戯陀跋扈の埋葬

 文化祭から早くも一ヶ月が経った。
 六月真っ盛り。廊下の窓から校庭の砂を巻き上げるぬるい風と、湿り気を帯びた草の匂いが流れ込んでくる。
 まだ一時間目のチャイムが鳴る前だというのに、外気温はすでに三十度近い。俺は額に滲んだ汗を制服の袖で拭った。肌に張り付く制服の感触は不快だが、それでも心はかつてないほど晴れやかだった。
「お、佐島! おはよー」
「はよ、佐島。今日もあっちぃな。干からびそうだわ」
 教室の引き戸を開けた途端、複数の明るい声が俺に向かって投げかけられた。頬を撫でる空調の風が心地良い。
「お、おはよう」
 俺は肩から下げた通学カバンの持ち手をぎゅっと握りしめ、できるだけ大きな声で返した。教室に入るなりこうして挨拶をしてもらえることに未だ慣れない。ともすれば返事が裏返りそうになる。前髪が変じゃないか、顔が引き攣っていないかと、今さら気になった。
 かつての俺はこの教室において空気だった。存在しないわけではないが、誰の意識にも留まらず、記憶にも残らない。そんな日々が今はもう遠い昔のように感じられる。
「佐島君、今日の数学の宿題やった?」
 教室の一番後ろ、ようやく自分の居場所だと思えるようになった席に座ると、隣の三雲さんが声をかけてきた。バレー部に所属する彼女は、いつも太陽のような快活さを纏っている。
「う、うん。一応、最後まで……」
「ほんと? 流石だなぁ。あのさ、もしよければ見せてもらえると……ううん、解き方のヒントだけでもいいから教えてくれない? あ、一応昨日の夜に自力で頑張ろうとはしたんだよ?」
「三雲ぉ、また宿題やってないの? ちょっと佐島君に頼りすぎじゃない?」
 三雲さんの前の席に座る日向さんが、けらけら笑いながら茶化してくる。
「べ、別にいいよ。俺なんかで役に立てるなら……」
 俺がノートを開くと、二人は自然に俺の机を囲む。「ちょっとなんで日向も見るの」「あたしも宿題やってないから」「ちょっとぉ」二人のやり取りに微笑ましくなる。クラスメイトとこれほど気軽に言葉を交わせるなんて、かつては想像もしなかった。
「あ、そうだ。佐島君、この前の小テストの解き方、すっごく分かりやすかったよ。おかげで平均点超えたんだから」
 ノートを覗き込みながら三雲さんが顔を輝かせる。
「そうかな。力になれたなら、よかった」
「うん! 日向も言ってたよね、佐島君って教えるのうまいよねって」
「そうそう。なぁんか難しい言葉を使わず噛み砕いてくれるっていうかさー。ちゃんと気ぃ配ってくれてるんだなって感心した」
 日向さんの何気ない一言が、胸の奥をじんわりと温める。
「その、あれだよ。何度もやってるから」
「えー、予習も復習もばっちりってこと?」
 三雲さんは目を丸くする。
 戯陀跋扈の影響が消えてからというもの、クラスメイトは俺をきちんと認識してくれるようになった。人間と怪異の間を漂う半端な存在ではなく、一人の人間として、名前を持った友人として見てくれるようになったのだ。

「佐島ちゃん、本当に明るくなったねえ。良いことだよ」
 一時間目の授業が終わった後だった。トイレに行った帰り、たまたま廊下ですれ違った埜百利先生は、俺の頭を大きな手でぽんと撫でた。
「そ、そうですかね」なんだかひどく気恥ずかしい。「たまたまというか、運が良かったみたいな感じで……」
「そっかァ。じゃあもっと運が良くなるように、お守りあげちゃおうかなァ」
 埜百利先生はそう言って、どこで手に入れたのか、紫色の小さな巾着袋を差し出してきた。
「すみません、いつももらってばかりで……」
「ああ、いいのいいの。趣味みたいなもんだからサ。お守りを配る、職業不明のオジサンってなんか良くない? こういうのになりたかったんだよね、先生」
「職業不明ではないと思うんですが……とにかくありがとうございます」
 受け取ったお守りの刺繍を指でなぞる。絹のような滑らかな手触りと、中に詰められたものの手応え。それはかつて俺を苦しめた怪異とは正反対の、柔らかく確かな感触だった。 
 昼休み後の授業の気怠さすら黒板を叩くチョークの乾いた音、ページをめくる紙の音、誰かの小さなあくび。かつては俺を排除するように響いていたそれらの生活音が、今は心地よい音楽のように聞こえる。
 ふと窓の外を眺めた。中庭の木々が風に揺れ、青々とした葉を輝かせている。五感で感じ取れるすべてが、穏やかな夏の訪れを告げていた。

 三時間目の休み時間になると、また三雲さんたちがやってきた。
「ねえねえ、佐島君。今日のお昼休みさ、中庭の自販機に、期間限定のイチゴオレが入ったらしいよ」
「イチゴオレ? あ、うん。聞いたことあるかも」
「何それ! イチゴオレ聞いたことない人っているー?」
 日向さんは大きく口を開けて笑い声を上げる。ずっと学校をさまよっていた俺からすれば、イチゴオレは実体のない幸福みたいなものだった。聞いたことはあるが、飲んだことはない。少なくとも記憶の中では。
「争奪戦になる前に一緒に行かない? 日向も行くって言ってるし、三人でさ」
「佐島君が行くなら、絶対ゲットできる気がするんだよねー」
 二人の楽しげな会話に、俺はただ頷くだけで精一杯だった。けれどその精一杯が、この上なく幸せなのだ。
 誰かに名前を呼ばれ、誰かに誘われ、誰かと約束する。
 かつて俺が夢にまで見た光景だった。それが今、目の前に広がっている。
「佐島君、どうしたの? またぼーっとして」
 三雲さんが顔を覗き込んできた。
「……いや、なんでもない。ただすごくいい天気だなと思って」
「ほんとだね。暑いのは嫌だけど、こんなに晴れてるとどっか遊びに行きたくなっちゃうよね」
 彼女たちの笑い声が、光の粒のように教室に舞う。
 俺は机の上のノートを丁寧に閉じた。この暖かな光に満ちた世界が、どうかずっと続いてほしい。
 そう願う俺の心には、もう一匹の虫もうごめいてはいなかった。ただ一人の男子高校生としての、当たり前で、切実な喜びだけが満ち溢れていた。

 四時間目の終わりを告げるチャイムが校内に響き渡った。
 かつての俺にとって、昼休みはいかに時間を潰すか、それだけを考える時間だった。クラスメイトたちが和気藹々と過ごす中、俺だけが教室の隅に縮こまっていた。
 けれど今は違う。皆が椅子を引く音すら軽やかな音楽のように感じられた。
「佐島君、準備はいい? モタモタしてると売り切れちゃうよ!」
 三雲さんが弾けるような声で急かしてくる。彼女はすでに鞄から小銭入れを取り出し、準備万端といった様子だ。
「う、うん。行こう」
「日向、先に行って場所取ってて! ほら、中庭のいつものベンチ」
「了解。イチゴオレは頼んだー」
 日向さんがひらひらと手を振って、一足先に教室を飛び出していく。俺は三雲さんと賑やかな廊下へ足を踏み出した。
 廊下には楽し気におしゃべりをするグループや、購買へと急ぐ生徒たちで活気溢れている。すれ違う何人かが「お、佐島。また後でな」と親しげに声をかけてくた。そのたびにくすぐったいような、泣き出したくなるような充足感が込み上げた。
 階段を下り、中庭へと続く渡り廊下に出ると、熱を帯びた初夏の風が正面から吹き抜けた。眩しすぎる陽が木々の葉を透かし、複雑な網目模様の木漏れ日を描いている。
「ヤバい、もうこんなに並んでる!」
 中庭の自販機の前に辿り着くと、三雲さんは青い顔をして悲鳴を上げた。
 自販機はすでに長蛇の列が並び、その全員が新しいイチゴオレ目当てのようだった。ガコン、ガコンと音がするたび、桃色をした紙パックのイチゴオレが取り出し口から出てくる。この暑い日によくもまあこれだけ並べるものだ、と自分を完全に棚に上げたことを思ってしまった。
「こ、これ、買えない可能性もある……?」
「縁起でもないこと言わないで、佐島君っ」
 数分待って、ようやく俺たちの番が来た。運良くまだイチゴオレは残っていたらしい。やった、やった! と三雲さんは飛び跳ね、お金を入れてイチゴオレのボタンを押す。一つ、二つ。ガコン、ガコン。
「あれ?」三つ目を押そうとする三雲さんの手が止まった。
「うそ、売り切れちゃった……!」
 小さな唇がわななく。俺たちの後ろに並んでいた生徒たちは呻き声を上げて校舎に戻っていった。
「二つしか買えなかった。最悪!」
 両手に紙パックを持ちながら、三雲さんは肩を落とす。
「だ、大丈夫。俺はいいから日向さんと二人で飲んで」
「むぅ……あとちょっとだったのに」
 二人が喜んでくれるならそれでいい。きっと明日には補充されているだろうから、また来ればいいし。
 そう思っていると、背後から声が掛かった。
「おっ、ゆーし! やっぱり来てた? イチゴオレ目当てな口?」
「……丹部?」
 振り返ると、友人である丹部がいた。太陽のような笑顔の丹部の手は、なんと二つのイチゴオレがある。
「じゃーん! 来ると思って、先んじて買っときました! ……って、三雲さんたちと一緒? なーんだ、友志ったら隅に置けないじゃん。このっ、このこの!」
 丹部は人差し指で俺の肩をつつく。
「違うよ、ただイチゴオレを買いに来ただけで……本当にもらっていいのか?」
「もちもちのろん! いい友達持って幸せ者だなあ、友志は」
 丹部はそう言って、結露でひんやりと冷えたパックを俺に押し付けてきた。
「丹部君、ナイス! じゃあ四人で飲もうよ。日向もあっちのベンチで待ってるし」
 三雲さんの提案に、丹部はすぐさま「いーね! 楽しそう!」と快諾した。
 日向さんが場所を取ってくれていた、大きな桜の木陰にあるベンチ。四人で肩を並べて座り、一斉にストローをパックに突き立てる。
 吸い込んだ液体は驚くほど甘く、冷たかった。人工的なイチゴの香りとミルクのまろやかさが、渇いた喉を心地よく潤していく。
「あー、生き返る……! 体に染みるわあ」
 日向さんが幸せそうに目を細める。
「限定っていうのがまたいいよね。絶対に欲しくなっちゃうもん」
 三雲さんも同意して、さらにストローを吸った。
 丹部は俺に寄りかかり、「ゆーしぃ、よかったなあ」としみじみ呟いた。
「新学期が始まった頃はさ、俺以外とは全然しゃべれなかったのに……今はこうして可愛い女子とイチゴオレなんて飲んでる! 親友として鼻が高いよ。友志盗られたみたいで、ちょっとジェラっちゃうけど」
「よせよ、大げさだな」
 俺は照れ臭さを隠すために、また一口イチゴオレを啜った。
 これだ。これが、俺がずっと欲しかったものだ。
 誰の記憶にも残らない空気じゃなく、誰かの隣で笑い、くだらない話で時間を浪費する当たり前の高校生活。
 長かった孤独も、終わりのない死の連鎖も、すべて悪い夢だったんじゃないか。今この瞬間の太陽の眩しさ、ストローを伝う冷たさ、友人たちの笑い声。これこそが真実で、これこそが俺の本当の人生だ。
 幸せだ。幸せの頂点だった。俺は今、間違いなくこの世界で一番幸福な人間だ。
 けれど。
 喉を通るイチゴオレの甘みが、ふと異様なものに感じられた。
 あまりにも甘すぎて、まるで何かを麻痺させられているかのような。
 笑い声の合間に、少しの静寂が訪れる。
 中庭を吹き抜ける風が桜の葉をざわめかせた。なんとなく周囲を見渡してしまう。青春を満喫する生徒たちが、思い思いに過ごしている。
 俺は無意識に、その中にある顔を探していた。
(……誰のことだ?)
