校門を抜けると、初夏の柔らかな陽光が降り注いでいた。
勾白は背負った鞄の肩紐を少しだけ直しながら、ゆっくりと坂道を下っていく。かつてこの学校を覆っていた肌を刺すような冷気や、どこからか見つめられているような視線はもうどこにもない。
学校に伝わっていた戯陀跋扈という名の怪談は、今や誰も話題にせず、古ぼけた噂話にすらならず消えてしまった。佐島と祖父とともに燃やし尽くした呪いは、確かに根絶されたのだ。
新学期が始まり、二年生となった彼の生活は、驚くほど平穏だった。校舎に蠢く怪異はもういない。つまらないと言えば、前生徒会長に叱られるだろうか。
瓦屋根と煉瓦造りの壁が織りなす、和洋折衷の自宅の玄関を開ける。使い古されてはいるが、丁寧に磨かれた革靴が並んでいるのが見えた。家族のものではない。だが持ち主に心当たりがある。
「ただいま戻りました」
廊下を進み、仏間の襖を静かに開ける。
祖父の遺影に向かい、静かに手を合わせている老人の背中があった。
白髪が混じり、少し丸まった背中。だがその纏う空気を勾白はよく知っている。
「ああ、お帰り。お邪魔してる」
「……マメですねえ、佐島先輩」
勾白は苦笑しながら、その隣に腰を下ろした。老人――六十七歳になった佐島友志は、勾白を見て相好を崩した。深く刻まれた目尻の皺が穏やかにたわむ。
「ここに来ると、鼎と話をしているような気分になれるんだよ」
佐島は遺影の中の祖父を見つめ、慈しむように目を細めた。五十年前の樹良高校で戯陀跋扈を解放したことにより、佐島が夢幻回廊に落ちた過去もなくなった。祖父とまっとうな学生生活を過ごし、まっとうに歳を重ねていったのだ。
「二年生になってどうだ。慣れた?」
「変わりませんよ。生徒会長になってみましたが、あんまり意味ないですね。……ああ、そうだ。劔さんのことですが」
勾白の言葉に、佐島は興味深そうに眉を上げた。
「相変わらず堅物ですよ。大学に進んでも何かと僕に説教臭い連絡を寄越してきます。今度直接会いに行ってあげてください。きっと喜びますから」
「はは、そうか。劔さんも相変わらずなんだな。分かった、今度顔を出してみるよ」
佐島は楽しそうに笑う。
「それと」勾白は含み笑いした。「二年の担任は、丹部という人になりました」
佐島はぽかんと口を開けた。それから、そうか、そうか、と何度も頷く。二十年前の凄惨な事件はなくなったのだ。埜百利も今ごろどこか別の場所で生きているのだろうか。今度、丹部先生にそれとなく聞いてみてもいいかもしれない。
「それが聞けて本当に良かった。ありがとう」
佐島は目元を拭う。
「なんだか涙脆くなりましたね。やはり寄る年波には勝てませんか」
「もともと泣き虫だよ、俺は。君にもよく泣かされてただろ」
「さあ、覚えがありません」
肩を竦める勾白に、佐島は微笑む。嘘だ。本当は覚えていた。たった数ヶ月のことだったけれど、この先輩と過ごした日々は何より刺激的だった。
だからこそ少し悔しい。より多くの時間を過ごせた祖父が羨ましい。戯陀跋扈を解放できたことは喜ばしかった。祖父を超えたとは言わずとも、肩を並べられたことが嬉しかった。だがそれでも嫉妬めいた感情が生まれてしまう。
そんな勾白の想いを汲んだのだろうか。少しだけ寂しそうに、けれど満足げに、佐島は勾白を見つめた。
「俺は今、心から幸せだよ。君がいて、皆が生きているこの世界にいられることが」
窓から差し込む夕刻の光が、二人の影を畳の上に落とす。
佐島は皺の寄った大きな手で勾白の肩を優しく叩き、真っ直ぐに彼の瞳を見た。
「少し、厚かましいお願いをさせてくれ」
居ずまいを正し、不安げな目で勾白を見る。ああ、変わっていないな、と勾白は思った。
「歳は変わってしまったけれど……これからも俺の友達でいてくれないか」
勾白は一瞬だけ目を丸くする。
「別に、僕はもともと……」
言いかけて、頭を振る。それから、晴れやかな笑みを浮かべて頷いた。
「……もちろんです。こちらこそよろしくお願いしますよ、佐島先輩」
外では夏の虫の声が、静かに、けれど力強く響き始めている。
もう二度と彼らを蝕む噂はない。
そこにはただ穏やかな時間と、確かな明日が待っているだけだった。
