アヤカシ太夫♂とイロオトコ

 



湛エシ想ヒ 交ワラズ
流レ落チルハ血ノ淚
鬼ト爲リ果テ向ケシ刄ニ
立チハダカルハ彼ノ男
遠キ日ニ誓イシ心
鈴ノ音ト共ニ流レ行ク


  


「ふう……今日はそろそろ終いにしましょう」

 黙々と記帳していた奈々尾がぐぐ、と背伸びをし、周りで忙しなく動く大人達へ言い放つ。
 其の声に続き皆口々に労いの言葉を放ち、ゆっくりと後片付けを始めた。

 雰囲気を察し、少し離れた所で仕事をしていた悟兵衛もまた奈々尾へ駆け寄り、何時もの様に奈々尾の周囲にある荷物を手に取り始めた。

「嗚呼。悟兵衛さん、今日も早く帰って仕舞われるのですか?」

 動けぬもどかしさにあたふたしていた奈々尾が、不意にポツリと呟く。
 悟兵衛はふと顔を上げ、意外そうに目を見開いて応えた。

「ええ、……某に何かご用事でも?」
「あいえ、お忙しいのなら」
「大丈夫ですよ、どうせ向かうのは飲み屋です故。
 其れで、どの様な?」
「なら良かった!
 何時も御世話になっておりますし、……
 其れに、少し……お付き合い頂きたくて」
「……ええ、この様な下端(したっぱ)で良ければ……しかし宜しいのでしょうか?
 某は兎も角、若様が怒られてしまいます」
「いえいえ、俺の我が儘なんです。両親も許してくれました。
 今宵は誰かに話を聞いて貰いたくて……いけませんか?」

 少し遠慮がちに見上げて来る奈々尾に、悟兵衛は顔を仄かに紅潮させ、後頭部をぼりぼりと掻き。

「……分かりました、偶には若様の我が儘にお付き合いしましょう!」

 ドンと胸を強く叩き、思いも寄らぬ強さに「あ痛ッ!?」と蹲る。
 其れを見て奈々尾がクスクスと笑い、つられ悟兵衛もにへらと笑顔を浮かべた。


 見上げれば、空は美しい茜色。
 流れ行く雲を目にし、奈々尾が切なげな表情を湛える様を、悟兵衛は見逃さない。

 恐らく、今日と言う日に何かあったのだろう。
 推測が正しければ、多分……あの。


「さあ若様、中へ入りましょう。お身体が冷えてしまいます」

 肩を支え促され、奈々尾は立ち上がる。
 奈々尾は「有難う、」と呟いた後、

「悟兵衛さん、……何時も済みません」

 と、寂しく笑った。
 悟兵衛は微笑み首を横に振った。其れは言わぬ約束だ、と。



 一つ、又一つ。
 丸く輝く白金の月と、宝石を一粒ずつ散りばめて行くかの様に増え行く星々。

 澄み渡った空気が占める中に、何処からとも無く甘い香りが漂い始めた事を、屋敷に居た人間の殆どは気付かぬまま。
 気付いた僅かな人間でも、「嗚呼、花の匂いであろうな」と、気に留める者は居なかった。

 ……只一人を除いて。


「さあ、悟兵衛さん。もっとどうぞ、」

 奈々尾に酌され、悟兵衛は恐縮の連続である様子。
 「真に申し訳無い、」と人懐こい照れの笑顔で受け、どうやら美酒に酔うどころでは無いらしい。
 しかし悪い気はせず、二人は他愛も無い会話に花を咲かせながら、旨い夕飯をゆっくりと味わっていた。

 そんな中、何処からだろうか……カサ……と外で音がし、獣が横切る様な気配。
 奈々尾の身がぴくりと震え、障子の外の方へと目を遣る。

「若様?」
「え……否、御免なさい。つい、」

 また、寂しそうに笑う。
 時々奈々尾が口にするあの……『こま』を想う時に何時も見せる顔だ。

「こま、ですか?」
「御免なさい。また、白けさせてしまいましたね……」
「いえ、謝らずとも…… 何と無く分かっておりましたから」
「……そう、ですか?」
「伊達に若様の手足を勤めておりませんぞ」