 思い出そうとすると、頭の芯がすうっと冷たくなる。
 戯陀跋扈。夢幻回廊。五十年。
 俺はどうやってあの呪いに打ち勝ったんだっけ。一人でどうにかできたんだっけ。
 頭を振る。誰だ。そこにいるのは誰なんだ?
 その誰かは、今の俺を見たら意地悪く笑うだろう。そんな取り留めのない確信があった。
「……友志? どした、ボーッとして。イチゴオレのうまさに感動してんの?」
 丹部の声に、俺はハッと我に返った。
「あ、いや……なんでもない。ちょっと、冷たすぎて頭が痛くなって」
「あはは、それアイスクリーム頭痛ってやつじゃない? 佐島君、急いで飲みすぎだよ」
 三雲さんが困ったように笑う。俺も無理に笑みを返し、再びイチゴオレを口に運んだ。
 けれど先ほどまであれほど美味しく感じられた甘みは、今はどこか薄ら寒い虚無に感じた。
 イチゴオレだけじゃない。
 鮮やかな緑も、突き抜けるような青空も、書き割りの舞台装置のように、あまりに完璧すぎて不自然だ。
 俺の背中を、おびただしい数の虫が這い回るような――あの忌まわしい感覚が、微かに、けれど確実に蘇りつつあった。 
 頭を振る。気のせいだ。これは幸せに慣れていない俺の、ただの感傷だ。そう自分に言い聞かせ、俺は空になった紙パックを強く握りしめる。
 ぷしゅ、という呑気な音が辺りの笑い声に掻き消された。

 イチゴオレの甘ったるい香りが鼻腔に残っていた。
 三人と別れた俺は、一人中庭に残ってベンチに座っていた。
 完璧な昼下がりだった。初夏の陽光はどこまでも眩しく、手入れされた木々の緑は安らぎを与えてくれる。さっき過ぎった不安感は気のせいだ。不自然なことなど何もない。掌に残るパックの冷たさが、自分が今この世界に生き、友人たちと時間を共有しているという証拠に思えた。
 瞬間、背中の皮膚の下を細く鋭い何かが這った、気がした。終わったはずの、もう二度と味わわないはずの、あの虫の感触だ。
 俺は思わず自分の肩を抱いて立ち止まった。吐き気がせり上がってくる。幸せの頂きにいたはずの脳が冷えていく。何かに強く揺さぶられる。
「……なんだ、今の」
 冷や汗が頬を伝う。俺は無意識に、中庭に連なる桜の木に目をやった。
 夜になれば。
 夜になれば、それはそれでこの木は美しく見える。文化祭で見たあの時のように。屋上から望むと吊り下げられた照明がまたたく星のように見えて、心の底から綺麗だと思った。できるならまた来年も見たい。ちょっと癪だけど、あいつと。 
 瞬間、頭の中に一筋の光が走った。脳の奥底、固く閉ざされていた引き出しが無理やりこじ開けられる。
 色素の薄い茶髪。なだらかに下がった、薄情そうな眉。聴く者を不安にさせるほど澄んだ声。
「…………勾白?」
 その名を口にした途端、身体に衝撃が走った。
 思い出せ。全校集会で俺の前に現れた新入生を。俺を勝手に友達だと言い張る、妙な後輩を。俺を殺すことにまったく躊躇いがない、人でなしの、それでも頼りになるあいつを。
 あいつはどこへ行った?
 どうして忘れていたんだ。あんなやつ、忘れたくても忘れられるわけがないのに。呪いみたいに俺の脳に刻み込まれているはずなのに。
 俺は震える足で、一年の教室へと走った。
 校舎はまだ昼休みを謳歌する生徒たちの喧騒に満ちている。俺は一年F組のプレートを見つけ、中に飛び込んだ。
「あ、あの……!」
 入り口近くにいた男子生徒が、突然現れた俺に驚いて顔を上げた。
「ま、勾白」口ごもる。何をどう聞くべきか考えていなかった。「あの、勾白叶は、どこにいる? 今日は休み?」
 教室を見渡す。勾白の顔はなかった。生徒はきょとんとした顔で隣と顔を見合わせた。
「勾白……? そんな人、うちのクラスにはいないですよ。ねえ?」
「ああ、名前も聞いたことないな。……先輩、クラスを間違えてるんじゃないですか?」
 そんなはずはない。確かに勾白はこのクラスだ。名前を聞いたことがないなんて、忘れるなんてあり得ない。
 だが彼らが嘘をついているようには見えなかった。互いに困ったような顔を浮かべ、どうすべきか迷っているようだった。
「わ、分かった。ありがとう。ごめん、変なことを聞いて」
 俺は次に職員室へと向かった。
 階段を駆け上がりながら、背中の虫たちが狂ったように暴れ回る。皮膚を突き破らんばかりの不快感。
「や、埜百利先生、勾白は……勾白君はどこですか?」
 ちょうど廊下に出てきた埜百利先生に詰め寄ると、先生は困ったように眉を下げた。
「佐島ちゃん、落ち着いて」大きな手が俺の方に優しく乗せられる。「勾白……って子、聞いた覚えないなァ。珍しい名字だから、一回聞いたら覚えそうだけど」
「そんな、そんなはず……」
「うーん、本当に覚えがないんだよ。ごめんねェ。でもなあ、先生の記憶、当てにならんからね」
 埜百利先生は顎をぽりぽりと掻く。
「先生より劔ちゃんに聞いた方がいいかもねェ」

 俺はほとんど絶望の中で、最後の望みをかけて生徒会室へと向かった。
 劔さんなら。学校のあらゆる記録を管理しているあの人なら、絶対に知っているはずだ。
 生徒会室の扉を、ノックもせずに開ける。
 部屋には窓際で書類の整理に勤しむ劔さんの姿があった。午後の光がスクエア眼鏡に反射している。
「つ、劔さん、あの」
 呼び掛けてから気付く。劔さんとはこの一ヶ月、会話していなかった。なんだか酷く気まずい気持ちになって、廊下ですれ違おうとも挨拶さえ交わせなかったのだ。ただそれがなぜだったかを思い出せない。
 俺の声に劔さんはゆっくりと手を止め、こちらを振り返った。
「なんだ、佐島。ノックもなしとは無礼にもほどがある」
「す、すみません。ただ少し、お聞きしたいことがあって」
「見ての通り忙しい。後にしろ」
「い、今じゃなきゃ駄目なんです……!」
 大股で近付き、机を手のひらで叩く。自分で自分に驚いた。突然やって来て何をやっているんだ、俺は。
 劔さんはほんのわずか目を大きくし、
「手短に話せ」
 とそれだけ告げ、書類にまた目を落とす。
「あ、あの、勾白どこに行ったか知りませんか? あいつの教室にもいなくて、先生に聞いても知らないって言われて。そもそも俺も、一ヶ月くらいあいつと話した覚えがないんです」
「…………」
「つ、劔さんなら覚えてますよね? あいつのこと。ほら、ずっと怒ってたじゃないですか。馬鹿とか屑とか言って」
 劔さんは俺の方すら見なかった。
「なんの話かさっぱり分からん」
「え?」
「勾白という名前は聞いたこともない。それに俺は他人を馬鹿だの屑だの言わない」
「言ってましたよ!」ぶんぶんと首を振る。「中学も一緒だったんでしょう? 聞いたことないなんて、そんな……新入生代表を務めた、あの勾白ですよ」
「今年の新入生代表は板橋という女子生徒だ。勾白とかいうやつじゃない」
 劔さんはこめかみに手を当てる。
「なんの悪戯か知らんが、これ以上長居すると容赦せんぞ。さっきも言ったとおり、俺は忙しい。お前のわけのわからん話に付き合っている暇はない」
「でも」
「いい加減にしろ」
 どん、と机が拳で叩かれる。俺はびくりと震えた。
「出て行け。邪魔だ」
 劔さんに突き放され、生徒会室の扉を後ろ手で閉めた後、俺は冷たい廊下に立ち尽くしていた。
 視界が歪む。
 窓から差し込む午後の光は先ほどまで祝福のように思えていたのに、今はまるで手術台を照らすライトのように無機質に感じられた。
