広大な森のほとりに、其の村はあった。
小さな小さな村だ。人数等たかが知れている。
其の村で、数年振りに祭りがあった。
祭り、……否。
其れは世間が言う祭りとは程遠く、酷く重苦しく、暗く、陰険で。
一つの家に、タン、と矢が突き立った。
真っ白な羽根の矢。
男達は其の家に踏み込み、数言住人に言葉を交わし、やがて童子を連れて出て来た。
齢十に満たぬ、女児。
自分が連れられて行く意味を知ってか知らずか、泣き叫ぶも笑うもせず、顔をひくりとも動かさぬまま。
……其の顔に浮かぶは、諦め。
真っ白な装束を着せられた。
結わえていた髪をくしけずり、椿の油で艶を出した。
白粉に紅で化粧をした。
そして、蹲って漸く入る程に小さな酒樽に、彼女は押し込められた。
何度も、何度も、揺れた。
暗くて狭い樽の、隙間から漏れる光が、少しずつ弱くなっていく。
足音と揺れで、移動しているのだと知った。
足場が悪くなったのか、揺れが心持ち大きくなった辺りで、男達は大声で歌い出した。
サンゲ、
サンゲ、
ロッコンショウジョウ
コンガラドウジ、セイタカドウジ
ナムタカミズサンナミキリシラフドウミョウ
アタゴゴンゲン……
大天狗、
小天狗、
キミョウチョウライ……
ワラシノ……
有間山ノ黒雲が、雨が三粒降ったらば
三日も四日も休むべえ……
低い声で、強弱も無く、其れは不気味に地を震わせる。
何度も何度も繰り返される其れは経にも聞こえ、彼女の身がぞわりと萎縮した。
一人の男の声が、重々しく、小さく、語りかけてくる。
「……良いか。蓋が開くまで絶対外に出ちゃなんねえぞ」
童子は何も言わなかった。
ある所で、止まった。
差し込んで来る光は酷く暗く、辛うじて朱い。
がこん、大きな揺れと衝撃。
やがてもう一度あの唄を繰り返した男達の気配は、寂しそうな足音と共に去っていった。
静かな時。
動物の気配は無い。
鳥の声は遠い。
鵺鳥だろうか。ヒィー、ヒィー……と、頭上を割いて横切っていった。
光が落ちていく。
空気が冷たくなっていく。
ゆっくりと、ゆっくりと、時が流れる。
童子にとって、其れは何日にも何日にも感じた。
次第に恐ろしくなり、頭上の蓋を開けようとした。
しかし、そう言えば金槌でしっかり打ってあった事を思い出した。
彼女のか弱い力でなぞ開く訳が無い。
まして、蹲ったままでは本来の力すら出ない。
やがて彼女は泣き出した。
恐怖と、心細さ。
あの村にはもう帰れぬと言う絶望。
泣いても、誰も助けに来てはくれない。
知っていた。
此処は、富士の裾にある広大な樹海。
人等、居る訳も無いのだ。
泣き疲れて、何時しか眠っていた。
月の光が木々の合間を縫い、偶々小さな樽を照らした。
"カコン……"
小さな衝撃と、音。
びくりと童子の身が震え、咄嗟に光の方を見た。
蓋が無い。
丸い大きな月が、何か動くものの影になっていた。
人……違う。
角が生えている。
其れが何か、童子は思い出す。
これこそが、この森の神だと。
――― 生きておるのか、人間め。
震えて声が出ない童子に、其れは声を掛けた。
――― 全く、我はこの様な物は要らぬと言うたのに。
この様な物で何をせよと言うのだ。
男とも女ともつかぬ声が、愚痴と溜息を漏らす。
――― 出遣れ、人間。
巣へ帰り、人間等金輪際要らぬと伝えよ。
森を汚すな、と。
"びゅぅ……"
強い風が、身を駆け抜けた。
入っていた樽が粉々に割れ、次の時には何か長く太いものの背に乗っていた。
月の光から出来た様な、銀色の、美しい鱗。
