アヤカシ太夫♂とイロオトコ

 



 二日目。


 空が白々と明け始め、山の奥より太陽が顔を出すか否かの刻。

 し乃雪は、深い微睡みの中にてある夢を見ていた。
 愛しい人に抱かれる夢……良く見るが、もう叶わぬ夢だ。

 背中に感じる温もりが、細い腰を抱き締める。
 顔は見えぬが、首筋に埋められた唇が酷く熱い。


「………… そ……じ、ろ………」

 名を呼び掛けた所で、彼の意識が先刻よりももう少し浮上し、ぼんやりと目を開けた。

 頬が、涙で濡れている。
 何故泣いていたのか、自分でも分からない。
 今まで知り得ていた筈なのに、目を開けた其の時にはもう相手が誰なのかすら分からなくなってしまっていた。


 冷たい空気が布団より出ている顔だけを冷やし、涙を乾かして行く。
 しかし何時もならば寒さに震えるこの瞬間である筈が、今日は首筋や腰までもが未だ夢に同じく抱き締められているかの如き……

 否。

 実際、其の腹に太い腕が回っており、項に誰かが顔を埋めている。

「?」

 身動きが取れぬまま、し乃雪は首だけを捻り、後ろへを目を向ける。
 視界の端に見えるは……炎の様に紅い髪。
 其処で急激に意識が引っ張り上げられ、彼は飛び起きた。

「っうわ……!!!」

 色気の欠片も無い声と共に、全身が上気していく。
 大きな腕がストンと布団の上へ落ち、しかし目覚める事無くすやすやと寝息を立て続けている其れは、焔屋だ。
 其の声に驚いたのであろうか、更に隣でバンと飛び起きる気配。
 見れば、あの少年侍が目をまん丸に開けて此方を睨んでいる。

「………!!」
「あ、否……すまぬ、起こしてしもうたのぉ」
「…… 貴様!」
「お!?」
「驚かせるな!あの亡霊が来たのかと……!!」
「んふふ、そんなに驚いたかえ?」
「其の顔で笑うな、気持ち悪い!」
「嗚呼そうかえ?悪う御座いましたよ、」

 初めて言葉を交わしたと言うに、始まるは悪態合戦。
 数言からかいあった後、二人はやがて茫然と其の場に座りこける。
 ……意味は違えど、漏れる溜息は同じ安堵。

 ほんの少しして、何処かより帰って来たらしい翆蓮が木戸の向こうより顔を出し。
 尋常ならぬ二人の顔を交互に見、不思議そうに声を掛けた。

「嗚呼、起きたんだね二人とも!
 ……如何したんだいし乃雪さん?顔真っ赤だよ、」
「……いやの、 焔屋が俺の事を抱き締めて眠っておってのぉ……
 驚いて飛び起きたら、其処の野良犬を怒らせてしもうた」
「野良犬…!そう言うおめえは野良狐じゃあ無ぇか!!」
「おお!このし乃雪太夫を野良何某とお言いかえ!?」
「まぁまぁ、
 って……親方、またやらかした?」
「…………"また"、じゃと?」

 素っ頓狂な声と共に紅の目を見開いたし乃雪に、釜戸に火を着けながら翆蓮が笑い、言う。

「親方、寒いのが凄く苦手なんだよ。
 起きている時は如何にでもなるけど、寝ていると如何しても寒いらしくて……
 オイラにも早良兄ちゃんにも良くやるんだ。ね?」
「……嗚呼」
「……加具土の民とはてっきり暑さ寒さに強いものかと思うたが……」
「流石に其処は普通の人と同じだよ、オイラは寒いの平気だけど暑いの苦手だし」

 またしても他意無き触れ合いにしてやられたし乃雪、呆れた眼にて焔屋を見る。
 彼は体を小さく震わせた後、無意識の内にし乃雪の掛け布団までも巻き込み、中にてもぞりと丸くなる。
 其れが先日見た猫の仕草に似ており、クスリと笑み零した。

