新学期が始まり一ヶ月が経った。クラスにはすでにグループが出来上がり、仲の良い者同士で固まって昼飯を食べている。かく言う俺はもちろんその輪に馴染めることなく、昼休みだというのに誰とも会話を交わすことがなかった。
新学期、友達を作る絶好の機会だったはずなのに、どこを間違えたんだろう。人見知りで内向的性格に加え、丑三つ時より暗い思考回路が友人作りの足を引っ張っていることは大いに理解している。だがこれでも頑張ったのだ。クラスでもまだ気が合いそうな大人しめの男子に挨拶してみたり、休み時間に声を掛けてみたりした。それでも相手の反応は芳しくなく、というかせっかく振られたアニメや漫画の話題に俺が一向について行けず、胡乱な視線を投げられるだけに終わったのだ。
このまま友達が一人もできず俺の高校生活は終わってしまうのか。寂しすぎる青春に、乾いた笑いが漏れる。
早めに昼食を食べきり教室を出た。和気藹々とした空間にいると、自分の馴染めなさが浮き彫りになってしまう。俺はわざと一人を楽しんでいるんですよ、そう思い込むため、昼休みはこうして校内を散歩するのが日課だった。
かと言って昼休みだ。校舎にはたくさんの生徒が溢れかえっている。輝く笑顔や溢れる話し声を避けるように歩いていると、自ずと足は裏庭に向かう。いつものお決まりルートだった。
「おー? 佐島ちゃんじゃん。何やってんのこんなところで。探検?」
担任の埜百利先生が校舎を背にしてしゃがみ込んでいた。無造作に伸びた天然パーマに、手入れ不足の無精髭が目立っている。
「探検ではなくて、散歩です」
「あーね、いいよなぁ散歩。先生もさぁ、彼女に振られた夜に気付きゃ五時間散歩してる時があってさあ……いつの間にか埼玉にいたね」
「一種のスポーツみたいな感じですね、そこまでいくと……」
「友達が死んじゃった時は一日中走り続けたね。先生、情に厚い男だから」
遠い目をする埜百利先生に、なんと返せばいいか分からなくなる。
「先生こそ、なんでこんなところにいるんですか?」
「そりゃあ先生は息抜きよ。最近はどこも禁煙だからさあ」
軽く上げられた右手には電子タバコがあった。
「電子だよ? 全然臭くないのになんで追い立てられにゃいかんのかね。ほら、嗅いでみ。全然分かんないでしょ?」
「えっと……すみません、結構臭います」
「うっそ」
埜百利先生は目を丸くした。本当にぃ? と首を傾げる、そのリアクション一つ一つがどことなくゆるい。女子生徒から度々メロいと評されているのは聞くが、こうした親しみやすさから来るものなのかもしれない。
「でも裏庭を散歩って言ってもさあ、何もないんじゃない? 園芸部のこざっぱりした花壇と、後は飼育小屋くらい?」
飼育小屋。どくんと心臓が波打った。なんだろう、とても嫌な感じがする。
「どうしたの? 顔色悪いよ、佐島ちゃん。熱か? あ、また貧血?」
「いえ、そうじゃないんですけど」
まったく説明できない。ただ悪寒がする。特に右肩と右足の付け根が、こそばゆいような、痒いような、痛いような。
「そうじゃないんですけど、なんだか……」
とても恐ろしい体験をした気がする。
「しょうがないねえ、先生からこれあげちゃおう」
埜百利先生はウィンドウブレーカーのポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。「いや〜先生ってばいい先生」と鼻歌混じりに言いながら、俺の手をとってそれを押し付けてくる。
「……なんですか、これ」
手のひらに乗せられたのはキューピッドのような幼児がついたお守りだった。
「お守りだよォ。先生の買ったお守りは効くよォ?」
「安産祈願って書いてありますけど……」
まあそういうことあるよな。先生は肩を竦める。
「あーッ! 埜百利先生!」
叫び声が飛んできた。埜百利先生は「うへえ」と首を縮こませる。
「校内は禁煙って、劔さんにもう何度も何度も注意されてるじゃないですか!」
小柄な男子生徒だ。ネクタイの色からして恐らく一年。小さな体にエネルギーが詰まっているのか、動きの一つ一つが大げさで可愛らしい。
「うーわ、助けて佐島ちゃん。先生、いじめられてる」
眉を下げかわいこぶった表情をして、埜百利先生は俺を盾にする。その男子生徒は、俺の顔を見るなり目を丸くした。
「あれ、佐島さん?」
「え、あ、はい」
なぜ俺の名前を知っているのだろう。しばらくその男子と見つめ合う。やがて彼は「じゃなくて!」と頭を振った。
「埜百利先生、校内は禁煙ですよ。劔さんに見つかったら雷が落ちますから、その前に退散してください!」
「はいはい、先生が悪かったですよ。戻ればいいんだろ、戻れば。それで満足なんでしょ?」
「はい、とっても満足です」
埜百利先生は男子生徒に連れられ、不服気な表情で校舎に戻っていった。
飼育小屋の方を見る。相変わらず嫌な気配は続いていた。自然と足が向かっていた。原因を確かめたい。行けば分かるような気がした。
飼育小屋の前には看板が立てられていた。新学期早々、ニワトリとウサギが死んでしまったという話はクラスメイトの話を盗み聞きして聞いていた。原因は分からないらしい。犯人も見つかっていないとか。
「死に場所を見に来たんですか?」
振り返ると勾白がいた。何かと絡まれて、俺は未だにこいつのことが苦手だった。
「犯人は現場に戻るとは聞きますが、被害者だって戻るのもよく知られた話ですよね」
「な、なんの話?」
「殺害現場に幽霊が出るというのはよくある話でしょう? 自分が死んだ場所に引き寄せられてしまうんですよね。関係なくふらふらしている霊もいますが」
「だから……」
「死んだことを覚えていない?」
勾白の目は好奇心に満ちている。
「先日あなたはここでばらばらさんに殺されたでしょう。腕や脚に違和感は? 死んでから今に至るまでの記憶は?」
「い、意味が分からない……」
ひく、と頬が引き攣る。こいつは何をべらべらと言っているんだ。
「なるほど、すべてリセットされると。ゲームにおいて引き継ぎなしのリスタートに近い感覚でしょうか。でも少し刺激を与えれば、あるいは……」
「し、知らないって……! なんなんだよ、さっきから。……!?」
ふと、脳内がフラッシュバックする。
暗闇。飼育小屋。ウサギ。女子生徒。血の臭い。吐き気がする痛み。
丹部。
そうだ、丹部だ。どうして忘れていたんだろう。あんなに、あんなに良くしてくれていたのに。
あんな恐ろしいことをするなんて。
「あ、あぁあ……!」
頭を抱え、俺はその場に蹲った。刃の獰猛な鋭さが、飛散する血が、丹部のなんてことのない笑顔が、くっきりと思い出される。
やりたいからだよ、と丹部は言っていた。
ゲームセンターにでも行くような気軽さで、ゆったりとした素朴な呟きで。
俺は殺された。たった一人の、友達だと思っていた男の手で。
「な、なんでだ……?」
なんで俺は死んでないんだ? どうして今ここで普通に生きているんだ。
「不思議ですよね。新学期の朝礼でもあなたは目を引きましたよ。何せ他の生徒と違いすぎる。纏うオーラが異様だ」
這いつくばったまま、俺はなんとか顔だけを上げる。カエルの解剖でも眺めるふうに、勾白は俺をじっくり見下ろしていた。へえ、心臓ってこうなってるんだ、とでも言いたげに。
「他の生徒にもあなたは見えている。生徒としての籍もある……つまり幽霊ではない。かと言ってまっとうな人間でないことも確かですね」
「に……丹部は?」
「はい?」
「に、丹部は、どこに。だって犯人も現場に戻るんだろ」
「ああ」途端に勾白は興味をなくしたようだった。
「祓いましたよ。見たでしょう? もう跡形もありません」
「し、死んだのか?」
声が裏返った。あはは、と勾白は声を上げて笑う。
「とっくの昔に死んでますよ。これ、二十年くらい前のニュースですが」
勾白はスマートフォンを取り出す。画面には新聞記事の切り抜きが写っていた。
「なんだ、これ……」
そこには丹部の写真があった。丹部颯太君十七歳。学校からの帰宅途中、変質者に襲われ死亡。遺体は鋭利な刃物で切断されており……。
「悲しい事件ですよね。こんな理不尽な殺され方をしたら、この世に残りたくなる気持ちが分からなくもない」
「待って、待ってくれ。じゃあ丹部は……」
「他の生徒には見えていませんでしたよ。霊ですから」
力が抜ける。こんな俺にも話し掛けてくれた丹部が、幽霊? そんな、そんな馬鹿な。俺以外の生徒とも、丹部は話して……。
本当に?
丹部はいつも俺に話し掛けてくれていた。ばらばらさんの噂がまことしやかに囁かれたあの日も、皆の前で俺を庇ってくれたじゃないか。
でも、そうだ。丹部の言葉に返答した生徒はいなかった。不穏な空気のせいだと思っていたけど、皆に声が聞こえていなかったのだとしたら。そもそも姿形さえ見えていなかったのだとしたら。
違和感が繋がっていく。保健医も、あの時の日向さんも丹部には気を配らなかった。
「はは、ははは……」
無意識に笑いが出る。そうか、最初から友達でもなんでもなかったのか。
「なんで殺したんだよ……」
「悪霊とはそういうものです。呪い、祟って生者を苦しめる。道理を求めることこそ不道理ですよ」
「違う」
俺は立ち上がって勾白に掴み掛かった。ふらついた勾白は飼育小屋に背を打ちつける。金網が音を立て、驚いたニワトリがバタバタと羽音を立てた。
「なんで丹部を殺した?」
「さあ、それは殺人犯に」
「お前はなんで丹部を殺したのかって聞いてるんだよ!」
はあ? 勾白の眉が歪む。
「殺したのではなく祓ったんです」
「一緒だろ」
「僕が祓ってなければあの女子生徒も殺されていましたよ」
ぐ、と息が詰まる。
「それから生き返ったあなたも。覚えていないのをいいことにまた殺されていたかもしれない」
ちなみにあの女子生徒ですが、記憶はさっぱり消えているみたいですよ。勾白はあっさり補足する。
「それに、あなたを殺したのは僕ですよ」
「はあ?」
「悪霊なんかに殺されたら浮かばれないと思いまして。最期の介錯はこの僕が」
さもいいことをしてやったと言いたげだった。乾いた笑いしか出てこない。
「たい……」
自然と言葉がついて出た。
「だからもごもご話さないでくれませんか? もっとはっきり言って、」
「死にたい……」
友達ができて本当に嬉しかった。それが幽霊でも、俺を殺したとしても、なんだってよかった。
「死にたい。丹部と一緒に死ねたら良かったのに」
「本当に?」
勾白の目が輝きを取り戻す。俺の両腕を掴み、強い力で押し返してくる。
「ほ、本当だ。俺みたいなやつは、さっさと死んだ方が……」
「素晴らしい!」
勾白は満面の笑みで叫ぶ。色素の薄い茶色の瞳が、一瞬金色に光ったように見えた。
勾白は早口で何か呪文のような言葉を呟いた。音は聞き取れはするものの、意味はまったく分からない。
「僕たち、友達になりましょう」
ぱん、と目の前で両手を打たれる。
瞬間、ぐら、と体が傾いた。体が重い。いや軽い? なんだか自分のものじゃないみたいだ。
「ああ、繋がった」
勾白の整った顔が寸前まで近付いてくる。体を逸らそうとしても逸らせない。視線すらまったく。
「な、何を……」
「死にたいんでしょう、不要なんでしょう? じゃあ構わないじゃないですか」
勾白は恭しく頭を下げる。俺の体も似たようなポーズをとった。勾白が俺の手を取り、ぐっと引っ張る。抵抗すらまったくできず、俺の体は社交ダンスのようにくるくると回った。
「お、お前、何したんだよ」
「勾白といいます。勾白叶」
「知ってるよ! 俺の体、どうなって」
「先輩のお名前は?」
口を引き結ぶ。名乗ってやるかと強い意志を持つ。
それなのに。
「さ、佐島、友志」
きつく結んだはずの唇は、ジッパーでも使ったように容易く開けられてしまった。
「佐島先輩。素敵な名字ですね」
「音だけ聞いたらありふれてますけど!?」
「僕らはもう切っても切り離せない友人ですよ。これからよろしくお願いします」
ひとけのない裏庭で、二人奇妙なダンスを踊っている。ギャラリーは飼育小屋のニワトリとウサギのみ。無表情に小首を傾げ、俺の辿々しいステップを見守っている。
「お友達になれた記念に、まず手始めに」
勾白は俺の耳元に口を寄せる。
「──エサになってほしくて」
「へ?」
俺が間抜けな声を出した瞬間だった。
「佐島!」
ぐん、と襟首が引っ張られた。あまりの勢いに、そのまま地面に尻もちをつく。
痛い。思わず呻いてその場を転がった。そこでようやく、自分が動けるようになっていると気付く。
見上げると、劔さんが立ち塞がるように俺の前に立っていた。その右手には濃紺の数珠がきつく巻かれている。
「勾白、そういうのは中学で卒業しろ。痛々しい」
「人のおまじないを黒歴史呼ばわりしないでください。劔さんは少し見ないうちに堅さが増したみたいで」
劔さんの声は相変わらず刺々しく、勾白からは笑顔ながらも慇懃無礼な佇まいが見て取れた。
「劔先輩の可愛い後輩として聞きたいのですが……佐島先輩についてなんですけど」
「お前に話す義理はない」劔さんは鋭く制した。「なぜならお前は可愛くないからだ」
「僕が可愛くないなら、誰も可愛くなくなってしまうと思うのですが」
空気がぴりぴりしているのか弛緩しているのか分からない。ただこの二人がかねてからの知り合いだとはよく分かった。
「……佐島、いつまでそこに座っている気だ」
劔さんの重々しい声が投げつけられる。そうは言われても、俺はどうすればいいんだろう。
劔さんが大きく溜め息をついた。
「来い、佐島。行くぞ」
再び襟首を掴まれ、今度は無理やり立たされる。
「い、行くってどこに」
「黙ってついて来い」
ちらりと後ろを振り返った。勾白はこちらに手を振っていた。
連行先は校舎三階奥の生徒会室だった。
「俺、こんなところに生徒会室があるって初めて知りました」
劔さんはそうか、と短く言うだけだった。生徒会室の黒皮張りのソファは見た目より柔らかく、座ると思いのほか体が沈んだ。
「ええと、あの、俺……」
何をどうすれば分からず、ソファの上で縮こまる。これからどうなるんだ。怒られるのか? だとしても何についてだ。裏庭で踊っているいたこと?
ぐるぐると一人問答をしているうちに、対面のソファに劔さんが座った。
それから一言、
「お前は呪われている」
実にきっぱり告げる。
「の、のろ?」
「先日自分が死んだことには気付いているか」
「さ、さっき勾白から聞きました」
余計なことを。舌打ちが飛ぶ。
劔さんは立ち上がると、本棚からA4ファイルを取り出した。
「読め」
ファイルがテーブルに投げ置かれた。分厚く、角が少し折れている。最初のページは茶色に変色しており、文字も掠れて視認性が悪い。後半になるにつれて真新しい紙で、インクも濃いままだ。俺は適当に開いた箇所を読んでみる。
ケース六〇 二年C組の生徒曰く
小学生の時、授業中に筆箱を落とす子いたじゃないですか。布製じゃなくて、ほら、缶ケース型のやつ。机から落ちて、ガァン! って。
ケース五七 一年E組の女子生徒曰く
なんであんなの見ちゃったんだろ。
せっかく見るなって言ってもらったのに、あたし、好奇心に負けちゃったんです。
ケース四 三年A組の生徒曰く
どうよ、これ。ケータイ。ついに買ってもらったわ。お前持ってたっけ? ならメルアド交換しようぜ。
気持ち悪いやつだったよな、あいつ。なんだっけ、佐島?
