新しい住まいは、どこか「呼吸」を忘れたような場所だった。
都心から私鉄の急行と各駅停車を乗り継いで、電車に揺られることおよそ三十分。車窓から見える景色が、背の高い真新しいオフィスビルから、トタン屋根のひしめく町工場や色褪せた看板を掲げた古い商店街へと変わる頃、その町は唐突に現れる。再開発の波に取り残され、まるで昭和の終わりに時間が縫い留められてしまったかのような住宅街。その入り組んだ路地のどんづまりに、目当てのマンションは墓標のように建っていた。
地上十階建て。周囲に高い建物がないため、異様なほど空に突き出しているように見える。かつては白かったであろう外壁は、長年の雨風と排気ガスに晒されて、まるで血の気を失った死人の肌のような淀んだ灰色に変色していた。エントランスの脇に植えられたツツジは手入れもされず、枯れた枝が針金のように絡み合っている。
藤代 悠は、トラックから次々と運び出される段ボールの山を眺めながら、無意識に自分の左手首をさすった。四月半ばだというのに、肌にまとわりつくような質の悪い湿り気を孕んだ空気が町を覆っている。
「――おーい、兄ちゃん」
ノイズキャンセリングのヘッドフォン越しに、くぐもった声が聞こえた。悠が顔を上げると、日に焼けて首筋にタオルを巻いた初老の引っ越し作業員が、眉間に深い皺を寄せて口を動かしている。使い込まれた作業着には汗が黒々と滲み、首筋には、じっとりとした苛立ちと疲労がへばりついていた。
悠は「何ですか」と小さく応じて歩み寄る。この見知らぬ町での新しい生活に、微塵も希望など見出していない。家族もついてこなかった単身の引っ越しだ。ただ、前の土地で起きた「あの忌まわしい出来事」から、物理的な距離をとって切り離されたい。それだけが、十五歳の彼にとって唯一の切実な願いだった。
ふと、作業員の胡乱な視線が自分の耳元に注がれていることに気づき、悠は慌ててヘッドフォンの位置をずらし、首に下ろした。
その瞬間だった。
――ギィィィ、ガリガリガリッ。
耳の奥を、錆びた鉄板を無理やりこすり合わせるような、鋭く生臭い感覚が走り抜けた。遠くを走る救急車のサイレン、どこかの庭先で繋がれた犬の遠吠え、隣の家の開け放たれた窓から漏れるワイドショーの笑い声――それらが一塊の濁流となって、何のフィルターも通さずに脳髄へ流れ込んでくる。頭の裏側では、何万粒もの乾いた砂がひしめき合い、這い回っているような錯覚が起きた。
悠は顔をしかめたが、すぐに奥歯を強く噛み締めてそれを打ち消す。まただ。また「これ」が来てしまったのだ。
「荷物、どの部屋に上げればいいんです?」
使い込まれた道具のような、節くれだった指。老人の作業員が、濁った眼球の奥からこちらの「正体」を値踏みするように、ひどく億劫そうに尋ねてくる。
「303号室です。……すみません、鍵はまだ管理人が持っていて。僕の都合で、予定より少し早く着きすぎてしまったから。今から呼んできます。……その間に、もう一人の方も呼んでおいていただけますか。一人よりは、その方が……きっと、安全だと思うので」
「はあ? ……ああ、まあ。わかりましたよ」
老人は、理解の外にある若者の理屈を飲み込むのを諦めたように、短く息を吐いた。
その、湿った拒絶のような視線から逃げるように、悠はマンションの入り口へと急いだ。
自動ドアは機能を放棄したばかりなのか、重い手動のガラス扉が、中へ入ろうとする悠を押し留めるような嫌な手応えを返す。
薄暗いエントランス。冷たいコンクリートの肺の中に足を踏み入れた、その背後で。
——ガシャン、と。
取り返しのつかない形で、何かが砕ける音がした。
陶器が割れるような、あるいは、誰かの生活が致命的に損なわれるような、くぐもった響き。
「え、なに ……ちょっと! おい!!」
若い男の声がエントランスの静寂を鋭く引き裂いた。悠は振り返らなかった。見なくてもわかる。このマンションの空気に触れた途端、あの初老の作業員の纏っていた「音」が、不自然に、ぷつりと途切れたのだ。心臓が嫌なリズムで跳ねる。悠は逃げるようにエレベーターに飛び乗り、最上階のボタンを乱暴に押した。
幼い頃から、悠の感覚は他人より少しだけ敏感になるときが度々あった。大きな地震が起こる数十分前から、上空の空気に混じる不穏な「揺れ」を肌で感じ取ることができたし、誰かが決定的な嘘をついているときには、その人の声がわずかに「濁って」聞こえた。
かつて両親が深く関わってしまった、あの得体の知れない集団の人々は、悠のその特性を『神に選ばれた特別な才能』だと持て囃した。母親は狂信的な目を潤ませて悠の手を握り、父親は無言でそれを見つめていた。
