アヤカシ太夫♂とイロオトコ

 

弍人ノ間ニ立チ塞ガルハ
想ウガ故ノ擦レ違ヒ
──其レトモ、誰カノ意図故カ

摩訶不思議ナ色戀話ノ
始マリ 始マリ


 


 事の発端は、もう一月近く前になる。
 丁度、源三郎が鼓ま斗……否、女郎に化けた狛虎に夢中になっていた時の事だ。


「可哀想に……源三郎め、あやつは疫病神かえ」

 眼下を通り過ぎた源三郎が何かに心を囚われている事に気付き、苛立ちや哀れみと共に部屋内を忙しなく右往左往していた時。
 珍しく、階段の麓から女郎の声。

「し乃雪兄さぁん、お呼びよー」
「……何じゃ、楽しくなって来たと言うに」

 眉をしかめたし乃雪は、投げやりにも似た其の声の主に対し、襖を開けて同じく声を投げる。

「この様な時に何用じゃ!」
「『大旦那様』がお呼びなのよぉ、早ようお願いしますえ」
「……『大旦那』が?」

 大旦那。
 其の言葉を耳にし、し乃雪の表情が曇る。
 しかし考え込む暇は無い。直ぐに部屋を出て階段を降り、急ぎ足で屋敷の奥へと向かった。


 此処で言う『大旦那』とは、黒町屋の経営者の事だ。
 実はこの黒町屋、珍しいのは看板娘や陰間茶屋の存在だけではない。経営者の奇異さも又、吉原の同業者内で有名である。

 滅多に遊廓周辺に姿を現す事の無い其の男は、しかし姿を現した時は確実に目立つ男だ。
 銀混じりの金色の髪、青い目、黒の外套に釜の様な帽子。
 言わずもがな、南蛮の人間である。

 勿論、余所者が商売していると言うだけでこの界隈は敬遠するもの……だが、彼に関しては違っていた。
 遊廓のみならずこの島国の礼節を知り尽くし、外面(そとつら)は非の打ち所も無い男。
 其の人の良さ故、今では黒町屋は新吉原の経営取り纏めまで行っている程。

 ……だが、『人の良さ』は外面の話。
 黒町屋内での評判は違う。

 堅く口止めされているが、女郎達は陰で大旦那を『黒服』と呼んだ上、口々にこう囁く。

 ……「酷く気味の悪い、妖の様な男だ」、と。


 其の『黒服』が、珍しくし乃雪を。
 黒町屋に居る事自体珍しいが、普段は自分から女郎や陰間を呼び出す事の無い彼奴がし乃雪を呼んだ……上物の子の品定めか、大変な上客でも来たか。
 様々思惑を巡らせつつ、し乃雪は長く続く廊下を奥へ奥へと小走りで進んだ。

 黒町屋最奥には渡り廊下、そして黒服の離れがある。
 これは夜な夜な聞こえて来る艶めかしい喘ぎ声が聞こえぬ様にする為だとか。

 確かに、離れには珍しく明かりが灯っている様子。
 遠くから離れを垣間見える何時もであれば、大体真っ暗であるのだが。

 し乃雪は入り口にすと正座すると、小さく息を吸い、静かに、しかしはっきりと声をあげた。

「大旦那様……し乃雪、参りまして御座います」

 さすれば、襖の向こうで低く落ち着いた声。

「遅かったですねぇ……予定より少し遅れましたよ、し乃雪。入りなさい」
「……失礼致します」

 む、と顔をしかめたが、気を取り直して襖を開ける。

 開けた其の先は、行燈が四つ程付いているにも拘らず妙に薄暗く、空気が重く感じた。
 ちらちらと行燈が揺れる中、其処に居たのは件の黒服。
 そして、黒服の向かいに座り、し乃雪にゆっくりと頭を下げた人物……優しき顔、そしてきちんとした身形から、商人だと分かった。

 三つ指着き、深く頭を下げるし乃雪。
 其の心境を察しているのか否か、黒服はくつくつと笑いながら、し乃雪へ声を掛ける。

「さあ、其の綺麗な顔をお客様へ見せて下さい……し乃雪太夫、」

 ぞっ……と、肌が粟立った。
 まるで冷たき手にて背中を撫でられたかの様な、滑らかだが酷く気味の悪い声。
 嗚呼、相変わらず嫌な声色だ……思いながら恐る恐る顔を上げると、次いで声を上げたのは商人の方であった。

