其の日のし乃雪は、何故か酷く不機嫌であった様に感じた。
今宵は雲一つ無い夜空が広がり、まるで玻璃の砂を散りばめたかの様な星々がきらきらと瞬いていると言うのに。源三郎が部屋へ入った途端、一瞬表情を明るくしたし乃雪は、しかし直ぐに笑顔を凍り付かせ、其れきり口を噤んでしまったのだ。
「雪……食わぬのか?田楽」
「…………」
「……黙っておっても分からぬだろう、何が不満なんだ」
「…… 気になどしておらぬよ。俺はお前さんとは只の友人である故にのぉ」
「……はぁ??」
ようやっと口を開いてくれたと思えば、意味の分からぬ言葉。
……源三郎自身、"己がしている事"がし乃雪に知られぬ自信があった故の受け答えであったのだが。
「お前の言っておる事が良う分からぬ。俺は何か悪い事をしたか、」
「二度も言わせる気かえ?気にしておらぬと言うておろうが……只の嫉妬じゃ。
お前さんは悪う無い、悪う無い」
「嫉妬、って……何に?」
「…………」
ふぅ。し乃雪には珍しく、火を着けた煙管を咥え、溜息混じりにふわりと紫煙を吐き出す。
が、するりと猫の様に窓辺より降り立ったかと思えば、ずいと源三郎へ迫った。
たじろぐ源三郎を逃す事無く、吐息が触れる程に近い。
唇が触れるか触れぬか程、首の辺りに寄る。
……少しばかり間を置いて、し乃雪は紅に彩られた形の良い唇を彼の耳元にて開いた。
「お前さん……別の茶屋の遊女に貢いでおるのぉ?」
「っ!?」
ぎくり。
真っ直ぐに核心を突かれ、源三郎の顔が瞬時に紅潮する。
「……何故にそんな、」
「香じゃ」
「香?」
「お前さん、よもや余り遊んでおらぬのかえ?
茶屋によって、使われておる香の流行りは違う……源、お前さんが纏っておる其れは俺の大嫌いな香じゃ。
流行りが未だ変わっておらぬのなら……お前さんが通うておるのは京町奥の時雨屋であろうて、のぉ?」
「…………」
「鼻の奥に何時までも居座りやがる。
甘ったるい、まるで未練の様な。
其の香、お前さんには似合わぬよ」
ぐうの音も言えず、源三郎は只押し黙る。
遊女と遊び始めた事だけで無く、茶屋まで当てるとは。
流石の源三郎も、
「……すまん」
と一言言う事しか出来なかった。
「言うたよな?俺とお前さんの仲は只の友人。構わぬよ」
にっこりと笑みを浮かべたし乃雪。
とは言うものの、湛える表情はまるで無理に貼り付けた様な。
この夜、二人の会話はこれ以上続く事は無かった。
気まずい空気を払拭する術を持たぬ源三郎、酷く申し訳無く思いつつも、しかし直ぐに黒町屋を離れた。