「……落ち着け。落ち着け、落ち着け」
 自分に何度も言い聞かせる。冷静に考えるべきだ。誰も勾白を知らないと言っている。冗談で嘘をつくはずがない、劔さんでさえ。
 となると、やはりおかしいのは俺なのか。長い孤独に耐えきれず、ありもしない幻覚を見ていたのだろうか。
 ふっと笑いがこぼれる。妄想にしては滑稽だ。もっと自分にとって都合のいい存在を作り出せばいいのに、あんなめちゃくちゃなやつを脳内に据えるだなんて。
 だから違う。これは俺の思い込みなんかじゃない。そう断言できる。あんなやつ、俺の頭から生まれるはずがない。俺が作り出すなら、もっと優しくてもっと友達想いで、一緒にただの日常を作り上げてくれるような──
「あれ、ゆーしどしたの? そろそろ昼休み終わっちゃうぞ」
 気付けば、丹部が廊下に立っていた。
 そうだ。俺が思い描くなら丹部のような友達だ。快活で朗らかで、血なまぐさいことなんて一つもせず、俺の嫌がることをしない。
 俺をばらばらになんて絶対にしない、そんな友人。
 一瞬、膝の力が抜けそうになった。
「ありゃ、気分悪い? 保健室行く?」
 気分が悪くなって、俺は新学期早々、保健室にお世話になった。起きたら丹部がいてくれた。俺はてっきり勾白のせいで体調を崩したと思っていたけど、でも違う。
「……丹部……」
「ん? どした」
「お前、なんなんだ?」
 あの時、丹部は勾白に祓われた。じゃあ、ここにいるこいつは。
「何って、またまたぁ」
 丹部は朗らかに相好を崩す。
「友志のたった一人の友達じゃん」
 その顔が、どろりと半分溶けた。
「うわあっ!」
 情けない声を出し、俺はその場で尻餅をついた。したたかに打った腰が痛む。それでも耐えて丹部を見上げると、

 世界が変わっていた。
 校舎を彩る真昼の陽光はどこにもない。あるのはただ夜の闇だった。体を横たえたリノリウムの床すらほとんど見えない。廊下の遠くに非常出口の緑の光がぼんやり見える。
 そして何より。
 あまりにも。
 あまりにも、美しかった。
 丹部の代わりに佇む、純白の衣を纏った、天井を突くほど背の高い人間の形をした何か。
 透き通るような白い肌に、腰まである長い白髪。暗闇の中だというのに、その何かの輪郭だけが後光を背負うようにうっすら輝いていた。長い睫毛はこの世を儚むように伏せられている。
 その顔面は、ぞっとするほど整った顔は、だがしかし、半分欠けていた。
 宇宙の輝きを押し込めたような瞳を持つ左半分とは対照的に、右半分は目も、頬の肉もない。その断面からは真っ黒な空洞が見えていた。その穴の中に、無数の小さな虫のようなものがうごめいている。指のようにぞわぞわと身をくねらせている。
 それでもなお、それは美しかった。楽園と地獄が一つの頭に共存しているようだった。魅入ってしまう。今すべてをなげうっても構わないと思える。
 それは一切喋らなかった。
 ただ欠けた顔をわずかに傾け、感情の読み取れない左目で俺を見つめていた。
 恐怖だろうか。畏れだろうか。体がまったく動かない。
 それは、ゆっくりとこちらに近付いてきた。
 一歩。また一歩。純白の衣を引きずるように。
 それは走らない。ただ音もなく、流れるような優雅さで俺との距離を詰めてくる。
 直感的に、まずいと思った。どれだけ美しくても、あれは善いものじゃない。捕まったらきっと、よくないことが起きる。命が脅かされる。
 今まで出遭った怪異の比じゃない。
「……く、来るな!」
 動けたのは奇跡のようなものだったと思う。俺は転がるように廊下を走り、校舎を駆け抜けた。
 だがどれだけ角を曲がり、どれだけ廊下を走っても、ふと振り返ると必ず廊下の角にそれが立っている。ただの一言も発さず、欠けた美しい顔で俺を追い続けてくる。
「ま、勾白……勾白!」
 こんな時に頼れるのはあいつしかいない。ポケットを探り、スマホを取り出す。夜の十時。日付けを見れば、文化祭から土日を挟んで三日しか経っていなかった。何が何だか分からない。ただあの幸福な日々は虚像だったと、それだけが分かる。
(そうだ、あれを見たのはつい数分前だ)
 夜の校舎をさまよっていると、あれが立っていた。気付けば夢の中にいた。リアルな夢だ。本当に一ヶ月を過ごしていたような心地がした。
 懸命に画面を押して勾白の電話番号を表示する。あいつのことを散々嫌がっておいて、結局は頼らざるを得ない自分に自嘲しながら。
 走りつつ電話を掛けようとして──
 思い切り、何かにぶつかった。
「いっててて……廊下は走っちゃダメだよ」
「す、すみません! 前見てなくて……や、埜百利先生?」
 ぶつかったのは埜百利先生だった。懐中電灯を手に、ゆるっとした笑顔を浮かべている。
「あれェ、佐島ちゃんだ。こんな時間に何してんの? あ、そうか。この時間帯は学校にいるんだっけ」
「せ、先生こそどうして」
「先生は夜の見回りィ。そういう当番の日なのよ」
 そうか、と安心する。とにかく誰かに会えたことが嬉しかった。
「あ、あの、俺、おかしなものに遭って。綺麗なのに、すごく怖くて……」
 なんと説明すればいいか分からない。言って信じてもらえるだろうか? 俺自体、あれが何であるかまったく分かっていないのに。
「……顔色が真っ青だね。相当怖い思いをしたみたいだ」
 それでも先生は、大きな手で俺の肩をぽんと置いてくれた。その手の温もりに、凍りついていた俺の心がわずかに解ける。
「大丈夫。先生サ、こう見えても一応、ちょっぴり霊感的な心得があるんだよ。佐島ちゃんを守ってあげられるくらいはできると思う」
「ほ、本当ですか?」
「うん。とにかく、一旦教室に行こう」
「二年C組ですか?」
「そうそう。あそこ、先生のテリトリーみたいなもんだからサ。聖域みたいな? そういう力をちょこっとずつ貯めてたの」
 先生はウィンクする。その言葉に従い、俺たちは廊下を歩き出した。
 埜百利先生が隣にいるだけで心強かった。廊下を曲がるたびにあれがいないかビクビクしていたが、幸運なことに姿は見えなかった。窓の外は星一つない夜空が広がっている。俺は必死に先生の背中だけを追った。
 二年C組にようやく辿り着いた。俺の幸福が詰まっていた場所。どうしてあんな夢を見ていたんだろう。
 扉を開けると、中はしんと静まり返っていた。机や椅子が整然と並び、当然ながら誰もいない。
「自分の席に座って。心を落ち着かせて」
 促されるまま、俺は一番後ろの自分の席に腰を下ろした。
 隣の三雲さんの席。前の日向さんの席。
 彼女たちは確かに存在している。ただ仲良くなった夢を俺が見ていただけだ。それがとてつもなく寂しくて、同時に自分勝手な妄想をしていた羞恥を覚える。
 机の中に手を入れてみた。ここには埜百利先生にもらったお守りを入れている。新学期から数えて、その数は三つか四つだったか。記憶に新しいのは夢の中だったから、三つかな。そう思いながらお守りを引き出そうとした。
 手に違和感があった。何かがぎっしりと詰まっている。
 俺は無意識に、それらを掴んでいた。
「……え?」
 引き出されたのは、小さな巾着袋だった。文化祭の時にもらったものだ。それはいい。それはいいんだ。
 出てきたお守りは三つや四つじゃ済まなかった。十、二十。いやもっとだ。五十、いや百?