「こやつは……、」
「そんなに寒いの嫌なら、好い加減嫁さん貰って来れば良いのになぁ」
「全くじゃ」
「だからさ、雪さん来た時は期待したんだけどなぁ……」
「言うでない、これでも男で良かったと思うておるのだからの」
「へぇ、どの辺りが?」
「ん?そうさな………否、やはり女が良かったかえ」
「……今、(おれ)の顔を見て言わなかったか?」

 そうこう三人が会話をする内、焔屋を起こしてしまったらしい。
 再びもぞり動いた後、ほんの少しだけ開いた目で二人を見遣り、未だ覚醒し切らぬ夢心地の声にて呟いた。

「………… さみぃ…………」
「何じゃ!お前さん、其の様な可愛い声を出すのか、」
「……無駄に元気だな、あん……た…………」

 再び突っ伏し、其のまま再び眠り始める焔屋。
 どうも寒さのみならず朝が相当苦手な様子。
 し乃雪と翆蓮が其の様子を見てげらげらと笑い転げ、早良が呆れの溜息を漏らしたのは言うまでも無い。


 何処と無く朗らかな気配の二日目。
 存外元気な早良を見るに、看病が減った分余裕もありそうで。

 漸く山の麓よりお天道様が顔を覗かせたのだろうか、木戸の隙間が薄ら明るい。
 し乃雪は眠り扱けたままの焔屋に翆蓮の掛け布団をも掛けてやった後、ぐいと伸びをして立ち上がった。
 顔を洗った後、今日は自分が飯の準備をする番であった。


 * * * * * * * * * *


「はい、お待ちどう様」

 柔らかな表情を湛えた老婆より差し出された二人前の団子と茶を受け取り、弥次郎は礼儀正しく「戴きます」と頭を下げる。
 其れの片方ずつを隣に座る藍の着物姿の白銀に渡し、彼女もまた「有り難う、」と笑った。


 陽が天に昇った昼下がり。
 弥次郎と白銀は今、江戸城の蔵書を引っ掻き回し情報を入手した後、街道途中の茶屋にて一息入れていた。

 否、大した情報では無い。
 付喪神達から得た情報を元に、別の見方にてもう一度洗い直ししてみた程度だ。
 加具土の民についての詳細は知り得たものの、其れ以上の事については見当たらず。
 結局無駄な詮索は諦め、情報収集を手伝ってくれた白銀にこうして団子と茶を振舞っているのである。


「ねぇ弥次郎さん、聞いた?あの時、城内で変な噂が立っておったのよ、」
「……どうせ下らん噂だろう、」
「何と!あの藤原さんと一緒に美女がおる!って。
 失礼よね、これ程の色男なのにまるで今まで誰も良い人が居なかった様なあの態度!」
「仕方がないだろう、"弥次郎"はそう言う人間だ」

 落ちかけた眼鏡をくいと直し、弥次郎は溜息を零す。
 白銀は逞しい腕に自分の白い腕を絡め、黒髪を揺らして楽しそうに微笑む。

「でも、素敵よね……眼鏡の奥に隠し持つ『真の色気』を知るは、あの女男すら差し置きあたいだけ、って。
 まっこと、あたいが人間の女であったなら真っ先に貴方に嫁ぐのに。
 ね?"鴉獄"」
「……こうして十五年も共に居るだけで充分だ」

 温かい茶を啜りながら、ほう……と景色へ目を向ける。
 続く杉森の中に日光が筋となって流れ落ち、きらきらと輝く残雪が眩しい。
 春の匂いを何処と無く含んだ風が心地良く、弥次郎はふわりとそよがれながらも上空を仰いだ。

 と。
 其処にあったのは、雲を切り裂くかの如く悠々と飛ぶ隼。
 其れはぐるうりぐるうりと大きく旋回しつつ、やがてバサァと弥次郎の目前へ降り立ち、瞬間女の姿となって三つ指を立てた。
 霞である。

