐息と共に漏れる、其れ。
自分の手中に居る
天人の温もりが
其の一瞬、遠のき
寝返りを打ち、
この懐へ潜り込もうとも、尚
夢見るは、自分に非ず。
しっとりと汗ばんだ肌が愛しくて、
だが、其処にある壁が
只々――
私の心の臓を、
……締め付ける。
─── 總テカラ コノ子ヲ 奪ヒ
私ノモノトナツタ筈 ナノニ
私は、酷く心乱れ―――
涙を流しながら、
無理矢理、この愛しき人を
起こす。
そして其の白い肌に、
また痕を残すのだ。
ゆぅるりと流れる暗闇の中、二人は暫し寄り添い、身を温め合っている。
何度か言葉を交わしたが、其れのみ。
お互いの居場所を確かめ合い、存在を確かめ合い、其れは無言にて、静かで、酷く柔らかい。
ゆっくり、ゆっくり。
上下し続けるし乃雪の胸元に顔をうずめ、矢右衛門は目を閉じ、激しく打つ鼓動に耳を傾けた。
これを、矢右衛門は好む。
其れを知るし乃雪は呆けた様な笑みにて、其の頭を赤子にする様にそっと撫で、頬にて擦った。
「……し乃雪、」
「……旦那……嗚呼、旦那……」
矢右衛門の柔らかな声が、何時もの様に自分の名を呼ぶ。
しかし、今宵の矢右衛門に小さな不安を覚え、し乃雪は涙に濡れた虚ろな瞳で見遣る。
「……旦……那……?」
「…し乃雪、」
「ん……」
「そう言えば、お前には想い人がおると、風の噂で聞いたのだが」
「……はて……どの御仁か……
心当たりは、無いけれども」
ぽんやりとした眼は嘘に揺れる事無く。
「……確か、名を……新藤源三郎、と申したか」
「嗚呼、……あの男かえ」
名を聞いた途端だ。
其の眼に少しばかり生気の光が宿り、くすくす、と綻ぶ様に笑った。
其れは恋する感情とは少し違って見え、しかし慕っている様にも見え。
其の身は矢右衛門に預けたまま―――刹那、意識だけがかの男へ向いた。
「あの男は色恋では無うて、別のものじゃ」
「別、」
「友、とも違う……そうじゃの、あれは……」
遠くなってしまった其の顔を思い出そうと、暫し宙を見詰めた後。
「お天道様じゃ」
「、」
「決して相容れぬが、背中合わせに其処におる……眩しい、眩しい真昼間さ」
「………」
矢右衛門は、大きく息を吐いた。
其れは溜息か、安堵か。
「…… そう……か、」
長い睫毛が震え、そっと眼を閉じた後。
悪い事を宣ってしもうたか……と訝しむし乃雪に、弱々しい笑顔を、向けた。
「し乃雪……最後に、聞かせて欲しい。
好きだ、と」
「……最後? ……何故に最後と……
先程の言葉にて嫌な思いをさせてしもうた?
御免なさい、其の様なつもりでは……」
「大丈夫、そうでは無いよ。
でもね……頼むから」
「……」
矢右衛門の温もりが、疲れ切ったし乃雪の眠気を誘う。
否応無しに襲い来る微睡みの中で、矢右衛門の目を見詰め。
「矢……
……旦那…… 旦那、愛してる」
「…………」
「離れないで、行かないで……旦那が居らぬと、おかしくなりそうじゃ……」
虚ろな…とろける様な、甘い、声。
細い腕が矢右衛門の首へ絡み付き、そっと、唇が重なる。
しかし、顔と顔が離れた辺りで矢右衛門は切なそうに笑み、するりとし乃雪の腕をすり抜けてしまった。
良く見れば、行燈の光は矢右衛門の身体を突き抜け、彼はうっすらと透けている。
「……、
私の名前は、呼んでくれないのだね。
……ふふ、其れは我が儘か」
「何……何で、」
飛び起き、戸惑いを隠せぬし乃雪の前で、矢右衛門の手がし乃雪の頬を撫で。
しかし其処には今までの様な温もりは無く、只空気の塊がふわと頬で弾む程度。
離れるまいと前屈みになり這い寄ろうとしたし乃雪の身体から、乱れた着物がするりと囁きながら剥ぎ落ち、しかし顔に生気は未だ見えぬまま。
「嫌だよ……旦那、何故に行っちまうんだよ!