「……嗚呼……やはり、間近にて見ると更に美しい」

 溜息混じりにうっとりと発された声は、黒服とは似て非なる、安心感のある甘い声。
 顔を上げてはいるものの目を伏せたままであったし乃雪は、思わぬ其の声色に惹かれ、そっと目を開く。

 商人の顔が、初めて目に飛び込んだ。
 声色の通り優しそうな、しかしきりりと引き締まった顔の、色白で真面目そうな好青年だ。 ……到底男色には見えぬ様子の。

 ――― このみてくれに惹かれ、男と知り引っ込みが付かなくなった…そんな所か。

 ……黒服は、し乃雪の心を読んだのであろうか。
 わざとらしく商人へ言い放つ。

「そうでしょう?
 陰間の……否、こうしてさえ居ればこの遊廓で一番の上物ですよ……
 男であるのは本当に勿体無い」
「いえ、私は寧ろ男であって良かったと思っているのですよ。
 女であればこうして直ぐに会うて下さる事も無かったでしょう。
 ……其れにしても、これで男とは……」

 再びむっとするし乃雪。……顔に出す事は許されず、頬がヒクリと動くに留まる。
 が、追い討ちをかけるかの如く、黒服は笑いながら商人へ問うた。

「まだ信じられませんか?」
「はは……やはり余りにも美人故。誰しもが驚きましょう。私も未だ俄かには、」
「ならばお見せしましょう…… し乃雪太夫、」
「……は、」

 ――― ……やはりそう来るかえ。

 黒服が言いたい事……其れは、「此処で品定めさせよ」と言う事。
 詰まり、この後この商人を"もてなさねばならぬ"と言う事だ。

 彼は躊躇見せぬ様立ち上がり、自らの帯に手を掛ける。
 淡々と帯紐を引き、少しずつ着物を脱いで行く。

 さらり……肌着が落ちた時、商人は目を細め、感嘆の溜め息を漏らす。
 黒服は其の商人の様子を見遣り、再びにいと笑った。

「如何です?」
「嗚呼……まことに美しい……」

 小さく震える商人の手がゆっくりと伸び、壊れ物に触れるかの様に、し乃雪の腰、腹、大腿……と滑り行く。
 温かい指だ。肌に触れる度、普段は何をされても応じる筈の無い其の肌が熱に当てられ、ぞく……と粟立つ。

「……本当に、良いのでしょうか?私に太夫等、」
「構いませんよ、彼は陰間ですし。
 し乃雪もずっと飾り物にさせていましたからねぇ……。
 し乃雪、しっかり"おもてなし"しなさい」

 し乃雪は裸のまま再び三つ指を付き、ゆっくりと頭を下げた。

「……御意に」



 暫く使う事の無かった『仕事部屋』へ商人を案内する、し乃雪。
 商人は、妙に落ち着いていた。
 其れは初めてでない故か、其れとも肝が据わっている故か。


「……し乃雪太夫、」

 後ろを付いて来る商人が、小さく声を発する。
 し乃雪は振り向き、少々わざとらしくも思える笑顔を向けた。

「嫌ですよ旦那、し乃雪……と呼んで下さいませ」
「そ……そうかい?」
「其れよりも旦那……私、旦那のお名前すら知りませぬ。
 せめてお名前を」
「嗚呼、そうだったね」

 にこり。人の良さそうな笑顔で、商人は言う。

(くろがね)屋の矢右衛門(やえもん)と申します」
「鉄屋、矢右衛門様……」
「ははは……(くろがね)などと言う屋号は余り無い故、存じておられるやも知れぬな」

 鉄。……客が話していたのを、聞いた時がある。
 確か、城下では有名な反物問屋が其の様な名であった。
 もしし乃雪の考えが正しければ、黒服があの様な丁重な接待をした事も頷ける。
 其処まで思いつつ、しかしし乃雪の心は既に『陰間』し乃雪太夫へと切り替わっている。