「霞!」
「ようやっとお会い出来ましたわ、」

 驚き声を上げる弥次郎。続き、茶屋の右脇の茂みより少年の姿の狛虎がぜぇぜぇと息を切らしながら這い出、道端にて潰れた。

「嗚呼ぁ……疲れたさぁ……」
「狛虎まで……この様な人目に付く所で何を!?」
「申し訳御座いませぬ……実は、急ぎお伝えしたき事が」

 言葉通りの表情を浮かべ、深く頭を下げる霞。
 続き其の姿は一陣の風に包まれ、数瞬の内に純白の馬へと変化した。
 後、金襴にて施された鞍を弥次郎へと向け。

「もしや猶予が然程無いのやも知れませぬ故……さ、御乗り下さいませ」
「……、分かった」


 騒ぎを聞き付け、店の奥に居た老婆が外へと顔を出す。
 其処に居たのは、くたり伸びた虎猫を抱え白馬に跨った雄々しき武士。
 其れが、先刻まで居た卑屈そうな役人の眼鏡無き姿であると気付くまで数瞬を要した。

「おやまぁ……」
「金は其処へ置いておく、馳走になった」

 真っ赤な手綱を引き、白馬は彼を乗せて力強く街道を走り去って行った。


 残された老婆は其の雄姿を見送りつつも暫く茫然としていたが、やがて

「良い男だねぇ……、」

 とだけ呟き、手を合わせ拝んだ。
 其の頬が寒さ以外の理由にて桜色に染まっていたのは言うまでも無い。




「して、何が急ぎなんだ?」

 山野を走り抜ける白馬に、跨る源三郎が声を掛ける。
 どうやら霞に息切れや疲れは無縁らしく、何処からとも無く何時もの滑らかな声が紡ぎ出された。

「昨日の皆様方の御話を拝聴しておりました際、少々思い当たる事が御座いまして……つい先刻、其れを思い出したのです」
「霞、お前さんが何か知っておったのか」
「申し訳御座いませぬ……
 して。
 実は百年近く前でしたか……神無月に出雲へ出向いた際、其処にて千子村正を見掛けまして御座います。
 但し、初代では無く三代目で御座いましたが」
「……三代目?村正は数代続いたと言うのか、」
「ええ。
 今は『村正』の名は幕府が消し去り、分派のみが細々と残っておりまするが。
 其の三代目千子村正が横に引き連れておりました青年が、加具土の民であったのです。
 変わった風貌で御座いました故、神々に御伺い致しました所、其の青年は三代目村正が刀を拵える際に素晴らしい炎を提供する、云わば村正の相棒であると」
「! ……しかし、もし其れが焔屋と関係深き男であったとすれば、村正は焔屋を狙う事は……
 ん?」

「なれば……其の、逆は?」
「……………… 霞。
 何が言いたい、」
「焔屋様が元凶か……
 若しくは、あの時見掛けたあの加具土の民が焔屋様……よもや、亡霊か……」


 彼らを取り巻く空気が、心無し温度を無くし、冷えて行く様な感覚がする。
 故か否か、源三郎の腹に居る狛虎の体温が妙に自己主張し、熱い。


「憶測に過ぎませぬ。しかし……もし万が一そうなれば、太夫が」
「…………」

 ――― ……なれば早良を襲ったのは何故だ……?
 紅蓮とは刀にあらぬ別の何かなのか??

 源三郎の心が複雑に絡み合ったが、しかしもし霞の憶測が憶測で無かったら……危険なのは寧ろ早良の方だ。
 暴れ回っている村正が何代目の作品か、其の真偽は。
 其の様な細かい事を調べる余裕は、……無い。


「……霞、急いでくれ」

 言えば、霞は麒麟の澄んだ声にて嘶き、ガツンと一つ地面を蹴り上げ。
 途端、汚れ無き白い体が鮮やかな赤毛へと変わり、グイと速度を上げ山を駆け下りて行った。


 * * * * * * * * * *


 米櫃を覗けば、握り拳一つ半程度の玄米しか残っていない。

 翆蓮が言うに、焔屋は米が苦手なのだそうだ。
 故に、これは客よりの貰い物を翆蓮がこの冬食した残りなのだが、其れにしても"米が苦手"とは。
 し乃雪は米櫃を傾けつつ「贅沢者よの、」と小さく溜息を付いた。