ページを捲っていく。
どのページにも俺の名前がある。
どのページでも俺が死んでいる。
「な、なんですか、これ……」
思わず引き攣った笑いが溢れた。悪い冗談だと思った。
「生徒会が行った聞き取り調査だ。ざっと二十年分はある」
劔さんは眉間の皺を伸ばすように手を額に当てた。
「にじゅうねん?」
「生徒会が公式で記録を取り始めたのが二十年前。実際にお前が死に続けている期間はもっと長い。五十年前の生徒名簿にお前の名前があるからな」
世界が傾いた。気がした。
「い、意味が分からないんですけど……」
「俺だって詳細は分かっていない。ただ前生徒会長から業務を引き継ぎされただけだ。お前が死んだら周囲の生徒から聞き取り調査を行い、生徒会で記録する」
劔さんはファイルのページを捲っていく。
「俺の担当はここからだ。ケース五〇。俺が一年の年に五件、二年の時に六件、お前の怪死事件は起きている。今年は月一ペースか? 勘弁してくれ、本当に。昔は年一だったのに、なぜ俺の時だけ……」
「そんなこと、言われても。つ、劔さんもジョークとか言うんですね……」
「ああ?」
机が強く叩かれた。反射的に体が震える。ヤクザみたいだ、と思ったと知られたらさらに怒られるだろうか。
「ジョークでこんなものを作るか。そんな暇が俺にあると思うか? ふざけるな。こんなことを任されると知っていたなら生徒会になぞ入っていない。前会長が異様に早く引退したがっているからおかしいとは思っていたんだ……!」
「す、すみませ……」
「謝るな!」
びくりと震えた。劔さんの目の下の隈がいつもより濃く見えた。
「お前に謝られる筋合いはない。調子に乗るな」
「で、でも」おずおずと聞く。「俺が二十年も死んでるなんて荒唐無稽すぎるっていうか……」
「お前、土日は何をしている」
「へ?」
「最近親とどんな会話をした?」
「え、えっと」
「答えてみろ」
なぜそんな簡単なことを。土日なんてそんなの……。
何も出てこなかった。一日寝ていた? 頭に靄が掛かっている。頭を振る。じゃあ親だ。親、親、親……。
「お、覚えてません……」
項垂れる。記憶の中に何もなかった。
「そうだろうな」劔さんは頷く。
「生徒会の観察によると、お前は年中無休で学校にいる。朝から夜まで、一日中な。放課後、全校生徒が帰っても、お前は自分の席でじっと座っている」
「…………お、親は」
俺は震える声で聞いていた。
「俺の両親は? いるんですよね? その、俺にも普通な時があったんですから」
「これも調査による話だが」劔さんは声を落とした。「お前の両親は十年前に亡くなっている」
実感が湧かなかった。あまりに惨い話である気がするのに、感情が生まれない。現実味がない。何もかもに。
「俺、普通の人間に……普通の学生生活を送る人間に、戻れますかね?」
それだけなんとか絞り出す。劔さんは答えなかった。
ノックの音が聞こえてきた。ぼんやりと顔を上げる。
「失礼します。会長、いらっしゃいますか?」
「……斧山か。入れ」
逡巡の後、劔さんは許可を出した。黒髪の小柄な男子生徒がドアから半分顔を出す。
「お話があるんですけど……もしかしておジャマでした?」
「お前なら構わん」
劔さんに手招きされ、男子生徒は嬉しそうに入ってくる。なんだか見覚えがある気がする。そうだ、埜百利先生に注意していたあの生徒だ。
「わっ、佐島さんだ! こんちには!」
「こ、こんにちは……?」
「なんでここにいるんですか? 許可出たんですか?」
「きょ、許可」
なんの話だ。救いを求めて劔さんを見ると、ストレスのせいか爪先で床をトントンと叩いている。
「成り行きで話すことになった。勾白のせいだ。あいつめ、中学の時から問題行動ばかり起こす」
斧山君は俺をしげしげと見つめている。俺の顔に穴が開いてしまいそうだった。その様子を見て、劔さんは溜め息をつく。
「お前のことは一部の生徒会役員と教師しか認識していない。少なからず霊感のある者だな」
「じゃあもしかして、埜百利先生も?」
「ああ、あの人もそうだったな。俺が入学するよりずっと前からお前のことを知っているはずだ。他の生徒には、お前は見えているが気に留まらない存在になっている」
そうか、だから俺は皆に空気のように扱われていたんだ。俺の性格が悪いからとか、気持ち悪いからとか、そういうのじゃなかった。嬉しいような、悲しいような、なんとも言えない気持ちになる。
「劔さんからお話を聞いて、ずっと気になってました! 会えて嬉しいです!」
斧山君に手を差し出される。俺はおずおずとそれを取った。
「斧山、例の調査の件はどうなった?」
「あ、あの件ですね」
一頻り握手した後、斧山君はスマホを操作する。
「色々調べているんですが、なかなか尻尾を掴めなくて……おかしいなあ、どこだっけ」
「な、なんの話ですか?」
「お前は首を突っ込まなくていい」
尋ねてみれば、ぴしゃりと返される。怖い。俺はじっと斧山君を見る他なかった。
ぷつん、と音がする。部屋に備え付けられた校内放送用のスピーカーがついた音だ。
「おかしいなあ……」
斧山君は首を傾げている。
スピーカーから、音が流れ始めた。
低い音。いや、声だ。女のような、男のような、子どものような、老人のような、獣のような、そんな呻き声。
背筋がぞわりと粟立った。
「劔さん」
見れば劔さんも困惑した顔を浮かべていた。
「放送部か? なんだ、この不気味な音は……」
斧山君だけが熱心にスマホを見続けている。まるで音のことなんて耳に入っていないように。
「斧山。お前、何か知ってるか。最近の流行りか?」
「そうですねー」
斧山君は、そこでようやく、顔をあげた。
「僕、劔さんのこと尊敬してますから」
ぴたりと空気が止まる。
「なんの話だ?」劔さんが眉間に皺を寄せた。
「だからおばあちゃんに言ったのに、それ僕が欲しかったやつじゃなくて別冊だって」
「……は?」
劔さんと俺は同時に口を開いていた。
「いや、違うんですよ」
斧山君は眉を下げて笑う。
「僕、お姉ちゃんがいるんですけどね。でもそのせいで頭に穴を開けたわけじゃなくって。むしろ自由になれたくらいで。なら一昨日でも良かったと思いません?」
「斧山」
劔さんは立ち上がる。斧山君の肩を手を置く。
「俺だ、分かるか? なあ、俺の目を見ろ」
「そうじゃないんですって!」
斧山君は突然叫んだ。ひゅっ、と息を飲み込んで、俺はソファに縮こまる。
「劔さんのお役に立とうと思って。新学期って早すぎるから、もっと近くにしてもらわないと保育園児が歌いっぱ、なし、で……」
がくん、と斧山君が膝を折る。かと思えば蹲るすんでのところで立ち上がった。がくがくと体全体が震えている。また膝を折る。すんでのところで立ち直る。また膝を折る。立ち直る。
「が、っあ、劔さん」
「斧山?」
劔さんの声はひどく気遣わしげになっていた。俺はソファに張り付いたまま、まったく動けない。背中に汗が滲んでいた。
「昨日の打ち合わせで決まったのどうなりましたか?」
がん、と斧山君は突然机の角に頭を打ちつける。それからがぽっ、と吐いた。絨毯が敷かれた床に、茶色の吐瀉物が散乱する。大丈夫か、と劔さんはスラックスが汚れるのも構わず斧山君に寄り添った。
四つんばいになった斧山君はうげえと大きく吐くと、自分のゲロの中に顔を突っ伏した。白目を剥いている。気絶したようだ。
「お、斧山君?」ようやく身体が動いた。「ほ、保健室に連れて行かないと」
劔さんはいつになく険しい顔をしていた。スピーカーの音はいつの間にかやんでいる。
「……ああ、そっちの肩を持ってくれるか」
劔さんの指示で、俺は斧山君の左肩を持つ。意志のない体は想像以上に重い。ろくに運動してない俺にとって、体を支えるだけでもかなりの重労働だった。
「途中で倒れるなよ。さすがに二人も運べない」
「が、頑張ります」
頷いた、その時。
「あ、ここかあ。知らなかったな」
閉じていた扉が、音もなく全開になった。
「今まで何回か来ようとしたんですけど、辿り着けなくて。なんか妙な結界でも張ってありました? 寺の子特別仕様?」
勾白の澄ました顔が覗いた。劔さんと俺、それからその間にいる斧山君を見て目を丸くする。
「え、どうしたんですかそれ」
「お前のせいか」
「なんの話──」
俺に斧山君を預けると、劔さんは素早く勾白に近付いた。
「斧山をこうしたのはお前だな?」
「冤罪。冤罪ですよ、完全に」
勾白は両手を挙げる。
「本当に知りません。どうして僕がわざわざそんなことをしなくちゃならないんです? 何かメリットありますか」
む、と劔さんの剣幕が弱まる。
「悲しいなあ。偏見ですよ、それって。僕はこんなことしません。というか……」
勾白は目を眇める。
「怪異でしょう、どう考えても」
「怪異……」
俺は思わず呟いていた。確かに斧山君の動きは尋常でなかった。何かに取り憑かれていた、呪われていたと思う方が自然なほどに。
「とにかく早く保健室に連れて行ってあげてください。話はそれからしましょう」
「一つだけ聞かせろ」
劔さんのスクエア眼鏡が蛍光灯を受けて光る。
「お前、なぜわざわざここに来た。目的はなんだ」
「協力してほしくて」
「なに?」
「戯陀跋扈です」
勾白はあっさりそう言う。
ぎだばっこ。またその名前か。俺に覚えはまったくない。
しかし、それを聞いた途端に背中が酷く粟立った。
「五十年前、敬愛する祖父はこの学校の生徒でした。当時からすでに優秀な霊能力者であった祖父は、学校に巣食う怪異を祓おうとした。けれどそれは叶わなかった。封印という苦肉の策をとったそうです。亡くなる前にそう僕に話してくれました」
勾白は芝居がかった様子で腕を広げる。
「だから僕は、祖父のやり残したことを果たしに──化け物退治をしにきました」
翌日。俺と勾白は、再び生徒会室を訪れていた。
「斧山君の様子はどうですか?」
俺は一番気になっていたことを聞く。
「大事を取って自宅療養中だ。悪いニュースは入っていない」
「よ、良かった……」
胸をなで下ろす。一安心ということだろうか。
しかし劔さんの眉間の皺は薄まらなかった。
「斧山のスマートフォンの履歴を調べていたところ、おかしなものが見つかった」
「調べたんですか? 履歴を? 勝手に?」
勾白は笑い混じりに尋ねた。
「怪異の汚染が広まっている可能性がある。調査するのが生徒会長の務めだ」
「束縛彼氏みたいでキツくないですか?」
勾白は俺に耳打ちしてくる。見られすぎるのは嫌だろうな、と思って頷いた。
「そこで判明したが、斧山は樹良高生限定のとあるSNSグループに参加していたらしい」
「インターネットで作った集まりみたいなものですよ」
知らない単語に内心首を傾げていると、勾白が耳打ちで教えてくれる。俺からすればインターネット自体もよく分かっていないのだが、なんだか凄く広くて深いものである、という認識をしていた。この間そう勾白に言えば「広いかもしれませんが、浅いですよ」と返されたのを覚えている。
「どんなグループですか?」
調べようとしているのだろうか、勾白はスマホに指を這わせる。
「自殺コミュニティだ」
劔さんはいっとう眉間の皺を深くして告げた。
「自殺コミュニティはここ一ヶ月で拡大している、樹良高生のみが参加できるオンライングループだ。自然発生的に生まれたらしく明確な首謀者や先導役はいない。グループチャットでゆるく繋がり、思い思いに希死念慮を吐露する。メンバーにとっては憩いの場になっているらしい」
劔さんは苦々しげに、それでも淀みなく続ける。
「以前から校内では斧山のように突然自傷行為に走る生徒が増えていた。授業中、放課後、部活動中、時間帯に脈絡はなく、ただ学校内にいる時だという点は共通している。生徒会ではしばらく調査を続けていてな。自傷した本人に聞き取りを行ったところ、『自分の命を捧げろという声が聞こえた』と言っていた。彼らは全員……」
「その自殺コミュに所属していたと」
勾白が引き継ぐ。
「妙な話ですね。僕好みだ」
「自殺コミュに入っていたすら覚えていない連中も大勢いる。十中八九、怪異の影響だと考えて間違いない」
死にたいという願望を増幅させる怪異? 考えただけで吐き気がした。たちが悪すぎる。俺みたいなやつが呪われるならいい。まっとうに今を生きている生徒たちが、そんな理不尽な脅威に晒されるなんて。
「原因は分かっていないんですか? いわく付きの場所に行ったとか」
「調査中だ。手掛かりは掴めていない」
勾白の問いに、劔さんは首を横に振る。
「劔先輩、祓ってやるオーラが強すぎるんですよ。僕が怪異なら、まあ避けるでしょうね」
「お前に避けられるなら本望だ」
劔さんは堂々と舌打ちする。
「だがこれ以上自殺コミュニティを野放しにするわけにはいかない。どうにかしなくては……」
突然、勾白が俺の背をつついた。
「何を言っているんですか、劔先輩。ここにスペシャリストがいるというのに」
「スペシャリストだと?」
「ええ。怪異にとって最高のデザート、残機無限、呪いたい放題の佐島先輩を使わなくてどうするんです」
「お、俺を使うってどういうことだよ」
嫌な予感がする。勾白は授業中教師に答えるかのようにハキハキと告げた。
「この間言ったでしょう。怪異を釣るための餌にするんですよ」
「なあ、やっぱり気が進まないって言ったら?」
「どうしてですか。友達にそんなこと言われたら悲しいです」
くすんくすん、と勾白のあからさまな泣き真似がスマホ越しに聞こえてきた。
「や、だって普通に怖いし……っつか友達になった覚えはないし」
「先輩は記憶していなくとも身体は覚えていますからね」
「気色悪いこと言わないでくれ」
こいつ、あれだけ劔さんに怒られたっていうのにまったく懲りてない。どうやったらこんなメンタルになれるんだ。
「文句を言わずに頑張ってください。僕と一緒に頑張ってくれたら、きっと普通の学生生活を取り戻せますよ」
「人の願いにつけ込むなよ……」
夜の校舎は相変わらず異界のようだった。
自分の足音だけが響く廊下は冗談みたいに不気味だ。冷えた夜の空気が腕や首筋にまとわりつき、何もいないはずなのに肩を手で払ってしまう。
「なあ、やっぱ電気つけたままだと怒られるんじゃないか」
「何度も言っていますが、人払いの線を引いてあります。問題ありませんよ」
自信満々に言い切られると俺も飲み込まざるを得ない。
なんだかな、と思う。完全にこいつのペースだ。買い与えられたスマホをこうして使っている時点で文句は言えないのかもしれないが。
「連絡手段ないんですか?」
「当然だろう。こいつは五十年ずっと学校暮らしだ。電子機器を持っているわけがない」
ありえないと肩を竦める勾白に、劔さんが呆れていた。俺としては馬鹿にされているようにも哀れまれているようにも感じたが、本当のことなので黙っているしかできなかった。
翌日、つまり今日の朝、勾白は俺にスマホを投げて寄越した。
「友達とはこうやって連絡を取り合うものですから」
「と、友達じゃな、」
「使い方分かります?」
分かるわけがない。スマホ、というものはなんとなく知っていたが、実際触ってみたのはこれが初めてだった。なんだこれ。予想以上に画面が大きすぎる。文字入力はおろか、画面に指を這わせるのでさえおそるおそるな俺に、勾白は「高齢者用の方がよかったかな」と溜め息混じりの笑みを浮かべた。
「とにかく、これでいつでも連絡が取れるようになったので」
「うん」
くそっ、なんで勝手に画面が戻るんだ。横にスワイプ? したいだけなのに。
「画面の端でやると戻るんですよ」
「勝手に写真を撮ってしまった」
「スクショです」
スクショ?
「そ、そうなのか」
「好きに使ってもらって構いませんが、変なアプリをダウンロードしないでくださいね。面倒なので」
「うん……」
クラスで耳はするが、知らない単語ばかりだ。
「というわけで、夜に待ち合わせしましょう」
「うん?」
いつの間にか夜に学校で落ち合う約束をさせられた。だというのに出会って三分で別行動だ。俺は四階、勾白は一階から順に校舎を周り、途中で落ち合おうという話だった。
「な、なんのために」
「もちろん、斧山君を狙った『何か』を探してとっちめるためですよ。僕の見立てでは十中八九、戯陀跋扈に関するものです」
別にいいんだけど俺が一番上まで上がって後輩のお前が一階で楽してるのは何? と聞きたかったがスマホを与えてもらった手前、強く言えない。というか俺みたいなやつは階段登ってひいひい言っとけって話だよな、分かる分かる。
そういうわけで夜の校舎を通話しながら歩いている。最初は何かあればすぐ電話する手筈だったが、俺から通話することが果たして技術的に可能なのかが怪しく、結局最初から電話を繋いでおく算段になったのである。
「四階、は何もないっぽい」
「きちんと探しました? 教室もトイレもですよ」
「こ、怖いだろそんなの……!」
トイレなんて恐ろしいことが起きる場所ナンバーワンじゃないか。
「嫌なら僕から探すように仕向けてもいいんですよ。先輩の身体はいつだって自由にできますから」
「戯陀なんちゃらよりお前の方がよっぽど悪霊だろ!」
探せばいいんだろ、探せば。こいつに好きにされるくらいなら、自分から地獄に飛び込んだ方がマシだ。
手近にある教室の扉を、ゆっくりと開く。
「お、おじゃまします……」
中は暗い。廊下から漏れる明かりを頼りに、壁伝いに電気のスイッチを探す。指先が固いものに触れた。
ぱちん、と押す。電気がついた。
空き教室だった。どこからか不要なものを持ってきたのか、机と椅子が数個置いてあるだけだ。人がいる気配はない。人以外の嫌な気配も、ない。
「ま、勾白。何もない」
「ロッカーは?」
鬼か。
ともすれば踵を返しそうになる自分を鼓舞し、教室の奥にあるロッカーへと近付く。掃除用具が入っているであろう、よく見るタイプのものだ。
つまり、ひと一人がゆうに入れそうな大きさ。
ごくりと唾を飲み込んだ。
「よくない想像をするから怖いんですよ」
呑気な勾白の声が聞こえる。
「ロッカーに何か入っている、そいつが襲いかかってくる、そんなことを想像する前にさっさと動いてしまえばいいんです」
「勾白も、そうやって怖くないようにしてるのか?」
「いいえ」
物音が聞こえる。勾白が向こうでロッカーを開けている音だ。
「別に中に何がいてもいいと思ってるので」
「いないって言ってくれよぉ!」
ぐずぐず呻いている間にロッカーは目の前にあった。
「時間を掛ければ掛けるほど長引くだけですよ」
「わ、分かってるよ……」
ぐっと目を瞑る。
何も想像するな。何も考えるな。開けることに集中しろ。
取っ手を掴む。さっと開けて、それでおしまいだ。力を込めた。
ガァン! と音がした。
「ひやぁああっ!」
思わず体が跳ねる。電話の向こうから「すみません」とまったりした謝罪が聞こえた。
「ロッカーの上にあったバケツが落ちました」
「び、びっくりさせるなよ……!」
脱力する。馬鹿馬鹿しくなってスッとロッカーの扉を引けた。掃除用具が入っているだけだった。
「本当の本当に何もなし……」
「ご苦労さまです。次をお願いします」
やっぱり鬼か?
教室を出て次の部屋を目指す。これがあといくつあるんだ。終わりまで俺の心臓は持つのだろうか。
「このままでは朝までかかります。スピードアップしましょう」
「うう、了解……」
ぐだぐだやるより、さっさと終わらせてしまおう。俺は足を早めた。
「……ん?」
「どうかしましたか」
「いや……誰かいる?」
廊下の先に、人が立っていた。よくよく見る。おばあさんだ。ベージュのカーディガンを羽織り、心もとなさそうにきょろきょろとしている。
「誰かって、誰が」
「ちょっと後で掛け直す」
「は、」
勘で画面のボタンを押し、スマホをポケットに入れておばあさんに駆け寄った。不思議と怖いとは感じなかった。そのおばあさんがあまりに困っていそうだったからだ。
「ど、どうかしましたか」
「あら、あなた、学生さん?」
おばあさんは俺を見ると目を丸くした。傍に寄ると思った以上に小さい。白髪は細く、顔には深い皺が刻まれている。
「ごめんなさいねえ、私、道に迷っちゃったみたいで……バス停を探してるんだけど」
「バス停ですか」
やっぱり、と思った。恐らく少しボケ始めてしまっている人だ。昼も夜も分からない上に、知らず知らず学校に迷い込んでしまったのだろう。助けてあげなきゃ、と思った。
「お、俺でよければ案内しますよ」
「本当? ありがとうねえ。最近の学生さんは優しいねえ」
「いえ、そんな」
断りを入れ、おばあさんの腕を取る。一度学校から出て、警察を呼ぼう。きっと家族が捜しているはずだ。
「バス停に行って、どちらまで?」
「ある方に会いにいくのよ。それが楽しみで楽しみで……」
「そうなんですね。じゃあすぐ行かなくちゃ」
できるだけ話を合わせてあげた方がいい、と聞いたことがある。おばあさんはにこにこと相好を崩している。俺なんかに案内されて不快にならなきゃいいけど。
「私、どうして道に迷っちゃったのかしらねえ。いつも通ってる道なのに。不思議ねえ……」
「大丈夫です。俺もそういうことよくありますし……お、俺と一緒にしちゃ失礼か」
「そんなことないわよぉ。うちの孫もあなたみたいに優しい子になってほしいわ」
優しい? 俺が? お世辞でも頬が緩んでしまう。
階段をゆっくりと降り、三階についた。
「すみません、もう少し頑張れますか」
このおばあさん、そういえば四階までしっかり登ってきたんだよな。足腰がしっかりしているのはいいことだ。
おばあさんは遠くを見ていた。中庭に続く窓越しに、遠く遠くを眺めている。
「何かありましたか?」
おばあさんは答えなかった。
遠くを見ている。迷ったが、もう一度声をかける。
「……あの……」
音もなく辺りが闇に包まれた。
ひっ、と叫びそうになるところを堪える。なんだ、停電か? 俺は急いでスマホを取り出し、ライトを点け……ようとしたが、うまくいかない。えっと、どっちの方向に何をすればいいんだっけ?