 あくまでも、これは仕事なのだ。

 部屋へ着くなり、し乃雪は先に矢右衛門を通し、次いで自分が入る。
 久々に入った『仕事部屋』は、やはり何と無く慣れぬものだ。
 屏風も襖も金銀錦、質素で静かな部屋を好むし乃雪には眩しくて落ち着かない。

「…… 遊んだ事が無き故、少々緊張するな」

 此処へ来て初めてそわそわし始める矢右衛門。
 年相応の初々しさを感じ、し乃雪はくすくすと笑みを雫しながらも囁く。

「女達とも遊んだ事が?」
「嗚呼……お恥ずかしや。
 実は今宵、意を決して独り遊びに参ってね。
 偶々見上げたら其処におった貴方が余りにも美しくて……」

 ……何処と無く腑に落ちぬ。
 何の違和感であろう……
 そもそも、鉄屋の子息の話を……
 若い後継が鉄屋に居る事を、そう言えば聞いた事があったか?

 ――― ……嗚呼、如何でも良い。今は仕事ぞ。

 一通り見回した矢右衛門の肩を持ち、し乃雪は彼を自分の方へとゆっくりと振り向かせ。

 上下にゆっくり揺れる、肩。温かい。
 其れを感じながらも、耳元にそっと吐息の如き囁きを吹き掛ける。

「……宜しいので?私は旦那と同じ"男"に御座います」
「申したであろう……一目惚れさ。男だろうが女だろうが関係無い」

 ――― ……成る程。

 あの『色男』とは大違いじゃな。
 一瞬其の様な想いがよぎったが、捨て去り。

「嬉しゅう御座います……
 さ、私が一からお教え致しましょう……」

 そっと、耳朶を舌で絡め取り。
 背に回された手に力が入った所で、其のまま床へと沈んだ。



 其れから、矢右衛門は三日に一度し乃雪の元へ通う様になった。
 其の間隔は暫くして一日置きへ、そしてやがてほぼ毎日へ。
 其の様は源三郎に似ており、「新しい男に移ったか」と女郎達は口々に囁いたが、し乃雪は何も言わなかった。

 し乃雪は感じていた。
 肌を重ねる度、自分の中にある源三郎への想いに変化が生じていく事を。

 あの色男は、"此方"を見ない。

 しかし矢右衛門は違う。
 ずっとし乃雪を見つめ続け、し乃雪を想い。
 この茶屋に通う理由が、あの色男と矢右衛門では根本から違う。

 情をたっぷりと含んだ腕に抱かれる度、あの男の事さえやがて薄れ、消えていく。
 胸の内が、知らぬ間にこの男に寄って行く。
 友の存在が、遠い存在となって行く。
 片方で息苦しさを感じながら、もう片方では安息を感じて。


「し乃雪……私を見てくれ」

 滑らかな指が、上下する胸をゆっくりとなぞる。
 じっと見つめてくる瞳がし乃雪の心を捕らえ、まるで心の中へ想いを挿し入れられている様な心地がし、身体の芯が熱く、熱く。


 ――― 『   』…………。


 そっと目を閉じる其の一瞬、僅かに上げられた悲鳴が、霧中へと消えるかの様に。
 次第に思い出せなくなり行くあの表情一つ一つをなぞる余裕も無いまま


 其の時、
 総てが消えた。


 * * * * * * * * * *


 やがて、源三郎が遊廓に姿を現す回数其のものが減り、悟兵衛が柏木家で仕事をする姿も徐々に見かける事が無くなって行った。
 否、柏木家に行く事が減ったのは彼の仕事の事情であった。
 江戸を出て近くの藩にて仕事があったのが原因だが、其れを知らぬ三体の神と妖……特に狛虎は、妙な誤解をしているらしい。


 じとじとと数日雨が降り続き、久々に太陽が地上をさんさんと照らした、妙に蒸し暑い其の日。
 悟兵衛は水溜りをばしゃりと踏んでしまい、足袋を茶色に染めてわたたと焦りを見せていた。
 何時もの優しい顔で少し残念そうに溜息を漏らし、さぁ気合を入れねばと俵を再び担いだ時、突然足元にふわふわ、もふりと獣の感触。
 こんな晴れの日に脛擦(すねこす)りでも出たのではあるまいな?と冗談半分に見下ろした悟兵衛の目に映ったものは、ごろにゃんと足元に擦り寄る二股短尾の茶虎猫。
 間違い無く、狛虎である。