 先刻早良が釣りに出て魚を手に入れた故、今宵のおかずは味噌煮と決めていた。
 どうやら彼は釣りの腕前が良いらしい、翠蓮が笑顔にて其の腕を賞賛する。
 怪我の具合は大分良い様子。ああして動き回る姿を見るに、もう心配は無用であろう。

 野菜の類はやはり客より毎度貰うものが驚く程蓄えてあったし、腹を満たすには充分であった。
 しかしやはり『飯』が無い事には食うた気がせぬ……と確認した結果が、これだ。


「翆蓮!(かまど)が足りぬ、少々力を貸してはくれぬか」

 言えば、外にて薪割りをしていた翆蓮がひょこりと顔を出し、「あいよ」とニコリ笑う。
 其の傍ら、し乃雪は鍋にて一握りの玄米を炒り、香ばしい香りとパチパチ跳ねる音を楽しみつつ、其処に干し烏賊の足を一本と水を注ぎ入れた。
 玄米粥にし少しでも嵩を増やすつもりだ。


 未だ二日目。
 家事の殆どはまだまだ慣れぬが、時折自ら食いたい物を作る趣味故、炊事だけは板に付いてきていた。
 まるで本当に嫁が料理を作る様な其の姿を、竃代わりに鍋を抱えて火を灯している翆蓮はにこにこと見詰める。
 手際良く飯の支度をするし乃雪はふと其の視線に気付き、ぴたりと手を止めた。

「……何じゃ?」
「別嬪さんに割烹着は本当に似合うよな、」
「お前さんな……」
「雪さん、本当に男なんだよな?」
「昨日共に風呂に入り見たであろうて、」
「うん。でもさ……母ちゃんって、こんな感じなのかなって」

 其の一言に返す言葉が見付からず、し乃雪は目を細める。
 しかし翆蓮は少々重くなった空気を、顔を真っ赤にしつつも自ら破った。

「嗚呼ごめん!暗くなっちまった」
「否……済まぬな」
「良いよ、気にしないで。其れよりほら、焦げるよ」

 言われ、竃を見る。
 ぐつぐつと煮え立った粥は掻き混ぜられる事無く少々色を変えており、し乃雪は慌てて箆にてかき混ぜる。
 其の様が少々滑稽で、翆蓮はクスクスと笑みを零した。


 焔屋はと言えば、相変わらずのんべんたらりと仕事をしつつ、時折転寝(うたたね)をしたり散歩に出たりと、自由気儘に生きている。
 今はまたゴウと口から炎を吐きつつ鋼を打っているが、しかしどうも依頼された農具では無く別の何かの様……気になりつつも、しかし手元を覗く勇気は無い。


 そうこうしている内、思っていたよりも早く晩餉の準備が整い、居間に椀と箸が並ぶ。
 嬉しそうに体を揺らす翆蓮の横にて、し乃雪は焔屋の背に声を投げ掛けた。

「焔屋、飯にしようぞ」
「……、」

 何時もの気だる気な目にて振り返り、焔屋は居間を見遣り。
 重そうに腰を上げた後、瓶にて顔を洗い、ゆっくりと席に着く。

「…… 米ァ嫌ェだ」
「このし乃雪が頼んでおるのじゃ。食い遣れよ、」
「…………丸が未だ帰って来ていねェが?」
「外にて棒を振りながら「後で食う」、だそうじゃ」
「……米は嫌」
「食え」
「………、」

 何時もの焔屋節がし乃雪の一喝にて抑えられ、口を噤む。
 初めて焔屋が負けた姿を目にした翆蓮がまたくすりと笑い、焔屋の拳が中途まで上がる。……が、し乃雪の怒気を帯びた紅い瞳が此方を鋭く睨み付けている事に気付き、渋々手を下ろした。

「乱暴はいかぬぞ、オヤカタ!」
「…… なぁダイコン。アンタ……」
「何じゃ、」
「良い嫁になれるぜ」

 其れは皮肉か、はたまた褒め言葉か。
 どちらとも付かぬ其の一言に溜息交じりに笑い、後、気を取り直して手を合わせる。

「さあ、戴こうぞ。翆蓮、手を合わせるのだぞ」
「こお?」
「そうじゃ。ほれ、焔屋も!」
「…………」
「なれば。戴きます!」
「いただきます!!」
「……………… ます」