行かないで!行かないで……!!」
「済まなかったな、し乃雪太夫……
今、戻して差し上げよう」
切なそうに見上げるし乃雪の目がまた潤み、紅い瞳が殊更鮮やかに色付いた気がした。
情けなくも美しい其の顔に、矢右衛門はくすりと笑みを漏らし。
ほんのりと桜色に染まったし乃雪の身体を、抱き締めた。
「束の間の、夢であったな……
……楽しかったよ」
だが、既にあの柔らかな心地も無く。
抱き締められた其の時には、
もう其処に矢右衛門は
跡形も無く溶け消えていた。
「…… 矢……右衛門……様………」
温もりすらも消えてしまった部屋の真ん中で、ぽつりと意図せず漏れる、言葉。
自分の胸中に矢右衛門への甘い気持ちが、……何処にも見当たらぬ事に、気付く。
目に溜まっていた涙は、この時はこれ以上溢れ出る事無く、乾き始めていた。
今までの記憶が消えてしまった訳では無い。
今までの記憶を辿り直してみれば、甘く穏やかであったあの毎日が酷く遠い日であった様に感じ、胸の奥がじんわりと暖かくなる。
同時、空風が心の底辺で足を掬うかの様に吹く感覚が、……虚しい。
「…………全く、戯けた野郎じゃ」
くすり、
し乃雪は寂しそうに笑みを漏らした後
桃色の目尻より涙が一粒……ようやっと、流れ落ちた。
* * * * * * * * * *
仕事部屋で其のまま眠る気にはなれぬ。
し乃雪は部屋を軽く片付け、虚しい気持ちを抱えたまま元の部屋へと向かう。
何かを考える余裕も無く、只ぼぅっと呆けながら、人気の無い廊下をしずしずと歩いた。
もう直ぐ夜明け。
あちこちで烏が騒ぐ声が聴こえる。
……東の空より少しずつ星が消え、明るくなり始めている頃だろう。
多分、…恐らく、誰も居ない。
誰か、居て欲しいものだが……其れは我が儘か。
そう、うっすらと思いながら、し乃雪は見慣れた襖に手を掛ける。
暫く振りの自室……何かを忘れている様な心持ちがしたが、チクリと胸の何処か隅を刺してまた彼方へと消え。
"すぅ……、"
襖を開け、し乃雪は息を呑む。
源三郎の、姿。
何時もし乃雪が座っている出窓傍の壁に身体を預け、腕を組んだまま眠りこけている。
少しだけ開いた木戸から白々と差し込み始めた光が顔に掛かり、眉をしかめつつも、起きる気配は無い。
「……源三郎、」
小さく名前を呼ぶ。
其れこそ久々に口に出した其の時、今まで忘れていた……否、忘れさせられていた彼への不思議な感情が溢れ出し、ぞくりと肌が粟立った。
震える、手。
小刻みに震える手を、ぐ、と握り締め。
源三郎を起こさぬ様、彼はそっと隣に座る。
……彼が何時も纏う麝香が、ふわりと鼻をくすぐる。
温かな……胸に染みる、懐かしい香り。
何か感じたのだろうか。
すっかり寝入っている筈の源三郎の頭が、そろぉりとし乃雪の肩へもたれ。
其のまま、太腿へストンと落ちた。
相変わらずすやすやと眠り続ける源三郎。
もそ……と寝返りを打ち、知ってか知らずか。
「………… 雪……」
小さく呟いた後、下腹に顔をうずめ。
其の腰にしがみつく様に腕を回し、また眠りの混沌へ。
し乃雪は呆れた様に笑みを零し、
「………… 全く、」
嬉しそうに、呟いた。
やがて、烏の叫びから雀のさえずりへと変わった辺り、差し込む朝焼けが次第に明るくなり、二人を美しく照らす。
源三郎の頭の下にある脚が痺れ行くも、し乃雪は只微笑み、ずっと其の額を撫で、見詰めていた。
この様な事、起きた時こやつには言えぬな……其の様な事を思いながら
し乃雪は……悪くなかった。
