丑三つ時よりももう少しだけ深くて浅い、夜。
人の気配無き、異界混じりの刻。
霧が濛々と立ち込め、世界を黒い白で覆いつくした其の辺りに。
人影。
其れも、自分の背ほどの瓢箪と何かの束を背に担いだ姿で。
大人にしては少々小さめの其れは、人の背よりも高い塀をいとも軽くひょいと飛び越え、屋根へと乗り上げ。
やがて静かな足取りで、瓦をなぞるように歩く。
─── はぁ はぁ はぁ
見世の二階へと辿り着き、立ち止まる。
震える手で、重く閉ざされた木戸に手を掛ける。
戸はきぃとも音を立てる事無く素直に開き、しっとりと濡れた空気に触れた障子がしわりと小さく呟いた。
─── はぁ はぁ はぁ
息が、荒くなっていく。
初めて目に映した、憧れの部屋。
想像よりも質素に見えた其の部屋……眼前にあるのは、藤柄の布団に寒そうに包まった、何者かの姿。
侵入者は、其の正体を知っている。
あの時見た、美しきおなご。
此処……黒町屋の、"一番"。
この吉原きっての妖太夫……し乃雪。
幸い、今宵は客を取っておらぬ様子で、其の場所は異様に沈黙を漂わせ、重い。
─── わし一人のものじゃ……わしだけのものじゃ……
そっと、冷たい手が布団の中へ潜り込む。
担いでいた瓢箪の栓を開け、温かく心地良い布団をそっと捲れば、
ほれ、美しい寝顔が……
「げぇッ!!?」
布団は突然跳ね上がり、侵入者の鳩尾へ綺麗に踵がめり込んだ。
其のまま背負っていた瓢箪ごと吹っ飛び、襖に叩きつけられ、瓢箪の水と持っていた紙の束を派手にばら撒く。
「源!」
飛び起きたし乃雪が叫べば、丁度侵入者の頭上に位置する天井がバクンと開き、待機していた源三郎が飛び掛かる。
其れは抵抗する術も無く、源三郎に押し潰され、見事に羽交い絞めにされた。
「ひッ…… おっ男!?」
侵入者が、目前にある肌蹴た白い胸元を見、声を上げる。
其の眼に映った者は、男物の着流しに男の笑みを浮かべる"野郎"其のものであった。
「今更気付いたのかえ?残念であったのぉ、」
源三郎に腕を取り押さえられている男の顎を、し乃雪はくいと上げてしげしげ見遣る。
見れば、其れは最近見かけるようになったあの瓦版屋であった。
「ふひ……ひぃぃ……」
「ひぃひぃと気持ち悪い野郎じゃ……」
眉をしかめ、其の手を離す。
かくんと頭を落とした男はだらだらと唾液を垂れ流し、酷く歪んだ顔、虚ろな眼をゆっくりと二人へ向けた。
「よぉ、変態。お前さんは一体俺で何人目じゃ、」
「ひ……ひひひ…… 何人だったかなぁぁ…… まさか、男だとはなあぁ…… 一番のタマモノだと思ったのになァァ……、」
息も切れ切れに喋り始める声は、近頃頻繁に外で響く声に間違いは無い。
しかし、其れにしても其の声に張りは無く、酷く気味悪く揺れる。
