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黒町屋がある揚屋町より暫し歩き、吉原を囲う壁伝いに流れる"お歯黒溝"。
騒ぎに気づいて目を覚ました人々は皆一様に其処へ集まっており、少し遅れて到着した源三郎とし乃雪、目の当たりにした人の壁に暫し口を噤んだ。
「…… この遠さでは見えぬな」
ざわめきの中、漸くぽつり言い放つし乃雪。
「さほど遠くは無いぞ?し乃雪、よもや目は悪い方か?」
「この目は今のお前さん位までしか見えぬ。其れに、今の刻は酷く眩しい」
「何だ……詰まる所、お前さんに茶室へ呼ばれるまで俺の顔は見えなかったのかよ……」
「ちゃぁんと見えておったよ?故に呼んだのさ」
「嗚呼そうかよ……」
思わぬ事を知り、がっくりと肩を落とす源三郎。
が、今は其れどころでは無いとすぐさま気を取り直す。
「なら、近くに行かねば分からねぇな?行くぞ、」
「人だかりは苦手じゃ」
「此処まで来て其れを言うのかよ?分かり切った事であったろう、」
「けど、なぁ…」
渋るし乃雪の手を源三郎はぐいと握り、強く引く。
「痛い、おい源痛いって」としなるし乃雪の身は引っ張られ、無理矢理に其の中へ。
「ちょいと御免よ、」と声掛けしつつやがて源三郎が、人一人分遅れてし乃雪が、漸く奥の開けた所まで辿り着いた。
岡引は未だ到着していないらしい。
人だかりが途切れた向こう側、溝の岸辺に転がるは事切れた遊女の身。
一人の禿が縋り付くように其れを揺らし、泣きじゃくっている。
只ゆらゆらと為すがままに揺さぶられ、しかし虚ろに天へ向けられた眼が禿へ向けられる事は無い。
「…夕凪(ゆうなぎ)じゃな」
ぽつり呟くし乃雪。
「土左衛門かえ…否、膨れて醜い姿となる前であった故、未だ良き方か」
「昨晩死んだのか、」
「であろうな。
昨日は何時も通り張見世(はりみせ/遊女を並ばせ見せる格子部屋)に向かう姿を見た故にな…… 可哀想に、」
そうか……と小さく呟いた源三郎、泣きじゃくる禿へと近付く。
涙でくしゃくしゃになった顔を上げた其の子供、そう言えば見覚えがある。昨晩し乃雪の部屋へ酒を持ち来た禿であった。
「……お前、昨日の」
「其の禿は名を"ねね"と言う。
夕凪の禿だが、俺に酷く懐いてくれての、時々ああして手伝ってくれるのじゃ。
ねね、…… おねね、難儀だったのぉ。さあ、お出で」
し乃雪の優しい声に、ねねは再びぼろぼろと涙を零しながら這い寄り、大声で泣いた。
し乃雪は其の小さな身をそっと抱き締め、其の姿はまるで母子の様。
其の様子を眺めつつ、源三郎は屍へと歩み寄る。
ヘドロの悪臭に顔を歪める事無く直ぐ傍に跪き、ぐ、と屍の腹を押した。
ごぼ……と其の鼻と口より少しばかり水が溢れ、しかし其の様子を見た源三郎は目を細める。
「……源?
何をしておる、」
問えば、源三郎は屍から目を離さぬまま。
「…… 余り水を呑んでおらぬな。其れに、ヘドロが無ぇ」
「と、言うと?」
「其れに、見ろよ。
溺れ死んだにしては着物が綺麗じゃあ無ぇか?」
言われ、初めて気付く。
溺れ死んだのであれば……、
「……確かに、もがけばもっと着物が乱れる筈、か……?」
「嗚呼。
良いかし乃雪。もし…」
言い掛けた辺り、二人は顔を上げた。遠くより岡っ引の声と走り来る気配がした故だ。
このまま此処に留まるは少々拙い。奉行に疑われれば面倒な事になる…察し、源三郎はし乃雪とねねを立たせる。
「し乃雪、夕凪の部屋は分かるか?」
「嗚呼。…襖を見に行くのかえ?」
「そうだ。其れ以外の事が何か分かるやも知れぬしな……」
言いつつ、其の場を後にしようと二人の身を押す源三郎。
今一度屍の方へと振り返った彼であった…が、一瞬だけ眼が屍の一部に止まり、細められ、又離れた。
……眠る様な、綺麗な顔。
"溺れた者の顔"にしては、余りに……。
其れをまじまじと確かめる暇は無く、彼等は再び野次馬を掻き分けて元来た道を戻って行った。