 俺は狂ったように机の中からお守りを掻き出した。あるはずのない量のお守りが、雪崩のように床に溢れ落ちる。その中には鮮やかな朱色をしたものもあれば、薄汚れてボロボロになったもの、そして――。
「……何だ、これ」
 いくつものお守りが、まるで焼かれたように真っ黒に炭化していた。
 触れるとパラパラと灰になって崩れる。その焦げた布の隙間から、中身が覗いていた。
 俺はお守りの正しい姿なんて知らない。だけどそれは、清浄からは逸脱していると分かる。
 赤い墨で文字がびっしりと書き込まれていた。災、禍、厄、そのどれもが禍々しい意味を宿す漢字だ。
「先生、これ……」
 俺は震える声で尋ねた。
「これ、全部先生がくれたお守りなんですよね?」
 埜百利先生は教壇に背を預けたまま、俺をじっと見つめていた。んー、と歌うように言って、電子タバコを咥える。
「やっぱ電子はダメだなァ。紙の方がよっぽどうまい」
 薄い蒸気が立ち昇っていく。先生の微笑みが、初めて薄気味悪く感じた。
「先生さァ、ここの卒業生じゃん?」
「は、初耳です」
「うん、初めて言ったからね」
 当然でしょ、と言いたげだった。
「二年の時だったかな? 悪い先輩に勧められて、タバコ吸っちゃって。もちろん紙ね? その頃は電子なんかなかったし。でさァ、先生に見つかってめちゃくちゃ怒られてさァ。あわや休学か? ってところまでいったんだよ。そしたらクラスメイトが庇ってくれて」
 こんな状況で世間話を聞くことが滑稽に思えた。だが先生は口を閉じない。
「『ほんの出来心なんです。もう絶対にさせませんから!』って。嬉しかったなァ。超感動した。まあそっからもちょこちょこ吸っちゃったけど……。とにかくその頃から、教師って生き物が嫌いでねェ」
「じゃあどうして先生になったんですか」
 埜百利先生は蒸気を吐き出す。
「覚えてないと思うけど、赴任してからここ十年、ずっとあげてたからね。そのお守り。先生ってばマメな男でしょ」
「な、なんでそんなことを」
 先生はゆっくりと歩み寄り、床に散らばった呪符の一つを指先でなぞった。
「いやァ、なんか願掛け? みたいな」
 適当な口ぶりだった。
「在学中も佐島ちゃんのことはぼんやり分かってたよ。なんかいるなー、みたいな。霊感ちょこっとしかないからその程度だったけどね。教師になって戻ってきた時びっくりしちゃった。こいつまだいたの? って。そっからだよ、お守り渡してたのは」
 十年。決して短くはない年月だ。先生の何がそうさせたのだろう。
「お守りの中身は、佐島ちゃんを護るためのものじゃない。呪いだよ。とにかく死んで死んで、死んでてほしかったから。炭化しているのは、もう十分効果を発揮したってことかなァ」
 よく分かんないけど。先生は頭を掻く。
「んで、このままずっとやっていこうと思ったんだけど。なんか最近さァ、佐島ちゃん自我持ち始めたじゃん? 困るんだよねェ。学校にいるお化け、祓ったりしたでしょ?」
「お、俺じゃなくて、勾白が」
「そう! 勾白ちゃん。あいつほんっと……」
 埜百利先生はくつくつと笑う。
「ほんっとジャマだよね! だからあのガキがいない時に、佐島ちゃんを喰わせようと思ったんだけど」
「な、何に……」
「いや、見たんでしょ。あの、あれ」
 あれ。美しくもおぞましい、神様のような怪異。
「先生、ここの図書室で色々と調べてさァ。あれって五十年周期くらいで出てくるらしいんだよ。そろそろだと思って」
 話が見えない。
「あれって、なんなんですか?」
「え、知らなかったの?」
 減点だなあ、と先生は呟く。
「あれが、戯陀跋扈だよ。百年前に死んだ、戯陀の教祖様」
「あれが? 戯陀跋扈って、信者のことじゃなかったんですか」
「なんか勘違いの噂が流れてるけどねェ。まあ信者が無理心中って事件の方しか伝わってないみたいだし、仕方ないか」
 埜百利先生の指先が俺の首筋に触れる。
「生きてるのか死んでるのか分かんないね。キモチわり」
「お、俺を喰わせてどうするんですか。どうなるんですか」
「それは分かんない」
 先生は両手を挙げる。あまりに無責任な物言いだった。
「でも君らさァ、このままじゃ戯陀跋扈も祓っちゃいそうじゃん。それは困るんだよね。あれがいるから、この学校って怪異が多いっぽくて。だから君を喰わせて、そんであれが完全に復活したら良いこと起きるかなと思ってるよ、先生は」
「そんなよく分からない理由で……」
「いやァ、だって先生、専門家じゃないもん。もう少しで食われるところだったのに、直前で目を覚ましちゃうから困るよ。いい夢だったでしょ? そういうのを魅せる力があれにはあるみたい」
 背筋が寒くなる。あのまま呆けた夢の中にいたら、今ごろどうなっていたのだろう。あれは、戯陀跋扈は得体が知れなさすぎた。
 喰われたら、そのまま死ぬ。
 そんな考えが過ぎる。あり得ると思ってしまう。
 だけど先生の思惑がまったく見えない。俺を呪って怪異に殺させて、戯陀跋扈に喰わせて、それで何をするつもりだったんだろう。俺がそんなに憎いのだろうか。俺が何かしたのだろうか?
「さァ、おいでなさったよ」
 先生は教室の扉を指差した。
 すう、と扉が音もなく開く。
 半分顔が欠けたそれが、黄金の残光を背負った戯陀跋扈が、静かに佇んでいた。
 欠落した右顔の奥。星一つない暗黒の空洞から、無数の黒い虫が、俺を招き入れるように、あるいは慈しむようにうごめいている。
 体が動かない。あの美しい顔に、途方もない空洞に惹き込まれる。喰われてもいいとすら思えた。
 あのおばあさんが言っていたあのお方とは、これのことだったのか。戯陀の信者である老人。あの方に会うため瞼を縫い、自身を捧げようとしていたあの狂気が、頭の中で蘇る。
 戯陀跋扈はゆっくりと近付いてくる。顔を逸らしたいのに逸らせない。逸らすなんてもったいない、と思う。
 この人に愛されたら。想われたら。救われたら。どんなに幸せだろうか。いや、ただ見てもらえるだけで途方もない幸福だ。
 命を捧げたくなる。
 そうか。戯陀の信者たちはきっと教祖のために身を捧げたんだ。教祖が死んだ哀しみのせいではなく、愛の精神で。その後を追うように、寿ぐように。

 手を打つような、大きな音が耳に響いた。

「っ……あ……?」
 頭に掛かった靄が晴れる。視界が明瞭になり、体が動くようになった。目の前にいる戯陀跋扈の動きが止まる。あれほど愛おしかった姿が恐ろしく思えた。
「人がいない間に、他の男を見つめるだなんて」
 聞き慣れた声がする。鼓膜に澄んで響く、外面のいい声が。
「油断したらすぐ浮気する。こんなにいい後輩がいるというのに」
 扉の傍に立っていたのは、勾白叶だった。
 彼は品行方正を絵に描いたような笑顔で、俺と戯陀跋扈、それから埜百利先生を順に見る。
「勾白……! 来てくれたのか」
「ええ、浮気の気配を感じ取って、すぐ飛んできました」勾白は肩を竦める。「思った以上にハードそうでしたけど」
「あれェ、なんで来ちゃうかな? 今度こそもう少しだったのに」
 埜百利先生は、庭を荒らされた庭師のような、困惑と落胆の混じった表情で息をついた。
「あのさァ勾白ちゃん。しゃしゃるのもいい加減にしなね。ガキは大人しく寝ておきなさいよ」
「しゃしゃる? 部外者はあなたの方ですよ。この怪異は五十年前から勾白家のものだ」
 勾白は微笑むが、その頬には汗が伝っている。合わされた手のひらが微かにふるえていた。
「信者たちの幕切れはどうにも呆気ないと思ったんです。あんなものに祖父が手を焼くはずがない。やはり本命はこちらでしたか」
 手に負えていない。勾白の様子にそう感じた。今まで瞬きの間に怪異を祓ってきた勾白が押されている。恐らく動きを止めるだけで精一杯なのだろう。
 黄金の光を放つ戯陀跋扈が、わずかに首を傾げた。
 途端、周囲の壁が激しく脈打ち、床からおびただしい数の黒い虫が這い出し始める。同時に肉が腐ったかのような腐臭が辺りに立ち込めた。
 不敵な勾白の顔に、初めて苦悶の色が混じった。膝が曲がりそうになるところをなんとか奮い立っているように見える。
「勾白……!」
「佐島先輩、ここは一旦逃げてください」
 勾白は絞り出すように呻いた。
「ああ、祖父が手こずっただけはある……そうですか、僕はまだそこにまですら到っていないと」
「でもそれじゃあお前が」
「先輩がいるより、僕一人の方がよほどマシです」
──俺がいるより、お前だけの方がマシだろ?
