……
其処は、吉原より、否。
江戸よりずっと西の、深い谷の下。
其処にひっそりと並ぶ民家は、恐らく其処に住む者以外は誰も知り得ぬであろう、隠れ里。
ひゅぅ……
冷たい谷風が其処にある人手の物を撫でる中、す、と谷の縁より差し込んだ陽の光が、一際大きな中央の屋敷を差す。
其の屋根に、一人の男が佇んでいた。
短く切られた赤い髪が風にそよぐ。
悟った様な眼差しが、其れまでずっと宙の何処かを仰ぎ見ていたが、やがてふと背後へと振り返り、笑んだ。
「お帰りなさい、」
其処に、何時来たのであろう。
黒装束、黒い頭巾に鉢金、黒い口布。細身ながらしっかりとした体格、男であろう。
唯一垣間見える眼……鳶色の瞳が、しかし其の瞬間に鼈甲飴の如き金色に光を弾く。
赤毛の青年へ其れは向けられ、下げられた頭の下へと隠れた。
「只今戻りまして御座います、お頭様」
「貴方の事ですから、"ボウズ(収穫無し)"、…は無いでしょうが。
如何です?監視任務の方は」
「計画通り、吉原にて発見し、近付きました。
日参しつつ様子見しております次第」
「彼の人となりは、」
「はい……酷く気紛れですが、面白い男です」
「見た目は?」
「は?」
「女よりも美しいと聞きます。如何です、惚れました?」
「や……いえ……
まさか、男であったとは気付きませんでした。
確かに、声と着物の中さえ見なければ……」
「重畳、」
ははは、と笑う、頭と呼ばれた男。
黒装束は少し気恥ずかしそうに、そしてばつが悪そうに更に頭を垂れる。
が、直ぐにくんと頭が上がり、低き声にて。
「……しかし、あの男。何者なのです?
どうやら妖を畏れず、摩訶不思議な力を持つ様子。
何故に某を監視に、」
頭は、微笑んだまま。
「ええ、故に"あなた"に頼んだのです」
「……、」
「今は何も知らずとも良い、自ずと分かるでしょう」
黒装束に背を向け、青年は再び空を仰ぎ見る。
谷の縁にて狭い空、天辺にお天道様。
心地良さそうに目を細め、胸一杯に谷風を吸い込む。
「……鴉獄、」
「はっ」
「貴方の"正体"は、勿論知られていませんね?」
「分かりません…しかし其の様な素振りは一切ありませんでした」
「重畳。
其の関係、続けて下さい。もう少し彼を調べて頂けるなれば更に結構。
其れと……」
鴉獄、と呼ばれた男に背を向け、頭はしかし声で微笑みながら、付け足す。
「陰陽寮分所より消えた"鬼神の角"の在処……調査を、引き続き宜しくお願いします」
「御意、」と発し、顔を上げた鴉獄。
其の時には既に、頭と呼ぶ男の姿は消え、只ひゅぅと冷たく心地の良い風が 周囲を吹き抜けていた。
「………」
時は、昼。
この時間、晴れた空がこうして谷の空気を殊更かき回す、この感覚が鴉獄は好きだ。
暫し、其のまま風に吹かれながら思慮を巡らせ、やがて。
「……… チッ、」
――― あの、謎多き白肌の妖太夫。
男であると知っているのなれば、教えてくれれば良かったのだが。
あの青年特有の意地悪に対する不満が僅かに沸いたらしい、其れは舌打ちとなってポロリ零れ。
"ざぁ……"
人の手により整えられた木々が、沢の音に混じり木漏れ日を揺らし、ざらざらと鳴く。
其の時には、あの黒い忍装束の男も又姿を消し、其処にはくるくると風に舞う一枚の黒い羽根があった。
続
