日ノ夲ノ四季ハ
相モ變ハラズ美シク
何モ存ゼヌ民逹ハ
雪解ケ始メタ光ノ中ニ
今日モ又、掌ヲ合ハセ
近附ク春ヘト
思ヒヲ馳セル
何時の間にか、日差しは辺りを白く染め上げていた雪を溶かし、小さなせせらぎときらきら輝く雫が生くる者へ息吹の季節の到来を知らせている。
雪割草の花が未だに冷気含む風に吹かれ、しかし何処か嬉しそうに揺れている。
早春。
この島に住まう者達は、この季節をそう呼んでいる。
奈々尾は、相変わらず縁側にて笛を吹き、時折ふと其の手を止めては吹き込んで来る風に身を縮め、色彩を取り戻しつつある空の向こうに思いを馳せる。
――― ……思えば、あれからひと月は経つのか……。
其の膝には、友の頭があった。
何時もの事だ、彼……早良は、天気の長閑な日にはこうして奈々尾の膝にて眠る。
奈々尾は其の頭をそっと撫で、以前この膝上を独占していたあの柔らかな獣を思い。
小さく、呟いた。
「…… ねぇ、兄さん……
あれから如何なったんだい?」
「ん?あの話の続きからに?」
奈々尾が寄り掛かっていた虎獅子が、うとうとしていた目をぱちりと開き、大きな頭をぐいと持ち上げる。
寒いであろう、と、狛虎はあの虎獅子の姿にて丸くなり、奈々尾は其の腹の辺りにくるまれていた。
其の毛並みは狛虎が猫の姿となった時とほぼ変わらぬ程に柔らかく艶やかで、奈々尾は幸せそうに其の腹に寄り掛かっている。
……狛虎の姿に、あの時に出来た老いの痕は残っていない。
「んー…… さぁ」
「さぁって……だって、無我夢中で其の大穴を飛び立って、龍神様へ向かったのだろう?」
「其れが、目も耳も利かなかったからに……意識も半分吹っ飛んでて、覚えているのは喰われた瞬間の痛みだけさ」
「…… 生々しいなぁ……」
「済まんさ、」
眉をしかめ肩を窄める奈々尾に、狛虎は苦笑した。
口元から生える太い牙が言葉に似合わず、奈々尾の表情は穏やかな笑顔。
「でも……本当に、良かった。
兄さんが飛び出して行ってから、凄く不安で仕方が無かったんだ」
「……心配掛けたからに……」
「己はさっさと消えて欲しかったがな?」
「こら早良、」
何時の間にか目を開けていた膝上の早良が皮肉を言えば、奈々尾が苦笑して其の額をペチと叩く。
其れが早良流の冗談である事をつい最近知った狛虎も、今は本気に捉える事無く、しかしわざとらしく口を尖らせて顔を覗き込んだ。
「龍様にゃあんただけ消してくれる様に頼めば良かったかね?」
「神に"一人だけ消せ"等と言う手数を掛けさせるのか?化物らしい考えよ」
「聞いてくれるかも知れないからによ?」
そう意地悪そうに言い放ち、何か言い返そうとした早良の口元に長く太い尻尾をわっさと乗せ、塞ぐ。
「むがっ……」と頓狂な声を上げた早良の様子が可笑しく、奈々尾と狛虎は声を上げて笑った。
寒さに負けず遊び回る小鳥達が、ぱさぱさと飛び立つ。
穏やかな時間が流れ、其の様はまるであの縦穴の中に居るかの如く。
……何と美しき、この島よ。
狛虎は大きな欠伸をしながら、改めて心より思う。
――― 雫彦の……龍の胸に抱かれて、俺達は……
と。
"ひゅぅ……、"
一陣の風が、其の場に居る皆の周囲をくるりと撫で、駆け抜ける。
ふと顔を上げた狛虎が塀の上へと目を向け、其処に見た姿に思わず息を呑んだ。
「っ……!?」
限り無く透明な其れは、前に狛虎がした様に塀の上へ座り、微笑みながら脚をゆっくりとばたつかせている。
しかし其の姿は直ぐに空気に溶け、消えた。
「兄さん?」
気付けば、狛虎は身を乗り出して其の姿を目で追っていた。
恐らく奈々尾と早良には何も見えていなかったのであろう。
不思議そうに狛虎へ声を掛ける奈々尾の顔に、今し方見えた者に対する疑問の表情は見受けられない。
「ん?」
「如何したの、」
「うん………… 多分、見間違いさ」
言うも、何処か煮え切らぬ様子の狛虎。
奈々尾は其の姿にくすりと笑みを零し。
「良いよ、」
「ん?」
「気になるなら、行った方が良いと思うんだ……
行った後悔より行かぬ後悔の方が大きいよ、きっと」
「う…… ……流石に奈々には叶わぬからにな、」
心中を見る目の鋭さは、奈々尾独自のもの。其れを改めて気付かされた狛虎、いやはや……と笑みを零し、そっと奈々尾の温かな背より離れ。
奈々尾が振り向いた其の時には既に少年の姿。
彼はタンと地を蹴り、塀の上へと飛び乗った。
「……あ…………少し、思い出したさ」
