アヤカシ太夫♂とイロオトコ

 


 翌日も、朝より雨。
 雷鳴にてビク、と目が覚めた源三郎、ふと隣を見遣れば既にし乃雪の姿はおろか、布団までもしっかりと片付けられている。
 嗚呼、疲れて随分寝坊してしまったのだろうか……呆れながらも背を伸ばし、ゴキリ、と節が鳴った。

 空気が、変わらず冷たい。
 ほんのりとし乃雪の甘い香が漂えど、しかし自分一人しか居ないこの空間は酷く閑散とし、単調だ。
 何故であろう。ほんのりと寂しさを覚え、同時に昨晩のやり取りを思い出し、源三郎は布団より這い出て立ち上がった。何時でも動き出せる様、着替える為だ。

 す、と、不意に襖が開く。褌一枚の源三郎、慌てて手にしていた着物を羽織り振り向けば、其処に佇むはし乃雪。外に出る気は余り無いらしく、何時も見る黒猫色と紅の振袖に身を纏い、顔に朱が入っている。見慣れた天女、はんなりと笑んだ其の顔に、安らぎを覚える。

「お早う、源の字。丁度良う起きてくれたの」
「いきなり開けるなよ、」
「俺の部屋に居って何を申す?其れに、この襖を無言にて開けるは俺とお前さんのみじゃ」

 其の肌を拝めるは俺、この肌を拝むはお前さん……歌う様に言の葉に乗せ、窓辺に腰掛ける。木戸がしっかり閉められているにも関わらず、其れは恐らく癖なのだろう。

「ところで、のぉ源三郎」

 きゅ、と帯を締めた源三郎に、其の様子をじっと見詰めていたし乃雪が口を開く。

「ん?」
「先程戌良から聞いたのだが。
 駁螺が何時の間にやら居なくなっておったそうじゃ」
「そうか……って、何だと?」

 血相変わった源三郎に、彼はクスクスと笑み、機嫌良さ気だ。

「箱は、」
「箱も、じゃ」
「行き先は誰も知らねえのか、」
「暫し聞いて回ったが、どうやら誰も知らぬ様子であった。
 このまま鵺様ごと江戸より去ってくれれば重畳、重畳……」

 ゆら、ゆら、揺れながら、髪をさらさらと流しながら。
 しかし、し乃雪の側へ寄り、木戸を少し開けた源三郎、外の様子を垣間見つつ、呟く。
 其れは偶然にもし乃雪の耳元にて、低く甘い声が彼の耳を擽った。

「……し乃雪よ」
「ん?」

 紅玉の瞳が向く。

「雨も雷も止んでおらぬぞ」
「そうじゃの、」
「例えば、だ。
 このまま駁螺の行方が知れぬまま、あの男が何処かの家の床下にでも潜み続けたとしよう。
 鵺も又このまま居座り続け、死人は増える一方じゃあ無いか?
 雷だけじゃあ無え、この大雨が続けば鉄砲水に病が増える……其れでも良しと、お前さんは言うのかい?」
「………」
「知っていて動かぬは、し乃雪。お前の業とは違うか?」

 瞳が、合う。
 紅の瞳と鳶色の其れが、ほんの少しの間繋がれ、しかし冷たい空気が漂い流れ。

「……今外に出るは、死にに行くと同じぞ」
「自分の命で皆が生きるなれば、良い」
「其れは駁螺一人と皆の命を天秤に掛けると変わらぬのでは無いかえ?」
「他人の命よりは良いさ」

 す、と立ち上がり、彼は襖に手を掛ける。
「おい、」と呼び止める声に、其処で一度立ち止まった源三郎。振り向けば、し乃雪は腰を浮かせ、少しばかり心配そうな色を湛え。

「逸るなよ、源三郎!未だ、」
「今動かねば間に合わなくなる。
 お前は此処に居ろ!」

 そう言うが早く、色男の姿は襖の奥へと消えていった。


「…… 未だ、この茶屋を出て行ったと決まった訳では無いのだがの……」

 ふぅ……。
 其の溜息が聞こえたのか否か。
 遠くに落ちていく、階段を踏み降りる音。
 其れとは別に、すぅ、と襖が小さく開かれる気配がした。
 ……正面の襖にあらず、其れは以前、幽霊がシミとなり現れた、押入の襖だ。

「……とは言え、"其処"に潜んでおったとは思いも寄らなかったがの」

 し乃雪は、其れを見て笑った。
 常なる柔らかな笑みでは無い。
 其れは、憎悪の歪みに相違無い。