 相変わらず優しく接してくれる悟兵衛に、奈々尾ははにかむ様な笑顔を向け、寂しそうに下を向く。

「そうなんです……今日……引っ越した日なんです。
 ……忘れられなくて」
「……、」

 何時も以上に寂しそうな様の奈々尾を目にし、じっと聞いていた悟兵衛。
 猪口を膳の上に置き、奈々尾の隣に座り直し、真っ直ぐ其の瞳を見る。

「……若様、何故に某にお気を使われるのです?」
「……え?」
「隠しても無理ですよ、某はこう見えても其れなりには大人です故。
 ……『こま』の事、そろそろこの悟兵衛めに洗い浚い話しては頂けませぬか?」
「……分かっておられたんですか、」
「ええ。
 今宵はこうしてじっくりお話出来る絶好の機会……某も、若様が大好きであった『こま』の事、詳しく知りとう御座います」
「でも、信じぬかも知れない……不思議な子であったから」
「若様は嘘が苦手でいらっしゃるのは、この悟兵衛が一番知っておりますぞ?」
「……そうでしたね、」

 奈々尾は漸く決心が付いたのであろう。ふ、と息を吐き、彼もまた持っていた湯飲みをコトンと置く。

 煉瓦色の短い髪が軽く揺れた所で、胸元より小さな鈴を取り出した。
 少し色褪せた、銀色の鈴だ。しかしチリン、と微かに鳴いた爽やかな音に、褪せは無い。

 其れをじっと見詰めた後、改めて奈々尾の薄い唇が動く。


「…… 本当に、不思議な『少年』でした」


 * * * * * * * * *


 先ずは事件のずっと前から、話さねばなりません。

 俺が生まれる前から、こまは既に飼われていました。
 茶色の縞模様で、ちょっと小柄だけど顔はまん丸で、生まれつき尻尾が親指位の長さしかない、とても可愛い猫でした。
 生まれた頃はもっと可愛かったと、母が言っていました。

 そう、こまは俺よりずっと年上だったんです。
 だから、遊ぶにしても、俺はこまに色々と教えられて来ました。
 勿論、こまは言葉を話せなかったから、直接伝えられた訳では無いけれど。
 でも、彼に着いて行けば良い匂いのする金木犀の花畑があったり、小川に落ちそうになった所をこまに引っ張られて助けてもらったり……兄か何かの様に、俺は思っていました。

 そんなこまと暮らしていたある日……俺が、四歳位だったっけ。
 家に、男の子が訪ねて来たんです。丁度今の俺と同じ位の歳の。
 一目で、母と俺は彼がこまだと分かりました。
 姿形は少年其のものだったけど、鈴を着けていたんです。
 俺がこまにあげた、この鈴を。

 其の時、母は少々怯えていましたが、こまが何か一生懸命説明し、母の態度が変わりました。嬉しそうに。
 其れから、母と俺、そして『兄』との三人での生活になりました。

 人間の姿をしている時、こまは『狛虎(こまとら)』と名乗っていました。生みの母から貰ったのだ、と言っていました。
 本当に、良い兄だった……下手な人間よりも優しくて、俺をとても可愛がってくれたんです。

 勿論、時々猫に戻る時もありました。
 一つ変わったのは、『こま』の尻尾が二つになっていた事です。短い尻尾が二本、ぴよぴよと動くものだから、本当に可愛かった……。

 ある日、突然何時もと違う動悸と目眩がして、気を失ったことがありました。
 目が覚めた時、狛虎兄さんが布団へ運び入れてくれていました。
 母を呼び、医者を呼んでもらい、其の間つきっきりで傍にいてくれていたと聞きました。

 ……其の日以来です。
 日に日に母は、狛虎の見ていない所で嫌な顔をするようになって行きました。
 其れが何故かは、未だに分かりません。


 別の日、母がある男性を連れてきました。
 俺が生まれる前に死んだ父の代わり、新しい……今の父です。

 俺は狛虎の事を口にするなと母に言われ、ずっと黙っていました。
 …… 狛虎兄さんは、それ以来帰って来ませんでした。
 数日経っても、一月経っても帰らず、母を問い詰めても暫くは何も言いませんでした。

 狛虎兄さんの行方を知ったのは、母が今の父と祝言を挙げた後、引っ越した其の日でした。
 父に「そう言えば猫を飼っていると前言っていたが、如何したのか」と聞かれ、母が答えたのを、物陰で聞いてしまったのです。