 ふと脳裏にそんな言葉が浮かぶ。これはいったい、なんの記憶だ。
「あのさァ、逃がすわけなくない?」
 埜百利先生の大きな手が、俺の首を掴んだ。
「ここで逃がしたら面倒なことになるでしょ。さっさと喰われてよ。そしたらきっといつかボクのところにも……」
 言いかけて、先生は首を振った。
 襟首を掴まれ、椅子から引きずり降ろされる。抵抗しようと身を捩ると、「面倒なことすんな」と腹に蹴りを入れられた。がほ、と酸っぱい唾を床に吐く。
「ほんとにさァ、どいつもこいつもなんで先生の言うこと聞かないの?」何度も何度も、腹を蹴られる。「先生が学生の時は……うん、聞いてなかったな」
 抵抗する力を失った俺は、為すすべなく引きずられていく。勾白は立ち尽くしていた。少しでも動くと戯陀跋扈を縛れなくなるのだろう。
「先生、あなた教師に向いてませんよ」
「そうだろうねェ」
 勾白の言葉を、先生は気に留める様子もなく認める。
「先生より友達の方がよっぽど向いてたよ。あいつこそ教師になるべきだった」
 気付けば戯陀跋扈が、すぐそこにいた。目だけを見下ろし俺を見る、ぞっとするほどの美貌。俺の傍でおびただしいほどの虫が床を這いずり回っていた。俺を追い詰めるように、じわじわとこちらに近付いてくる。
「いいよ、戯陀ちゃん。こいつを喰って、力を取り戻すといい。もっともっと怪異を呼びなよ。そしたらきっと……」
 がたん、と音がした。
「腐れ教師が……!」
 椅子が飛んでくる。埜百利先生にもろにぶつかった。
「生徒を傷つける教師がいるか。恥を知れ」
「つ、劔さん……?」
 劔さんが肩で息をしていた。乱れ一つない制服のまま、相変わらず眉間に深い皺を寄せている。
 劔さんはもう一脚椅子を持ち、俺の傍に来た虫に振り下ろした。頼もしい。頼もしいが、どこか違和感がある。
「遅かったですね。ふてくされてこないかと思いました」
 勾白が軽口を叩く。
「黙れ。もう寝る準備をしていたんだ。急に呼び出されるこちらの身にもなれ」
「まだ十時ですよ」
 ちょっと健康的すぎます、と勾白は呆れた目をした。
「とにかく来いと言うお前が悪い。しかも眼鏡を外して来いだと? 裸眼だとほとんど見えないんだぞ、こちらは。声と影で何が起きているか判断するしかない」
 違和感の正体が分かった。劔さん、あの特徴的なスクエア眼鏡をしていないんだ。
「劔先輩程度だと、戯陀跋扈を視認すると危険だと思いましたので」
「……そうか、こいつが戯陀跋扈か。厄介そうだな」
 勾白の皮肉には反応せず、劔さんは目を眇めた。
「いたたた……次から次へとなんなのォ? 勘弁してよ」
 埜百利先生は頭を振る。笑い声を上げるが、その顔はまったく笑っていなかった。
「劔ちゃんさァ、生徒会長の仕事はどうしたのよ。生贄を怪異に捧げて学校の平和を守らないと! ここで佐島ちゃんを逃がしたら、次にこれが襲うのは他の生徒かもしれないよ?」
「その時はその時に考えましょう。フレキシブルな対応も生徒会長の務めですから」
 劔さんは中指で眼鏡を押し上げようとして、そのまま指は空を切った。
「どんな理由か知りませんが、教師が生徒を私物化して暴行するとは。許しがたいことです。ルールを逸脱しているなんてレベルじゃない」
 ちっ、と埜百利先生は舌打ちする。
「はあ、もう……ガキって本当に可愛くないな。教師になんてなるんじゃなかった。大人もガキもどいつもこいつも、本当に……」
 ガリガリと頭を掻く。その目がぎろりと俺を睨んだ。
「……なんでお前のところに現れてボクには会いに来なかった?」
「……え?」
「ボクのこと、嫌いになったのかな」
 先生は俺を見ていなかった。俺の奥にある、遠い何かを追いかけている。なんのことだ、と問おうとした時、手首を思い切り掴まれた。
「逃げますよ、佐島先輩。劔さんも」
「ま、勾白!」
 引っ張られて立ち上がる。出口へと走り、教室を出ようとした。
「待て、行かせるか! 戻ってこい!」
 埜百利先生は歯を剥き出しにして俺に手を伸ばす。
 しかし、その手はぴたりと止まった。
 光を放つ戯陀跋扈が、ゆっくりとその顔を、半分欠落した美しい顔を、俺ではなく埜百利先生に向けたのだ。
「あ……」
 先生の動きが止まった。戯陀跋扈の星空のように澄んだ左目が、なんの感情もなく先生を見つめている。
「ち、違う。ボクじゃない」
 先生はハッと自分の首元を見る。先ほど劔さんから食らった椅子の一撃のせいで、首から下げていたお守りが床に落ちていた。
 戯陀跋扈は何も言わない。
 代わりにその白く美しい手が、優しく、あまりにも優しく、先生の頬に触れた。 
 ぴちゃ、という、不吉な音が響いた。
「あ……え……?」
 先生の喉から、間の抜けた声が漏れる。
 戯陀跋扈の指先が触れた場所から、先生の顔が、まるで魂が抜け落ちるように灰色に染まっていく。
「先生……!」
 俺の叫びに、先生は一瞬だけこちらを向いた。
 色を失っていく顔の、その瞳は──喜びに満ちていた。
 先生はすぐに戯陀跋扈に向き直る。満面の笑みで、瞳を輝かせて。幸せな夢を見るように。
「なんだ、いたのか……丹部」
 最期にそう呟くと、先生は倒れた。その顔は完全に事切れていた。

 ただひたすら廊下を走る。勾白と劔さん、そして俺の足音だけが廊下に響いていた。
 埜百利先生の最期の言葉を思い出す。
 丹部。確かにそう言っていた。
「丹部隆は二十年前、この学校の用務員だった男に殺された生徒だ。それも顔や体をばらばらに切り刻まれてな」
 劔さんはふらふらと走っている。眼鏡をせず視界が悪いせいだろう。掛ければいいのにと思ったが、急に戯陀跋扈が現れる可能性を考えているのだろう。律儀な人だ。
「その用務員は普段は真面目な男だったらしい。怪異に……戯陀跋扈に当てられておかしくなった、と生徒会は結論付けた。生徒を怪異の脅威から守るためどうすべきか。二十年前の当時の生徒会長が考え出したシステムが、」
「死に続けられる佐島先輩を、生贄にすることですね」
 後を継いだ勾白に、そうだ、と劔さんは肯定する。俺はなんとなく気まずい雰囲気になって項垂れた。
「埜百利はその丹部のクラスメイトだったんだろう。怪異を呼ぶ戯陀跋扈がいれば、いつか友人の霊に会えると思ったんだろうな」
「僕が除霊しちゃいましたけど。教えてあげれば良かったかな」
「それでも縋りたかったはずだ。気持ちは分からんでもない」
 勾白は目を丸くする。
「へえ、意外だな。劔先輩にもそういう感情があるんですね」
「当然だ。お前にはないだろうがな」
 んー、ないですねえ。勾白はあっさり頷く。
 ただひたすらに、湿り気を帯びた暗闇の中を走った。背後から音が徐々に迫る感覚がする。足音と呼べるような規則正しいものではない。湿った肉が床を這う、不快で不気味な怪音だ。
 戯陀跋扈が生み出す、あの黒い虫。あれが背中を這いずる感触を想像してしまう。
「佐島先輩、おかしなことを考えないで。今は走ることに集中してください。それくらいできますよね?」
 勾白はこの狂った状況下でも変わらなかった。かちんと来るが、俺を奮い立たせようとしているのだと分かる。だがその勾白の声にも、焦燥の断片が混じり始めているようだった。
 無理もない。祓うことはおろか、動きを止めるだけで精一杯だったのだから。涼しげな態度を保っているが、心の中では揺らぎがあるはずだ。
 突如、前方から生温い風が吹き抜けた。
 突き当たり、非常階段へと続く重い鉄扉。そこへ辿り着こうとした瞬間、天井からそれが降ってきた。
 ぬちゃ、という深いな音とともに視界を埋め尽くしたのは、黒い虫の塊だった。一匹一匹が絡み合い、一つの生き物のようにうごめいている。
「戯陀跋扈か……!」
 劔さんが悲鳴に近い声を上げた。
 後ろに下がろうと振り返る。純白の衣が廊下の角に見えた。足音もなく、その体が徐々に現れる。
 俺はその顔を見る前に、さっと俯いた。また変な気になったらと思うと薄ら寒くなる。
「……逃げ場がないですね。困ったな」
 勾白の口調はいつもの皮肉めいたそれだったが、その目は限りなく真剣だ。戯陀跋扈の目的は明確だった。代々の生徒会が、そしてこの学校の平穏というシステムが作り出した生贄――すなわち俺だ。
 戯陀跋扈から死人以上に白い腕が伸びる。同時に非常階段側では、黒い虫が俺の足元を目掛け蠕動していた。
 数珠を手に巻いた劔さんが虫を退ける。勾白が小声で呪いを呟いている。俺は恐怖で足が竦み、ただ迫り来る脅威たちを見つめることしかできなかった。戯陀跋扈に触れられたが最後、俺も埜百利先生のように死んでしまうのだろうか。
 いや、それだけならまだいい。完全に死ねるのなら俺にとってはありがたい話かもしれなかった。
 だけど不完全な死だったら? 死にきれず、生き返りもせず、ただずっとそこにある何かになってしまったとしたら。
 戯陀跋扈は止まらない。白い腕が俺を撫でようと伸びる。
 勾白が目の前に立った。俺を突き飛ばすようにしてその身を割り込ませ、戯陀跋扈の指先を右腕で受け止める。
「……ぐっ……!」