「……先輩、佐島先輩。大丈夫ですか」
勾白の声が聞こえた。しかもなんだか音が大きい。
「あ、あれ、勾白? いつの間に電話を」
「あなた、切ったつもりだったんでしょうけど、スピーカーボタンを押しただけでしたよ」
スピーカーボタン?
「さっき人がいたなんてふざけたことを言ってましたが大丈夫ですか」
「お、おばあさんに会ったんだよ」
「は? おばあさん?」
「迷子になってて……お、おばあさん。大丈夫ですか」
画面の明かりを周囲に向ける。おばあさんは俯いていた。暗闇が怖いのかもしれない。俺も怖い。
「あのですね」勾白の呆れた声がする。「先ほど人払いの線を引いたと言ったでしょう。ここに生きた人間が迷い込むなんてあり得ませんよ」
「……え?」
今何階のどこにいますか。勾白の問いかけが遠い。
おばあさんは俯いている。
「あ、あの、おばあさん」
「あの方に会うために、やっておかなくちゃいけないことがあってねえ。こうしておかないと大変だからね」
おばあさんは俯きながら顔に向かって手を動かしていた。何かを書いているのだろうか。詳しくないがお化粧とか、そういう。
「……先……離れ……」
勾白の声が雑音まみれになる。
ぷつん、と音がした。校内放送がつく音だ。
声が流れ出す。斧山君がおかしくなった時に流れた、あの声が。
おばあさんが顔を上げた。
右の瞼に、赤い糸が縫われていた。
「っひ、あ」
俺は思わず後ずさる。おばあさんの手には針と糸があった。自分の瞼を縫っていたんだ、と気付いた。
「こうやって目を閉じておかないと大変だからねえ」
どすん、と。
左目に激痛が走った。右の視界に広がっているのは、おばあさんの皺だらけの手だった。
「あんたの目も閉じておかないとねえ」
針を刺された。目玉に。深々と。
絶叫していた。おばあさんの手を振り払う。もつれる足で逃げる。目玉に針が刺さったままだ。痛い。怖い。痛いが怖くて針を抜けない。
数歩走っただけですっ転んだ。スマホが宙を舞う。廊下の向こうに音を立てて落下する。喘ぎ声は止まらなかった。
「うるさい子は、あの方に嫌われるよお」
足を掴まれる。必死でもがくが、おばあさんは信じられないほどの力で俺の足を引っ張った。這いずって逃げようとしても駄目だった。
おばあさんの手にはもう一本の大きな針があった。
鋭い先端が、俺の喉に突き立てられる。
ぎ! という音が俺のどこからか漏れ出た。針が抜かれる。
「静かにしておかないとねえ」
針が刺される。
抜かれる。
刺される。
抜かれる。
体がびくびくと痙攣した。
おばあさんは俺の喉に開いた穴に、そのしわくちゃの指を突っ込んだ。
ぐりぐりぐりぐりと、指が差し込まれる。穴を大きくするように。二度と閉じないように。
ごぽ、と口から血が溢れ出た。いや、喉の穴からだろうか。
おばあさんは笑っている。穏やかそうに、まるで孫を見るみたいに。
指が完全に喉に入った。ぐっと力を込められる。この指は俺の喉を裂こうとしている。妙に冷静な自分に笑えた。痛みで頭がおかしくなったか、それとも。
死にたい。
唐突にそう思った。思ってしまった。助かりたい、ではない。死にたい。死ねばきっと幸せになる。この世の苦しみから解放されて、何より、あの方のためになる。
そうだ。どうして気付かなかったんだろう。こんなところでのうのうと生きている場合じゃない。早く、早く死ななければ。
俺はおばあさんの指に自分の手を重ねた。もっと、もっとだ。もっと深く刺してくれ。もっと、もっと。
おばあさんはより一層笑みを深くして、
弾けた。
「良かった、間に合った」
明かりが灯る。
勾白がいた。手のひらを合わせ、俺を見下ろしている。おばあさんは消えていた。
間に合っていない。全然、まったく、何一つ。いや、むしろ早かった。もう少しで死ねたのに。死んで、あの方の糧になれたのに。いや、いや。
俺は何を考えている?
痛みで頭が朦朧としていた。思考が混ざって、ほどけて、消えていく。
死にたい、わけがない。なんでそんなことを考えていたんだ。
泣きたかった。泣き叫びたかった。こひゅ、と息が漏れるだけだった。
「あーあぁ、こんなことになって」
言葉とは裏腹に、勾白の顔には呆れも戸惑いもない。ただ俺を観察している。
「ま、」
まがしろ。なんとかそれだけ声に出す。
「ん? どうしました」
勾白は優しく問う。俺を跨いで、顔を覗き込んでくる。
痛い。死にたくない。きっともう助からない。死にたくないけど、終わらせたい。その勇気がない。
「ま……あ」
「もっとはっきり言ってくれなくちゃ、聞こえませんよ」
かひゅ、かひゅ。
「し」
ごぽっ。
「しな、せて」
声を振り絞る。
「し、死なせてくだ、さい」
涙が零れ落ちた。情けなくて、惨めで、けど心の底から安堵もした。ちゃんと言えてよかった。
「本当に間に合ってよかった」
満足したように頷いて、勾白は手のひらをもう一度打つ。
手が、俺の両手がひとりでに動いた。
穴の開いた喉を、自分の手で絞め上げる。血で指が滑る。それでも構わず絞める。
「先輩が勝手に殺されなくて済んだんですから」
ごぼ、と最後に咳込んで、俺は意識を手放した。
廊下に立っている。見知った、というよりかどこの学校にもあるような、普遍的な廊下に。
長い一本の道、左手には教室へと続く扉がある。右には無数に並んだ窓。外を覗いて見るが、そこは暗闇ばかりで何もない。
誰の声も聞こえない。匂いも音もない。俺一人がただ歩いている。今は何時だろうか。時計がないから分からない。
そうだ、勾白からもらったスマホ。制服のポケットを探るが、どこにもない。そうか、落としたんだ。血の気が引く。
勾白の性格がどれだけ悪かったとしても、人から譲ってもらったものを失くすなんて。俺はなんて最低なんだろう。どこで落としたんだったか。ここらへんにないだろうか。
しばらく視線を落としながら歩く。失くした、なんて勾白に言ったらきっと嫌なことを言われるに違いない。「死に続けてたらスマホもきちんと持てなくなるんですか?」とか。小さい声で謝罪する自分が目に浮かぶ。
暗い気分でずっと進んで、ふと顔を上げた。
窓を見る。暗い窓を。途端に背筋が粟立った。
気付いた。気付いてしまった。
窓の外の景色は、暗闇が広がっているんじゃない。何か大きなものがこちらを覗き込んでいるから、暗闇に見えるんだ。
何とも思っていなかった空間が、途端に恐ろしくなる。逃げるように廊下を走った。
走って、走って、走って、走る。足音が大きく反響している。視線はどこまでもついてくる。廊下は終わらない。いつまでも同じ景色が続く。
怖い。助けて。誰でもいい。勾白でもいいから。
どれくらい走っただろう。無数にある教室のうち、一つの扉が開いていた。考えている暇はない。扉を開けて飛び込む。
光が俺の体を包んだ。
「一週間も何をしていたんですか?」
そんな声がして、え、と頭を上げる。腕を組んだ勾白が俺を見下ろしていた。いっしゅうかん。一週間? 周囲を見回す。学校の中庭だった。何十本もの桜の木が俺を見下ろしている。
「えっ、と、なんか変な廊下みたいなところにいて」
「廊下?」
勾白は目を眇めた。
「ずっと同じ景色が続いて、走っても走っても抜け出せなくて」
「同じ景色?」
勾白は考え込む。
「夢幻回廊じゃないですか、それ」
「確か、学校に伝わってる怪談の?」
そういえば、勾白から聞いた話にそんなのがあった。
テストの補習で遅くまで残っていた生徒が一人帰ろうとした時、ふといつまでも廊下が終わらないことに気付く。走っても走っても出口には辿り着かない。その生徒は今も永遠に学校をさまよっているという。
「五十年前、何かの拍子で先輩は夢幻回廊に迷い込んだ。死ぬと自動的にそこに戻る。自分でも気付かないまま帰ってきて、何食わぬ顔で授業を受けている」
「た、ただの噂だと思っていたのに……どうなってんだ、この学校は」
「というか、その噂って先輩が元じゃないですか?」
「お、俺?」
間抜けな声が出た。
「五十年ずっと学校に居座り続ける生徒……異常性をはっきり認識していないとは言え、怪談として噂になってもおかしくない」
「居座ってるとか言わないでくれ」
こっちは好きで五十年も学生やっているわけじゃない。
だけど、そうか、納得がいった。あそこは夢幻回廊か。名前が付いているなら、まったく何も知らない場所をうろつくよりは安心できた。むしろこの五十年の自分のホームとも呼べる場所じゃないか。
「……でも、怖いやつがいたんだ」
「怖い? どんなのですか」
勾白は興味津々といったふうに目を輝かせる。
「よく分からない。ただこっちをじっと見ている感じがして……」
あれはなんだったんだろう。
「しっかりしてくださいよ。五十年前と言えば、僕の祖父が戯陀跋扈と戦った年です。佐島先輩と何か関係があるに違いない」
そんなことを言われても、記憶に靄が掛かって何も思い出せない。去年のことも分からないのに、五十年前なんて知る由もなかった。
「そ、そうだ、スマホ!」
思い出した。スマホをなくしたんだ。
「ああ、はい」勾白は俺にスマホを投げて寄越す。「落ちてましたよ」
「え、あ、ありがとう……」
「なんですか、その顔は」
「も、もっと嫌味を言われるかと思ってて」
「偏見を持たないでください。僕はもっと優しいですよ」
「嘘つけ……」
こいつが優しいのなら、辞書に書かれた意味を変えなくちゃならなくなる。それでも拾ってくれたことはありがたいので、もう一度お礼を言ってからポケットにしまった。これがないと、いざ怪異に襲われた時に勾白を呼べない。
「さて、劔先輩のところに行きましょう。話したいことがあるそうです」
勾白はあまり楽しくなさそうに言った。
「自殺コミュニティの拡大が止まらない。むしろ数が増えている」
俺たちが生徒会室に入るや否や、劔さんはさっそくそう告げた。目の下の隈はまた一段と濃くなったように見える。
「あ、あのおばあさんが原因じゃなかったんですか? でも俺、あのおばあさんのせいで死にたくなって、あれって多分、斧山君の時と同じような症状だったと思うんですけど」
「一人を祓ったくらいじゃ焼け石に水だということですね」
勾白はさして驚いた様子もない。分かり切っているとでも言いたげだ。
「恐らくそうなる。少なくともあと百人はいるだろうな」
「厄介なのは他のやつらがすっかり息を潜めてしまったことですね。夜の校舎にもそれらしき気配はまったく」
「希死念慮だけがじわじわと広がっている。腹立たしいことこの上ない」
「す、すみません、ちょっと待ってください」
俺は話し込む二人の間に割って入る。俺一人がまったくついて行けてない。
「あの、百人もいるんですか? おばあさんみたいなのが? ど、どうして分かるんですか」
「戯陀跋扈だ」
劔さんは吐き捨てるように言った。
「お前が出遭った老婆こそ戯陀跋扈の一人だったんだ。考えればすぐに分かることだった」
戯陀跋扈。勾白が語った記憶を手繰る。
百年前、集団自殺をした新興宗教『戯陀』の信者たちの霊。彼らの遺骸の上に建てられたこの学校は、彼らの呪いに絶えず晒されている。
俺が夢幻回廊で感じたあの視線も、戯陀跋扈によるものだったのだろうか。
劔さんは苦々しげに机を指先で叩く。
「集団自殺が起きて今年で百年。やつらの呪いが生徒たちに降り掛かっているとしたら厄介だな」
劔さんはスマホを操作する。
「斧山のアカウントで自殺コミュニティに入った時のスクリーンショットだ」
劔さんが見せてくれた画面には多くの投稿があった。熱に浮かされたように死を渇望するもの、あの世に期待を馳せるもの……見ているだけでグラグラしてきた。
「決行の日は近い、なんて書いてありますけど」
「ああ、恐らく大規模な集会がある。掴めている情報はここまでだ。覗き見しているのがバレたのか、この後はコミュニティを追い出されてしまった」
「適当にアカウント作って入ればいいんじゃないですか」
勾白はスマホを操作する。
「やつらのガードは固い。見知らぬアカウントではまず通らないだろうな。コミュニティに選ばれた者のみが入れるようだ」
「ど、どうにかできないんですか。その集会で何かが起きるかもしれないんですよね」
「集団自殺とか?」
勾白が事も無げに呟く。
「実際に起きたらとんでもないニュースになるでしょうね。マスコミやオカルトマニアがこぞってこの学校に押しかけて……」
ダン! と劔さんが机に拳を振り下ろした。
「……冗談でもそんなことを言うな」
「大真面目ですよ。だってそう考えるしかないでしょう?」
劔さんは無言で立ち上がる。勾白を睨めつけ、その胸ぐらを掴んだ。
「お前はどうしていつもそうなんだ? もう喋るな、馬鹿が」
「意見を述べただけです。不機嫌だからとこちらに当たられても困ります」
「ちょ、ちょっと待って! ストップ!」
俺は慌てて劔さんの腕に手を伸ばした。
「勾白。そ、そういう言い方はよくない……と、俺も思う」
「へえ、劔先輩の肩を持つんですか」
勾白はいつもの如く笑っているが、その感情は読めない。
「肩を持つとかそういう話じゃなくて……」
「佐島は人間性の話をしているんだ、屑め」
「人のことを罵倒する方に諭される人間性って旨味がありますねえ」
「だっ、だからストップだって!」
本当に嫌だ。泣いていいかな。
「とは言っても劔先輩、何か当てはあるんですか? このままだと本当に起きてしまいますよ、」
集団自殺。勾白は口の形だけで示してみせる。俺はおそるおそる劔さんの方を見た。
「大規模集会の情報をなんとしても掴む。どんな手を使ってもだ」
「だからそういうオーラが人間も怪異も遠ざけるんですって。潜入捜査なんて一番向いてないタイプでしょう?」
「向き不向きを選べる状況じゃない 」
「あ、あの……」小さく手を挙げる。「俺、自殺コミュニティに入れたんですけど」
「は?」
劔さんと勾白が声を揃えた。
自殺コミュは一見、のどかで居心地の良さそうな場所だった。参加している生徒は日常の何気ないことを投稿している、ように見える。だがその末尾には必ず自死が仄めかされていた。見ているだけで寒気がしてくる。
「先輩の生身の人間に対するステルス能力、一級品ですね。怪異にはあんなに目をつけられるのに」
「全然嬉しくない……」
慣れない手つきで画面を動かす。
ふととある書き込みが目に入った。
「この苦しみも文化祭まで」
「文化祭だと?」
劔さんは目を眇める。
「確かに大規模な催し物をするにはぴったりですね」
勾白はのんびりと構えているが、俺は心底焦っていた。
「ぶ、文化祭って、明日じゃないですか」
五月二十五日。樹良高文化祭はすぐそこだった。
賑やかに彩られた中庭に目をやる。青々とした木々は今日のために切り揃えられ、一本一本リースや電飾が飾り付けられていた。日が沈むとライトアップするようになっているらしい。
溜め息が出そうになる。何の手立てもなく今日を迎えることになった。今この瞬間にも集団自殺が起きるかも知れないと思えば、大人しく座っていられない。俺は立ち上がって教室を後にした。
俺のクラスは教室丸々をコンセプトカフェにしていた。皆は接客で忙しそうだが、俺は働き手もして数えられていないらしい。今日このときにおいては助かるが、やはり悲しかった。
「おー佐島ちゃんだ。お疲れぇ」
埜百利先生が手を挙げて前からやって来た。頭にはひょっとこのお面、手には綿あめ、彩度の高い花の首飾りを下げている。
「す、すごく満喫されてますね……」
「いやァやっぱり最高だよな文化祭って。先生、現役の頃は友達と回って楽しんだもんよ」
通り過ぎる女子生徒が埜百利先生を見るなり、「せんせ! これあげる!」と長すぎるフライドポテトを一本差し出し、去って行った。埜百利先生は「サンキュー」とウィンクしてからそれをむしゃむしゃと食べ、指についた塩まで丁寧に舐め取る。
「佐島も楽しめよォ。こんなの楽しんだもん勝ちだからね」
「は、はい。でも俺、友達いないんで……」
「まーそういうのも乙なもんじゃん。あ、もし良かったら先生と回る?」
「え、そんな。悪いですよ」
「悪いわけがないでしょーよ。先生もちょうど一人だし」
「あ、ヤモ先こんなところにいた!」
廊下に大きな声が響く。見ると、明るい髪をした男子生徒たちが埜百利先生に近付くところだった。
「やっと見つけた。俺らと回ろうって約束したじゃん!」
「あれ、そうだっけ?」
埜百利先生は首を傾げる。
「そうだよ、ほらヤモ先いると女子も来てくれるから、お願い!」
「わぁかった分かった。ごめんな、佐島。また時間あったら一緒に回ろう」
「いえ、そんな。お気になさらず……」
「なァんかヤバい雰囲気なんでしょ? 先生もちょこちょこ見張っとくから」
最後に低く耳打ちして、埜百利先生は男子グループと一緒に行ってしまった。元々一人でいる予定だったが、余計に寂しくなった気がする。
「……あ」
中庭を挟んで向かいの校舎、廊下で勾白が歩く姿が見えた。思わず目で追ってしまう。
勾白の周囲には四人の男子生徒がいた。いずれも皆、爽やかな面持ちで頭が良さそうだ。屈託のない笑顔からは対人能力強者の雰囲気が窺える。
つまり俺とはまったく違う毛色の人間だということだ。勾白も見た目だけなら完全に彼らに溶け込んでいる。お似合いに思えた。
そうだ、類は友を呼ぶ。俺といる時が例外なだけで、本来勾白はああいった生徒たちとつるむんだ。
……なんだ?