温かく息衝く、たてがみ。
眼下に広がるは、あの森……
童子は、飛んでいた。
気付けば、明け方であった。
烏が起き出し鳴き始めた朝……
朝日の遠い遠い向こう側に、長い物がゆっくりと飛んでいた。
自分は、助けられたのだ。
其の時は、そう思っていた。
そう思っていた、筈であった。
* * * * * * * * * *
獸ガ走ル 道無キ道
噂ニ聞クハ祕境ノ澤
樹海ニ眠ル永遠ノ森
其處ニ眠ル妙藥ト
其處ニ眠ル神々ト
未知ノ輝キニ胸躍ラセテ
獸ハ走ル 道無キ道
今日は、少々空気が違うな……
其処に佇んでいた者はふとそう思うと、沢の陰へと姿を隠した。
其処は、完全に時の流れを止めた、秘境。
青と白で形作られた山の麓に広がる深緑の帯は、しかし今は季節より早く降り積もった雪にて白く濁り、沈黙を続けている。
富士の樹海……知る者は、皆そう呼ぶ。
足を踏み入れたが最期、人間は誰も生きて帰り着く事が出来ぬ……まことしやかに、そう囁かれ続けている。
そして、誰も生きて帰れぬ筈である其の樹海に、もう一つの噂があった。
……広大に広がる樹の海の中心に、ぽっかりと空いた大きな縦穴。
一年通して暖かな其処には美しい風景があり、穏やかに過ごす動物達がおり……
そして、"神"が住んでいる……と。
事実、樹海の中心には崖の如く突然窪んだ場所があった。
重く雲が立ち込め雪吹雪く中ですら、其処だけが何時もきらきらと光と陰に溢れ、シダや苔、そして木々がさらさらと小さく囁いては揺れ歌う。
崖の上からは細い滝が底へと流れ落ち、底にて湧き出る泉と合流し、沢山の魚達がきぃんと冷たい其の水の中を緩やかに泳ぐ。
時折何処からか訪れる鹿や兎が泉にて喉を潤し、植物で腹を満たし。
そして、其の大穴の主に軽く会釈した。
其の穴の縁……遥か天井に、今日は普段見掛ける事の無い生物が立っていた。
山猫……否。
茶虎柄の、里であれば普通に見掛ける猫だ。
只、其の小さな背に魚篭を背負い、酷く深い其の底を見下ろしては前足を震わせ、何かを躊躇している様で。
やがて、短い二本の尻尾をピンと立て、意を決した様にフンと鼻息を荒く吐き。
ぴょん。
全身を目一杯広げ、其の穴の中へと飛び込んだ。
* * * * * * * * * *
「……何、太夫が?」
手水舎の凍り付いた水面に指を突っ込んでいた朧が、狛虎の言葉に耳を疑った。
続き、傍に佇んでいた霞もまた驚き、口元を両の手で覆い隠す。
「太夫…… 私が余計な事をしたばかりに、」
「其れは大丈夫だと思うからに。
聞けば、何にせよ太夫は巻き込まれて当然だったみたいさ」
境内の傍にある大きな石の上で、狛虎は少々寒そうに身を縮めながら言う。
「でもなぁ……ずっと放心した挙げ句まだ起きないんだと……心配さ」
「確かに、少々気に掛かるな……」
「なぁ朧、何かこう元気が出る呪いとか食い物とか……知らぬからに?」
「……ふむ」
氷水に長らく浸けていた指をぴっと振り、水滴を飛ばし。
朧はさて困った、と言う様な面持ちで腕を組む。
……が、案外早く其の顔が上がり、「嗚呼、」と閃きの声を上げた。
「さすれば、少々手間は掛かるが……あれは如何だ?なぁ霞よ、」
「あら、其れは良いやも知れませぬわ!太夫もお好きそうですし」
「ん?何かあるからに?」
妙な意志疎通にて納得した二人に、何時もながら訳が分からず聞き返す狛虎。
朧は珍しくニッと笑顔を作ると、狛虎が座る隣にストンと乗り、何時の間にか手にしていた人の頭程の魚篭を掲げた。