 苦痛の声が漏れる。戯陀跋扈の手が、勾白の腕から肩を、心臓にほど近い場所を撫ぜる。
「勾白……!」
 堪らず俺は叫んだ。どうしてこんな俺を庇ってくれたのか。そんなことをする義理はないのに。
 勾白が戯陀跋扈の腕を左手で掴む。すると、その白すぎる腕が弾けた。美しい顔にはなんの感情もなく、形を失った腕をしげしげと見つめている。
「さすがに直接打ち込んだら喰らってくれますか」
 勾白の顔は青褪めていたが、目だけは爛々と輝いていた。右腕はだらりと力なく下げられている。まるで死んだ猫のように。
「ま、勾白……」
「今のうちに逃げましょう。劔さんを引っ張ってあげてください」
 勾白は呻くように、しかし強くそう言った。
「とにかく一度、距離を取って……戯陀跋扈を封じる方法を……探し、」
 足を踏み出した勾白が、がくんと崩折れた。

 肺が焼けるように熱い。喉の奥からは鉄の味がせり上がり、一歩踏み出すごとに膝が笑う。
 劔さんと二人、意識を失った勾白の身体を左右から支え、俺たちはひたすら夜の校舎を走っていた。勾白の身体はその華奢な見た目に反して重い。それは単なる物理的な質量というだけでなく、俺を庇って引き受けた死の重みそのもののように感じられた。
 校舎の最奥、美術室の前の廊下まで辿り着いたところで、俺たちは勾白を冷たい床へとそっと降ろした。月明かりすら届かない廊下には、非常口の誘導灯の緑色が毒々しく、かつ心許なく漂っている。
「聞こえるか、勾白。返事をしろ」
 劔さんは震える手でポケットから眼鏡を取り出し、静かに掛ける。横たわる勾白の肩を掴み、その白い頬を乱暴に叩いた。
 勾白はわずかに眉を寄せ、弱々しく身動いだだけで言葉を発することはなかった。
 至近距離で見る勾白の顔はあまりに凄惨だった。色素の薄い端正な顔立ちは今や全身の血をすべて失ったかのように青ざめ、透き通るような白を通り越して、死者のような土気色に染まっている。
 視線を下げると、さらなる絶望が俺を襲った。
 戯陀跋扈の、あの指先に触れられた右腕。その指先から手首にかけてが、まるで焼けた灰のような、不気味な灰色に変色していたのだ。
 劔さんが苦渋に満ちた表情で勾白の制服のブレザーを脱がせる。シャツの隙間から覗く胸元まで、その灰色は蝕むように広がっていた。
「……そんな」
 俺の指先が小刻みに震える。
 勾白が受けた傷は俺に向けられたもののはずだった。もし勾白が割り込んでこなければ、今頃この灰色に染まっていたのは俺の方だ。
「勾白……」
 俺は、情けなくも項垂れることしかできなかった。
 嫌なやつだった、と思う。だがいいやつじゃなかったとは言えなかった。どうして俺なんかのために、こんな目にあわなければならないのか。喉の奥に熱い塊が込み上げる。
「つ、劔さん。これからどうしたらいいんでしょう」
 俺は救いを求めるように、劔さんを見上げた。
 美術室の扉の影や廊下の突き当たりの闇から、いつあの怪異が飛び出してくるか分からない。まだ追撃の手は緩んでいないはずだ。静寂がかえって俺の鼓膜を不気味に圧迫する。
「戯陀跋扈を封印する方法を探せばいいんですかね? でもそんなのどこにあるのか……」
 俺の言葉に、劔さんは答えなかった。
 腕を組み、眉間に深い皺を刻んで、じっと黙り込んでいる。その視線は刻一刻と死の灰色に呑まれていく勾白の胸元に向けられていた。勾白の呼吸は砂時計の砂が落ちるように少しずつ、確実に浅くなっている。
 劔さんは、重苦しい沈黙を破るようにして、ゆっくりと口を開いた。
「封印する方法があったとして、勾白がこの状況では難しいだろう。あれほどの怪異だ。俺程度の力で封印できるはずがない」
 その言葉は、冷酷な現実の宣告だった。
 劔さんは俺を見据えた。眼鏡の奥の瞳には、暗く鋭い光が宿っている。
「勾白を連れて逃げろ、佐島」
「そ、そんな」
 俺は首を振った。
「劔さんを置いていけっていうんですか? それに、こんな状態の勾白を連れて、どこへ逃げろって……」
「お前たちが頼りなんだ。とにかく逃げろ」
 劔さんの声には、ある種の覚悟が滲んでいた。劔さんは俺たちの盾になろうとしているのだ。
「でも……でもどこに?」
 俺が食い下がると、劔さんは一度だけ瞼を閉じた。
 次に目を開けたとき、劔さんは驚くべき言葉を口にする。
「……今から俺がお前を殺す」
「え?」
 あまりに場違いな言葉に、思考が止まった。劔さんは冗談を言っているようには見えなかった。その表情は、まるで事務書類を処理するかのような、冷徹な静謐さに満ちている。
「そうしたらお前は夢幻回廊に行けるだろう」
 その単語が俺の脳裏に火花を散らした。
 夢幻回廊。あの現実と死の狭間にある、終わりのない牢獄。
「……そんな、またあそこに行ってどうしろっていうんですか?」
「時間稼ぎにはなる」
「でも勾白は」
「勾白とお前は繋がりあっている。今度はお前が勾白を動かすんだ。ともに夢幻回廊に行けるように念じろ」
 劔さんは、その論理を強引に推し進める。
 劔さんは自分の手首から使い古された黒い数珠を外した。床に横たわる勾白の冷たい左手と俺の震える右手を無理やり重ね合わせ、その二つの手を繋ぎ留めるようにして、数珠を幾重にも巻き付けた。
 勾白の肌の冷たさが、数珠を介して俺に伝わってくる。微かな、けれど確かな死の気配。
「劔さん……」
 掠れた声でその名を呼ぶ。劔さんは俺の目をまっすぐに見つめた。
「済まなかった」
 劔さんは唐突に深く頭下げた。
「先ほど埜百利に偉そうな口を聞いたが、俺も同じ穴の狢だ。お前を利用し何度も見捨てた。謝罪させてくれ」
「別に、俺は……」首を振る。「仕方ないですよ。それしか道がなかった」
 強がりでもなんでもなく、俺は心の底からそう思っている。そんなことはありえないが、きっと俺が生徒会長でも同じことをやってしまっていただろう。
 劔さんは何も言わなかった。
「それじゃあ、お願いします」
「……これしかないが」
 劔さんは頷いて、胸ポケットからボールペンを取り出した。
「一思いにやっちゃってください。結構慣れてるんで」
「……それは俺に対する皮肉か?」
 劔さんの目が鋭くなる。
「す、すみません。そういうつもりじゃないんです」
 俺は慌てて首を振った。
 劔さんはふっと笑った。この人の笑っている顔を、俺は初めてみたかもしれない。
「……では、いくぞ」
 劔さんの声は、手はふるえている。こんなことをしてもらって申し訳ないな、と思った。不器用なだけで、きっとこの人は優しい人だから。
 劔さんが掲げたボールペンが、俺の喉に突き刺さった。

 重く冷たい闇の底から引きずり上げられるような感覚とともに、意識が戻ってきた。
 瞼を貫くのは慣れ親しんだ緑色の光。等間隔に配置された非常口の誘導灯が、脈動するように明滅している。
 どこまでも続く廊下、窓、教室。
 劔さんは俺をきちんと殺してくれたのだ。
 すぐ隣には勾白が横たわっていた。俺の手を握ったままの指先は、すでに生命の熱を失い、冷え切った大理石の破片のように冷たい。劔さんが繋ぎ留めた数珠が、俺たちの手首を呪いのように縛り付けている。
 勾白の顔を覗き込むと、そこにはもはやあの不敵で小癪な笑みを浮かべる余裕など微塵も残っていなかった。戯陀跋扈に触れられた箇所から広がる死の刻印は、勾白の首筋を這い、静かに、そして確実に命を食い破ろうとしていた。
「……勾白」
 呼びかける声は、無機質な廊下に吸い込まれて消える。勾白は答えない。睫毛すら動かさず、ただ死の淵で深い混濁に沈んでいる。
 俺は震える手で数珠をそっと解いた。かちりと硬い音が響く。
 勾白の身体をなんとか背負い上げる。力の入っていないそれは、やはり重い。劔さんと二人で運んでいた時も必死だったのに、俺一人で大丈夫だろうか。
 呼吸はしている。だがそれはあまりに微かで、耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうなほど儚いものだった。
 これからどうすればいいのか。俺はいつものように右手に窓、左手に無人の教室を見ながら進もうとした。だが、自然と足が止まる。
 このまま慣れ親しんだ方向に進めば、いずれあの呪われた校舎へと戻ってしまう。それは劔さんが望んだことではないはずだ。
 俺は意を決し、これまで一度も向かったことのない逆方向へと向かった。上手くいく確証はない。どうにかなるだろうという算段すらない。
 項垂れる勾白の体は、歩くたびに俺の背中で揺れる。冷たい耳が俺の首筋に触れるたび、このまま二度と目を覚まさないのではないかという恐怖が、鋭い針となって胸を刺した。
「……死なせない。絶対に」
 自分に言い聞かせるように呟き、何度も彼を背負い直す。
 しばらく歩いた頃、ふと足が止まった。
 廊下の左側に並ぶ窓。いつもならそこにはただ底知れない闇が広がり、俺を監視する正体不明の視線だけが漂っているはずだった。だが今の俺の目には、その闇の向こう側に違和感が見えた。
 俺はじっと、窓の闇を見つめ返した。逃げるのをやめ、その深淵を凝視する。