俺は何をうだうだ考えているんだ。勾白に親しい友達がいるのは当然だろう。外面を整えることは得意分野な上に、友達作りには積極的だし。
馬鹿馬鹿しい。頭を振る。勾白なんて気にしている場合じゃなかった。もっと他に考えなくちゃいけないことがある。
留意すべきは戯陀跋扈だ。それ以外ない。
中庭に立つ屋外時計を見る。時刻は十四時を差していた。大規模集会が行われるまであと一時間だ。
どうしよう。俺に何かできるだろうか。
目的地もなく歩き出す。集会、というにはどこかに集まるのだろうか。大人数が集まれそうな場所に行ってみるべきか? 例えば体育館、中庭、校庭もあり得る。
「あ、佐島さん!」
「え、斧山君?」
こちらに手を振っているのは確かに斧山君だった。一歩勢いよく駆け出そうとしたと思えば、ハッと周囲を見渡し、ゆっくり歩いてくる。
「えへへ、会えたのが嬉しくてつい走りそうになっちゃいました。廊下は走るなって会長に口を酸っぱくして言われてるのに」
はにかみながら笑うその顔には曇りが一つもない。先日の凄惨な行動が嘘のようだ。
「体調はもういいの?」
「はい、おかげさまで! 会長に聞いたのですが、その節は本当にご迷惑をお掛けしました」
斧山君は小柄な体を折り、深々と頭を下げる。
「いや、そんな。謝らないで、俺は何もできてないし、そもそも斧山君のせいじゃないし……」
「いえ、僕が未熟なせいですっ! 会長を失望させてしまいました」
斧山君は悔しそうに眉を歪めている。しかし劔さんが斧山君に失望するだろうか。俺には心の底から心配しているようにしか見えなかった。
「戯陀跋扈の件も、会長から聞きましたよ」
斧山君は声を落とす。
「おばあさんの霊を祓ったとか。さすがです」
「俺じゃないよ。祓ったのは勾白。俺はやられて倒れてただけ」
今思えば本当に情けない。気をつけろと言われていたのに、不自然な場所にいるおばあさんを生きた人間だと思い込み瀕死、挙げ句勾白に介錯までしてもらうとは。
「いいえ、お二人揃ってこそですよっ」
斧山君は俺の手をがっしり取る。
「憧れます! なんというか、息の合ったチームみたいで」
「そ、そうかな……」
首を傾げると、「そうですよっ」と前のめり気味に言われる。そうだろうか? 息が合ってるも、チームもなんだかピンと来ない。
「あ、すみません。長話しちゃって。もうすぐ例の時間ですよね? 今日は生徒会総出で見回りをしているんです。不審な動きをする人がいたらすぐ対処できるように」
「そうか。病み上がりなのに大変だな」
「いえ、劔さんの下にいるならこのくらい当然です! というか、劔さんが一番大変そうですもの。ここ数日あんまり寝てないみたいですし、今日のことでかなり気を揉んでいましたし……だから僕が頑張らないと」
生徒会の運営に心霊関係の対処なんて休み暇がないに違いない。斧山君が伏せっていたことも心労の一つだろう。
「……あの、よければ俺も見回りを手伝ってもいいかな。何かしたいと思ってたけど、どうすればいいか分からなくて」
「いいんですか? ぜひお願いします!」
斧山君に先導してもらい、各教室を見回っていく。怪異の影響はもちろん、出店に不備やトラブルがないかの確認も兼ねているらしい。
「生徒会ってたくさん仕事があるんだな……」
「出店のことは主に文化祭委員に任せてますけどね。でも生徒会の厳しい目も必要ということで」
斧山君は想像以上にしっかりと働いていた。事前申告されていない料理がメニューに載っているカフェを見ればすぐさま是正を求めたし、生徒同士で小競り合いになりそうな空気があればすぐに諌めた。さらには集会に参加しそうな生徒にも気を配る。かなりの働きぶりだ。何より自分の務めを精一杯果たそうとしている。劔さんが斧山君を可愛がる理由が分かった。
教室を見回る間、勾白とは一度もすれ違わなかった。なぜかホッとした。
時刻は十四時半。あと三十分だ。
「怪しい人は見つかりませんね。そんなあからさまな人はいないと思ってましたけど」
斧山君は腕を組む。本人を前に言い難いが、斧山君が自傷行為に走った際も予兆めいたものはまったくなかった。
「屋上とか、大丈夫なの?」
「屋上に入るための鍵は劔さんが持っています。絶対に大丈夫ですよ」
斧山君は自信たっぷりに言い切る。確かに劔さんが持っているなら大丈夫だろう。屋上は今、完全に開かずの間というわけだ。どんな泥棒でも入れないに違いない。
次に訪れたのは、校舎の一階奥にある美術室だった。この日のために丹精込めて作ったのだろう、美術部の作品がイーゼルとともに並べられている。眩しい色が散りばめられた水彩画、校舎を写実的に切り取った油絵、好きな漫画の人物なのだろうか、緻密に作られた胸像もある。いくらでもじっくりと鑑賞できそうだった。
ただおかしなことがある。
部員はおろか、客も一人もいないのだ。
「休憩にでも行ってるのかな?」
俺は部屋を見渡しながら呟く。廊下に顔を出してみたが、やはり人影はなかった。あれほど生徒の声で賑やかだったのに、今じゃ笑い声が遠く微かに聞こえる程度だ。
「そうかもしれませんねえ」
「じゃ、じゃあ他のところ行こうか。もうすぐ十五時だ。何が起きてもおかしくない」
時間が迫っているからか、空気がどことなく重い気がする。
「でも僕、思うんですよね」
水彩画に見入っていた斧山君は、笑顔でこちらを振り向いた。
「どれだけ見張っていても、防ぎようのないものはあるんじゃないかって」
「そ、そうかもしれないけど」
斧山君から弱気な発言が出たことに、俺は少なからず驚いた。
「でも何かしないと。じっとしているなんて、むずむずしてできないよ。劔さんだってどうにかしようと頑張ってるんだろ?」
「それなんですけど」
ぷつり、と音が鳴った。美術室に取り付けられたスピーカーから聞こえる音だった。
「やっぱり魚の胸鰭が三枚より少ないなんて言う人はどこかおかしいですよ」
「……え?」
低い音が聞こえてくる。男、女、子ども、獣。それぞれが唸るように、這いずるように紡ぐ音。何を言っているのかは分からない。詩とも言えるし、歌とも呼べるし、呪詛とも表せる、そんな音の連なりだった。
「お、斧山君。これって」
あの時の声だ。深夜の校舎で、おばあさんと会った時に聞こえたおぞましい声。
背筋が粟立った。
「劔さん、全生徒の持ち物検査をやって、鋏や包丁は決められたクラスしか使えないようにしていますけど、そんなこと言ったって死ぬための道具はたくさんありますからね。だって見てください、あの人」
斧山君は窓の外を指す。中庭で焼きそばを作っているクラスがあった。
その中の一人、女子生徒が。
調理に使っていたヘラを、笑顔で自身の腕に押し当てた。
近くにいた生徒たちが慌ててその子を取り押さえた。叫び声が聞こえる。泣きながら先生を呼ぶ生徒もいる。ヘラが触れた腕はここからでも分かるほど真っ赤だ。
スピーカーから流れる声は大きくなる。
「お……斧山君」
おそるおそる、振り返る。
斧山君の手には、尖った鉛筆があった。
「人生で邪魔なものって、何より躊躇なんですよね」
音がうるさい。
「知ってますか? 躊躇って漢字、両方ためらうとか足踏みするって意味なんですよ。飛び降りる前の躊躇! ためらい! まさに、まさにだと思いませんか?」
あはは! と大きく笑う。動けない。俺はじっとその場に立ち尽くしていた。
斧山君は、笑い続けて──唐突に、鉛筆を自分の目玉に突き刺そうとした。
「待って!」
気付けば体が動いていた。斧山君の腕に飛びつく。先端が目玉に刺さるぎりぎり、あと数センチのところで鉛筆は止まっていた。
「お、斧山君、落ち着いて。しっかり、正気を保って。お願いだ」
お願い、お願いだ。頭の中をそればかりが占める。冷静に何か考えるなんて不可能だった。
斧山君はまったく力をゆるめない。小柄な体躯のどこに隠していたのか、その腕力は強かった。いや、俺が弱すぎるのかもしれない。鉛筆が徐々に目玉に近付いていく。
スピーカーから音は鳴り続けている。
遠くから誰かの悲鳴が聞こえてきた。
駄目だ。腕が痺れる。このままじゃ斧山君は、また。違う、またなんかじゃない。今度は以前よりもっとひどいことになる。こんなものを躊躇いなく刺したら、死んでしまうんじゃないか。
そんなのは駄目だ。死ぬのは俺一人で充分なのに。
「斧山! 佐島!」
斧山君が吹っ飛んだ。水彩画や油絵がイーゼルごと巻き込まれ、音を立てて床に散らばる。
劔さんが肩で息をしていた。全力で斧山君を突き飛ばしてくれたらしい。その顔は真っ青になっている。
「あ、ありがとうございます、劔さん……」
「お前らがここに入っていくのをたまたま見た。スピーカーからおかしな声が流れてきて、嫌な予感がして来てみたらこのざまだ」
斧山君はゆっくりと立ち上がった。その手にはまだ鉛筆がある。
笑いながら、斧山君は鉛筆を掲げる。けたたましく笑いながら、黒く光る先端を目玉に突き刺そうとした。
「やめろ、斧山!」
劔さんは叫びながら飛び込む。
どすっ、と鈍い音がした。
「ぐっ……!」
「劔さん!」
劔さんの手のひらに、鉛筆が刺さっていた。斧山君は高笑いした後、走って美術室を飛び出て行く。
「だ、大丈夫ですか」
蹲る劔さんに駆け寄る。劔さんは無言で鉛筆を引き抜いた。手のひらの中で血が呪いのようにゆっくりと広がっていく。
「……屋上の鍵を盗られた」
劔さんは絞り出すように言う。
「それってまずいんじゃ……」
「ああ、まずい。あいつがまだ怪異に囚われていたとは思わなかった」
俺の失態だ。劔さんは小さく呟く。
「す、すぐに追いかけないと。他の生徒も大変なことになってるし……!」
いったい今頃何人の生徒が自傷行為に走っているのだろう。中庭の女子生徒は火傷で爛れた腕を見て笑っていた。
屋上に行かなければ。取り返しのつかないことになってしまう。
よろよろと立ち上がった劔さんは、か細い声を出す。
「……頼む」
俺の両腕を、血まみれの手で弱々しく掴んだ。
「は、はい。なんとか斧山君を助けないと、」
「頼む……」
何かが違う、と気付いた。
縋っている。
劔さんが、俺に縋っている。
斧山君を助けてくれ、と頼んでいるんじゃない。
「頼む……死んでくれ……」
体が底冷えするような、冷たい言葉だった。
「お前が死ねば、丸く収まるはずなんだ」
「お、俺が?」
「今まで、少なくともこの二十年はそれでうまくいっていた。お前が怪異に呪われて、死んで、あいつらはそれで満足するんだ」
腕を掴む劔さんの力が、徐々に強くなっていく。
「それがどうだ? お前は怪異じゃなく勾白に殺されるようになった。あれほど簡単に殺せていた獲物に、妙なボディガードがついたんだ。だから怪異は他の生徒に目を向け始めた」
「劔さん、い、痛いです」
「勾白が余計な干渉をしてきたせいだ。正義感でもなんでもない、ただの好奇心で! お前が殺されていればそれで良かったのに!」
「つ、劔さん」
「なあ佐島、お前が歴代の生徒会長たちになんて呼ばれてたか分かるか」
首を横に振る。
「生贄だよ。的確だろう? お前は学校の平穏のための生贄だ」
生贄。そうか、確かにその通りだ。
「ばらばらさんの事件があっただろう。あの時、お前はSNSでデマを流されたよな。あれは俺がやったんだ。他の生徒が互いに疑心暗鬼にならないよう、お前を犯人に仕立て上げたんだ。どうせお前は死んで忘れられるんだから、何を言われても同じだろう」
「そんな」
「頼む」
先ほどまでの弱々しさはどこに行ったのか、劔さんが俺を睨む目には仄暗い光が満ちていた。
「死んでくれ、他の生徒のためだ。今すぐ、戯陀跋扈に殺されてくれ」
「そ、そんなこと、言われても」
怒りと憎しみがこもった目を向けられる。
劔さんの言うことは分かる。どうせ死んでも死なないのだから、俺が犠牲になるべきだ。
けど、どうしようもなく怖い。死にたくない。
「お、俺は」
「お前の気持ちなどどうでもいいんだ。分かっていないのか、この状況が?」
劔さんの指は俺の腕に食い込んでいた。
頷かなければ。俺が殺されますって、そう言わなければ。
「はい、ストップ」
ぱん、と手のひらを打つ音が聞こえた。
「こんな人に屑なんて言われたんですか、僕は?」
フランクフルトを噛じる勾白が、美術室の入り口に立っていた。
「なんで美術室にいるって知ってたんだよ」
「佐島先輩の体がどこにあるかなんてすぐに分かりますよ。僕とあなたは繋がっていますから」
「うげー……」
校内のすべてのスピーカーから、呪詛のような声が鳴り続けていた。屋上に向かうための廊下を走っている最中、生徒会役員に組み伏せられている生徒を何度か見た。自傷行為に走った人たちだろう。周囲の人間はスマホのカメラを向けている。どうやら何かのパフォーマンスだと思っているようだ。
「お気楽でいいですね、皆さん」
「そういや一緒に回ってた友達はいいのか?」
屋上までの階段を登りながら俺は尋ねる。
「あれ、見てたんですか。意外と焼き餅焼きですね」
「は? なんのことだよ」
勾白はくつくつと笑う。
「何にせよ、友人たちとは別行動ですよ。このままじゃ文化祭どころじゃないでしょう」
屋上の扉に辿り着く。鍵は既に開けられていた。
「お、斧山君!」
斧山君はフェンスを乗り越えようとしている最中だった。こちらを振り向く目にはなんの感情もない。
「待って、一旦待って! お、俺が死ぬから、その……」
どう止めたらいいのだろう。何も考えずに来てしまった。
「黒い靄が視えますね。あれが呪いを象っているようです」
勾白は目を眇める。
「な、なんか霊能力者みたいなこと言うんだな」
俺にはぼんやりとしか見えない。勾白は小さく何かを呟くと、両手を強く打つ。
斧山君の身体がふらつき、フェンスの内側に倒れた。
「天才霊能力者ですので、あしからず」
勾白はにっこりと笑った。
「み、み、皆さん! 樹良高の、生徒の皆さん!」
俺は叫ぶ。精一杯叫ぶ。こんなに叫んだのはきっと生まれて初めてだ。
「こっち! こっちです! 俺、今から飛び降ります! 飛び降りますから、ね!」
フェンスの外側に立っているだけで怖い。身が竦む。足をすべらせて落ちてしまいそうだ。
遥か下の中庭に、人が集まってきた。俺を指さす。さすがにこれだけ騒いだら多少は認識してくれるらしい。
フェンスの内側、安全地帯にいる勾白をちらりと見る。腕を組んでマネージャーのように俺を見ていた。
本当にこれでいいんだよな。なんとかなるんだよな。
「いいか! 俺を呪い殺すなら、今! 今しかないぞ! また自分で死んじゃうからな!」
そうだ、やつらの大好物は俺。勾白によると、人間でも怪異でもない在り方に惹かれるらしい。
だから俺がエサになれば、やつらは他の生徒よりも俺を狙うはず。それが勾白が考えた作戦だった。
「本当にいいのかー! 飛び降りるぞ、今! 今だぞ!」
ずっ、と、何かが動いた気がした。中庭に集まる生徒たち、その何人かの頭で、黒い靄がうごめいている。
俺がこれだけきちんと見えるということは、あの靄は相当濃いのだろう。
「いいですよ、佐島先輩。飛び降りてください」
勾白があっけらかんと言い放つ。
そう、俺が実際に飛び降りることで、やつらは本気で動き出すはずだ。
だけど駄目だった。動けなかった。膝が震える。前に出られない。
「佐島先輩?」
「劔さんに死んでくれって言われて、そ、それなら、俺なんて死んだ方がいいって思ったけど」
泣きそうになる。声が情けなく震える。
「お、俺、やっぱり、死ぬのが怖くて。つ、劔さんには申し訳ないんだけど、合わせる顔が、ないんだけど、」
「佐島先輩」
遮られる。
「どうして僕と話している時に、他の男の話をするんですか?」
勾白は甚だ呆れ声だった。落ちかけていた涙が引っ込んだ。そんな痴話喧嘩みたいな。
「ほ、他の男の話って、そういうのじゃ」
「『死んでくれ』なんて無責任に頼む男より、自分のストレス発散のためにあなたを解体しようとした男より──」
風の音にも負けず、勾白ははっきりと、
「──僕の方がよほど信頼に値する人間でしょう?」
そう言い切った。
「僕が、僕だけが、あなたのためを思ってあなたを死なせてあげられる、唯一無二の友人ですよ」
「ゆ、唯一無二って」
「他にいますか?」
返答に困った。俺を死なせてくれる人が、そんな煩わしいことをしてくれる生きている人間が、いるわけない。確かにそうなのだが、それに頷いてしまうと勾白を友達だと認めることになる。嫌だ。こいつを友達だと言いたくない。友達って、多分、こんな関係のことを指す言葉じゃないと思うから。
それでも。
「勾白」
「はい」
「……俺を、死なせてくれないか」
「もちろん」
足が勝手に動く。宙に向かって一歩踏み出す。なんの躊躇もなく。
落ちる。重力のまま。呆気なく。
学校を覆っていた黒い靄が、一斉に俺に手を伸ばす。俺を殺そうとしている。
餌に、生贄に釣られている。
「勾白!」
叫んだ。屋上にいる、ひとでなしに向かって。
勾白が両の手のひらを打つ。離れているのに、何かを唱える声が耳に入る。
俺は笑った。
勾白も俺を見て笑った。
黒い手が俺に触れようとした瞬間──そいつらは、呆気なく散っていった。一瞬のことだった。
喜ぶ暇もなく、俺は頭から地面に激突した。
◯