「っ狛と…… こま!何を、」

 驚き、しかし俵のせいで其の猫を持ち上げる事も出来ず、あたふたと辺りを見回す。
「んー?」と媚び混じりに小首傾げた猫に対し目で「其処で待って居ろ」と合図し、慌てて倉へと俵を運び入れ。
 誰も居ない事を確認しつつ猫を小脇に抱え、其のまま急いで倉の陰へと身を隠した。

「狛虎!何故に(おもて)におる!?此方には来ぬと言うのが約束であろう!」

 言うと、猫はにゃうにゃうと何かを喋り、もごもごもがく。
 狛虎は猫の姿のままでは喋る事が出来ぬらしい。其れを漸く悟り、悟兵衛が小脇から猫を下ろせば、何時もの少年の姿へと変化した狛虎がぷうと頬を膨らませた。

「何をのたまうさ!何時もの裏庭に居ると何時まで経っても悟兵衛どんにゃ逢えないからに!!源三郎はあの部屋に来てくれないし、鼓ま斗めは寂しかったからによぉ~~~」

 ごろごろと擦り寄る狛虎を押し退けながら、しかし猫の耳と短い二本の尻尾がにょっきりと生えた狛虎が少々可愛く見えてきたらしい。
 やがて諦めた様に抵抗をやめ、ふぅと大きな溜息を漏らす。

「……故にとて。
 まぁ、この所留守にする事も多かった故になぁ……」
「し乃雪太夫に逢えぬからと落ち込み過ぎさね。
 魚二尾払えば鼓ま斗が慰めてやったのに」
「其れは二度と要らん。
 ……其れに、雪は関係無い、仕事の都合だ。
  で、其の化け猫鼓ま斗が俺に何用なのだ?」
「……拗ねるぞ?折角頼まれ事受けてやったのに」

 其の一言を聞くまで、どうやらすっかり忘れていたらしい悟兵衛。
 嗚呼!と声を上げ、瞳がぱっと華やいだ。

「そうであった!」
「大事な用事じゃあ無かったからに?」
「そんな事は無い、事と次第に寄っちゃあ一大事だ。
 暫し江戸を離れておった故、お前にしか頼めなかったのだ」
「え、まさかほんとに忙しかったからに?」
「だから、さっきからそう言っておるだろう。
 故に、手練手管が巧く信頼出来るお前さんに頼んだんだろうが」
「……そか!」

 にか!と、笑顔を向ける狛虎。頼られた事が嬉しいらしい。
 ふん、と軽く鼻を鳴らし、座り直した。

「で、如何であった?」
「如何もこうも無いさ、あいつ。
 耳貸せさ。実は……───、」
「………………、」


「………… 何だと?」
「聞かれる前に答えておくけどな。
 俺も気になって見てみたからな。
 ありゃ……間違いなく。
 どっちも本者だったさ」
「詰まり、……如何言う事だ?」

 暫し腕を組み、悟兵衛は思慮を巡らせる。
 しかし幾ら待てど答えが出ぬ様子、痺れ切らした狛虎が口を尖らせながら呟く。

「げんー、」
「ん、何だ?」
「うらめしや~、じゃあ無いからにかー?」
「……まさか、あらゆる意味で有り得ん」
「でもー、目の前にー、猫又だってー、いるー、からにー」

 ゆるんゆるんと身を揺らし、歌う様に言う狛虎。
 ぴよ、と猫の耳を出した所で再びじっと考えに耽り、やがて悟兵衛は低く唸る。

「有り得ねぇだろう……
 が、狛虎。もしお前の言う事が正しいとすれば」
「すれば?」
「……俺達は手が出せぬな」
「え?何でさ?」
「あの男自身、そしてし乃雪自身の問題故だ。
 俺には最早手が出せぬ」

 其処まで言った其の時、遠くで何時もの優しそうな声が倉の向こう側から聞こえて来る。悟兵衛を呼ぶ奈々尾の声であった。
 其の声で初めて結構な時間を潰していた事に気付き、顔を上げる。