ふと狛虎の動きが止まり、小さく呟く。
「先刻の話?」
「うん。きっと、帰って来た時にはもっと思い出せるからに」
「待っているよ、」
「ん」
にこ、と微笑みを浮かべた後。
何時もこの屋敷を去る時と同じ様に、彼の姿はぽぉんと塀の外へと跳び、消えていった。
「……何故にあの猫は妖なのであろうな、」
不意に沈黙を破った者は、意外にも早良。
隣にて胡座をかき狛虎の消えた先を見詰める早良に、奈々尾は驚きの面持ちにて振り向く。
「珍しいね、早良が兄さんの事をそう言うなんて」
「……人間より人間臭ぇよ、あいつは……」
「早良、焼き餅?」
「違わい、」
恥ずかしそうに零された其処に、ほんの僅かだけ笑みが乗る。
軽く早良とじゃれ合う奈々尾も又、笑顔だ。
* * * * * * * * * *
春は近し……と言えど、やはりまだまだ其の足音は遠く。
風に乗って舞い去っていくあの姿を追いながら、狛虎の体は空気に温度を奪われ、冷たい。
止まる事無く、どの位走り回ったであろう。
気紛れな風に翻弄されながら辿り着いた先は、未だ春色を見せる事無い純白の雪原であった。
日が西へ傾き、空が青と金、橙へと変わり行く刹那の刻。
氷の粒一つ一つが光を帯び、広く広い雪原を埋め尽くした其の真中。
息を切らした狛虎が只独り佇み、限り無く透明なあの姿を探した。
――― ……居ない。
其の広大な景色を見渡せど、あの姿は無い。
只遠くにある木々がざらざらと強い風に揺られ、時折其れが何かが走る姿に見えて狛虎を驚かせたが、其れだけであった。
「…… やっぱり……気の所為なのかな……、」
雲が駆け足にて流れ行く空を仰ぎ見、狛虎は其の場にどすんと座り込む。
途端、尻からじわりと氷の温度が染み入り、肌がぞくりと縮こまった。
空が、刻一刻と色彩を変化させて行く。
ほぅ……と漏らされた溜め息は空気を白く濁し、直ぐに流れて消えた。
美しくも物悲しい其の景色は、まるで大地が自分の様子を探っている様。
ついに狛虎は立ち上がり、声を上げた。
「なぁ……なぁ!
もしも、先刻の姿が幻で無かったならば……聞いてくれさ!」
広大な大地に、狛虎の声がこだまする。
「……俺、前は人間の飼い猫だったさ!
今もうろうろしているけれど……
だから、ずっと思っていたからに!
俺、半分人間の様なモンさ……!
人間の汚い所も……綺麗な所も……知っているからに……」
何時しか、其の目には大粒の涙が溜まっていた。
少年の身は俯き、力が抜けたかの様に其の場に崩れる。
跪いたまま、只溢れ出る想いだけが先走り、其れは口を突くより先に頬を伝い、流れ落ち。
其れでも何とか心を落ち着かせ、深呼吸を繰り返し、狛虎は今一度頭を上げた。
「……だから……だから、申し訳無くて……悔しくて!
何と言えば良いか、俺莫迦で分からんけど!!
本当に……、御免……御免な……!!」
< >
ふと。
誰かが静かに耳元にて何か囁いた様な気がし、ぴくりと体が震え。
ぼろぼろと涙を零した顔を再び上げた、其の刹那。
< >
……ふわり……。
先刻まで肌を刺す程に冷たかった空気が、狛虎の周囲だけ春風の如く暖かく柔らかな物となり、彼をくるくると包み込み。
其の目前にて、あの透明な姿がするりと弧を描き、狛虎の鼻先へと寄った。
「…………雫……彦……」
掠れた声にて名を呼べば、浮かんだのは少女の如き無垢な笑顔。
こくり……其れは小さく頷き、やがて周囲の空気に溶け、消えてしまった。
ほんの刹那の刻。
あの笑みが、瞳に焼き付く。
其れは、間違い無く狛虎の目を真っ直ぐ見詰め、彼の心へ"言葉"を刻んだ。
「………… うん…………!」
小さく、しかし力強く、頷く。
今の狛虎には、其れが精一杯であった。
また、今年も春が来る。
悠久の刻を繰り返して来た様に。
次第に溶け行く冬の結晶はやがて命の息吹と変わり、森羅万象を目覚めへと誘い、世は生命に溢れ出す。
目を瞑り、未だ冷たい空気を胸一杯に吸い込み、頭上を見。
漸く乾いた頬に、後一筋だけ、涙が流れる。
「……有難う、」
もう、自分の目前へ其の姿を現す事は無いであろう。
言葉にならぬ確かな実感を抱きつつ、しかし心中に漸く春風が吹き込んで来た様で。
狛虎を包む風は、何時までも彼から離れようとしなかった。
其れが、答え。
あの時あの小さな島にて、広大な世と小さな猫が交わした……
永遠なる約束の、欠片。
漸く薄ぼんやりとだけ思い出し、狛虎は雪原の中心で、微笑った。
龍 完