目を覚ます。なぜだろう、昼寝でもしたような心地よい倦怠感があった。
すぐ近くに勾白の顔があった。
「うぇあ!? な、なに、なんで?」
「意外と早いですね。びっくりしました」
「はあ? 何が」
「また一週間は掛かるかと思っていたので」
スマホを差し出される。文化祭当日、十八時だった。
どうやら屋上で寝転んでいたらしい。しかも勾白の膝の上で。
「三時間しか経ってないのか?」
「ええ、投身自殺した後の死体はいつの間にか消失。瞬きの間に屋上へ移動していました。何か心当たりはありますか」
ううん、と首を捻る。
永遠に続く廊下……夢幻回廊にいたことは覚えている。ただ、そうだ、今回は最初から走ったのだ。あそこから抜け出せばいいと分かっていたから。開いている扉に飛び込み、そうして意識が戻ってきた。
「そんな物理的な方法で変わるものなんですね」
勾白は呆れ気味だ。
「そ、そうだ、戯陀跋扈は……?」
「すべて祓いましたよ。一網打尽です。怪我を負った生徒が数名ですが、いずれも軽傷でした。諸々の対応は生徒会がやっています」
もちろん劔さんも。勾白は皮肉めいた笑みを浮かべる。
「あなたが身を投げたことで中庭は一次騒然としましたが、騒ぎは次第に収束しましたよ。さすが半怪異様と言ったところでしょうか。すべて丸く収まりましたね」
「そっか。良かった……」
「案外呆気なかったですね。もっと手こずるかと思っていましたが」
「不謹慎なこと言うなよ。無事な方がいいに決まってるだろ」
「まあ、それはそうかもしれません」
「そうかも、じゃなくてそうなんだよ」
勾白は立ち上がると、フェンスの傍に寄って下を覗き込んだ。すぐに手招きされる。
「ね、見てください」
「なんだ?」
促されるまま、俺もフェンスの下を覗き込んだ。
おお、と思わず声が漏れ出た。
中庭の木々に飾られていた電飾が光っていた。柔らかい光が蛍のように浮かび、なんだか心が温かくなる心地がする。
「いい景色ですね」
「うん。きれいだ……」
中庭にいる生徒たちは皆、笑顔だ。
よかった、と心底思う。守れたんだ、俺。
俺たちは、しばらくの間その光をじっと眺めていた。
新学期、友達を作る絶好の機会だったはずなのに、どこを間違えたんだろう。人見知りで内向的性格に加え、丑三つ時より暗い思考回路が友人作りの足を引っ張っていることは大いに理解している。だがこれでも頑張ったのだ。クラスでもまだ気が合いそうな大人しめの男子に挨拶してみたり、休み時間に声を掛けてみたりした。それでも相手の反応は芳しくなく、というかせっかく振られたアニメや漫画の話題に俺が一向について行けず、胡乱な視線を投げられるだけに終わったのだ。
このまま友達が一人もできず俺の高校生活は終わってしまうのか。寂しすぎる青春に、乾いた笑いが漏れる。
早めに昼食を食べきり教室を出た。和気藹々とした空間にいると、自分の馴染めなさが浮き彫りになってしまう。俺はわざと一人を楽しんでいるんですよ、そう思い込むため、昼休みはこうして校内を散歩するのが日課だった。
かと言って昼休みだ。校舎にはたくさんの生徒が溢れかえっている。輝く笑顔や溢れる話し声を避けるように歩いていると、自ずと足は裏庭に向かう。いつものお決まりルートだった。
「おー? 佐島ちゃんじゃん。何やってんのこんなところで。探検?」
担任の埜百利先生が校舎を背にしてしゃがみ込んでいた。無造作に伸びた天然パーマに、手入れ不足の無精髭が目立っている。
「探検ではなくて、散歩です」
「あーね、いいよなぁ散歩。先生もさぁ、彼女に振られた夜に気付きゃ五時間散歩してる時があってさあ……いつの間にか埼玉にいたね」
「一種のスポーツみたいな感じですね、そこまでいくと……」
「友達が死んじゃった時は一日中走り続けたね。先生、情に厚い男だから」
遠い目をする埜百利先生に、なんと返せばいいか分からなくなる。
「先生こそ、なんでこんなところにいるんですか?」
「そりゃあ先生は息抜きよ。最近はどこも禁煙だからさあ」
軽く上げられた右手には電子タバコがあった。
「電子だよ? 全然臭くないのになんで追い立てられにゃいかんのかね。ほら、嗅いでみ。全然分かんないでしょ?」
「えっと……すみません、結構臭います」
「うっそ」
埜百利先生は目を丸くした。本当にぃ? と首を傾げる、そのリアクション一つ一つがどことなくゆるい。女子生徒から度々メロいと評されているのは聞くが、こうした親しみやすさから来るものなのかもしれない。
「でも裏庭を散歩って言ってもさあ、何もないんじゃない? 園芸部のこざっぱりした花壇と、後は飼育小屋くらい?」
飼育小屋。どくんと心臓が波打った。なんだろう、とても嫌な感じがする。
「どうしたの? 顔色悪いよ、佐島ちゃん。熱か? あ、また貧血?」
「いえ、そうじゃないんですけど」
まったく説明できない。ただ悪寒がする。特に右肩と右足の付け根が、こそばゆいような、痒いような、痛いような。
「そうじゃないんですけど、なんだか……」
とても恐ろしい体験をした気がする。
「しょうがないねえ、先生からこれあげちゃおう」
埜百利先生はウィンドウブレーカーのポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。「いや〜先生ってばいい先生」と鼻歌混じりに言いながら、俺の手をとってそれを押し付けてくる。
「……なんですか、これ」
手のひらに乗せられたのはキューピッドのような幼児がついたお守りだった。
「お守りだよォ。先生の買ったお守りは効くよォ?」
「安産祈願って書いてありますけど……」
まあそういうことあるよな。先生は肩を竦める。
「あーッ! 埜百利先生!」
叫び声が飛んできた。埜百利先生は「うへえ」と首を縮こませる。
「校内は禁煙って、劔さんにもう何度も何度も注意されてるじゃないですか!」
小柄な男子生徒だ。ネクタイの色からして恐らく一年。小さな体にエネルギーが詰まっているのか、動きの一つ一つが大げさで可愛らしい。
「うーわ、助けて佐島ちゃん。先生、いじめられてる」
眉を下げかわいこぶった表情をして、埜百利先生は俺を盾にする。その男子生徒は、俺の顔を見るなり目を丸くした。
「あれ、佐島さん?」
「え、あ、はい」
なぜ俺の名前を知っているのだろう。しばらくその男子と見つめ合う。やがて彼は「じゃなくて!」と頭を振った。
「埜百利先生、校内は禁煙ですよ。劔さんに見つかったら雷が落ちますから、その前に退散してください!」
「はいはい、先生が悪かったですよ。戻ればいいんだろ、戻れば。それで満足なんでしょ?」
「はい、とっても満足です」
埜百利先生は男子生徒に連れられ、不服気な表情で校舎に戻っていった。
飼育小屋の方を見る。相変わらず嫌な気配は続いていた。自然と足が向かっていた。原因を確かめたい。行けば分かるような気がした。
飼育小屋の前には看板が立てられていた。新学期早々、ニワトリとウサギが死んでしまったという話はクラスメイトの話を盗み聞きして聞いていた。原因は分からないらしい。犯人も見つかっていないとか。
「死に場所を見に来たんですか?」
振り返ると勾白がいた。何かと絡まれて、俺は未だにこいつのことが苦手だった。
「犯人は現場に戻るとは聞きますが、被害者だって戻るのもよく知られた話ですよね」
「な、なんの話?」
「殺害現場に幽霊が出るというのはよくある話でしょう? 自分が死んだ場所に引き寄せられてしまうんですよね。関係なくふらふらしている霊もいますが」
「だから……」
「死んだことを覚えていない?」
勾白の目は好奇心に満ちている。
「先日あなたはここでばらばらさんに殺されたでしょう。腕や脚に違和感は? 死んでから今に至るまでの記憶は?」
「い、意味が分からない……」
ひく、と頬が引き攣る。こいつは何をべらべらと言っているんだ。
「なるほど、すべてリセットされると。ゲームにおいて引き継ぎなしのリスタートに近い感覚でしょうか。でも少し刺激を与えれば、あるいは……」
「し、知らないって……! なんなんだよ、さっきから。……!?」
ふと、脳内がフラッシュバックする。
暗闇。飼育小屋。ウサギ。女子生徒。血の臭い。吐き気がする痛み。
丹部。
そうだ、丹部だ。どうして忘れていたんだろう。あんなに、あんなに良くしてくれていたのに。
あんな恐ろしいことをするなんて。
「あ、あぁあ……!」
頭を抱え、俺はその場に蹲った。刃の獰猛な鋭さが、飛散する血が、丹部のなんてことのない笑顔が、くっきりと思い出される。
やりたいからだよ、と丹部は言っていた。
ゲームセンターにでも行くような気軽さで、ゆったりとした素朴な呟きで。
俺は殺された。たった一人の、友達だと思っていた男の手で。
「な、なんでだ……?」
なんで俺は死んでないんだ? どうして今ここで普通に生きているんだ。
「不思議ですよね。新学期の朝礼でもあなたは目を引きましたよ。何せ他の生徒と違いすぎる。纏うオーラが異様だ」
這いつくばったまま、俺はなんとか顔だけを上げる。カエルの解剖でも眺めるふうに、勾白は俺をじっくり見下ろしていた。へえ、心臓ってこうなってるんだ、とでも言いたげに。
「他の生徒にもあなたは見えている。生徒としての籍もある……つまり幽霊ではない。かと言ってまっとうな人間でないことも確かですね」
「に……丹部は?」
「はい?」
「に、丹部は、どこに。だって犯人も現場に戻るんだろ」
「ああ」途端に勾白は興味をなくしたようだった。
「祓いましたよ。見たでしょう? もう跡形もありません」
「し、死んだのか?」
声が裏返った。あはは、と勾白は声を上げて笑う。
「とっくの昔に死んでますよ。これ、二十年くらい前のニュースですが」
勾白はスマートフォンを取り出す。画面には新聞記事の切り抜きが写っていた。
「なんだ、これ……」
そこには丹部の写真があった。丹部颯太君十七歳。学校からの帰宅途中、変質者に襲われ死亡。遺体は鋭利な刃物で切断されており……。
「悲しい事件ですよね。こんな理不尽な殺され方をしたら、この世に残りたくなる気持ちが分からなくもない」
「待って、待ってくれ。じゃあ丹部は……」
「他の生徒には見えていませんでしたよ。霊ですから」
力が抜ける。こんな俺にも話し掛けてくれた丹部が、幽霊? そんな、そんな馬鹿な。俺以外の生徒とも、丹部は話して……。
本当に?
丹部はいつも俺に話し掛けてくれていた。ばらばらさんの噂がまことしやかに囁かれたあの日も、皆の前で俺を庇ってくれたじゃないか。
でも、そうだ。丹部の言葉に返答した生徒はいなかった。不穏な空気のせいだと思っていたけど、皆に声が聞こえていなかったのだとしたら。そもそも姿形さえ見えていなかったのだとしたら。
違和感が繋がっていく。保健医も、あの時の日向さんも丹部には気を配らなかった。
「はは、ははは……」
無意識に笑いが出る。そうか、最初から友達でもなんでもなかったのか。
「なんで殺したんだよ……」
「悪霊とはそういうものです。呪い、祟って生者を苦しめる。道理を求めることこそ不道理ですよ」
「違う」
俺は立ち上がって勾白に掴み掛かった。ふらついた勾白は飼育小屋に背を打ちつける。金網が音を立て、驚いたニワトリがバタバタと羽音を立てた。
「なんで丹部を殺した?」
「さあ、それは殺人犯に」
「お前はなんで丹部を殺したのかって聞いてるんだよ!」
はあ? 勾白の眉が歪む。
「殺したのではなく祓ったんです」
「一緒だろ」
「僕が祓ってなければあの女子生徒も殺されていましたよ」
ぐ、と息が詰まる。
「それから生き返ったあなたも。覚えていないのをいいことにまた殺されていたかもしれない」
ちなみにあの女子生徒ですが、記憶はさっぱり消えているみたいですよ。勾白はあっさり補足する。
「それに、あなたを殺したのは僕ですよ」
「はあ?」
「悪霊なんかに殺されたら浮かばれないと思いまして。最期の介錯はこの僕が」
さもいいことをしてやったと言いたげだった。乾いた笑いしか出てこない。
「たい……」
自然と言葉がついて出た。
「だからもごもご話さないでくれませんか? もっとはっきり言って、」
「死にたい……」
友達ができて本当に嬉しかった。それが幽霊でも、俺を殺したとしても、なんだってよかった。
「死にたい。丹部と一緒に死ねたら良かったのに」
「本当に?」
勾白の目が輝きを取り戻す。俺の両腕を掴み、強い力で押し返してくる。
「ほ、本当だ。俺みたいなやつは、さっさと死んだ方が……」
「素晴らしい!」
勾白は満面の笑みで叫ぶ。色素の薄い茶色の瞳が、一瞬金色に光ったように見えた。
勾白は早口で何か呪文のような言葉を呟いた。音は聞き取れはするものの、意味はまったく分からない。
「僕たち、友達になりましょう」
ぱん、と目の前で両手を打たれる。
瞬間、ぐら、と体が傾いた。体が重い。いや軽い? なんだか自分のものじゃないみたいだ。
「ああ、繋がった」
勾白の整った顔が寸前まで近付いてくる。体を逸らそうとしても逸らせない。視線すらまったく。
「な、何を……」
「死にたいんでしょう、不要なんでしょう? じゃあ構わないじゃないですか」
勾白は恭しく頭を下げる。俺の体も似たようなポーズをとった。勾白が俺の手を取り、ぐっと引っ張る。抵抗すらまったくできず、俺の体は社交ダンスのようにくるくると回った。
「お、お前、何したんだよ」
「勾白といいます。勾白叶」
「知ってるよ! 俺の体、どうなって」
「先輩のお名前は?」
口を引き結ぶ。名乗ってやるかと強い意志を持つ。
それなのに。
「さ、佐島、友志」
きつく結んだはずの唇は、ジッパーでも使ったように容易く開けられてしまった。
「佐島先輩。素敵な名字ですね」
「音だけ聞いたらありふれてますけど!?」
「僕らはもう切っても切り離せない友人ですよ。これからよろしくお願いします」
ひとけのない裏庭で、二人奇妙なダンスを踊っている。ギャラリーは飼育小屋のニワトリとウサギのみ。無表情に小首を傾げ、俺の辿々しいステップを見守っている。
「お友達になれた記念に、まず手始めに」
勾白は俺の耳元に口を寄せる。
「──エサになってほしくて」
「へ?」
俺が間抜けな声を出した瞬間だった。
「佐島!」
ぐん、と襟首が引っ張られた。あまりの勢いに、そのまま地面に尻もちをつく。
痛い。思わず呻いてその場を転がった。そこでようやく、自分が動けるようになっていると気付く。
見上げると、劔さんが立ち塞がるように俺の前に立っていた。その右手には濃紺の数珠がきつく巻かれている。
「勾白、そういうのは中学で卒業しろ。痛々しい」
「人のおまじないを黒歴史呼ばわりしないでください。劔さんは少し見ないうちに堅さが増したみたいで」
劔さんの声は相変わらず刺々しく、勾白からは笑顔ながらも慇懃無礼な佇まいが見て取れた。
「劔先輩の可愛い後輩として聞きたいのですが……佐島先輩についてなんですけど」
「お前に話す義理はない」劔さんは鋭く制した。「なぜならお前は可愛くないからだ」
「僕が可愛くないなら、誰も可愛くなくなってしまうと思うのですが」
空気がぴりぴりしているのか弛緩しているのか分からない。ただこの二人がかねてからの知り合いだとはよく分かった。
「……佐島、いつまでそこに座っている気だ」
劔さんの重々しい声が投げつけられる。そうは言われても、俺はどうすればいいんだろう。
劔さんが大きく溜め息をついた。
「来い、佐島。行くぞ」
再び襟首を掴まれ、今度は無理やり立たされる。
「い、行くってどこに」
「黙ってついて来い」
ちらりと後ろを振り返った。勾白はこちらに手を振っていた。
連行先は校舎三階奥の生徒会室だった。
「俺、こんなところに生徒会室があるって初めて知りました」
劔さんはそうか、と短く言うだけだった。生徒会室の黒皮張りのソファは見た目より柔らかく、座ると思いのほか体が沈んだ。
「ええと、あの、俺……」
何をどうすれば分からず、ソファの上で縮こまる。これからどうなるんだ。怒られるのか? だとしても何についてだ。裏庭で踊っているいたこと?
ぐるぐると一人問答をしているうちに、対面のソファに劔さんが座った。
それから一言、
「お前は呪われている」
実にきっぱり告げる。
「の、のろ?」
「先日自分が死んだことには気付いているか」
「さ、さっき勾白から聞きました」
余計なことを。舌打ちが飛ぶ。
劔さんは立ち上がると、本棚からA4ファイルを取り出した。
「読め」
ファイルがテーブルに投げ置かれた。分厚く、角が少し折れている。最初のページは茶色に変色しており、文字も掠れて視認性が悪い。後半になるにつれて真新しい紙で、インクも濃いままだ。俺は適当に開いた箇所を読んでみる。
ケース六〇 二年C組の生徒曰く
小学生の時、授業中に筆箱を落とす子いたじゃないですか。布製じゃなくて、ほら、缶ケース型のやつ。机から落ちて、ガァン! って。
ケース五七 一年E組の女子生徒曰く
なんであんなの見ちゃったんだろ。
せっかく見るなって言ってもらったのに、あたし、好奇心に負けちゃったんです。
ケース四 三年A組の生徒曰く
どうよ、これ。ケータイ。ついに買ってもらったわ。お前持ってたっけ? ならメルアド交換しようぜ。
気持ち悪いやつだったよな、あいつ。なんだっけ、佐島?
