其れは、安永七年の江戸・吉原にて。
ぬらり、ぬらり。
空気は生温く、遊廓を彩る錦と闇の輝きに艶かしき彩りを与えながら揺れる、春。
とうに太夫と呼ばれる位の花魁が姿を消した其の街は、塀の中に作られた空気がむせ返るような金と人の臭いで満たされ、混沌としたざわめきが夜を取り巻いている。
妖しき輝きは、引っ切り無しに人々を惹き付け、止まない。
― あすこの女は甘いぞ
あすこの女はすっぱいぞ
― ほれ、あの店じゃ一昨日あの子が座敷持になったんだと……
― おぉ、いよいよ遊べるのか、…………
そんな会話は四六時中。
江戸の華咲く闇夜の城下は、黒と紫。
真っ赤に熟れた果実を腹に溜め、今夜も欲にまみれた男共を、口を開けて待っている。
そんな当時の吉原遊廓、其の中央に位置する大見世「黒町屋」の、二階。
巨大な妓楼が隣接する茶屋の、金箔と朱塗りに彩られた玄関の真上にある窓より、逢魔が時の辺りに姿を現す、其れ。
其の姿に何人もの男が遠目より誘われ、黒町屋の客足は絶えない。
今宵も、ほら。
一人の男が、其の玄関先に佇み、見上げ、大きな溜息を漏らしている。
……遊び人の姿をした其の男、新藤 源三郎。
鳶色の瞳を涼し気な瞼より覗かせる、色男だ。
近頃頻繁に足を運び、二階の"其れ"の為にいくつの両を注ぎ込んだか。
今宵で六度目……となる筈であったが、しかし進展は無いまま。
今宵は諦めようか……溜息が、傍に佇む客呼びを狼狽えさせている。
其の、件の"女"。
見上げた先、出窓に腰を下ろすは、色無き美女。
雪の如き白の肌、刃の如き銀の髪。
世を儚む様な紅玉の瞳に、長く震える睫毛。
時折溜息を浮かべる、ぷっくりと塗られた唇。
……天女か妖かと見紛う程の美しさ。
妖太夫だの狐太夫だの、この見世を一目見た者達から、彼女はそう呼ばれている。
この黒町屋に吸い込まれ行く男達に混じり、源三郎も又あの美しさに心奪われ、ふらり玄関を潜ったは良い。
他の遊女の様、二・三日通い詰めれば手に入ると言う確信があった。
……が、美しき人は毎度大広間を簾にて隔て、其の奥でつんとすましたまま。
近付いてくれる気配すら無きままの今宵、流石に心が折れかけ、其れ故の立ち往生であった。
……こうして佇んでいるだけでも、皆が振り向く程の色男なのに。
そんな視線を、あの妖女は気付いたのだろうか。
桜の花弁舞う中、ふと彼へと紅玉を向け、ふわり儚く微笑んだ。
……顔を覚えてくれたのであろうか、偶然やもしれぬ。
にへら、と微笑み返し手を振ったは良い、しかし距離は縮まった気配もない。
「……嫌われておるのかねぇ、俺は……」
頭を掻きつつ、そう零れた。
そんな姿を、客呼びがじっと見詰めている。
もうすっかり馴染みの客となった源三郎に、何時もの人懐っこい笑顔にて声を掛けた。
「……源さん!げーん、さん!」
「……ん、」
腑抜けた顔で振り向けば、下から覗き込む媚び色称えた顔。
詰まらなさそうに目を逸らした源三郎、再び視線はあの妖女。
「源さんも、し乃雪太夫がお目当てなんでしょう?」
「嗚呼、
……綺麗だよなぁ……あの花魁、」
「ぞっこんですねぇ?」
「そりゃぁ、な……。手が届かぬ美しさ、高嶺の花たァ良く言うたモンだ」
「そうですかい?アイツはそんなんじゃあ無ぇですがね、」
「見慣れていやがるからそう言えるのだろうが。
……あすこまでの別嬪さんはそう居らんぞ?」
零すも、其の顔に疲れと諦めの色。
其れをニコニコと眺めていた客寄せは、やがてそっと耳打ちした。
「旦那、其れで」
「んー、」
「何度かあのキツネ太夫目当てに通って下すったでしょう?」
「嗚呼」
「其れでですね、礼ついでにキツネから言伝を預かっているんでさ」
「、」
「『今宵は是非に二人で逢いたい』、と」
「ふぅん………… って、何だと!?」
寝耳に水。一度聞き流した其の言葉は、源三郎の胸を高鳴らせ。
「……引き止める為の嘘じゃぁ無えだろうな?」
「又々旦那ァ~、嘘八百でも入っちゃうんでしょう?」
「うッ……」
「なぁんて、其れこそ嘘ですよ。
本当にキツネからの言伝でさ、今宵見えられたらお通ししろ、とね。
お代は頂きませんぜ、ささどうぞいらっしゃいませー!」
ニカリ、笑った客寄せ、狼狽する背をグイグイ押しつつ中へと誘う。
おい何、と言葉を紡ぐ暇も与えられぬ中、源三郎は再び上を見遣った。
夕暮れの怪しくも柔らかな吉原錦の中、舞う桜を弄びながら。
其れは其れは嬉しそうに微笑んでいる、彼女が居た。
時は、逢魔が時。
暮れ泥む空気に流れる吉原錦が、毒々しい。