 漆黒のガラスに映っていた俺と勾白の姿が、水面に石を投じたように揺らぐ。鮮やかな色彩が溢れ出してきた。

 美しい場所だった。
 視界を埋め尽くすのは、狂おしいほどに咲き誇る満開の桜だ。淡い桃色の花弁が雪のように舞い散り、白濁した光の霧が四方を囲んでいる。まるで世界から切り離された、記憶の小部屋のような場所だった。
 その桜の樹の下に、二人の男が佇んでいた。
 一人は息を呑むほどに美しい若者だった。その髪は月の光を溶かしたように淡く、伏せられた長い睫毛は、この世のものとは思えない繊細な影を頬に落としている。整ったでは済まされない顔は、戯陀跋扈にそっくりだった。ただし顔にあった空洞はない。生前の、まだ教祖だった頃の姿に違いなかった。
 彼はその手で自身の顔を覆い、激しく震えていた。
「……醜い」
 教祖の唇から漏れたのは、祈りではなく、呪いのような呻きだった。
「見てはいけない。こんな、おぞましいもの……」
 もう一人の男は困惑したように立ち尽くしていた。
「何を言ってるんだ。君は誰よりも美しいじゃないか。その顔を見て救われたと言わない信徒なんていないよ」
「違う……違う。君にだけは分かってほしい」
 教祖は縋るように男の腕を掴んだ。その指が男の袖を強く握りしめる。
「私を殺してくれないか」
 その声は震えていた。胸の奥に沈んだ苦しみがそのまま滲み出ているようだった。頼まれた男は驚きに目を見開き、思わず息を呑む。
「な、なぜそんなことを、僕に」
「たった一人の友人である君にしか頼めないんだ」
 教祖は唇を震わせ、苦しげに顔を歪めた。桜の花弁が彼の肩に落ちるが、気付く余裕もない。
「皆が私を美しいと崇める。でも……私にはこの顔が醜いとしか思えない」
 その告白はあまりにも痛々しかった。周囲から向けられる称賛が、本人にとっては呪いのように重くのしかかっている。友人の男は困惑し、どう言葉を返せばいいのか分からない様子だった。
「だが……」
「一生のお願いだ。このままでは私は狂ってしまう」
 教祖の声は必死で、どこか幼さすら感じさせた。助けを求めるように揺れる瞳には、深い絶望が宿っている。
「……君の信者たちはどうする?」
「聡い彼らのことだ。私なんていなくてもやっていける」
 その言葉には、諦めと信者への信頼が入り混じっていた。
「……本当に、やるしかないのか」
「ああ、お願いだ。私を救ってくれ。君にしかできないんだ」
 友人の男の目に静かな覚悟が灯る。
「分かった。君がそこまで言うなら……やってやる」
 男は震える手で刃物を取り出し、教祖の胸にそっと突き立てた。刃が肉を割く音は、風に紛れて小さく響く。教祖は苦痛よりも安堵の表情を浮かべ、静かに目を閉じた。
 鮮血が噴き出した。
 純白の衣が瞬く間に赤く染まる。舞い散る桜の花弁が血を吸い、重く地面にへばりつく。
 ありがとう、と教祖は確かにそう言った。
「あぁ……あぁあ……っ!」
 友人は血塗れの両手を見つめ、崩れ落ちた。
 その後、男は教祖の顔と体を丁寧に切り刻んだ。彼が醜いと言っていたその姿を、完全に消してあげるように。そしてその一つ一つを桜の木の下に埋めてやった。男の行動は、すべて友人のためを想ってのことだった。
 教祖の死を信者たちは受け入れなかった。
「神様が、お隠れになった……」
 一人の信者が、狂気に満ちた恍惚とした表情で呟いた。
「私たちの罪を背負って、神様が死んでくださった。なら私たちも、あのお方の後を追わなければならない」
「そうだ。あのお方のいない世界に光はない」
「我々の命を使おう」
「あの方を生き返らせよう」
 連鎖は、爆発的な速度で広がった。
 信者たちは懐から自決用の刃を取り出し、あるいは互いの首を絞め、ある者は桜の木に縄をかけた。
 そこかしこで肉が裂ける音、骨が砕ける音、そして死の間際の歓喜の溜息が漏れる。
 数十人、数百人という人間が、教祖が埋まった地を取り囲むようにして、折り重なって絶命していく。狂気じみた信仰と愛情が、禍々しいまじないとなって渦巻いていく。
 血の海が桜の根を潤し、花弁は赤黒い汚泥となって地面を埋め尽くした。
 数日後、あるいは数ヶ月後だろうか。
 かつて教祖と語り合った思い出の地に、変わり果ててしまった地に友人は立っていた。
 彼の目は死んだ魚のように濁っていた。その心はすでにあの日、教祖を殺した瞬間に壊れてしまっていた。
 信者たちが命を賭して行ったまじないによって、教祖の体は蘇りかけていた。ばらばらになった肉片が意思を持つかのように蠢き、再び形を成そうとしていた。友人はそれを許せなかった。信者のまじないは、教祖の願いを踏みにじる行為だと感じた。
 男は私財を投げ打ち、この呪われた土地に学校を建てた。若く活力のある命、学生たちに桜の木の手入れをさせるために。教祖の血が沁みた木を生徒たちが切るたびに、教祖の体もまた間接的に切られるように。二度と肉体が戻らないように。信者のまじないに対抗するための、苦肉の策だった。

 ふっと、景色が元通りになった。
 俺は底の見えない闇が広がる窓の前で、しばらくの間、石像のように立ち尽くしていた。
 脳裏に焼き付いて離れないのは、先ほどまで窓の外に映し出されていた、あまりにも凄惨で、あまりにも身勝手な救済の記録だ。
 戯陀跋扈の成り立ち。自らを醜いと断じ、死を渇望した教祖。その願いを叶えるために彼を切り刻んだ友人――この学校の創設者の、狂気とも取れるほどの執着と悲しみ。
 この学校の土台には、何百人もの信者たちの怨嗟と、たった二人の男の壊れた友情が埋まっている。
 俺は意識を現在へと引き戻す。
 勾白を背負い直す腕に改めて力を込めた。彼の身体は相変わらず冷たく、首筋の灰色は血管をなぞるように不気味に脈動している。時は一刻を争う。
 歩みを進めるにつれ、夢幻回廊の空気が変わり始めた。
 雨上がりの土の匂いやワックスの匂い……微かな生活の気配が混ざり込んでくる。廊下を照らす誘導灯の緑色は次第に白く柔らかな光へと変質し、足元のリノリウムは光沢を取り戻していく。
 どれくらい歩いただろうか。不意に視界が白く爆ぜた。
 突風が吹き抜け、俺の耳元で無数の生徒たちの幻聴――笑い声や教科書をめくる音、喧騒が爆音のように響く。次の瞬間、すべてが静寂へと沈んだ。
 気が付けば、俺は夢幻回廊を抜け出していた。
 目の前に広がっているのは、見覚えのある校舎の風景だった。
 窓の外は相変わらず深い夜だが、空には星が輝いている。壁には色褪せていないポスターが貼られ、廊下にはゴミ一つ落ちていなかった。
 今は何日だ。俺はどれくらい夢幻回廊をさまよっていただろう。体感では分からない。ずっとあそこにいたような、すぐに出てきたような、どちらとも取れる感覚がする。
 混乱する頭を振る。劔さんはどうなったのか、戯陀跋扈はまだ追ってくるのか。俺は周囲を警戒しながら歩き出そうとした。
「友志!」
 背後から低く、落ち着いた声が響いた。
 心臓が跳ね上がる。振り返ると、廊下の向こうからこちらへ駆けてくる人影があった。
 俺はその姿を見て完全に固まった。
 そこにいたのは、勾白だった。
 色素の薄い髪、端正な顔立ち、鋭くも知的な瞳。どこからどう見ても、俺が背負っている勾白本人だ。いや、髪が少し短いか?
 だが気付く。何かが違う。
 纏っている空気が俺の知る勾白よりも重厚だ。厳格と言えばいいのだろうか。
「無事か。良かった」
 その生徒は俺の目の前で足を止め、心底安堵したように、けれど凛とした表情で言った。
「ま、勾白……?」
 声が裏返る。目の前にいるのは勾白だ。けれど俺の背中には、今まさに命を落とそうとしている勾白がいる。俺の腕には冷たい体温と灰色の汚染が、はっきりと伝わっているのだ。
「ああ、僕も無事だ。戯陀跋扈、予想以上の敵だな」
 その勾白は、当然のように頷いた。その口調には、俺が知る勾白の軽薄さや揶揄の響きは一切ない。緊張感が彼の全身から立ち上っている。
 戯陀跋扈。やはりいるのか。
 俺は混乱の極みにあった。顔は勾白そのものだが、雰囲気が決定的に違う。そもそもこの状況は何だ。彼は俺を友志と呼び、仲間であるかのように振舞っている。
「……その男子は? まさか戯陀跋扈にやられたのか? 僕に見せてくれ」
 俺が返答できずに立ち尽くしていると、彼は迷いのない足取りで一歩踏み込み、俺の背中の勾白の顔を覗き込んだ。彼は石になったかのように動きを止め、沈黙した。
「……おかしなことが起きているな」
 長い沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。その声には知的な好奇心と、言いようのない不安が混ざり合っていた。
「あの……すみません。あなたは?」
 俺はようやくそれだけを絞り出した。目の前の彼は、信じられないものを見るかのように目を丸くする。
「何を言ってるんだ、勾白だよ。勾白(かなえ)
 勾白鼎。勾白。勾白とそっくりな顔。戯陀跋扈の存在を知り、戦っている。
 俺は一つの答えに行きついた。この人は恐らく、勾白のおじいさんじゃないか?