「富士の樹海の真中に、万年初夏の縦穴がぽっかりと口を開いておるのだ。
其処にある泉に住む川魚は、食うた者に力を与えてくれるのさ」
「川魚からに!?俺も食うてみたいさ!!」
「であろう?狛虎なればそう難しくも無かろう」
朧が手渡そうとした魚篭は、其の前には狛虎が奪う様に手にしていた。
顔に満面の笑みを湛え、狛虎はぴょんと軽く岩の上より飛び降り。
「ならば早速行ってくるさ、善は急げと言うからに!!」
走り去ろうとした所で、しかし
「嗚呼。狛虎よ、」
と朧が思い出したかの様に彼を呼び止め。
急に止まり転びそうな所を何とか押し留まり、狛虎は若干煮え切らぬ顔を朧へと向ける。
「ん?如何したさ?」
「大事な事が抜けておったな、」
朧もまた岩よりふわりと降り立ち、狛虎の前へ立つ。
少々神妙な面持ちにて狛虎の目を見れば、其の肩を両の手で掴み。
「良いか狛虎。
あの縦穴は此処に同じく神の住む場じゃ。粗相は控えろよ。
其れと……、」
ほんの少し言い淀むが、次の時にはもう一度狛虎を睨み、はっきりと言い放つ。
「其処に住む者には余り関わるな、最低限の礼儀のみで充分だ。
……恐らく、余り良い事は無いやも知れぬからな」
「? 如何言う意味さ?」
「否…………何も無ければ其れで良いのだが」
まるで子供にするかの様に、朧は其の頭を数回優しく撫でる。
其れは相手の無事と幸運を祈る行為であったが、意味を知らぬ狛虎にとって只心地の良いものであった。
「くすぐったいからに、」
身じろぎし照れながら呟く狛虎に、朧は僅かな笑みを向け。
「気を付けるのだぞ、」
そう言うと、彼の背をポンと叩き押した。
* * * * * * * * * *
暫く風を切り落下していた猫は、やがて身を屈め衝撃を和らげる体制に入る。
が、其の身は冷たく湛えられた泉の中心に、ザバァンと盛大な音を立てて突っ込んでいった。
数瞬もせぬ内に背の魚篭が浮き上がり、其れにしがみつく猫は必死な形相で荒い呼吸を繰り返す。
落下の衝撃に対しては上手く逃げた様で、猫はうにゃうにゃと何か呟きながら頭上を仰ぎ見、髭をふるりと震わせた。
遠い、遠い、天井。
果たして帰る事が出来るのであろうか……其の様な事を思っているのであろうか。
しかし、其の天井は先刻の垂れ込めていた曇り空とは表情を変え、木々の合間より差し込む柔らかな春の日差し。
猫らしからず、首を傾げる。
湧き出たての透明な水がじんじんと体を刺し、痛い。
感覚が無くなり始めた体を奮い立たせ、魚篭の紐をくわえて漸く苔むした岸部へ辿り着き、バババ、と身を震わせて雫を払った。
泉に住む生物達は驚いて暫く身を隠していたが、猫が岸に上がり毛繕いを始めた辺りにはもう何時もの様に優雅に泳ぎ始めており。
ずぶ濡れになったお陰で毛が肌に張り付き、見た目痩せ細った猫は目的の行動に移る気力が湧かず、差し込んで来る暖かく長閑な日差しに暫し身を委せる事にした。
……其れは、新緑の山毛欅の森に居るかの様な、心地の良い光だ。
揺れる枝葉より漏れ注ぐ木漏れ日がきらきらと瞬き、天辺より休まず降り注ぎ続ける滝の周辺に、小さな虹を作っている。
酷く暖かい風は、しかし木々と水辺を抜けて冷気と水分を含み、また何処かへと吹き抜けて行く。
さらさらと音を立てる美しき世界に、猫はじっと目を瞑り、耳を傾けていた。
時が経つ事を忘れ、やがて温もりは微睡みへと変わり、猫は眠りの闇へと堕ちつつ、何かを思い出していた。
遠い記憶にあった、自分を好いてくれていた人間の膝の上であったり、丸まった母の腹の辺りだったり……