「嗚呼、行かねばな。長居しちまった…… 狛虎、」

 走り出そうとした悟兵衛は、ふと振り向きざまに狛虎を見。

「んー?」
「今宵、一度し乃雪に会うて来る。
 助かった、有り難うな」

 にこり。
 不意に自分だけへ向けられた甘い声と笑顔に、目を丸くした狛虎。
 やがてはにかむ様に俯き、

「お前……ずるいからに」

 ぽろり、小さく零した。




 * * * * * * * * * *



 酷く、気持ちの悪い日だ……
 久々に吉原へ出向いた源三郎は、次第に暗くなり行く辺りの景色を見回し、思っていた。

 猫又に化かされたあの日とは、少しばかり違う感覚である。
 自身が蝕まれている様な心地は無いが、じっとりと水分を含んだ蒸し暑い空気が肌を常に湿らせ、じわりと吹き出す汗は乾く事が無い。
 空気其の物が柔らかな壁の如く、源三郎を拒み続けるかの様な。
 呼吸すら、苦しい。

「…………」

 重苦しい空気の中、源三郎はゆっくりと遊廓の通りを歩く。
 大分顔見知りとなった何人かの客寄せに何時もの様に声を掛けられ、二・三言会話をしては挨拶し、別れ。
 何時もの風景、変わらぬ遊廓の姿だ。異様な空気は皆気付いている様であったが、
「其れ位で怯んでちゃ商売なぞ出来ませんよ、」
 と笑う者が殆ど。
 其れを聞き、源三郎は笑った。



 そんな遊廓の中央へ、漸く差し掛かる。
 大分長くなった日光が沈みきった山の向こう側より赤々と差し込み、漸く源三郎の頭上にまで星々が追い付いて来た辺り。
 見慣れた見世の重厚な姿、そして調子の良い馴染みの客呼びの姿が目に飛び込む。
 彼も常連の色男を久しく見付け、心より嬉しそうに跳ね寄って来た。

「源さぁぁん!お久しゅうぅ!お元気でしたかい、」
「嗚呼、この通りさ。お前さんも変わらずの様だな、戌良(いぬよし)
「そりゃーこの道一筋ですからねぃ!あっしは黒町屋の為にゃあ雨の日も風の日もお客呼びでさ」

 しかしねぇ……と、ほんのり調子を下げた戌良。ん、と問えば眉毛が眉間に皺が寄り、糸の様な狐目が源三郎へと向けられ。

「近頃キツネがねぇ、夕日ぼっこすらしてくれなくなっちまったんですよ」
「と言うと、」
「ほら、鉄屋の若旦那が毎日通って来るでしょう?
 どうもキツネめ、どっぷりはまってしまったらしいんですよぉ……。
 虚ろな目でねぇ、まるで鉄屋さんの事以外何も分からねえみたいで。
 ……源さん、あいつの尻を叩いてやってくれませんかい?
 せめて出窓でぼーっとしてろぃ!ってさ」

 両手にて源三郎の手を握り、懇願する戌良。
 彼の中では余程の大事になり掛けているらしい。
 身内を案じる様な其れに、源三郎は苦笑気味に「嗚呼、分かったよ」と笑った。

 ふと見上げた、あの窓際。
 木戸がしっかり閉められたままの其処に、見慣れた白い天人の姿は無い。
 代わり、短い尻尾の茶虎猫が此方を見下ろし、むに、と目を瞑った。


 久しく通る、薄暗き廊下。
 外とは違うひんやりとした空気、しかしあの湿気は増した様な心持ち。

 二階へ上がって直ぐ。
 何時もの部屋の襖すらもしっかりと閉められている。

「し乃雪、俺だ。入るぞ」

 誰も居ないやも知れぬ……思いつつも、一応声を掛け、襖を開けた。

 背中が、あった。
 結わぬ銀の髪を畳に撒き、彼は薄い着物一枚にて、力無く横たわっていた。
 呼吸はある。生きては居るな…そう思ったと同時、身がゆっくりと転がり、彼は源三郎へと顔を向けた。

「……嗚呼、見知った顔じゃ…… 久しいの……」

 (やつ)れている。
 眼は潤んだまま焦点合わず、連日の逢瀬故か、疲れが顔に表れている。
 起きあがる力が無いのであろうか、ぼぅっとしたまま、半ば放心した様に、弱々しい笑みを作る。