「あんな化け猫、気味悪くて崖から捨てた」
 と。
「あの化け猫が来た所為で、奈々尾が倒れたのよ」……と……

 俺は驚いて、如何して良いか分からず、屋敷を飛び出しました。
 崖と言えば、一箇所だけ思い付く所があったんです。前の家の近場に沢があり、其処に崖があった筈だ、と。
 長く歩く事が出来ない俺は、途中途中休みながら、ずっと歩いて。

 沢で見付けたのが、この鈴です。
 崖の、真下……小川の岸に。

 …… 俺は…………泣きながら、歩いて、途中で倒れて。
 気付けば、居なくなった俺を探しに出て来た父の、背中の上でした。


 * * * * * * * * *


「初めはあんなに嬉しそうだった母が何故変貌してしまったのか、未だに分かりません」

 じっと下を向いたまま、奈々尾はぽつりと溜息の様に呟く。

「只、確かなのは……こまが居なくなる少し前より、母が酷く変わってしまった事です」
「…、」
「前はあれ程動物が好きだったのに、今では……猫や鳥を見る度追い払ってしまう程、動物が嫌いになってしまったんです」

 背を丸め、小さく縮こまってしまった奈々尾の顔が、膝に隠れ見えなくなる。
 悟兵衛は彼を慰められそうな言葉を持っておらず、其の様子を只じっと黙って見詰めているしか無い。
 やがて、紡がれた言に、震えが混じった。

「………… もしかして、俺が原因だったんじゃないかって。
 今でも思うんです……丁度、俺が心の臓を患ったのが其の頃だったから」

 そう言い、奈々尾は肩を震わせ。

「でも、違う。こまは、そんな悪い子じゃない。
  ……誰よりも、母よりも……俺を気に掛けてくれていたのに。何故……」

 ぽたりと涙が膝を打ち、とうとう奈々尾は耐え切れず。
 総てを思い出し、胸が詰まってしまったのだろう。

「……若様、」

 そんな様子の奈々尾の頭を、悟兵衛の大きな手が優しく撫でる。

「余り、自分を追い込みなさりますな。
 若様は、何も悪い事などしておりません……某は信じます。こまは、悪い猫では無い、と」
「……っ、」

 ぐ、と、袖を掴む手に力が入る。
 初めて聞いた『こま』への優しい言葉が、奈々尾の胸を酷く打った様子。
 声を出す事も出来ず、奈々尾は只涙を零した。

 と。
 其れまで虫一匹殺せぬ程に優しい微笑みを湛えていた悟兵衛の顔が、にわかに引き締まり。
 何かに気付いたかの様に、きょろきょろと辺りを見回し始めた。

 "ふわり……"

 香だろうか。
 甘い花の様な香りが障子の隙間から漂い始め、奈々尾は涙で真っ赤になった目をふと上げる。

「……懐かしい。金木犀(きんもくせい)だ」

 目を瞑り、すう、と其の芳しい香りを吸い込む。
 しかし悟兵衛は其の香りに眉をしかめ、懐から何かを取り出し、手中で握り潰す。
 ぽん、と小気味良い音と共に辺り一面に強い薄荷の香りが広がり、奈々尾が軽くむせる。

「……悟兵衛さん?何を」

 不思議に思い問うた奈々尾に、悟兵衛はかつて見ぬ程真剣な眼差しを向け、低い声で呟く。

「若様。此処で、お待ち頂けますか?
  ……何があっても、この部屋から出てはなりませぬ」
「……!?」

 心の奥まで見られてしまう程に真っ直ぐな、澄んだ鳶色の目。
 ぞく……と身体の芯が掴まれる感覚を覚え、悟兵衛を見上げる瞳が不安気に揺れた。

「何か……良からぬ事が、」
「今は申せませぬ。
 兎に角、此処から決して動いてはなりませぬぞ」
「そんな……悟兵衛さん!」

 言う間も無く悟兵衛の身体がするりと奈々尾の手からすり抜け、あっと言う間に障子を開けて飛び出して行ってしまった。

 奈々尾も慌てて追い掛けようと障子の外へ出たが、数瞬も経っていないにも関わらず、悟兵衛の姿は既に其処には無い。

「…………」

 ひゅぅ、と生温い風が駆け抜け、中庭の青葉と奈々尾の髪を揺らす。
 薄荷の香りは消えぬまま、しかし薄れた中にまたあの懐かしい香りがふぅわり混ざり、くらり……軽い目眩を覚えた。