勾白は背負った鞄の肩紐を少しだけ直しながら、ゆっくりと坂道を下っていく。かつてこの学校を覆っていた肌を刺すような冷気や、どこからか見つめられているような視線はもうどこにもない。
学校に伝わっていた戯陀跋扈という名の怪談は、今や誰も話題にせず、古ぼけた噂話にすらならず消えてしまった。佐島と祖父とともに燃やし尽くした呪いは、確かに根絶されたのだ。
新学期が始まり、二年生となった彼の生活は、驚くほど平穏だった。校舎に蠢く怪異はもういない。つまらないと言えば、前生徒会長に叱られるだろうか。
瓦屋根と煉瓦造りの壁が織りなす、和洋折衷の自宅の玄関を開ける。使い古されてはいるが、丁寧に磨かれた革靴が並んでいるのが見えた。家族のものではない。だが持ち主に心当たりがある。
「ただいま戻りました」
廊下を進み、仏間の襖を静かに開ける。
祖父の遺影に向かい、静かに手を合わせている老人の背中があった。
白髪が混じり、少し丸まった背中。だがその纏う空気を勾白はよく知っている。
「ああ、お帰り。お邪魔してる」
「……マメですねえ、佐島先輩」
勾白は苦笑しながら、その隣に腰を下ろした。老人――六十七歳になった佐島友志は、勾白を見て相好を崩した。深く刻まれた目尻の皺が穏やかにたわむ。
「ここに来ると、鼎と話をしているような気分になれるんだよ」
佐島は遺影の中の祖父を見つめ、慈しむように目を細めた。五十年前の樹良高校で戯陀跋扈を解放したことにより、佐島が夢幻回廊に落ちた過去もなくなった。祖父とまっとうな学生生活を過ごし、まっとうに歳を重ねていったのだ。
「二年生になってどうだ。慣れた?」
「変わりませんよ。生徒会長になってみましたが、あんまり意味ないですね。……ああ、そうだ。劔さんのことですが」
勾白の言葉に、佐島は興味深そうに眉を上げた。
「相変わらず堅物ですよ。大学に進んでも何かと僕に説教臭い連絡を寄越してきます。今度直接会いに行ってあげてください。きっと喜びますから」
「はは、そうか。劔さんも相変わらずなんだな。分かった、今度顔を出してみるよ」
佐島は楽しそうに笑う。
「それと」勾白は含み笑いした。「二年の担任は、丹部という人になりました」
佐島はぽかんと口を開けた。それから、そうか、そうか、と何度も頷く。二十年前の凄惨な事件はなくなったのだ。埜百利も今ごろどこか別の場所で生きているのだろうか。今度、丹部先生にそれとなく聞いてみてもいいかもしれない。
「それが聞けて本当に良かった。ありがとう」
佐島は目元を拭う。
「なんだか涙脆くなりましたね。やはり寄る年波には勝てませんか」
「もともと泣き虫だよ、俺は。君にもよく泣かされてただろ」
「さあ、覚えがありません」
肩を竦める勾白に、佐島は微笑む。嘘だ。本当は覚えていた。たった数ヶ月のことだったけれど、この先輩と過ごした日々は何より刺激的だった。
だからこそ少し悔しい。より多くの時間を過ごせた祖父が羨ましい。戯陀跋扈を解放できたことは喜ばしかった。祖父を超えたとは言わずとも、肩を並べられたことが嬉しかった。だがそれでも嫉妬めいた感情が生まれてしまう。
そんな勾白の想いを汲んだのだろうか。少しだけ寂しそうに、けれど満足げに、佐島は勾白を見つめた。
「俺は今、心から幸せだよ。君がいて、皆が生きているこの世界にいられることが」
窓から差し込む夕刻の光が、二人の影を畳の上に落とす。
佐島は皺の寄った大きな手で勾白の肩を優しく叩き、真っ直ぐに彼の瞳を見た。
「少し、厚かましいお願いをさせてくれ」
居ずまいを正し、不安げな目で勾白を見る。ああ、変わっていないな、と勾白は思った。
「歳は変わってしまったけれど……これからも俺の友達でいてくれないか」
勾白は一瞬だけ目を丸くする。
「別に、僕はもともと……」
言いかけて、頭を振る。それから、晴れやかな笑みを浮かべて頷いた。
「……もちろんです。こちらこそよろしくお願いしますよ、佐島先輩」
外では夏の虫の声が、静かに、けれど力強く響き始めている。
もう二度と彼らを蝕む噂はない。
そこにはただ穏やかな時間と、確かな明日が待っているだけだった。