何れにせよ、其れ等は同じ様に暖かく、安心する場所であった。
…… どの位時が経ったのであろう。
微睡みより意識が少し浮上した頃、不意に気配を感じ、猫は飛び起きた。
一瞬、日光の影となっていた其れは、果てしなく長い胴体を持つ巨大な怪物に見えた。
猫の体が酷く跳ね、硬直する。
しかし、再び見上げれば其れが人の形である事に気付く。
其れでも警戒を解かず、じりじりと後退り、やがて覆い茂るシダの中へ脱兎の如く身を隠した。
何本もの光の筋が天井より揺れ射す其の中に、其れはじっと佇み、此方を伺っている。
……人間の形だが、良く見れば明らかに人間では無い。
黒銀の髪からは人に生えている筈の無い鹿の様な角があり、蜥蜴か蟒蛇の様な尾がしなやかに揺れ。
水干より覗かせる肌に、月光の欠片を重ねた様な銀の鱗が、細波の如く揺れ輝いている。
其れが、表情こそ見えぬものの……遠くからでも分かる程に鋭い蟒蛇の瞳にて、此方を見詰めているのだ。
猫は恐怖で身が竦み、何時もはピンと立っている自慢の耳が寝そべってしまっていた。
今の内に逃げ場を目視にて確認する余裕も無く、只体を小さくし、息を潜める。
既に見付けられ無駄である事は承知、しかし他に術は無い。
隙が無い。
動けば直ぐにでも身を千切られるやも知れぬ……
滲み出る其の圧が、猫の身を心底竦ませる。
……じっと見詰めていた異形は、やがてゆっくりと体を屈めた。
其の足元に転がっているのは、とっさに逃げた際に猫が忘れていった魚篭。
其れをそっと拾い上げ、再び此方へ顔を向け。
小さく開かれた口、しかし上げられた声は遠く身を潜める猫の耳へとはっきり届く、澄んだ声。
「魚を捕りに来たのか?」
……声を聞いても、あの者が男なのか女なのか区別が付かず。
酷く穏やかで落ち着いた声、狂暴そうな外見に何処か不釣り合いな感覚。
猫の強張っていた体は気付けば少しずつ解れ、やがて一歩、また一歩……とシダの林より歩き出。
しかし其の顔は未だに警戒の色を薄めておらず、蟒蛇の人の口角が僅かに上がる。
「はて……面白い。
人すら足踏み入れぬこの奈落に人飼う猫か。魚狙いか、」
そう呟き、蟒蛇の長い尾がまたゆらり揺れ。
其れは其の場へゆっくりと腰を下ろし、言う。
「この魚達は素速き故……汝には捕れぬよ。
何匹欲しておる?」
茂みの隙間より目だけを出していた猫は、漸くゆっくりと這い出す。
耳はまだ寝そべったままだが、しかし埒があかぬと知ったのであろう、ゆっくり……ゆっくり、蟒蛇の隣へ。
其れでも数尺は距離を保ち、異形が居る岩の麓にて体を丸め、まん丸に開いた目でじっと蟒蛇を見詰める。
良く近付いてみれば、蟒蛇の顔は確かに美しきものでは無い。
しかし鱗に覆われた爬虫の其れは穏やかで、口元から漏れる鋭い牙は動く物へ剥けられた事が無い様で。
其の様子に軽く眉根を寄せた異形、袖を捲り。
「……なれば。
欲するだけ押し付けてみようか、」
蟒蛇の顔が少々不敵に笑み歪み、猫を横目で見。
其の意味を理解しようと猫がぱちくりと瞬いたのと、蟒蛇の左腕がブンと唸りをあげ派手に水面を叩いたのは、ほぼ同時であった。
ビク、と猫の身が震え、其の目前にたった今水中より弾き飛ばされた岩魚がびちびちと暴れ出す。
丸々と肥えた岩魚は虹色の鱗をぬらぬらと艶めかしく輝かせ、しかし元気良く跳ね回る。
しばし其れに目を奪われていた猫の頭に、今度は山女が強か直撃した。