「……そうだ。
 まだ、今は金木犀の季節じゃ無いのか、」

 何処と無く感じていた違和感の原因を見出した奈々尾の胸中に、渦巻いていた不安がまた鳴動し始め。

 奈々尾は、満月浮かぶ逢魔が時の空を見上げた。


 * * * * * * * * *


 其の頃、裏庭にて。

 仕事が無い時、奈々尾は何時もこの裏庭に居る。
 この北向きの縁側で陽に当たらぬ様に座り、偶に遊びに来る幼馴染と共に二人、ゆっくりと過ごすのが常だ。

 今日は届け物があったらしい。この時間にしては珍しく、其の幼馴染みである少年侍が、何時もの様に近くの勝手口から顔を覗かせた。

「頼もう、」

 今の時間に訪ねる事に対し気が引けるのだろう、少々遠慮がちに声を上げる。
 さすれば、凛々しき少年の声に偶々裏の縁側に居た咲が気付き、勝手口へ廻り、侍の顔を認めるなりこれ声を掛けた。

「あら早良君、ちょっと待って居てね。奈々尾を呼んで来るから」
「否、結構。奈々尾から頼まれておった物がありました故、渡して頂けませぬか?」

 言いつつ侍は手にしていた風呂敷包みを咲に渡し。

「では、これで」
「奈々尾に渡して置くわね、ご苦労様」

 深く、侍が頭を下げた……其の時であった。
 あの甘い香りだ。
 ふわ、ふわり……と、吹き始めた風に乗って流れ、俄かに二人の廻りを包んだ。

「……何?」

 季節外れである其の香り。そもそも、これ程に強い花の香りはこの周辺で漂って来る筈も無い……認識し、侍が眉をしかめた瞬間。

 "ガクン!"

 まるで骨を抜かれたかの如く全身の力が抜け、侍は慌てて刀を抜き、身体を支えた。

「力が……おば殿!?」

 侍が気遣い振り向いたが、咲は特に影響を受けている様子は無く。
 しかし酷く怯えており、只一点……塀の上を見詰め、口をはくはくと震わせている。
 意識すら朦朧とし始めた侍も同じく見上げた其処に、先刻まで影形すら無かったものが居た。

 其処に佇んでいた者は、少年だ。

 月光の中で異様に浮かび上がる其れは、身軽な服装をした、少年。
 しかし侍は其の目を見、ぞくんと背に冷たい物が走った。
 月光を集めて光る獣の瞳……蛍色にチカリ輝く其れが、侍の心の臓をも射抜く程に鋭いのである。

 少年はストンと裏庭に降り、じっと咲を見詰めた。
 咲は怯えきった表情で後退る。が、少年は一歩、また一歩、咲に歩み寄り。
 酷く寂しそうな、しかしとても嬉しそうな面持ちで、口を開いた。


「お咲ちゃん……お咲ちゃん!
 やっと、やっと見付けた」
「……あんた……狛虎……!! 生きておったのかい!?」
「……長かったさ……崖から落ちてから、ずっと探してたのさ」

 美しくも不気味な瞳が懐かしそうに細められ、涙に揺れる。
 対称的に咲はびくびくと震えながら後退り、やがて壁に背中をぶつけ、追い払わんと手を振り回した。

「何故死ななかったの!? ……近付かないで!! 化け猫!!」
「……?待ってよ、まさか…、
 何で?死んで欲しかったのか?」
「嫌!! 来ないで……来ないで!!」

 必死に逃げようとする咲だが、何故か脚が動かず、蜘蛛の巣に掛かったかの様にもがき続ける。
 様子に只ならぬ雰囲気を感じ取った侍が、言う事利かぬ身体に鞭打ち、狛虎の前へ立ちはだかった。

「……近付いたら、斬る」
「邪魔するのか?お前」
「狙いは奈々尾か?」
「だとしたら?」
「通さぬ。…この命に代えても」

 言う間も無く、侍は刀を逆刃に持つ。
 だん、と踏み込み狛虎の懐へ入ったが、いともあっさりと避けられ。
 もう一発と振り向いた所で狛虎の瞳が侍とかち合い……
 ぴたりと、侍は止まった。