 と。
 ふと、し乃雪の耳に猫の鳴き声が飛び込む。
 まるで母を呼ぶ仔猫の如き其れは微かなものであったが、同時、外に居る早良の話し声が其の猫と交わされている様で、無意識に耳が其方へ向いた。

「……ん?」
「如何したの雪さん?」
「ふむ、 ……どうやらお客人の様じゃの」
「お客?新しい鍛冶の依頼かな、」
「否、猫の声がする。
 ……済まぬ。はしたないがちょいと見て来て良いか?」
「うん」

 箸を置き、し乃雪は「済まぬの、」と小さく零し。しかし疼く胸を抑えつつ、外へと出た。





 木戸を開けると、眩い程の金色の光。夕日が残雪に反射し、輝いている。
 其の中、遠く道端にて佇むは早良。
 そして其の傍にちょこんと座っているのは……短い二本の尻尾を揺らす見慣れた虎猫である。
 じっと此方を見、彼は嬉しそうにニャゥンと鳴き零した。

「……こま!」

 驚きに声を上げ、駆け寄るし乃雪。
 其の様子に、早良が猫とし乃雪を交互に見遣り、やがてポツリ漏らす。

「狛虎、知り合いか?」
「にゃーぅ」
「何じゃ、早良。そう言えば狛虎と友達であったの、」
「だッ誰が友達か!こんな、奈々を驚かせておば殿を」
「だァれも奈々尾を虐めようなんざ思ってないからに!
 虐めてるのはお前だろ早良!!」

 突如聞こえた少年の声。
 たった数瞬視界より外れた隙、猫は少年の姿となって早良へ吼える。
 彼が待つ更に先……あの林の入り口にて、大きな馬と人影が佇み此方を見遣っている事に気付いたし乃雪、口喧嘩に花を咲かせる二人の間を割り、其方へと向いた。

「おわぁ!」
「ぬ!?」
「狛虎、あの影……、」
「あーあああそうさ!
 逢いたァい逢いたァい、って、源三郎が来たからによー、」
「「源三郎が?」」

 し乃雪と早良の声が、重なる。
 ふと早良の目がし乃雪を訝しんだが、恐らく彼が源三郎とも仲が良い事に対してのものであろう。

「早良も来いさ、」
「……己は行かぬ」
「えー、」
「そんな顔を向けるな!
 …… そやつとの話だろう?己は関係無さそうだからな」
「んー?そんなに包帯ぐーるぐるで関係無いって言うからにーぃ?」
「よもや、……あの亡霊の話か?」
「来いさー!みんなでお話しなきゃからによー!」

 言うが早く、狛虎はぐいぐいと二人の背中を押す。
「おッおい!」「狛虎、分かった、分かったわえ」と戸惑いの声を上げつつ、三人の影は広い一本道に長く尾を引いた。


 林の入り口にて待つ者……源三郎は、彼が駆け寄って来るなり安堵した様な笑顔を見せ。
 同時、其処にもう一人の姿を見出し、声を上げた。

「……早良!傷はもう大丈夫なのか、」
「源三郎、……嗚呼、もう良い」
「源の字!お前さん、」

 早良の後ろより嬉しそうに名を呼び傍まで来た其の両肩を、源三郎はがしと掴んだ。
 其の突然の出来事にし乃雪は息を呑み、目を白黒させる。

「し乃雪、……無事であったか、」
「なッ?」
「良かった……!」

 何時に無く強い力。心から絞り出された様な声。
 其のままぽんぽんと全身に触れ、くまなく確認して回り始める。

「何かされなかったか?大事無いか??怪我とか呪いとか、」
「何じゃ何じゃ??何処も大事無いよ、ほれ離れてくれ」
「襲われたりしなかったか??」
「はぁ???無いわえ戯け!」
「ッや……否、済まぬ、つい」
「つい、とな?余程鬱憤が溜まっておると見える」
「其れこそ違うわ!」
「なれば早良に見せ付ける為かえ?
 見遣れ、この渋ぅい顔!」