 信じられないが、きっとここは五十年前の学校だ。夢幻回廊を遡るうち、俺はここに辿り着いてしまったらしい。
 つまり、俺がまだまともに生きていた頃の学校だ。そうか、俺と勾白のおじいさんは知り合いだったのか。
「その子、まずいな」
 鼎さんは俺の背で力なく目を閉じる勾白を覗き込み、痛ましそうに眉を寄せた。
 俺は勾白の体をゆっくりと横たえる。戯陀跋扈の侵食は今この瞬間も、まるで毒液が染み出すように広がっていた。
「……なんとかなりませんか?」
 俺は縋るような思いで言葉を絞り出した。勾白のおじいさんならどうにかできるかもしれないと思った。
「この子とはどういう関係なのかな」
「その……友達、なんです」
 鼎さんは一瞬目を丸くしたが、すぐに寂しげな、けれど柔らかな微笑を浮かべた。
「敬語は辞めててくれよ。僕らだって友人だろう」
 彼はそう言うと、勾白の傍らに膝をついた。その細い指先が、勾白の灰色の指先に触れる。
「酷い呪いだ。……なんとか回復させてあげたいが」
 呟きとともに、鼎さんは手のひらを翳す。勾白の胸元に手のひらを当てた瞬間、じり、と焼けるような音が響いた。勾白の肌の下で、あの黒い虫が狂ったようにのたうち回る。そんな想像をする。
 勾白の喉から声にならない苦悶の息が漏れる。脂汗がその白い頬を伝い、床に落ちていった。
「……退け」
 鼎さんの低い、けれど確固たる意思を込めた声。
 彼の手のひらから放たれる熱が勾白の体内へとなだれ込み、暴れ回る呪いを封じ込めていく。胸元まで迫っていた死の色が、押し戻されるように腕の方へと退いていくのが見えた。
「……ふぅ」
 鼎さんが手を離すと、そこには焼け付くような熱気が漂っていた。
 勾白の呼吸は先ほどまでの絶え絶えなものから、深いものへと変わっている。顔色は依然として青白いが、死の淵を彷徨っていたような灰色ではなくなっていた。
「……今の僕にできるのは、ここまでだ」
 鼎さんは乱れた呼吸を整えながら、再び立ち上がった。
「ありがとう……えっと、鼎」
 俺がそう呼ぶと、嬉しそうに目を細める。
「君は僕の知る友志とは少し違うようだね。僕の知る君はもっと……雄々しい感じだよ」
「俺が?」
 まったくピンとこない。何かの間違いじゃないか。
 勾白の睫毛が微かに震えた。
「勾白……!」
 俺の声に応えるように、彼がゆっくりと瞼を持ち上げる。焦点の定まらない瞳が、目の前にいる自分と瓜二つの男を捉えた。勾白は驚愕に目を見開き、そして何かを悟ったように、掠れた声で呟く。
「……不思議なこともあるものですね」
 勾白が鼎に支えられながら身を起こす。祖父である鼎と孫である勾白。五十年の時を超えて対面した二人の顔は、驚くほど似通っていた。
「良かった……。俺たち、どうやら五十年前の過去に来たみたいなんだ」
 勾白は困惑しながらも校舎の空気を吸い込み、表情を引き締めた。
「……ということは。もしかして、ここでも現れるんですか。あいつが」
「ああ、間違いない」
 鼎が俺の言葉を継ぐように、窓の外の闇を見据えて言った。その顔には先ほどまでの穏やかさはなく、戦う者の厳しさが宿っている。
「僕も一度退治を試みた。けれどあいつの怨念はあまりに深い。呪いやまじない絡み合ってぐしゃぐしゃなんだよ。今の僕の手には余る……祓うのは無理だ。どうにか封印しなくては」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、廊下の奥からそれは現れた。
 純白の衣。長い白髪。美しい顔。
 だが現代の戯陀跋扈とは、また違う。顔の四分の三が空洞だった。ばらばらになった顔が、まだ集まっていないようだ。
 どろりとした負の波動が廊下を埋め尽くし、リノリウムの床が異音を立てて軋む。
「来る……!」
 鼎が前に出る。だが戯陀跋扈は速かった。宙に向かって手をふるう。空気が大きく振動した。鼎の身体が壁に叩きつけられ、苦悶の表情が浮かぶ。
 鼎が呻く。壁を伝い、ずるずると床に落ちる。
 その光景を見た瞬間、俺の頭の中で、激しい頭痛とともに濁流のような記憶が溢れ出した。
 記憶の覚醒は、あまりに唐突で、そして暴力的だった。
 脳漿を直接かき回されるような激痛と共に、視界が白濁する。五十年という長い歳月の堆積が一気に崩れ、濁流となって俺の意識に流れ込んできた。
 ――ああ、そうだ。俺は知っている。この、湿り気を帯びた古い木造校舎の匂いも、闇の奥から響く、おぞましい軋み音も。この光景も。
 五十年前、俺は確かにここにいた。知識としてではない、実感としてそう感じた。
 戯陀跋扈に追い詰められ、命を落としかけている鼎。あいつを助けるために、俺は……。
「夢幻回廊に落ちたんだ」
 記憶の中の俺は、叫びながら戯陀跋扈の気を引いていた。鼎の盾となり、少しでも時間を稼ぐために。そうしているうちに、不可思議な廊下を見つけた。ここに逃げ込めば、きっと。
 思惑通り、戯陀跋扈は俺を追いかけた。やつが夢幻回廊に入るぎりぎりで、鼎は力を振り絞ってやつを封印したんだ。すでに夢幻回廊に入っていた俺は、そのままそこをさまよった。
 出てきたのは数年後だったか。それとももっと後だろうか。
 そうだ。俺が五十年彷徨っていた本当の理由は、この人を、鼎を救うためだったんだ。
 記憶の覚醒と共に、俺の脳裏にもう一つの声が響いた。それは学校に古くから伝わる、取るに足らないはずの都市伝説。
「……校長室だ」
「佐島先輩?」
 怪訝な顔をする勾白を放って、俺は確信を持って言う。
「そこに戯陀跋扈を終わらせるための鍵がある」
「急に何を……」
「お前が教えてくれただろ、勾白! 校長室には、創設者が隠した不吉な備えがあるっていう噂を!」
 勾白の目が見開かれた。
「……まさか、あの物騒な噂……? あれはただの与太話だと……」
「いや、きっと真実だ。この学校の創設者は教祖のたった一人の友人だった。あいつは自分が作り上げたこの学校が、いつか教祖の成れ果てである戯陀跋扈に飲み込まれることを予見していたんだ。もしもの時のために、友を焼き尽くすための業火を、あそこに遺しておいたんだよ」
 俺は鼎の体を抱える。
「走ろう! 時間がない!」
 俺たちは夜の校舎を駆け出した。
 背後からは、地の底から響くような地鳴りが聞こえる。ドロリとした負の波動が空気を震わせ、俺たちを執拗に追いかけてくる。
「ぐ……」
 鼎の喉から苦しげな吐息が漏れる。彼の右手は勾白の時と同じように、灰色の侵食が広がり始めていた。
「鼎、しっかりしろ! 今度こそ俺が……!」
 突き当たりの階段を駆け上がり、二階の奥にある重厚な扉……校長室を目指す。
 追ってくる戯陀跋扈の黒い虫が、廊下を、壁を這いずる。それは単なる怪異ではない。信者たちの怨嗟と教祖の孤独が綯い交ぜになった、巨大な悪意の塊だ。
「着いた……!」
 俺は体当たりするようにして校長室の扉を蹴り開けた。
 中は月光が差し込み、銀灰色に染まっていた。無駄に大きい机、壁一面の書架、多くのトロフィーが飾られた棚。ここのどこかに、噂通りの物があるはずだ。
 どこだ、どこにある?
「こういう時は、きな臭いところを調べれば……」
 勾白は顎に手を当てた。しばらく部屋をうろつく。
「分かるのか?」
 俺は思わず聞いていた。
 勾白は棚の裏側に手を差し込む。棚が重い音を立てて動き始めた。その先には金属製のいくつものオイル缶と、小さなライターがあった。
「凄いぞ、勾白! さすが天才霊能力者!」
「お褒め頂き光栄ですが」勾白はこほんと咳をする。「新入生代表スピーチの打ち合わせでここに来た時……もちろん現代の、ですが。校長先生がここら辺を酷く気にしていた様子だったので。完全に勘です」
 オイル缶の表面には学校の校章と共に、ひどく繊細な文字で一言こう刻まれていた。
『親愛なる友へ、最期の安らぎを』
「勾白、鼎を! 中庭へ向かおう!」
 俺はライターを勾白に投げる。それから鼎を勾白に任せ、オイル缶を抱えて再び廊下へ飛び出した。
 背後では戯陀跋扈が巨大な影を現していた。
「……ああぁ……ぁ……あ……」
 戯陀跋扈の喉から、意味を成さない咆哮が漏れる。助けてくれと言っているようにも、すべてを終わらせてくれと言っているようにも聞こえた。
 階段を一気に駆け下りる。中庭へと繋がるガラス扉を突き破る勢いで開いた。
 夜の中庭。そこには異様な光景が広がっていた。
 数十本の桜の古木。それは春でもないのに、不気味なほどに満開の花を咲かせていた。だがその花びらは白ではなく、澱んだ赤色をしている。
 枝は空を掴もうとする亡者の腕のように歪み、根は地を這う血管のように脈打っていた。
「これだ……これが戯陀跋扈の元だ」
 俺はオイル缶の栓を力任せに引き抜いた。
 独特の鼻を突く匂いが広がる。すぐさま桜の根元、そして幹へとオイルを撒き散らした。
「勾白! 火をつけてくれ!」
 地面に膝をつき、肩で息をし懇願する。
 勾白はその手に持つライターを、オイルに濡れた桜の幹に近付けた。
 次の瞬間、世界が爆発した。
 ゴォ、と、鼓膜を震わせるような轟音と共に、巨大な火柱が夜空を焦がした。
 オイルは恐らく、ただの可燃物ではなかった。それは創設者の慈しみと鎮魂の祈りが込められた、聖なる油だ。
 火は瞬く間に桜の木々を舐め尽くし、紅の花びらを紅蓮の業火へと変えていく。
「あぁあああ……!」
 戯陀跋扈の絶叫が、夜の学校中に響き渡った。
 燃え盛る炎の中で、異形の影がのたうち回る。腕が溶け、髪が、衣が、顔が熱に焼かれて潰れていく。
 だがその声は徐々に恐ろしい怪物の咆哮から、一人の男の……静かな笑い声に変わっていた。
 火の粉が雪のように舞い上がる。
 やがて桜の木は燃え尽きた。後に残るのは黒い墨ばかりだった。
「……終わったんだな」
 俺は桜の残骸を見つめて呟く。炎の熱気が俺たちの頬を赤く染めていた。
 戯陀跋扈の気配は、もうどこにもない。
 俺の心の中にあった五十年間の冷たい澱みも、この火によってすべて焼き払われたような気がした。
 俺は鼎を見た。彼の腕を覆っていた灰色は消えていた。
「……ありがとう、二人とも」
 鼎はぽつりと呟く。
「さすが僕の友達ですね」
 勾白はいつもの軽薄な笑顔を浮かべた。
 東の空が微かに白み始めていた。長く、あまりにも長かった五十年の夜が、今ようやく明けていく。
 燃え残った灰が、風に吹かれて空へと消えていった。
 その光景は涙が出るほど、美しかった。