ページを捲っていく。
どのページにも俺の名前がある。
どのページでも俺が死んでいる。
「な、なんですか、これ……」
思わず引き攣った笑いが溢れた。悪い冗談だと思った。
「生徒会が行った聞き取り調査だ。ざっと二十年分はある」
劔さんは眉間の皺を伸ばすように手を額に当てた。
「にじゅうねん?」
「生徒会が公式で記録を取り始めたのが二十年前。実際にお前が死に続けている期間はもっと長い。五十年前の生徒名簿にお前の名前があるからな」
世界が傾いた。気がした。
「い、意味が分からないんですけど……」
「俺だって詳細は分かっていない。ただ前生徒会長から業務を引き継ぎされただけだ。お前が死んだら周囲の生徒から聞き取り調査を行い、生徒会で記録する」
劔さんはファイルのページを捲っていく。
「俺の担当はここからだ。ケース五〇。俺が一年の年に五件、二年の時に六件、お前の怪死事件は起きている。今年は月一ペースか? 勘弁してくれ、本当に。昔は年一だったのに、なぜ俺の時だけ……」
「そんなこと、言われても。つ、劔さんもジョークとか言うんですね……」
「ああ?」
机が強く叩かれた。反射的に体が震える。ヤクザみたいだ、と思ったと知られたらさらに怒られるだろうか。
「ジョークでこんなものを作るか。そんな暇が俺にあると思うか? ふざけるな。こんなことを任されると知っていたなら生徒会になぞ入っていない。前会長が異様に早く引退したがっているからおかしいとは思っていたんだ……!」
「す、すみませ……」
「謝るな!」
びくりと震えた。劔さんの目の下の隈がいつもより濃く見えた。
「お前に謝られる筋合いはない。調子に乗るな」
「で、でも」おずおずと聞く。「俺が二十年も死んでるなんて荒唐無稽すぎるっていうか……」
「お前、土日は何をしている」
「へ?」
「最近親とどんな会話をした?」
「え、えっと」
「答えてみろ」
なぜそんな簡単なことを。土日なんてそんなの……。
何も出てこなかった。一日寝ていた? 頭に靄が掛かっている。頭を振る。じゃあ親だ。親、親、親……。
「お、覚えてません……」
項垂れる。記憶の中に何もなかった。
「そうだろうな」劔さんは頷く。
「生徒会の観察によると、お前は年中無休で学校にいる。朝から夜まで、一日中な。放課後、全校生徒が帰っても、お前は自分の席でじっと座っている」
「…………お、親は」
俺は震える声で聞いていた。
「俺の両親は? いるんですよね? その、俺にも普通な時があったんですから」
「これも調査による話だが」劔さんは声を落とした。「お前の両親は十年前に亡くなっている」
実感が湧かなかった。あまりに惨い話である気がするのに、感情が生まれない。現実味がない。何もかもに。
「俺、普通の人間に……普通の学生生活を送る人間に、戻れますかね?」
それだけなんとか絞り出す。劔さんは答えなかった。
ノックの音が聞こえてきた。ぼんやりと顔を上げる。
「失礼します。会長、いらっしゃいますか?」
「……斧山か。入れ」
逡巡の後、劔さんは許可を出した。黒髪の小柄な男子生徒がドアから半分顔を出す。
「お話があるんですけど……もしかしておジャマでした?」
「お前なら構わん」
劔さんに手招きされ、男子生徒は嬉しそうに入ってくる。なんだか見覚えがある気がする。そうだ、埜百利先生に注意していたあの生徒だ。
「わっ、佐島さんだ! こんちには!」
「こ、こんにちは……?」
「なんでここにいるんですか? 許可出たんですか?」
「きょ、許可」
なんの話だ。救いを求めて劔さんを見ると、ストレスのせいか爪先で床をトントンと叩いている。
「成り行きで話すことになった。勾白のせいだ。あいつめ、中学の時から問題行動ばかり起こす」
斧山君は俺をしげしげと見つめている。俺の顔に穴が開いてしまいそうだった。その様子を見て、劔さんは溜め息をつく。
「お前のことは一部の生徒会役員と教師しか認識していない。少なからず霊感のある者だな」
「じゃあもしかして、埜百利先生も?」
「ああ、あの人もそうだったな。俺が入学するよりずっと前からお前のことを知っているはずだ。他の生徒には、お前は見えているが気に留まらない存在になっている」
そうか、だから俺は皆に空気のように扱われていたんだ。俺の性格が悪いからとか、気持ち悪いからとか、そういうのじゃなかった。嬉しいような、悲しいような、なんとも言えない気持ちになる。
「劔さんからお話を聞いて、ずっと気になってました! 会えて嬉しいです!」
斧山君に手を差し出される。俺はおずおずとそれを取った。
「斧山、例の調査の件はどうなった?」
「あ、あの件ですね」
一頻り握手した後、斧山君はスマホを操作する。
「色々調べているんですが、なかなか尻尾を掴めなくて……おかしいなあ、どこだっけ」
「な、なんの話ですか?」
「お前は首を突っ込まなくていい」
尋ねてみれば、ぴしゃりと返される。怖い。俺はじっと斧山君を見る他なかった。
ぷつん、と音がする。部屋に備え付けられた校内放送用のスピーカーがついた音だ。
「おかしいなあ……」
斧山君は首を傾げている。
スピーカーから、音が流れ始めた。
低い音。いや、声だ。女のような、男のような、子どものような、老人のような、獣のような、そんな呻き声。
背筋がぞわりと粟立った。
「劔さん」
見れば劔さんも困惑した顔を浮かべていた。
「放送部か? なんだ、この不気味な音は……」
斧山君だけが熱心にスマホを見続けている。まるで音のことなんて耳に入っていないように。
「斧山。お前、何か知ってるか。最近の流行りか?」
「そうですねー」
斧山君は、そこでようやく、顔をあげた。
「僕、劔さんのこと尊敬してますから」
ぴたりと空気が止まる。
「なんの話だ?」劔さんが眉間に皺を寄せた。
「だからおばあちゃんに言ったのに、それ僕が欲しかったやつじゃなくて別冊だって」
「……は?」
劔さんと俺は同時に口を開いていた。
「いや、違うんですよ」
斧山君は眉を下げて笑う。
「僕、お姉ちゃんがいるんですけどね。でもそのせいで頭に穴を開けたわけじゃなくって。むしろ自由になれたくらいで。なら一昨日でも良かったと思いません?」
「斧山」
劔さんは立ち上がる。斧山君の肩を手を置く。
「俺だ、分かるか? なあ、俺の目を見ろ」
「そうじゃないんですって!」
斧山君は突然叫んだ。ひゅっ、と息を飲み込んで、俺はソファに縮こまる。
「劔さんのお役に立とうと思って。新学期って早すぎるから、もっと近くにしてもらわないと保育園児が歌いっぱ、なし、で……」
がくん、と斧山君が膝を折る。かと思えば蹲るすんでのところで立ち上がった。がくがくと体全体が震えている。また膝を折る。すんでのところで立ち直る。また膝を折る。立ち直る。
「が、っあ、劔さん」
「斧山?」
劔さんの声はひどく気遣わしげになっていた。俺はソファに張り付いたまま、まったく動けない。背中に汗が滲んでいた。
「昨日の打ち合わせで決まったのどうなりましたか?」
がん、と斧山君は突然机の角に頭を打ちつける。それからがぽっ、と吐いた。絨毯が敷かれた床に、茶色の吐瀉物が散乱する。大丈夫か、と劔さんはスラックスが汚れるのも構わず斧山君に寄り添った。
四つんばいになった斧山君はうげえと大きく吐くと、自分のゲロの中に顔を突っ伏した。白目を剥いている。気絶したようだ。
「お、斧山君?」ようやく身体が動いた。「ほ、保健室に連れて行かないと」
劔さんはいつになく険しい顔をしていた。スピーカーの音はいつの間にかやんでいる。
「……ああ、そっちの肩を持ってくれるか」
劔さんの指示で、俺は斧山君の左肩を持つ。意志のない体は想像以上に重い。ろくに運動してない俺にとって、体を支えるだけでもかなりの重労働だった。
「途中で倒れるなよ。さすがに二人も運べない」
「が、頑張ります」
頷いた、その時。
「あ、ここかあ。知らなかったな」
閉じていた扉が、音もなく全開になった。
「今まで何回か来ようとしたんですけど、辿り着けなくて。なんか妙な結界でも張ってありました? 寺の子特別仕様?」
勾白の澄ました顔が覗いた。劔さんと俺、それからその間にいる斧山君を見て目を丸くする。
「え、どうしたんですかそれ」
「お前のせいか」
「なんの話──」
俺に斧山君を預けると、劔さんは素早く勾白に近付いた。
「斧山をこうしたのはお前だな?」
「冤罪。冤罪ですよ、完全に」
勾白は両手を挙げる。
「本当に知りません。どうして僕がわざわざそんなことをしなくちゃならないんです? 何かメリットありますか」
む、と劔さんの剣幕が弱まる。
「悲しいなあ。偏見ですよ、それって。僕はこんなことしません。というか……」
勾白は目を眇める。
「怪異でしょう、どう考えても」
「怪異……」
俺は思わず呟いていた。確かに斧山君の動きは尋常でなかった。何かに取り憑かれていた、呪われていたと思う方が自然なほどに。
「とにかく早く保健室に連れて行ってあげてください。話はそれからしましょう」
「一つだけ聞かせろ」
劔さんのスクエア眼鏡が蛍光灯を受けて光る。
「お前、なぜわざわざここに来た。目的はなんだ」
「協力してほしくて」
「なに?」
「戯陀跋扈です」
勾白はあっさりそう言う。
ぎだばっこ。またその名前か。俺に覚えはまったくない。
しかし、それを聞いた途端に背中が酷く粟立った。
「五十年前、敬愛する祖父はこの学校の生徒でした。当時からすでに優秀な霊能力者であった祖父は、学校に巣食う怪異を祓おうとした。けれどそれは叶わなかった。封印という苦肉の策をとったそうです。亡くなる前にそう僕に話してくれました」
勾白は芝居がかった様子で腕を広げる。
「だから僕は、祖父のやり残したことを果たしに──化け物退治をしにきました」
翌日。俺と勾白は、再び生徒会室を訪れていた。
「斧山君の様子はどうですか?」
俺は一番気になっていたことを聞く。
「大事を取って自宅療養中だ。悪いニュースは入っていない」
「よ、良かった……」
胸をなで下ろす。一安心ということだろうか。
しかし劔さんの眉間の皺は薄まらなかった。
「斧山のスマートフォンの履歴を調べていたところ、おかしなものが見つかった」
「調べたんですか? 履歴を? 勝手に?」
勾白は笑い混じりに尋ねた。
「怪異の汚染が広まっている可能性がある。調査するのが生徒会長の務めだ」
「束縛彼氏みたいでキツくないですか?」
勾白は俺に耳打ちしてくる。見られすぎるのは嫌だろうな、と思って頷いた。
「そこで判明したが、斧山は樹良高生限定のとあるSNSグループに参加していたらしい」
「インターネットで作った集まりみたいなものですよ」
知らない単語に内心首を傾げていると、勾白が耳打ちで教えてくれる。俺からすればインターネット自体もよく分かっていないのだが、なんだか凄く広くて深いものである、という認識をしていた。この間そう勾白に言えば「広いかもしれませんが、浅いですよ」と返されたのを覚えている。
「どんなグループですか?」
調べようとしているのだろうか、勾白はスマホに指を這わせる。
「自殺コミュニティだ」
劔さんはいっとう眉間の皺を深くして告げた。
「自殺コミュニティはここ一ヶ月で拡大している、樹良高生のみが参加できるオンライングループだ。自然発生的に生まれたらしく明確な首謀者や先導役はいない。グループチャットでゆるく繋がり、思い思いに希死念慮を吐露する。メンバーにとっては憩いの場になっているらしい」
劔さんは苦々しげに、それでも淀みなく続ける。
「以前から校内では斧山のように突然自傷行為に走る生徒が増えていた。授業中、放課後、部活動中、時間帯に脈絡はなく、ただ学校内にいる時だという点は共通している。生徒会ではしばらく調査を続けていてな。自傷した本人に聞き取りを行ったところ、『自分の命を捧げろという声が聞こえた』と言っていた。彼らは全員……」
「その自殺コミュに所属していたと」
勾白が引き継ぐ。
「妙な話ですね。僕好みだ」
「自殺コミュに入っていたすら覚えていない連中も大勢いる。十中八九、怪異の影響だと考えて間違いない」
死にたいという願望を増幅させる怪異? 考えただけで吐き気がした。たちが悪すぎる。俺みたいなやつが呪われるならいい。まっとうに今を生きている生徒たちが、そんな理不尽な脅威に晒されるなんて。
「原因は分かっていないんですか? いわく付きの場所に行ったとか」
「調査中だ。手掛かりは掴めていない」
勾白の問いに、劔さんは首を横に振る。
「劔先輩、祓ってやるオーラが強すぎるんですよ。僕が怪異なら、まあ避けるでしょうね」
「お前に避けられるなら本望だ」
劔さんは堂々と舌打ちする。
「だがこれ以上自殺コミュニティを野放しにするわけにはいかない。どうにかしなくては……」
突然、勾白が俺の背をつついた。
「何を言っているんですか、劔先輩。ここにスペシャリストがいるというのに」
「スペシャリストだと?」
「ええ。怪異にとって最高のデザート、残機無限、呪いたい放題の佐島先輩を使わなくてどうするんです」
「お、俺を使うってどういうことだよ」
嫌な予感がする。勾白は授業中教師に答えるかのようにハキハキと告げた。
「この間言ったでしょう。怪異を釣るための餌にするんですよ」
「なあ、やっぱり気が進まないって言ったら?」
「どうしてですか。友達にそんなこと言われたら悲しいです」
くすんくすん、と勾白のあからさまな泣き真似がスマホ越しに聞こえてきた。
「や、だって普通に怖いし……っつか友達になった覚えはないし」
「先輩は記憶していなくとも身体は覚えていますからね」
「気色悪いこと言わないでくれ」
こいつ、あれだけ劔さんに怒られたっていうのにまったく懲りてない。どうやったらこんなメンタルになれるんだ。
「文句を言わずに頑張ってください。僕と一緒に頑張ってくれたら、きっと普通の学生生活を取り戻せますよ」
「人の願いにつけ込むなよ……」
夜の校舎は相変わらず異界のようだった。
自分の足音だけが響く廊下は冗談みたいに不気味だ。冷えた夜の空気が腕や首筋にまとわりつき、何もいないはずなのに肩を手で払ってしまう。
「なあ、やっぱ電気つけたままだと怒られるんじゃないか」
「何度も言っていますが、人払いの線を引いてあります。問題ありませんよ」
自信満々に言い切られると俺も飲み込まざるを得ない。
なんだかな、と思う。完全にこいつのペースだ。買い与えられたスマホをこうして使っている時点で文句は言えないのかもしれないが。
「連絡手段ないんですか?」
「当然だろう。こいつは五十年ずっと学校暮らしだ。電子機器を持っているわけがない」
ありえないと肩を竦める勾白に、劔さんが呆れていた。俺としては馬鹿にされているようにも哀れまれているようにも感じたが、本当のことなので黙っているしかできなかった。
翌日、つまり今日の朝、勾白は俺にスマホを投げて寄越した。
「友達とはこうやって連絡を取り合うものですから」
「と、友達じゃな、」
「使い方分かります?」
分かるわけがない。スマホ、というものはなんとなく知っていたが、実際触ってみたのはこれが初めてだった。なんだこれ。予想以上に画面が大きすぎる。文字入力はおろか、画面に指を這わせるのでさえおそるおそるな俺に、勾白は「高齢者用の方がよかったかな」と溜め息混じりの笑みを浮かべた。
「とにかく、これでいつでも連絡が取れるようになったので」
「うん」
くそっ、なんで勝手に画面が戻るんだ。横にスワイプ? したいだけなのに。
「画面の端でやると戻るんですよ」
「勝手に写真を撮ってしまった」
「スクショです」
スクショ?
「そ、そうなのか」
「好きに使ってもらって構いませんが、変なアプリをダウンロードしないでくださいね。面倒なので」
「うん……」
クラスで耳はするが、知らない単語ばかりだ。
「というわけで、夜に待ち合わせしましょう」
「うん?」
いつの間にか夜に学校で落ち合う約束をさせられた。だというのに出会って三分で別行動だ。俺は四階、勾白は一階から順に校舎を周り、途中で落ち合おうという話だった。
「な、なんのために」
「もちろん、斧山君を狙った『何か』を探してとっちめるためですよ。僕の見立てでは十中八九、戯陀跋扈に関するものです」
別にいいんだけど俺が一番上まで上がって後輩のお前が一階で楽してるのは何? と聞きたかったがスマホを与えてもらった手前、強く言えない。というか俺みたいなやつは階段登ってひいひい言っとけって話だよな、分かる分かる。
そういうわけで夜の校舎を通話しながら歩いている。最初は何かあればすぐ電話する手筈だったが、俺から通話することが果たして技術的に可能なのかが怪しく、結局最初から電話を繋いでおく算段になったのである。
「四階、は何もないっぽい」
「きちんと探しました? 教室もトイレもですよ」
「こ、怖いだろそんなの……!」
トイレなんて恐ろしいことが起きる場所ナンバーワンじゃないか。
「嫌なら僕から探すように仕向けてもいいんですよ。先輩の身体はいつだって自由にできますから」
「戯陀なんちゃらよりお前の方がよっぽど悪霊だろ!」
探せばいいんだろ、探せば。こいつに好きにされるくらいなら、自分から地獄に飛び込んだ方がマシだ。
手近にある教室の扉を、ゆっくりと開く。
「お、おじゃまします……」
中は暗い。廊下から漏れる明かりを頼りに、壁伝いに電気のスイッチを探す。指先が固いものに触れた。
ぱちん、と押す。電気がついた。
空き教室だった。どこからか不要なものを持ってきたのか、机と椅子が数個置いてあるだけだ。人がいる気配はない。人以外の嫌な気配も、ない。
「ま、勾白。何もない」
「ロッカーは?」
鬼か。
ともすれば踵を返しそうになる自分を鼓舞し、教室の奥にあるロッカーへと近付く。掃除用具が入っているであろう、よく見るタイプのものだ。
つまり、ひと一人がゆうに入れそうな大きさ。
ごくりと唾を飲み込んだ。
「よくない想像をするから怖いんですよ」
呑気な勾白の声が聞こえる。
「ロッカーに何か入っている、そいつが襲いかかってくる、そんなことを想像する前にさっさと動いてしまえばいいんです」
「勾白も、そうやって怖くないようにしてるのか?」
「いいえ」
物音が聞こえる。勾白が向こうでロッカーを開けている音だ。
「別に中に何がいてもいいと思ってるので」
「いないって言ってくれよぉ!」
ぐずぐず呻いている間にロッカーは目の前にあった。
「時間を掛ければ掛けるほど長引くだけですよ」
「わ、分かってるよ……」
ぐっと目を瞑る。
何も想像するな。何も考えるな。開けることに集中しろ。
取っ手を掴む。さっと開けて、それでおしまいだ。力を込めた。
ガァン! と音がした。
「ひやぁああっ!」
思わず体が跳ねる。電話の向こうから「すみません」とまったりした謝罪が聞こえた。
「ロッカーの上にあったバケツが落ちました」
「び、びっくりさせるなよ……!」
脱力する。馬鹿馬鹿しくなってスッとロッカーの扉を引けた。掃除用具が入っているだけだった。
「本当の本当に何もなし……」
「ご苦労さまです。次をお願いします」
やっぱり鬼か?
教室を出て次の部屋を目指す。これがあといくつあるんだ。終わりまで俺の心臓は持つのだろうか。
「このままでは朝までかかります。スピードアップしましょう」
「うう、了解……」
ぐだぐだやるより、さっさと終わらせてしまおう。俺は足を早めた。
「……ん?」
「どうかしましたか」
「いや……誰かいる?」
廊下の先に、人が立っていた。よくよく見る。おばあさんだ。ベージュのカーディガンを羽織り、心もとなさそうにきょろきょろとしている。
「誰かって、誰が」
「ちょっと後で掛け直す」
「は、」
勘で画面のボタンを押し、スマホをポケットに入れておばあさんに駆け寄った。不思議と怖いとは感じなかった。そのおばあさんがあまりに困っていそうだったからだ。
「ど、どうかしましたか」
「あら、あなた、学生さん?」
おばあさんは俺を見ると目を丸くした。傍に寄ると思った以上に小さい。白髪は細く、顔には深い皺が刻まれている。
「ごめんなさいねえ、私、道に迷っちゃったみたいで……バス停を探してるんだけど」
「バス停ですか」
やっぱり、と思った。恐らく少しボケ始めてしまっている人だ。昼も夜も分からない上に、知らず知らず学校に迷い込んでしまったのだろう。助けてあげなきゃ、と思った。
「お、俺でよければ案内しますよ」
「本当? ありがとうねえ。最近の学生さんは優しいねえ」
「いえ、そんな」
断りを入れ、おばあさんの腕を取る。一度学校から出て、警察を呼ぼう。きっと家族が捜しているはずだ。
「バス停に行って、どちらまで?」
「ある方に会いにいくのよ。それが楽しみで楽しみで……」
「そうなんですね。じゃあすぐ行かなくちゃ」
できるだけ話を合わせてあげた方がいい、と聞いたことがある。おばあさんはにこにこと相好を崩している。俺なんかに案内されて不快にならなきゃいいけど。
「私、どうして道に迷っちゃったのかしらねえ。いつも通ってる道なのに。不思議ねえ……」
「大丈夫です。俺もそういうことよくありますし……お、俺と一緒にしちゃ失礼か」
「そんなことないわよぉ。うちの孫もあなたみたいに優しい子になってほしいわ」
優しい? 俺が? お世辞でも頬が緩んでしまう。
階段をゆっくりと降り、三階についた。
「すみません、もう少し頑張れますか」
このおばあさん、そういえば四階までしっかり登ってきたんだよな。足腰がしっかりしているのはいいことだ。
おばあさんは遠くを見ていた。中庭に続く窓越しに、遠く遠くを眺めている。
「何かありましたか?」
おばあさんは答えなかった。
遠くを見ている。迷ったが、もう一度声をかける。
「……あの……」
音もなく辺りが闇に包まれた。
ひっ、と叫びそうになるところを堪える。なんだ、停電か? 俺は急いでスマホを取り出し、ライトを点け……ようとしたが、うまくいかない。えっと、どっちの方向に何をすればいいんだっけ?