「達者であったかえ……、」
「俺は、な。
 ……お前さんは達者で無さ気だな」

 転がった其の傍に、源三郎は腰を下ろす。
 動揺を何とか隠しながら、乱れ髪に隠れた額をそっと撫でる。

「矢右衛門様かと、思うたわえ……」

 ぽつり、し乃雪が漏らす。

「お優しきあの笑み…… 今宵も又、いらっしゃるのかのぉ……」
「あの男は毎日来ておるのか?」
「嗚呼。俺の為に、毎日…毎晩……な………」

 儚げに笑んだ其の顔も、弱々しい。
 遠き何処かを見続ける瞳に、源三郎の姿は映らぬまま……撫で続ける其の手すら、あの男の物と錯覚しているのやも知れない。

 痛々しい其の様に、源三郎は少しばかり辛そうに。
 唸る様な言葉に、少しばかりの怒りと心配が混ざる。

「一日位休んだとて、あの男は逃げねえよ。
 少し、休んだら如何だ」
「嫌じゃ」
「……惚れてんのは分かるがよ、」
「逢いとうて、堪らぬのじゃ……
 ……あの、御方に……」
「……、」
「必要とされぬと、身が灼けそうじゃ……
 あの温もりも、匂いも、微笑みも……
 嗚呼……矢右衛門様……逢いとう御座います……」

 其の身が、苦しそうにうずくまる。
 其の様が余りに異様にて、彼は額より手を離しつつ、唇を噛んだ。
 如何し様も無い……助く術を見出せぬ故の。

 源三郎の拳が……震えた。

「…… し乃雪」
「……ん……」
「何か嫌な事があらば、俺に言えよ。
 お前が身投げする前に、全部受け止めてやる」

 其れを、彼は何処まで耳に残したのであろう。
 返事すら無く。

 僅かな苛立ちを眉間に薄ら宿し、源三郎は立ち上がる。
 これ以上長居は出来ぬ……今宵も来るであろう者に対する、僅かな配慮だ。

 襖を開けんとした其の背を、か細い声が止めた。

「のぉ、」

 半分程開いた襖を前に、男の身はひたり止まった。

「ん、」
「有り、……難う」

 其れに、源三郎は只頷いた。
 頷くだけで、精一杯であった。



 外は、もう少しだけ陽が傾き、西の茜色を追い掛ける様に東の群青が迫り来ていた。
 通りを彩る錦色の光。提灯に灯籠、きらきらと輝く其れ等がまるで陽炎の如く、湿気に揺られて妙に歪んでいる。

 源三郎が、暖簾と門とを潜り抜け、そんな光を浴びながら通りへと出た時だ。
 周囲に特段見知らぬ人間は居ないと言うに、彼はふと不思議な気配を感じた。

 辺りを見回すが変わった所は無い……
 が、来た道を戻ろうとした其の瞬間に、視界の端辺りに映る影が、あった。

 ぴたり。
 源三郎の動きは止まり、しかし振り向く事無く。


「何か、」

「源三郎…… 新藤源三郎。
 し乃雪太夫のお気に入り、でしたか」


 春風の如く柔らかな声とは裏腹に、酷く黒いものを奥底で湛える様な。

 源三郎は其の場に立ったまま、ゆっくりと顔だけを向ける。
  ……其の顔が酷く不機嫌にも見えたのは、其の先に居た者だけでは無い。

 其処に居る者は、声と同じく柔らかな笑顔を湛える好青年。
 鉄屋の矢右衛門であった。

 彼は、源三郎ににっこりと微笑み掛けた。
 影の欠片も見えぬ笑顔に、しかし源三郎も負けては居ない。
 彼も又、まるで掌を返したかの如くにっこりと笑み返す。

「し乃雪太夫のお気に入り?
 はて……人違いではござらぬか、」
「嘘を申しなさるな、面白いお方だ」

 くすくすと笑い零す矢右衛門であるが、しかし源三郎は同じ笑顔のまま。
 ……矢右衛門は感じていた。
 其の笑顔は、余所者を近付けさせぬ為の壁であると言う事を。

「一度、拝見したかったのですよ。
 長身色黒の色男……し乃雪太夫のお気に入り、噂々の源三郎殿を」
「ご挨拶ですぜ、旦那。俺はあの招き狐とは只の腐れ縁でさ」
「もしそうであれば、太夫の夢にまで出て来ますまい?
 毎夜毎夜、彼の人は貴方の名を呼ぶのですよ」
「友人は夢に出て来てはいけねぇと?」
「…… ふふ、あくまでもしらを切り通すのですね、」

