暗く、深い夜だ。
夜が稼ぎ時である吉原遊廓すら、丑三つ時を迎えれば其の活気は下火となる。
其の日は何時に無く人の通りは無く、通りの灯籠に灯っていた火が生暖かい風にてふっと光を消した。
そんな中、一人の男が帰路を急いでいた。
初めて吉原を覗いた男だ。
島原の馴染みに飽き、わざわざ此方まで出向いてみたものの、どうやら今宵は好みを見付けるに至らなかった様子。
詰まらなさそうな顔にて、しかし足取りは速い。
何も無いなればさっさと帰ってしまおう…そう思いながらもふと辺りを見回した時だ。
びょお、と吹き荒ぶ風に、生臭い何かを感じ。
男の身を竦ませた其れは背後へと抜けていく。
遠く正面。
道に並ぶ提灯や行燈の向こうに、チカリと光る金の相貌。
獣の如き其れは男をギラリ見遣り、明らかに、細まる。
何だ、獣か…?そう訝しんだ途端。
"ビュゥ!"
男目掛け駈け来る其れ。
風の如く走り来た黒き塊が、男の顔面へと飛び掛かる。
男は叫んだ。喉の奥から絞り出された声が、ヒィィと情け無い悲鳴となった。
刹那に見た其の顔は、まるで獣か……否、鬼の如き貌。
咄嗟に顔を庇った男、しかしあの塊は男の傍をすり抜け。
まるで逃げ去るかの如く、遠くへ走り去って行った。
……嗚呼、助かった。
ほぅ、と胸を撫で下ろした男…が、ふと。
傍を流れる堀に何かがゆぅるり流れている事に気付く。
何だ?
じっ…と目を凝らして其れを見遣り、男は再び悲鳴を上げた。
其れは、つい先程まで茶屋の格子の向こうにてすまし顔で居た、花魁。
其れが、まるで流木の様に、水の上にてゆぅらり、ゆらり。
虚ろに目を開けたまま、浮いているのである。