「……先輩、佐島先輩。大丈夫ですか」
勾白の声が聞こえた。しかもなんだか音が大きい。
「あ、あれ、勾白? いつの間に電話を」
「あなた、切ったつもりだったんでしょうけど、スピーカーボタンを押しただけでしたよ」
スピーカーボタン?
「さっき人がいたなんてふざけたことを言ってましたが大丈夫ですか」
「お、おばあさんに会ったんだよ」
「は? おばあさん?」
「迷子になってて……お、おばあさん。大丈夫ですか」
画面の明かりを周囲に向ける。おばあさんは俯いていた。暗闇が怖いのかもしれない。俺も怖い。
「あのですね」勾白の呆れた声がする。「先ほど人払いの線を引いたと言ったでしょう。ここに生きた人間が迷い込むなんてあり得ませんよ」
「……え?」
今何階のどこにいますか。勾白の問いかけが遠い。
おばあさんは俯いている。
「あ、あの、おばあさん」
「あの方に会うために、やっておかなくちゃいけないことがあってねえ。こうしておかないと大変だからね」
おばあさんは俯きながら顔に向かって手を動かしていた。何かを書いているのだろうか。詳しくないがお化粧とか、そういう。
「……先……離れ……」
勾白の声が雑音まみれになる。
ぷつん、と音がした。校内放送がつく音だ。
声が流れ出す。斧山君がおかしくなった時に流れた、あの声が。
おばあさんが顔を上げた。
右の瞼に、赤い糸が縫われていた。
「っひ、あ」
俺は思わず後ずさる。おばあさんの手には針と糸があった。自分の瞼を縫っていたんだ、と気付いた。
「こうやって目を閉じておかないと大変だからねえ」
どすん、と。
左目に激痛が走った。右の視界に広がっているのは、おばあさんの皺だらけの手だった。
「あんたの目も閉じておかないとねえ」
針を刺された。目玉に。深々と。
絶叫していた。おばあさんの手を振り払う。もつれる足で逃げる。目玉に針が刺さったままだ。痛い。怖い。痛いが怖くて針を抜けない。
数歩走っただけですっ転んだ。スマホが宙を舞う。廊下の向こうに音を立てて落下する。喘ぎ声は止まらなかった。
「うるさい子は、あの方に嫌われるよお」
足を掴まれる。必死でもがくが、おばあさんは信じられないほどの力で俺の足を引っ張った。這いずって逃げようとしても駄目だった。
おばあさんの手にはもう一本の大きな針があった。
鋭い先端が、俺の喉に突き立てられる。
ぎ! という音が俺のどこからか漏れ出た。針が抜かれる。
「静かにしておかないとねえ」
針が刺される。
抜かれる。
刺される。
抜かれる。
体がびくびくと痙攣した。
おばあさんは俺の喉に開いた穴に、そのしわくちゃの指を突っ込んだ。
ぐりぐりぐりぐりと、指が差し込まれる。穴を大きくするように。二度と閉じないように。
ごぽ、と口から血が溢れ出た。いや、喉の穴からだろうか。
おばあさんは笑っている。穏やかそうに、まるで孫を見るみたいに。
指が完全に喉に入った。ぐっと力を込められる。この指は俺の喉を裂こうとしている。妙に冷静な自分に笑えた。痛みで頭がおかしくなったか、それとも。
死にたい。
唐突にそう思った。思ってしまった。助かりたい、ではない。死にたい。死ねばきっと幸せになる。この世の苦しみから解放されて、何より、あの方のためになる。
そうだ。どうして気付かなかったんだろう。こんなところでのうのうと生きている場合じゃない。早く、早く死ななければ。
俺はおばあさんの指に自分の手を重ねた。もっと、もっとだ。もっと深く刺してくれ。もっと、もっと。
おばあさんはより一層笑みを深くして、
弾けた。
「良かった、間に合った」
明かりが灯る。
勾白がいた。手のひらを合わせ、俺を見下ろしている。おばあさんは消えていた。
間に合っていない。全然、まったく、何一つ。いや、むしろ早かった。もう少しで死ねたのに。死んで、あの方の糧になれたのに。いや、いや。
俺は何を考えている?
痛みで頭が朦朧としていた。思考が混ざって、ほどけて、消えていく。
死にたい、わけがない。なんでそんなことを考えていたんだ。
泣きたかった。泣き叫びたかった。こひゅ、と息が漏れるだけだった。
「あーあぁ、こんなことになって」
言葉とは裏腹に、勾白の顔には呆れも戸惑いもない。ただ俺を観察している。
「ま、」
まがしろ。なんとかそれだけ声に出す。
「ん? どうしました」
勾白は優しく問う。俺を跨いで、顔を覗き込んでくる。
痛い。死にたくない。きっともう助からない。死にたくないけど、終わらせたい。その勇気がない。
「ま……あ」
「もっとはっきり言ってくれなくちゃ、聞こえませんよ」
かひゅ、かひゅ。
「し」
ごぽっ。
「しな、せて」
声を振り絞る。
「し、死なせてくだ、さい」
涙が零れ落ちた。情けなくて、惨めで、けど心の底から安堵もした。ちゃんと言えてよかった。
「本当に間に合ってよかった」
満足したように頷いて、勾白は手のひらをもう一度打つ。
手が、俺の両手がひとりでに動いた。
穴の開いた喉を、自分の手で絞め上げる。血で指が滑る。それでも構わず絞める。
「先輩が勝手に殺されなくて済んだんですから」
ごぼ、と最後に咳込んで、俺は意識を手放した。
廊下に立っている。見知った、というよりかどこの学校にもあるような、普遍的な廊下に。
長い一本の道、左手には教室へと続く扉がある。右には無数に並んだ窓。外を覗いて見るが、そこは暗闇ばかりで何もない。
誰の声も聞こえない。匂いも音もない。俺一人がただ歩いている。今は何時だろうか。時計がないから分からない。
そうだ、勾白からもらったスマホ。制服のポケットを探るが、どこにもない。そうか、落としたんだ。血の気が引く。
勾白の性格がどれだけ悪かったとしても、人から譲ってもらったものを失くすなんて。俺はなんて最低なんだろう。どこで落としたんだったか。ここらへんにないだろうか。
しばらく視線を落としながら歩く。失くした、なんて勾白に言ったらきっと嫌なことを言われるに違いない。「死に続けてたらスマホもきちんと持てなくなるんですか?」とか。小さい声で謝罪する自分が目に浮かぶ。
暗い気分でずっと進んで、ふと顔を上げた。
窓を見る。暗い窓を。途端に背筋が粟立った。
気付いた。気付いてしまった。
窓の外の景色は、暗闇が広がっているんじゃない。何か大きなものがこちらを覗き込んでいるから、暗闇に見えるんだ。
何とも思っていなかった空間が、途端に恐ろしくなる。逃げるように廊下を走った。
走って、走って、走って、走る。足音が大きく反響している。視線はどこまでもついてくる。廊下は終わらない。いつまでも同じ景色が続く。
怖い。助けて。誰でもいい。勾白でもいいから。
どれくらい走っただろう。無数にある教室のうち、一つの扉が開いていた。考えている暇はない。扉を開けて飛び込む。
光が俺の体を包んだ。
「一週間も何をしていたんですか?」
そんな声がして、え、と頭を上げる。腕を組んだ勾白が俺を見下ろしていた。いっしゅうかん。一週間? 周囲を見回す。学校の中庭だった。何十本もの桜の木が俺を見下ろしている。
「えっ、と、なんか変な廊下みたいなところにいて」
「廊下?」
勾白は目を眇めた。
「ずっと同じ景色が続いて、走っても走っても抜け出せなくて」
「同じ景色?」
勾白は考え込む。
「夢幻回廊じゃないですか、それ」
「確か、学校に伝わってる怪談の?」
そういえば、勾白から聞いた話にそんなのがあった。
テストの補習で遅くまで残っていた生徒が一人帰ろうとした時、ふといつまでも廊下が終わらないことに気付く。走っても走っても出口には辿り着かない。その生徒は今も永遠に学校をさまよっているという。
「五十年前、何かの拍子で先輩は夢幻回廊に迷い込んだ。死ぬと自動的にそこに戻る。自分でも気付かないまま帰ってきて、何食わぬ顔で授業を受けている」
「た、ただの噂だと思っていたのに……どうなってんだ、この学校は」
「というか、その噂って先輩が元じゃないですか?」
「お、俺?」
間抜けな声が出た。
「五十年ずっと学校に居座り続ける生徒……異常性をはっきり認識していないとは言え、怪談として噂になってもおかしくない」
「居座ってるとか言わないでくれ」
こっちは好きで五十年も学生やっているわけじゃない。
だけど、そうか、納得がいった。あそこは夢幻回廊か。名前が付いているなら、まったく何も知らない場所をうろつくよりは安心できた。むしろこの五十年の自分のホームとも呼べる場所じゃないか。
「……でも、怖いやつがいたんだ」
「怖い? どんなのですか」
勾白は興味津々といったふうに目を輝かせる。
「よく分からない。ただこっちをじっと見ている感じがして……」
あれはなんだったんだろう。
「しっかりしてくださいよ。五十年前と言えば、僕の祖父が戯陀跋扈と戦った年です。佐島先輩と何か関係があるに違いない」
そんなことを言われても、記憶に靄が掛かって何も思い出せない。去年のことも分からないのに、五十年前なんて知る由もなかった。
「そ、そうだ、スマホ!」
思い出した。スマホをなくしたんだ。
「ああ、はい」勾白は俺にスマホを投げて寄越す。「落ちてましたよ」
「え、あ、ありがとう……」
「なんですか、その顔は」
「も、もっと嫌味を言われるかと思ってて」
「偏見を持たないでください。僕はもっと優しいですよ」
「嘘つけ……」
こいつが優しいのなら、辞書に書かれた意味を変えなくちゃならなくなる。それでも拾ってくれたことはありがたいので、もう一度お礼を言ってからポケットにしまった。これがないと、いざ怪異に襲われた時に勾白を呼べない。
「さて、劔先輩のところに行きましょう。話したいことがあるそうです」
勾白はあまり楽しくなさそうに言った。
「自殺コミュニティの拡大が止まらない。むしろ数が増えている」
俺たちが生徒会室に入るや否や、劔さんはさっそくそう告げた。目の下の隈はまた一段と濃くなったように見える。
「あ、あのおばあさんが原因じゃなかったんですか? でも俺、あのおばあさんのせいで死にたくなって、あれって多分、斧山君の時と同じような症状だったと思うんですけど」
「一人を祓ったくらいじゃ焼け石に水だということですね」
勾白はさして驚いた様子もない。分かり切っているとでも言いたげだ。
「恐らくそうなる。少なくともあと百人はいるだろうな」
「厄介なのは他のやつらがすっかり息を潜めてしまったことですね。夜の校舎にもそれらしき気配はまったく」
「希死念慮だけがじわじわと広がっている。腹立たしいことこの上ない」
「す、すみません、ちょっと待ってください」
俺は話し込む二人の間に割って入る。俺一人がまったくついて行けてない。
「あの、百人もいるんですか? おばあさんみたいなのが? ど、どうして分かるんですか」
「戯陀跋扈だ」
劔さんは吐き捨てるように言った。
「お前が出遭った老婆こそ戯陀跋扈の一人だったんだ。考えればすぐに分かることだった」
戯陀跋扈。勾白が語った記憶を手繰る。
百年前、集団自殺をした新興宗教『戯陀』の信者たちの霊。彼らの遺骸の上に建てられたこの学校は、彼らの呪いに絶えず晒されている。
俺が夢幻回廊で感じたあの視線も、戯陀跋扈によるものだったのだろうか。
劔さんは苦々しげに机を指先で叩く。
「集団自殺が起きて今年で百年。やつらの呪いが生徒たちに降り掛かっているとしたら厄介だな」
劔さんはスマホを操作する。
「斧山のアカウントで自殺コミュニティに入った時のスクリーンショットだ」
劔さんが見せてくれた画面には多くの投稿があった。熱に浮かされたように死を渇望するもの、あの世に期待を馳せるもの……見ているだけでグラグラしてきた。
「決行の日は近い、なんて書いてありますけど」
「ああ、恐らく大規模な集会がある。掴めている情報はここまでだ。覗き見しているのがバレたのか、この後はコミュニティを追い出されてしまった」
「適当にアカウント作って入ればいいんじゃないですか」
勾白はスマホを操作する。
「やつらのガードは固い。見知らぬアカウントではまず通らないだろうな。コミュニティに選ばれた者のみが入れるようだ」
「ど、どうにかできないんですか。その集会で何かが起きるかもしれないんですよね」
「集団自殺とか?」
勾白が事も無げに呟く。
「実際に起きたらとんでもないニュースになるでしょうね。マスコミやオカルトマニアがこぞってこの学校に押しかけて……」
ダン! と劔さんが机に拳を振り下ろした。
「……冗談でもそんなことを言うな」
「大真面目ですよ。だってそう考えるしかないでしょう?」
劔さんは無言で立ち上がる。勾白を睨めつけ、その胸ぐらを掴んだ。
「お前はどうしていつもそうなんだ? もう喋るな、馬鹿が」
「意見を述べただけです。不機嫌だからとこちらに当たられても困ります」
「ちょ、ちょっと待って! ストップ!」
俺は慌てて劔さんの腕に手を伸ばした。
「勾白。そ、そういう言い方はよくない……と、俺も思う」
「へえ、劔先輩の肩を持つんですか」
勾白はいつもの如く笑っているが、その感情は読めない。
「肩を持つとかそういう話じゃなくて……」
「佐島は人間性の話をしているんだ、屑め」
「人のことを罵倒する方に諭される人間性って旨味がありますねえ」
「だっ、だからストップだって!」
本当に嫌だ。泣いていいかな。
「とは言っても劔先輩、何か当てはあるんですか? このままだと本当に起きてしまいますよ、」
集団自殺。勾白は口の形だけで示してみせる。俺はおそるおそる劔さんの方を見た。
「大規模集会の情報をなんとしても掴む。どんな手を使ってもだ」
「だからそういうオーラが人間も怪異も遠ざけるんですって。潜入捜査なんて一番向いてないタイプでしょう?」
「向き不向きを選べる状況じゃない 」
「あ、あの……」小さく手を挙げる。「俺、自殺コミュニティに入れたんですけど」
「は?」
劔さんと勾白が声を揃えた。
自殺コミュは一見、のどかで居心地の良さそうな場所だった。参加している生徒は日常の何気ないことを投稿している、ように見える。だがその末尾には必ず自死が仄めかされていた。見ているだけで寒気がしてくる。
「先輩の生身の人間に対するステルス能力、一級品ですね。怪異にはあんなに目をつけられるのに」
「全然嬉しくない……」
慣れない手つきで画面を動かす。
ふととある書き込みが目に入った。
「この苦しみも文化祭まで」
「文化祭だと?」
劔さんは目を眇める。
「確かに大規模な催し物をするにはぴったりですね」
勾白はのんびりと構えているが、俺は心底焦っていた。
「ぶ、文化祭って、明日じゃないですか」
五月二十五日。樹良高文化祭はすぐそこだった。
賑やかに彩られた中庭に目をやる。青々とした木々は今日のために切り揃えられ、一本一本リースや電飾が飾り付けられていた。日が沈むとライトアップするようになっているらしい。
溜め息が出そうになる。何の手立てもなく今日を迎えることになった。今この瞬間にも集団自殺が起きるかも知れないと思えば、大人しく座っていられない。俺は立ち上がって教室を後にした。
俺のクラスは教室丸々をコンセプトカフェにしていた。皆は接客で忙しそうだが、俺は働き手もして数えられていないらしい。今日このときにおいては助かるが、やはり悲しかった。
「おー佐島ちゃんだ。お疲れぇ」
埜百利先生が手を挙げて前からやって来た。頭にはひょっとこのお面、手には綿あめ、彩度の高い花の首飾りを下げている。
「す、すごく満喫されてますね……」
「いやァやっぱり最高だよな文化祭って。先生、現役の頃は友達と回って楽しんだもんよ」
通り過ぎる女子生徒が埜百利先生を見るなり、「せんせ! これあげる!」と長すぎるフライドポテトを一本差し出し、去って行った。埜百利先生は「サンキュー」とウィンクしてからそれをむしゃむしゃと食べ、指についた塩まで丁寧に舐め取る。
「佐島も楽しめよォ。こんなの楽しんだもん勝ちだからね」
「は、はい。でも俺、友達いないんで……」
「まーそういうのも乙なもんじゃん。あ、もし良かったら先生と回る?」
「え、そんな。悪いですよ」
「悪いわけがないでしょーよ。先生もちょうど一人だし」
「あ、ヤモ先こんなところにいた!」
廊下に大きな声が響く。見ると、明るい髪をした男子生徒たちが埜百利先生に近付くところだった。
「やっと見つけた。俺らと回ろうって約束したじゃん!」
「あれ、そうだっけ?」
埜百利先生は首を傾げる。
「そうだよ、ほらヤモ先いると女子も来てくれるから、お願い!」
「わぁかった分かった。ごめんな、佐島。また時間あったら一緒に回ろう」
「いえ、そんな。お気になさらず……」
「なァんかヤバい雰囲気なんでしょ? 先生もちょこちょこ見張っとくから」
最後に低く耳打ちして、埜百利先生は男子グループと一緒に行ってしまった。元々一人でいる予定だったが、余計に寂しくなった気がする。
「……あ」
中庭を挟んで向かいの校舎、廊下で勾白が歩く姿が見えた。思わず目で追ってしまう。
勾白の周囲には四人の男子生徒がいた。いずれも皆、爽やかな面持ちで頭が良さそうだ。屈託のない笑顔からは対人能力強者の雰囲気が窺える。
つまり俺とはまったく違う毛色の人間だということだ。勾白も見た目だけなら完全に彼らに溶け込んでいる。お似合いに思えた。
そうだ、類は友を呼ぶ。俺といる時が例外なだけで、本来勾白はああいった生徒たちとつるむんだ。
……なんだ?