ギャッ、と悲鳴を上げて転がった猫の周囲は、気付けば沢山の川魚達が其の場を埋め尽くし、皆が皆賑やかに跳ね回っていた。
生命溢れんばかりに跳ねる魚達を前に、しかし猫はやはり蹲ったまま、其の様子に見入っている。
否、寧ろ如何すれば良いのか戸惑っている様にも見え、一頻り鬱憤を晴らした蟒蛇は面白く無さ気に口を尖らせる。
「……詰まらぬ」
其れを見ていた猫も、蟒蛇が機嫌を損ねた事に気付いたのであろう。漸くゆっくりと座り直し、姿勢を正して蟒蛇を見上げ。
「…………にゃん、」
と小さく鳴き声を漏らした。
途端、蟒蛇の表情がぐっと明るくなり、素直な笑顔が漏れ。
大岩より降り立った其れは猫の前にて屈み、縦に細い両の瞳で猫の顔を覗き込んだ。
「何だ、同情でもしておるつもりか?たかが猫の分際で。
……良い。この魚、持ち帰るのであろう?」
「にゃ……」
「何処から来たのか知らぬが、このままでは直ぐ悪くなろう……
しばし待て、」
言い終わった頃には、川魚達はぎゅうぎゅうに魚篭へと押し込まれていた。
蟒蛇はすっくと立ち上がり、尾をゆるり揺らして壁の方へと向かう。
良く見れば、長く伸び育ったシダの奥に人一人漸く潜れる程度の小さな穴が空いており、蟒蛇は其の穴淵に角を引っ掛ける事も無くするりと入っていった。
閑散とした空気が辺りを取り巻き、座り待つ猫の虎柄の額が冷たい風に煽られ、逆立てられ。
何処か寂しい様な、若しくは安堵した様な心持ちで、親指程の二本の尾をゆっくり揺らしながら、彼は時が経つ様を見守っていた。
蟒蛇が再び穴より姿を現したのは、天井より差し込む光が茜色に染まりかけた頃。
今が晩秋である事をすっかり忘れてしまいそうな程、草いきれを含んだ暖かな夕の光。
猫が目を細めて日光を全身に浴びていた辺り、カサリと小さな音を立てて蟒蛇がシダを揺らす。
「待たせたな。ほれ、土産じゃ」
どん、と目前に置かれた魚篭は、先刻よりも少々重さを増している様であった。
其の様に再び身を屈め後ずさろうとする猫の前に、蟒蛇は一匹、ぽいと放り投げ。
「一匹喰うて行け、」
そうとだけ言い放つと、蟒蛇はふと先刻の穴とは逆の壁を指差し。
「あの先を進め」
其れ以上何をするでも無く、あの穴の中へと姿を消していった。
鼻先に落ちている魚は、腑と頭を落とされており、猫にとって其れは良い匂いを放ち、空の腹を鳴らした。
猫は其れにそっと近付き、ぴすぴすと鼻を鳴らして警戒したが、やがて堪らなくなったらしい。
そっと歯を立てたかと思えば、がぶり、がぶりと食らいついた。
美味い。
塩と酢で〆られた其の魚は身にたっぷりと脂を蓄えており、猫のざらついた舌ですら滑らかに流れ、香ばしき風味と共に腹へと消えていく。
彼は夢中で食らいつき、しかし其のせいで魚は直ぐに尾鰭を残して全て腹の中へと収まってしまった。
もう一匹……欲が脳裏を掠めたが、しかしこれ以上喰うてしもうたら恐らく止まらなくなるであろう。
思い留まり、塩と魚で重くなった魚篭を何とか背負い、先刻蟒蛇が指差した方向へと目を向けた。
シダの陰に隠れ、蟒蛇が消えた穴よりも一回り大きな其れが其処には開いていた。
先刻より吹いていた暖かくも冷たい風が、滝が作る空気の渦となり其の穴へと抜けていく。 ……恐らく、この穴を抜ければ。
猫は、蟒蛇の穴へ向かい姿勢を正し、暫し見詰めた後。
ぺこり、と深く頭を下げ。
踵を返し、意を決した様に駆け出した。
何度か振り返り、……しかし、あの姿はもう穴の奥より出て来る気配は無い。
其の小さな体が穴の闇へと消え行くは、瞬く間の事であった。