 笑いながらし乃雪が指差した先、其処には早良の不穏な顔。
 ひたすら嫌そうな其の顔は、やがて眉根に皺を寄せたままゆっくり帰路へ向き直った。

「いや早良違えって!悪かったから、」
「……惚気には興味無い!」
「お前も確認しようか?ほら来いよ、」
「やめろ気持ち悪い!
 何故にこうも気持ちの悪い奴ばかり己の周りに……!」
「だから、違ぇて!
 ほら、お前さんにも話して置かねえといけねえ事があるんだ、……帰るなって!な?」

 笑いながら早良を引き留める源三郎。
 渋々立ち止まった早良、其の姿に安堵した彼は今一度し乃雪へ向いた。

「ところで雪、……焔屋の様子は如何だ?」
「ん?ふむ、特にな……まっことのんべんたらりとした男よ」
「其れ以上の事は、例えば……脚が無ぇとか」
「脚??あったわえ」
「真だな?」
「……今日はやけにしつこいな?
 何かあるのならはっきり申せ」

 言われ、源三郎は言い淀む。
 実の所、先に霞が話した事をし乃雪に言うべきか言わざるべきか、彼は悩んでいた。
 何も無ければこのまま話さねば彼に余計な気苦労を掛ける事も無い。
 しかし万が一何か起こってしまった後では…… 。


「……否、何も無いなら良い。
 如何だ、生活の方は?」
「散々じゃ、彼奴め米が苦手であったり畜生の肉を食うたり事ある毎に何か言うて来おる。
 寝ておる時にまでちょっかいを掛けてきおるしな」
「ふぅん…………」
「……何じゃ?お前さん浮かぬな?嫉妬かえ、」
「だっ……誰が嫉妬など!」
「んっ?」

 何時もの調子で答えたつもりであった源三郎の顔を、し乃雪は目を丸くして覗き込む。
 其の瞳が何処か活き活きとして見え、無意識に顔を逸らした。

「とっ、にかく…… 様子を見に来ただけだ!先ずは健やかで良かった」
「真其れだけかぁ?」
「……実の所、家事に慣れぬお前が粗相にて焔屋を怒らせておらぬか不安でな、」
「ほぉ?言うよの、」

 上手く誤魔化し、し乃雪は眉根に皺寄せつつ笑み零す。

 ……しかし、このまま口を噤むにしても。
 もしこの先彼の身に何かがあった時、……否、何か起こってからでは遅い。

 幸せそうな瞳で見上げてくるし乃雪を他所にふとそう考えた後、どうやら察したらしい狛虎が背後にて自らを指差し、に、と笑う。
 源三郎は思い立ち、言を紡いだ。

「雪、」
「ん?」
「何と言うて出て来た?」
「猫の声が聴こえて来たものでな、見て来て良いか?と」
「ならば好都合だ。狛虎を連れて行かぬか?」
「ん? ……おぉ!」

 し乃雪の顔が殊更明るくなる。
 やはり少々心細さがあったのであろう。
 背後の狛虎もコクコクと頷き、し乃雪の隣へ歩み寄った。

「そうか、狛虎と共に居れば良いな!」
「俺なら何かあったら源ン所にすっ飛んで行けるからに」
「"何か"?」
「狛虎! 否、何でも無い。兎に角、な?
 俺は戻らねばならん故、頼んだぞ」

 やはり何か隠しておる……し乃雪の顔が少々曇ったが、しかしそうだとしても狛虎と居れば恐らく困る事は無い。
 にこりと笑い、し乃雪と狛虎は「おう、」と声を揃えた。


「其れと、早良」

 ふと、今まで蚊帳の外にて詰まらなさそうにしていた早良を、源三郎は呼ぶ。

「……、」
「お前さんに訊きたい事があるんだ。
 ちと、二人で話をしねぇかい?」
「嗚呼、良いが」

 早良が頷いた傍、猫となった狛虎と其れを抱いたし乃雪は、ふんわり笑んで源三郎に声掛け。

「其れじゃあ、俺はあすこへ戻っていようぞ」
「嗚呼、……雪」
「ん?」
「気を付けろよ、」
「どの意味で、かえ?」
「どのって………っておい!どのもクソもあるか!」
「んふふ……分からぬよ?」