俺は何をうだうだ考えているんだ。勾白に親しい友達がいるのは当然だろう。外面を整えることは得意分野な上に、友達作りには積極的だし。
馬鹿馬鹿しい。頭を振る。勾白なんて気にしている場合じゃなかった。もっと他に考えなくちゃいけないことがある。
留意すべきは戯陀跋扈だ。それ以外ない。
中庭に立つ屋外時計を見る。時刻は十四時を差していた。大規模集会が行われるまであと一時間だ。
どうしよう。俺に何かできるだろうか。
目的地もなく歩き出す。集会、というにはどこかに集まるのだろうか。大人数が集まれそうな場所に行ってみるべきか? 例えば体育館、中庭、校庭もあり得る。
「あ、佐島さん!」
「え、斧山君?」
こちらに手を振っているのは確かに斧山君だった。一歩勢いよく駆け出そうとしたと思えば、ハッと周囲を見渡し、ゆっくり歩いてくる。
「えへへ、会えたのが嬉しくてつい走りそうになっちゃいました。廊下は走るなって会長に口を酸っぱくして言われてるのに」
はにかみながら笑うその顔には曇りが一つもない。先日の凄惨な行動が嘘のようだ。
「体調はもういいの?」
「はい、おかげさまで! 会長に聞いたのですが、その節は本当にご迷惑をお掛けしました」
斧山君は小柄な体を折り、深々と頭を下げる。
「いや、そんな。謝らないで、俺は何もできてないし、そもそも斧山君のせいじゃないし……」
「いえ、僕が未熟なせいですっ! 会長を失望させてしまいました」
斧山君は悔しそうに眉を歪めている。しかし劔さんが斧山君に失望するだろうか。俺には心の底から心配しているようにしか見えなかった。
「戯陀跋扈の件も、会長から聞きましたよ」
斧山君は声を落とす。
「おばあさんの霊を祓ったとか。さすがです」
「俺じゃないよ。祓ったのは勾白。俺はやられて倒れてただけ」
今思えば本当に情けない。気をつけろと言われていたのに、不自然な場所にいるおばあさんを生きた人間だと思い込み瀕死、挙げ句勾白に介錯までしてもらうとは。
「いいえ、お二人揃ってこそですよっ」
斧山君は俺の手をがっしり取る。
「憧れます! なんというか、息の合ったチームみたいで」
「そ、そうかな……」
首を傾げると、「そうですよっ」と前のめり気味に言われる。そうだろうか? 息が合ってるも、チームもなんだかピンと来ない。
「あ、すみません。長話しちゃって。もうすぐ例の時間ですよね? 今日は生徒会総出で見回りをしているんです。不審な動きをする人がいたらすぐ対処できるように」
「そうか。病み上がりなのに大変だな」
「いえ、劔さんの下にいるならこのくらい当然です! というか、劔さんが一番大変そうですもの。ここ数日あんまり寝てないみたいですし、今日のことでかなり気を揉んでいましたし……だから僕が頑張らないと」
生徒会の運営に心霊関係の対処なんて休み暇がないに違いない。斧山君が伏せっていたことも心労の一つだろう。
「……あの、よければ俺も見回りを手伝ってもいいかな。何かしたいと思ってたけど、どうすればいいか分からなくて」
「いいんですか? ぜひお願いします!」
斧山君に先導してもらい、各教室を見回っていく。怪異の影響はもちろん、出店に不備やトラブルがないかの確認も兼ねているらしい。
「生徒会ってたくさん仕事があるんだな……」
「出店のことは主に文化祭委員に任せてますけどね。でも生徒会の厳しい目も必要ということで」
斧山君は想像以上にしっかりと働いていた。事前申告されていない料理がメニューに載っているカフェを見ればすぐさま是正を求めたし、生徒同士で小競り合いになりそうな空気があればすぐに諌めた。さらには集会に参加しそうな生徒にも気を配る。かなりの働きぶりだ。何より自分の務めを精一杯果たそうとしている。劔さんが斧山君を可愛がる理由が分かった。
教室を見回る間、勾白とは一度もすれ違わなかった。なぜかホッとした。
時刻は十四時半。あと三十分だ。
「怪しい人は見つかりませんね。そんなあからさまな人はいないと思ってましたけど」
斧山君は腕を組む。本人を前に言い難いが、斧山君が自傷行為に走った際も予兆めいたものはまったくなかった。
「屋上とか、大丈夫なの?」
「屋上に入るための鍵は劔さんが持っています。絶対に大丈夫ですよ」
斧山君は自信たっぷりに言い切る。確かに劔さんが持っているなら大丈夫だろう。屋上は今、完全に開かずの間というわけだ。どんな泥棒でも入れないに違いない。
次に訪れたのは、校舎の一階奥にある美術室だった。この日のために丹精込めて作ったのだろう、美術部の作品がイーゼルとともに並べられている。眩しい色が散りばめられた水彩画、校舎を写実的に切り取った油絵、好きな漫画の人物なのだろうか、緻密に作られた胸像もある。いくらでもじっくりと鑑賞できそうだった。
ただおかしなことがある。
部員はおろか、客も一人もいないのだ。
「休憩にでも行ってるのかな?」
俺は部屋を見渡しながら呟く。廊下に顔を出してみたが、やはり人影はなかった。あれほど生徒の声で賑やかだったのに、今じゃ笑い声が遠く微かに聞こえる程度だ。
「そうかもしれませんねえ」
「じゃ、じゃあ他のところ行こうか。もうすぐ十五時だ。何が起きてもおかしくない」
時間が迫っているからか、空気がどことなく重い気がする。
「でも僕、思うんですよね」
水彩画に見入っていた斧山君は、笑顔でこちらを振り向いた。
「どれだけ見張っていても、防ぎようのないものはあるんじゃないかって」
「そ、そうかもしれないけど」
斧山君から弱気な発言が出たことに、俺は少なからず驚いた。
「でも何かしないと。じっとしているなんて、むずむずしてできないよ。劔さんだってどうにかしようと頑張ってるんだろ?」
「それなんですけど」
ぷつり、と音が鳴った。美術室に取り付けられたスピーカーから聞こえる音だった。
「やっぱり魚の胸鰭が三枚より少ないなんて言う人はどこかおかしいですよ」
「……え?」
低い音が聞こえてくる。男、女、子ども、獣。それぞれが唸るように、這いずるように紡ぐ音。何を言っているのかは分からない。詩とも言えるし、歌とも呼べるし、呪詛とも表せる、そんな音の連なりだった。
「お、斧山君。これって」
あの時の声だ。深夜の校舎で、おばあさんと会った時に聞こえたおぞましい声。
背筋が粟立った。
「劔さん、全生徒の持ち物検査をやって、鋏や包丁は決められたクラスしか使えないようにしていますけど、そんなこと言ったって死ぬための道具はたくさんありますからね。だって見てください、あの人」
斧山君は窓の外を指す。中庭で焼きそばを作っているクラスがあった。
その中の一人、女子生徒が。
調理に使っていたヘラを、笑顔で自身の腕に押し当てた。
近くにいた生徒たちが慌ててその子を取り押さえた。叫び声が聞こえる。泣きながら先生を呼ぶ生徒もいる。ヘラが触れた腕はここからでも分かるほど真っ赤だ。
スピーカーから流れる声は大きくなる。
「お……斧山君」
おそるおそる、振り返る。
斧山君の手には、尖った鉛筆があった。
「人生で邪魔なものって、何より躊躇なんですよね」
音がうるさい。
「知ってますか? 躊躇って漢字、両方ためらうとか足踏みするって意味なんですよ。飛び降りる前の躊躇! ためらい! まさに、まさにだと思いませんか?」
あはは! と大きく笑う。動けない。俺はじっとその場に立ち尽くしていた。
斧山君は、笑い続けて──唐突に、鉛筆を自分の目玉に突き刺そうとした。
「待って!」
気付けば体が動いていた。斧山君の腕に飛びつく。先端が目玉に刺さるぎりぎり、あと数センチのところで鉛筆は止まっていた。
「お、斧山君、落ち着いて。しっかり、正気を保って。お願いだ」
お願い、お願いだ。頭の中をそればかりが占める。冷静に何か考えるなんて不可能だった。
斧山君はまったく力をゆるめない。小柄な体躯のどこに隠していたのか、その腕力は強かった。いや、俺が弱すぎるのかもしれない。鉛筆が徐々に目玉に近付いていく。
スピーカーから音は鳴り続けている。
遠くから誰かの悲鳴が聞こえてきた。
駄目だ。腕が痺れる。このままじゃ斧山君は、また。違う、またなんかじゃない。今度は以前よりもっとひどいことになる。こんなものを躊躇いなく刺したら、死んでしまうんじゃないか。
そんなのは駄目だ。死ぬのは俺一人で充分なのに。
「斧山! 佐島!」
斧山君が吹っ飛んだ。水彩画や油絵がイーゼルごと巻き込まれ、音を立てて床に散らばる。
劔さんが肩で息をしていた。全力で斧山君を突き飛ばしてくれたらしい。その顔は真っ青になっている。
「あ、ありがとうございます、劔さん……」
「お前らがここに入っていくのをたまたま見た。スピーカーからおかしな声が流れてきて、嫌な予感がして来てみたらこのざまだ」
斧山君はゆっくりと立ち上がった。その手にはまだ鉛筆がある。
笑いながら、斧山君は鉛筆を掲げる。けたたましく笑いながら、黒く光る先端を目玉に突き刺そうとした。
「やめろ、斧山!」
劔さんは叫びながら飛び込む。
どすっ、と鈍い音がした。
「ぐっ……!」
「劔さん!」
劔さんの手のひらに、鉛筆が刺さっていた。斧山君は高笑いした後、走って美術室を飛び出て行く。
「だ、大丈夫ですか」
蹲る劔さんに駆け寄る。劔さんは無言で鉛筆を引き抜いた。手のひらの中で血が呪いのようにゆっくりと広がっていく。
「……屋上の鍵を盗られた」
劔さんは絞り出すように言う。
「それってまずいんじゃ……」
「ああ、まずい。あいつがまだ怪異に囚われていたとは思わなかった」
俺の失態だ。劔さんは小さく呟く。
「す、すぐに追いかけないと。他の生徒も大変なことになってるし……!」
いったい今頃何人の生徒が自傷行為に走っているのだろう。中庭の女子生徒は火傷で爛れた腕を見て笑っていた。
屋上に行かなければ。取り返しのつかないことになってしまう。
よろよろと立ち上がった劔さんは、か細い声を出す。
「……頼む」
俺の両腕を、血まみれの手で弱々しく掴んだ。
「は、はい。なんとか斧山君を助けないと、」
「頼む……」
何かが違う、と気付いた。
縋っている。
劔さんが、俺に縋っている。
斧山君を助けてくれ、と頼んでいるんじゃない。
「頼む……死んでくれ……」
体が底冷えするような、冷たい言葉だった。
「お前が死ねば、丸く収まるはずなんだ」
「お、俺が?」
「今まで、少なくともこの二十年はそれでうまくいっていた。お前が怪異に呪われて、死んで、あいつらはそれで満足するんだ」
腕を掴む劔さんの力が、徐々に強くなっていく。
「それがどうだ? お前は怪異じゃなく勾白に殺されるようになった。あれほど簡単に殺せていた獲物に、妙なボディガードがついたんだ。だから怪異は他の生徒に目を向け始めた」
「劔さん、い、痛いです」
「勾白が余計な干渉をしてきたせいだ。正義感でもなんでもない、ただの好奇心で! お前が殺されていればそれで良かったのに!」
「つ、劔さん」
「なあ佐島、お前が歴代の生徒会長たちになんて呼ばれてたか分かるか」
首を横に振る。
「生贄だよ。的確だろう? お前は学校の平穏のための生贄だ」
生贄。そうか、確かにその通りだ。
「ばらばらさんの事件があっただろう。あの時、お前はSNSでデマを流されたよな。あれは俺がやったんだ。他の生徒が互いに疑心暗鬼にならないよう、お前を犯人に仕立て上げたんだ。どうせお前は死んで忘れられるんだから、何を言われても同じだろう」
「そんな」
「頼む」
先ほどまでの弱々しさはどこに行ったのか、劔さんが俺を睨む目には仄暗い光が満ちていた。
「死んでくれ、他の生徒のためだ。今すぐ、戯陀跋扈に殺されてくれ」
「そ、そんなこと、言われても」
怒りと憎しみがこもった目を向けられる。
劔さんの言うことは分かる。どうせ死んでも死なないのだから、俺が犠牲になるべきだ。
けど、どうしようもなく怖い。死にたくない。
「お、俺は」
「お前の気持ちなどどうでもいいんだ。分かっていないのか、この状況が?」
劔さんの指は俺の腕に食い込んでいた。
頷かなければ。俺が殺されますって、そう言わなければ。
「はい、ストップ」
ぱん、と手のひらを打つ音が聞こえた。
「こんな人に屑なんて言われたんですか、僕は?」
フランクフルトを噛じる勾白が、美術室の入り口に立っていた。
「なんで美術室にいるって知ってたんだよ」
「佐島先輩の体がどこにあるかなんてすぐに分かりますよ。僕とあなたは繋がっていますから」
「うげー……」
校内のすべてのスピーカーから、呪詛のような声が鳴り続けていた。屋上に向かうための廊下を走っている最中、生徒会役員に組み伏せられている生徒を何度か見た。自傷行為に走った人たちだろう。周囲の人間はスマホのカメラを向けている。どうやら何かのパフォーマンスだと思っているようだ。
「お気楽でいいですね、皆さん」
「そういや一緒に回ってた友達はいいのか?」
屋上までの階段を登りながら俺は尋ねる。
「あれ、見てたんですか。意外と焼き餅焼きですね」
「は? なんのことだよ」
勾白はくつくつと笑う。
「何にせよ、友人たちとは別行動ですよ。このままじゃ文化祭どころじゃないでしょう」
屋上の扉に辿り着く。鍵は既に開けられていた。
「お、斧山君!」
斧山君はフェンスを乗り越えようとしている最中だった。こちらを振り向く目にはなんの感情もない。
「待って、一旦待って! お、俺が死ぬから、その……」
どう止めたらいいのだろう。何も考えずに来てしまった。
「黒い靄が視えますね。あれが呪いを象っているようです」
勾白は目を眇める。
「な、なんか霊能力者みたいなこと言うんだな」
俺にはぼんやりとしか見えない。勾白は小さく何かを呟くと、両手を強く打つ。
斧山君の身体がふらつき、フェンスの内側に倒れた。
「天才霊能力者ですので、あしからず」
勾白はにっこりと笑った。
「み、み、皆さん! 樹良高の、生徒の皆さん!」
俺は叫ぶ。精一杯叫ぶ。こんなに叫んだのはきっと生まれて初めてだ。
「こっち! こっちです! 俺、今から飛び降ります! 飛び降りますから、ね!」
フェンスの外側に立っているだけで怖い。身が竦む。足をすべらせて落ちてしまいそうだ。
遥か下の中庭に、人が集まってきた。俺を指さす。さすがにこれだけ騒いだら多少は認識してくれるらしい。
フェンスの内側、安全地帯にいる勾白をちらりと見る。腕を組んでマネージャーのように俺を見ていた。
本当にこれでいいんだよな。なんとかなるんだよな。
「いいか! 俺を呪い殺すなら、今! 今しかないぞ! また自分で死んじゃうからな!」
そうだ、やつらの大好物は俺。勾白によると、人間でも怪異でもない在り方に惹かれるらしい。
だから俺がエサになれば、やつらは他の生徒よりも俺を狙うはず。それが勾白が考えた作戦だった。
「本当にいいのかー! 飛び降りるぞ、今! 今だぞ!」
ずっ、と、何かが動いた気がした。中庭に集まる生徒たち、その何人かの頭で、黒い靄がうごめいている。
俺がこれだけきちんと見えるということは、あの靄は相当濃いのだろう。
「いいですよ、佐島先輩。飛び降りてください」
勾白があっけらかんと言い放つ。
そう、俺が実際に飛び降りることで、やつらは本気で動き出すはずだ。
だけど駄目だった。動けなかった。膝が震える。前に出られない。
「佐島先輩?」
「劔さんに死んでくれって言われて、そ、それなら、俺なんて死んだ方がいいって思ったけど」
泣きそうになる。声が情けなく震える。
「お、俺、やっぱり、死ぬのが怖くて。つ、劔さんには申し訳ないんだけど、合わせる顔が、ないんだけど、」
「佐島先輩」
遮られる。
「どうして僕と話している時に、他の男の話をするんですか?」
勾白は甚だ呆れ声だった。落ちかけていた涙が引っ込んだ。そんな痴話喧嘩みたいな。
「ほ、他の男の話って、そういうのじゃ」
「『死んでくれ』なんて無責任に頼む男より、自分のストレス発散のためにあなたを解体しようとした男より──」
風の音にも負けず、勾白ははっきりと、
「──僕の方がよほど信頼に値する人間でしょう?」
そう言い切った。
「僕が、僕だけが、あなたのためを思ってあなたを死なせてあげられる、唯一無二の友人ですよ」
「ゆ、唯一無二って」
「他にいますか?」
返答に困った。俺を死なせてくれる人が、そんな煩わしいことをしてくれる生きている人間が、いるわけない。確かにそうなのだが、それに頷いてしまうと勾白を友達だと認めることになる。嫌だ。こいつを友達だと言いたくない。友達って、多分、こんな関係のことを指す言葉じゃないと思うから。
それでも。
「勾白」
「はい」
「……俺を、死なせてくれないか」
「もちろん」
足が勝手に動く。宙に向かって一歩踏み出す。なんの躊躇もなく。
落ちる。重力のまま。呆気なく。
学校を覆っていた黒い靄が、一斉に俺に手を伸ばす。俺を殺そうとしている。
餌に、生贄に釣られている。
「勾白!」
叫んだ。屋上にいる、ひとでなしに向かって。
勾白が両の手のひらを打つ。離れているのに、何かを唱える声が耳に入る。
俺は笑った。
勾白も俺を見て笑った。
黒い手が俺に触れようとした瞬間──そいつらは、呆気なく散っていった。一瞬のことだった。
喜ぶ暇もなく、俺は頭から地面に激突した。
◯
目を覚ます。なぜだろう、昼寝でもしたような心地よい倦怠感があった。
すぐ近くに勾白の顔があった。
「うぇあ!? な、なに、なんで?」
「意外と早いですね。びっくりしました」
「はあ? 何が」
「また一週間は掛かるかと思っていたので」
スマホを差し出される。文化祭当日、十八時だった。
どうやら屋上で寝転んでいたらしい。しかも勾白の膝の上で。
「三時間しか経ってないのか?」
「ええ、投身自殺した後の死体はいつの間にか消失。瞬きの間に屋上へ移動していました。何か心当たりはありますか」
ううん、と首を捻る。
永遠に続く廊下……夢幻回廊にいたことは覚えている。ただ、そうだ、今回は最初から走ったのだ。あそこから抜け出せばいいと分かっていたから。開いている扉に飛び込み、そうして意識が戻ってきた。
「そんな物理的な方法で変わるものなんですね」
勾白は呆れ気味だ。
「そ、そうだ、戯陀跋扈は……?」
「すべて祓いましたよ。一網打尽です。怪我を負った生徒が数名ですが、いずれも軽傷でした。諸々の対応は生徒会がやっています」
もちろん劔さんも。勾白は皮肉めいた笑みを浮かべる。
「あなたが身を投げたことで中庭は一次騒然としましたが、騒ぎは次第に収束しましたよ。さすが半怪異様と言ったところでしょうか。すべて丸く収まりましたね」
「そっか。良かった……」
「案外呆気なかったですね。もっと手こずるかと思っていましたが」
「不謹慎なこと言うなよ。無事な方がいいに決まってるだろ」
「まあ、それはそうかもしれません」
「そうかも、じゃなくてそうなんだよ」
勾白は立ち上がると、フェンスの傍に寄って下を覗き込んだ。すぐに手招きされる。
「ね、見てください」
「なんだ?」
促されるまま、俺もフェンスの下を覗き込んだ。
おお、と思わず声が漏れ出た。
中庭の木々に飾られていた電飾が光っていた。柔らかい光が蛍のように浮かび、なんだか心が温かくなる心地がする。
「いい景色ですね」
「うん。きれいだ……」
中庭にいる生徒たちは皆、笑顔だ。
よかった、と心底思う。守れたんだ、俺。
俺たちは、しばらくの間その光をじっと眺めていた。