 身が動かない。
 意識が凍り付き、肌が総毛立つ。

「なれば……"眠れ"」

 少年の瞳孔がキュルと糸の様に細くなった其の時。
 侍の身体がギリィと硬直し、かっと目を見開いたまま、地面へ突っ伏した。

 其れを見、咲の面持ちが更なる恐怖に歪む。
 しかし狛虎は動じる事も無く、びくびくと痙攣し続ける侍を尻目に、再び咲へと悲しい目を向けた。

「……ねぇ、お咲ちゃん何で?何で俺をそんなに……」
「あっあんたのせいで私の人生がぼろぼろになったのよ!!
 あんたが猫又なんかになったから……!!」
「……?だって、俺は……お咲ちゃんが言ったから……!
 お咲ちゃんが言ったんだよ!? こまが人間だったら良いのにって!
 だから俺、お咲ちゃんの為に、奈々尾の為にさ、」
「何よ其の考え!!
 あんたがそうやって身勝手な事したから奈々尾の身体がおかしくなったのよ!!
 全部あんたのせいよ!!あんたなんか飼わなければ良かった……死んでしまえば良かったのよ!!」

 狛虎の顔が強張る。
 其の表情を目の当たりにし、刹那。
 咲の目が戸惑いを見せ……
 しかし、口から突いて出た言葉は。

「死んでしまえ、化け猫!!」

 途端。
 狛虎の顔が少年から鬼の其れへと変貌した。
 ゴォ、と鳴動し始めた空気がきいんと凍り付き、其の場に居る生物総てが霜を纏いおののき、時が止まった。
 狛虎が初めて見せる其の姿に、咲の怒りが恐怖へと転じ、ぞっと顔を青くする。

 狛虎が其の幼い顔に浮かべた「鬼」は、怒りでは無い。
 悲しみであった。

 其の額を突き破るは、刃の如き長い角。
 緋色一色に染まった目から溢れるは、同じ色の涙。

 恐怖に駆られへなり座り込んだ咲に、鬼は地を蹴り大きく振り被った。
 刃の如き爪がひゅんと空を切り裂き、其れは放心した咲の喉元目掛け。

 生きた肉を貫く感触と生温い血の匂いが其の手に広がり、夜空に悲鳴が響いた。


「悟兵衛!!?」
「……げ、…源三郎!?」

 咲の声に狛虎の驚嘆が入り混じり、割り込んだ男がニッと不敵な笑みを浮かべる。
 狛虎の爪が貫いたものは咲の身体……では無く。
 瞬時に天井から降り立ち、咲を守らんと仁王立ちとなった悟兵衛の右胸だ。

 ぼたぼたと溢れ出す血、咳と共に口からゴボリ噴き出す血。
 狛虎は青冷め慌てて爪を抜こうとしたが、しかし手首をしっかと両手で掴まれ、指まで食い込んだ其れを如何様にしても離す事が出来ない。

「何してるのさ、離せ!!」
「離す訳無ぇだろうが」
「駄目だってば!!…源三郎が死んじまう!!…殺しちまう……!!」
「離したらまた逃げるんだろ?お前。ちったぁ俺の話も聞けや……
 奥様も、少々其のままでご勘弁下され」

 言うまでも無く、咲は放心したまま、一筋の涙が頬を伝っている。
 流石に今の一撃は応えたのだろう。

 其れを横目で確かめ、少しずつ蒼白になり行く顔に微笑みを浮かべつつ。
 しかし気丈に、悟兵衛……否、源三郎は口を開く。

「双方、言い分は聞かせて頂いた。……奥様、」
「……」
「何故にこやつが原因で奈々尾様のお身体が悪くなったと?」
「…………、」
「あれだけ愛してやまなかった彼を…… 別に理由があったのではありませぬか?」

 彼は柔らかな笑みを浮かべ、問う。
 如何やら咲の心にも少しずつ落ち着きが戻り始めたらしい、唇を震わせながら漸く語り始めた。

「……そ……そんなもの、無いわよ」
「……」
「こッこいつが奈々尾に近付いたからあの子が倒れたのよ!!
 其れがれっきとした証拠よ!!
 其れを初めから知っててこいつは化け物になって戻って来たのよ!!」
「…………」
「化け物は皆化け物よ!!居れば其れだけで厄介事が……」
「奥様!!」