 "ぢゃり、"
 砂利を踏み、矢右衛門は源三郎に並び、暖簾へ向かい。
 そしてすと源三郎の顔を見、囁いた。

「白き太夫は、もう……私のものだ」

「…… ふッ、」

 途端。
 源三郎は思い切り破顔し、其のまま腹を抱えて笑い出した。
 矢右衛門の表情が僅かに歪み、しかし言葉尻に感情が出る事無く。

「可笑しな事でも?」
「そりゃァ旦那……可笑しいも何も、」

 膝に手を付きひぃひぃと笑っていた源三郎は、しかし次いで矢右衛門の顔を(はす)に見上げ。
 驚く事に、彼の顔には驚きもおののきも無く、其処にあるは自信に満ちた「男」の顔だ。

「あいつはそんなタマじゃ無ぇよ、旦那。
 其れを知るはこの新藤源三郎のみ。
 例え旦那があいつを奪おうとて、俺はあいつの傍に背中合わせにて居るが道理。
 ……其れこそが、真の『おもう』と言う事。
 違うかい?」

「…………、」


 この時初めて、矢右衛門は源三郎を睨み付けた。
 ほんの一瞬……確実に、其の中に恨みを込め。
 しかし、直ぐにまたあの優しい笑みへと戻り、彼は目を伏せ、笑顔を零す。

「成る程…… いやはや、この様な面白き仲は初めてだ。
 ……私も、貴方の様な人に早く出会えておったらな、」
「今からでも遅くありませぬぞ。"矢右衛門殿"はお優しい」
「! ……ふふ、何だ。私の事を知っておったのですか、」
「失礼とは思いながらも、身の上をば調べさせて頂きました。
 心情はお察し致します、が。なさっておる事は只の八つ当たり。
 旦那には、似合いませぬ」
「……そうですか……」

 つい、と再び目を伏せ、ほんの少しの時間、思考を巡らせ。次に上げた其の顔は、先刻まで無かった、悲しい色を湛えた笑顔だ。

「本当に、貴方達は不思議な仲ですな……
 私は、少々もの知らずであったのやも知れませぬ」

 目を瞑り、まるで風を感じるかの様に宙へ顔を向ける。
 水分で重く垂れ込めた空気が、途端に爽やかな夏の夜の風へと変わり、二人の間を吹き抜ける。


「源三郎殿、」
「、」

「今宵だけ……最後、し乃雪太夫に逢わせて頂きたい。
 明朝、烏の無く頃にはそなたの側に戻りましょう。
 ……もう暫し、お待ち下され」
「…………、」

 源三郎の目がすうと細められ、じっと考え。
 やがて顔を上げた源三郎の表情はやはり少し複雑であるが、しかし幾分か柔らかく、穏やかだ。

「……あい分かった」

 目を伏せ、俯いたまま。
 ふわりと微笑みを零し、矢右衛門はぽろり呟く。

「貴方は優しいな」

 ……其の微笑みは何を意味するのやら。

 微風を纏い、矢右衛門はするりと暖簾の奥へと入って行った。
 ……暖簾をひらりとも動かす事も無く、其れは幻の様に。


 全身にまとわりついていた湿気を吹き飛ばす程に乾いた風が、暖簾を軽く押し揺らす。

 源三郎は只、ぼりぼりと首裏の辺りを掻きむしり、面白くなさげに「……嗚呼もう!」と漏らし。
 やがて、大溜息を零す。

 ……明朝の不安がじわり広がり、染みる。
 夜が、このまま明けぬ様な気さえ。

 彼は其の混沌たる胸の内を無理矢理飲み込み。
 何時もの様に……今一度、あの窓を見上げた。