 ころころと笑った後、馬へと一礼し。
 ゆるり、ゆるり。其の道を楽しむかの様に、ゆっくりと帰って行った。



「……何か、言いたげだな?源」

 早良が言う。

「何が其の喉に詰まっておるかは知らぬが。
 言いたい事は申しておいた方が良くは無いか?
 ……何時か、悔いる事になるぜ」
「…………否。申せば、雪が居辛くなろう。其れに……」

 言い掛け、しかしはたりと口を噤み。

「何でも無い」

 とだけ、返した。


 胸中が掻き毟られるかの如き感覚。
 脳天が破裂しそうな程に、もどかしき感覚。

 其れが何故の物なのか……。
 渦巻く黒いものを胸の奥に押し込め。
 遠退いて行く背中を、只見守るしか無く。

 其れを握り殺すかの如く、拳がきつく震えた。



 * * * * * * * * * *


「済まぬ、遅うなった」

 にこにこと笑顔にて戻って来たし乃雪に同じく笑顔で「お帰り!」と翠蓮が迎える。

「あれ、兄ちゃんは?」
「もう少し外にて棒きれを振り回したいとさ」
「そうか…さっき鳴いていたのは其の子?」
「嗚呼、俺の猫じゃ。どうも俺の姿が見えず方々探し回っておったらしくてな……」

 幸せそうに目を瞑っている猫を翠蓮は覗き、顎の下を擽り。
 気持ち良さそうにごろごろと喉を鳴らす猫が可愛いらしく、彼は猫と同じ表情にて愛おしむが、相変わらず黙々と食事を続けている焔屋は特に反応を見せない。


「のぉ?焔屋、」

 声を掛けられ、漸く目だけを向ける。

「……何だ」
「済まぬが、明日までこの猫も共に置いてはくれぬかえ?
 飯は俺の分を与えるし、こやつは悪さはせぬ良い子じゃ」

 さすれば、焔屋はちらりと猫を見遣り。
 くると振り向き顔を向けた猫と一瞬目が合えば、彼は詰まらなさそうに小さく息を吐き、漏らす。

「名前は、」
「ん?嗚呼、狛虎じゃ」
「ふぅん……」
「眠る時は丁度良き暖にもなろうぞ」

 狛虎は驚いた様な目にてし乃雪を見上げる。
 其の目は何か訴えており、し乃雪は済まぬと唇を動かし、申し訳無さ気な色を浮かべた。

「……」
「……猫は苦手か?」
「………… しょうがねぇ」

 目を伏せ、やはり溜息混じりに。
 し乃雪と狛虎の顔が明るくなり、彼はついと焔屋の傍へと座り、其の肩に寄り掛かった。

「済まぬの、焔屋……有難う」
「……さっさと飯を食え。食うぞ」

 そう低く言われ、し乃雪はふと気付く。
 彼が手に持つ椀の中身は減っておらぬ様に見えたものの、未だ鍋の中に残っていた筈の粥はすっかり無くなってしまっている。

「ん?翠蓮、お前さん粥を全部食うたのか?」

 不思議に思い問えば、翠蓮の顔がにぃとさも愉快そうな笑みになり、しかし何も言わずに焔屋を指差す。
 再び見上げれば、焔屋の椀は今し方の間に空となり、其の喉がごくりと鳴った。

「……米は苦手では無かったのか焔屋?」
「…………食って悪いか」
「否?早良の分がもう無い故にの」
「!……作り方……翠に教えとけ」

 そうとだけ言い、寄り掛かるし乃雪を退けて彼は再び鍛冶場へと向かう。
 ちらと見た其の顔が少し赤らんでいる気がし、し乃雪はこみ上げてくる笑いを暫し抑えていた。
 可笑しいと同時、酷く嬉しいのであった。