 小さな溜息の後、咲の悲鳴にも似た其の叫びを悟兵衛は止める。
 彼の懐で肩を震わせる狛虎を撫でなだめつつ、悟兵衛の静かな声が咲に一言、呟いた。

「……ならば、何故化け物である狛虎が、貴方の為にこうして泣いておるのです?」

 咲は、其の場に、崩れた。
 ぼろぼろと涙を零し、やがて慟哭した。

「……如何すれば、良かったの……」

 と、呟きながら。

 と。
 近付きつつある気配に気付いた狛虎がふと顔を上げ、紅い涙と鮮血にまみれた其れが驚きの表情に変わった。
 続き、其れに気付いた悟兵衛もまた振り向き、息を呑む。
 廊下の奥から、現れた彼は弱々しい声を上げた。

「……狛虎……兄さん!?」
「……奈々、尾……」

 壁伝いにゆっくりと近付いて来た其れ……
 驚愕の色を、そして少し嬉しそうな色を顔に湛えた、奈々尾であった。

「奈々尾……来ちゃ駄目!!」

 咲が必死で叫ぶが、奈々尾は聞かず。
 寧ろ、無理利かぬ身を押しながら、少しずつ、近付いて行く。

「……兄さん……兄さん!
 生きていたんだ、会いたかった!!」
「………………」

 恐らく、背を向けていた故に悟兵衛の胸元が見えていない様子。
 嬉しそうに声を上げた奈々尾、しかし狛虎から総ての表情が消え、……続き、少々困った様に眉をハの字に曲げ、笑う。

「……奈々……、大きくなったな……
 元気で、良かったからに」
「……兄さん?」

「達者で、な」

 途端、悟兵衛の両手を狛虎は空いていた右手で振り払い、悟兵衛の胸に埋まっていた爪を思い切り引き抜く。

「っぐ!!……」

 巻き散った鮮血と共に悟兵衛が呻く中、狛虎はダンと強く床を蹴り上げ、高く飛び上がる。
 白壁の上でもう一度飛び上がり、其のまま外へと消えて行った。


 力無く跪く悟兵衛を目の当たりにし、奈々尾は初めて先刻の状況を察し、駆け寄る。
 血が、地面を叩いている。
 跪いた悟兵衛はしかし顔を伏せる事無く、今にも泣きそうな奈々尾へ微笑みを向ける。

「悟兵衛さん!?そんな……兄さんが!?」
「何……これしきの事。其れより、」

 突っ伏したままの侍の方へ、傷を物ともせず駆け寄る悟兵衛。
 ……どうやら侍は気を失っているのみらしく、ぐ…と声を漏らした其の様子に、悟兵衛、そして奈々尾の顔が少しばかり和らいだ。
 後、腕に力を込めて再び立ち上がり、奈々尾に声を掛け。

「若様、あの鈴……今お持ちですかな?」
「え?ええ、」
「若様が宜しければ、あの子に返してやりたいのです……お預かりして宜しいでしょうか?」

 懐から鈴を取り出した所で、奈々尾は驚き声を上げる。

「……まさか、今から追い掛けるつもりじゃ、」
「ご案じめされますな。某にお任せを」

 言うが早いか、悟兵衛は奈々尾の手中から半ば無理矢理鈴を奪い取り、怪我人とは思えぬ身軽さで勝手口へと駆ける。

「悟兵衛さん! せめて傷を塞がなきゃ……!!」
「明日は勝手ながら休ませて頂きますが……明後日、必ずや又参ります」
「悟兵衛さん!!」

 に、と屈託の無い笑顔をわざとらしく見せ、悟兵衛は勝手口を出て行った。
 奈々尾が慌てて追い掛け、勝手口の外を覗き見たが、またもや悟兵衛は煙か何かの様に跡形も無く消えている。
 ……血痕すらも、外には見当たらない。

「……もう!!」

 侍が気付き起き上がったのは、奈々尾がそう叫んだ其の時であった。


 * * * * * * * * *


 さわ。
 さわさわ、さわ。

 西へと沈み行く月が真っ赤に染まり、空気が紅い月に怯え、温度を無くしていく。


 狛虎は、時雨屋の屋根に居た。
 先刻に同じ少年の姿で天辺に座り、只ぼうっと紅い月を見上げていた。

 様々な言葉が、よぎる。
 其れはつい先刻起きた事であったり、遠い昔の事であったり。
 咲と過ごした日々、奈々尾と過ごした日々、
 独り……咲と奈々尾の手掛かりを探しながら、方々歩き回った日々。

 酷く、いたたまれぬ。
 頭をがしがしと掻きむしり、心の底辺に溜まったもやもやとした何かを振り払おうとしたが、消える事は消して、無い。
 ……恐らく、これからも。


「…… 化け猫……か、」

 ぽつり、声を出してみるが、風は答えてくれない。

「…………俺は……
 猫又なんかにならずに大人しく死んどきゃ良かったのかね……」
「否、俺はそうは思わぬがな」
「っ!!?」

 不意に背後から聞こえてきた声。
 狛虎は「にぎゃあ!!」と潰された猫の様な声をあげ驚き、後ろを向く。
 斜め後ろに、何時の間にやら悟兵衛……否、源三郎が、背中合わせにてしゃがんでいたのだ。

「よぅ、」
「いっ……何時からいたのさ!?」
「気付かん方が悪いだろう、」
「ったく……気配無かったりこんな所来たり術破ったり、お前何者さ!?」
「さてねぇ……今は柏木家の手伝いと遊び人、だな」
「……変な奴からに、」
「好いた者を探す為に花魁に化けるお前も、人の事言えぬだろう?雄の癖に」
「源三郎程じゃないさね!!」
「そうかい、」

 一頻りの問答の後、風が会話を切り、二人はお互いの正面を向いた。

 月が沈み行く中、空の星が少しずつ数を増やして行き、ちかりちかり瞬き続ける。
 冷たくも心地の良い風に、髪の毛が、服が揺れ。

 ふわり風向きが変わった事で、源三郎自身が何時も纏う柔らかな麝香(じゃこう)が、狛虎の鼻をくすぐる。……が、其の中に血の匂いが混ざり、狛虎は眉をしかめた。

「……何故に俺をかばうのさ?」
「ん? ……妖だからと言うだけで嫌われるのはおかしいだろう?
 流石に、奥様のあの言い分は俺も腹が立ったしな」
「…………」
「其れに……
 一度は惚れちまったからなぁ」
「……本当、変な奴さね。俺はあんたを騙した挙句、胸に穴空けちまったのに。
 あんた、人間だろ?死ぬからによ?早く誰かに治して貰えさ」
「俺の心配もしてくれるのかい?」
「心配じゃなくて忠告さ。あんたが死んでも悲しくはないからによ」
「しかし、心遣いに違いは無い。
 お前は悪い妖じゃあ無ぇよ」
「……そ、からに?」

 狛虎の僅かな戸惑いに、ふ、と、源三郎が笑んだ気がし、振り返る。
 源三郎は立ち上がり、此方を見遣っていた。
 あの時と……初めて共に床へ入った時と同じ、暖かな、優しい微笑みで。

「さて……そろそろ行かねばな」
「何処へさ、」
「医者に宛てがあるから…な……」

 腰をこきりと鳴らす源三郎を、狛虎は面白く無さそうに見詰める。
 ……源三郎は、懐から何かを取り出し。

「狛虎、」
「ん」
「奈々尾様があすこまで健やかに成長出来たのは、お前さんのお陰だ。気に病まぬで良い」

 ぽん、と、源三郎は手にしていた其れを狛虎へ投げ、彼が受け取った瞬間に其れはチリンと爽やかな音を立てた。
 奈々尾がずっと大事にしていた鈴であった。…… 少しばかり、血で汚れているが。

「今度……奈々尾様に会いに行こう。狛虎」

 言われ、狛虎は漸く笑った。目に涙を浮かべ、笑った。


「……ありがとうな、源三郎」
「良いって……事……」

 やはり、身体を無理に押して来たのだろう。
 源三郎の笑みが痛みに歪み、背が曲がる。
 やがてふらりと身が傾き。

「源?」

 狛虎が少し心配そうに声を掛けた時。
 大きな血溜まりを残し、瞬きの間に彼の姿は消えていた。


「………………」

 びゅう、と強い風が彼の残り香すらも吹き飛ばし。
 手中で微かに音を立てる鈴に残っている温もりを、そっと握り締める。

 狛虎は、唇を噛み、また月を見た。
 先刻より更に紅く大きな其れは頭半分だけを山裾から覗かせ、少しずつ沈まんとする最中だ。


「……また、会える……よな、」

 ぽつり、微かに呟く狛虎であったが、其の問いに応えるものはもう居なかった。