けれど、悠にとってそれは単なる不快な雑音でしかなかった。彼はただ、普通になりたかったのだ。クラスの隅で、名前も覚えられないような、平穏なモブキャラクターでありたかった。特別な才能などいらない。朝起きて、学校へ行き、誰の心も読まずに笑い合う、そんな当たり前の静寂が欲しかった。
チン、と。
どこか時代に取り残されたような、間の抜けたベルの音が鳴り、エレベーターの扉が重い腰を上げるようにして左右に分かれた。
最上階の廊下に踏み出した悠は、思わず息を呑んで立ち止まった。
下層階を支配していた、あの生者の執着を煮詰めたような匂いとは、あまりにもかけ離れていたからだ。それは、どこか懐かしい、記憶の残骸のような気配――。そんな澱んだ階下とは打って変わり、そこはまるで、高級ホテルのように整然としていた。
足音を完全に吸い込む毛足の短いカーペットが敷き詰められ、廊下の空気はひんやりと研ぎ澄まされている。どこかで上質な柑橘系のルームフレグランスが焚かれているのか、清潔だがどこか現実味を欠いた香りが、悠の警戒心を静かに解きほぐしていった。
「……ここだけ、空気が違いすぎない?」
誰に聞かせるでもなく呟いた声が、厚い静寂に吸い込まれて消える。
廊下の突き当たりには、重厚な木製の扉が一つだけ、毅然とした佇まいで沈黙を守っていた。悠は躊躇いながらも、その傍らにあるインターホンのボタンに指をかけた。
スピーカーから返ってきたのは、若い男のものと思われる、ひどく落ち着いた、それでいてどこか感情の起伏を削ぎ落としたような声だった。今日、このマンションに越してきた藤代だと告げると、ほどなくして重い扉が、精巧な機械仕掛けのように音もなく開いた。
中から姿を現したのは、自分と同年代と思われる少年だった。
学校の制服ではないが、糊のきいた真っ白なシャツに、皺ひとつない細身の黒いパンツ。その出で立ちは、彼が立つ廊下の空気と同じように、寄せ付けがたいほどの清潔感と冷たさを放っている。
肌は磨き上げられた陶器のように白く、色素の薄い柔らかな髪が、廊下のわずかな光を透き通るような輪郭で反射していた。
そして、何より悠の目を釘付けにしたのは、少年の細い首から下げられた「重み」だった。
アイロンの行き届いた白シャツの胸元で、大小異なる五本の鍵が、細い鎖に繋がれて重なり合っていた。時代がかった大ぶりの真鍮製のものから、精密機械を思わせる銀色の小さなものまで。少年が微かに身じろぎをするたびに、それらはチャリ、と、乾いた金属音を立てる。それは単なる装身具には見えなかった。
「こんにちは。今日から入居される、藤代さん。……ですよね」
少年は、薄く笑った。形の良い唇が綺麗な弧を描いているのに、その瞳の奥には、人間が当然持っているはずの熱や、湿った感情のようなものが決定的に欠落している。鏡の中から抜け出してきた幻影か、あるいは精密に組まれた装置のような、危うい端正さ。
「俺は九条 湊。このマンションの管理人……のようなものをやっています。と言っても、今はまだ、姉さんの手伝いをしているだけなんだけど」
「管理人……?君が?」
「驚くのも無理はないけど。うちは少し、特殊な規律で動いている場所だから。……もし困っていることがあったら、遠慮なく言って。君がそう望むなら、俺にできる限り手伝うから」
「……あの、じゃあ。経口補水液とか、持っていませんか。引越しの、作業員の人が……急に下で倒れてしまって」
「へえ、そうなんだ。……ちょっと待ってて。今、必要なものを持ってくるから」
湊は、あらかじめ用意していたかのような早さで、スポーツドリンクと氷水の満ちた洗面器、そして糊のきいた清潔なタオルを抱えて戻ってきた。
二人で急ぎ、一階のエントランスへと降りる。柱の陰に横たわっていたのは、先ほどの初老の作業員だった。彼は胸元を掻きむしり、湿った喉を鳴らしながら、ひどく荒い息を吐き出していた。
湊は迷いのない手つきで、洗面器の氷水に浸したタオルを絞ると、男の首筋を丁寧に、しかし迅速に冷やし始めた。促されるまま水分を口に含むと、もう一人の作業員が慌てて会社へ連絡を入れる頃には、男の土気色だった顔にも、ようやく生気が戻ってきた。
「ただの熱中症ですよ。無理をされたんだ」
湊がそう言い、周囲には安堵の溜息が漏れた。確かに、それは晩春の午後にはあまり見慣れない病の一種に違いなかった。
だが、悠だけは、その光景の中に潜む「別の真実」を凝視していた。
湊の、あの陶器のように白い指先が作業員の首筋に触れた、まさにその瞬間だ。あの男の全身にまとわりつき、羽音さえ聞こえそうな勢いで蠢いていた「黒い羽虫のようなノイズ」が、まるで意思を持った霧のように、スーッと、音もなく霧散していったのだ。
それは、ただの介抱などではなかった。
湊が指先ひとつで、この世のものではない毒を、男の身体から掬い取ったかのように悠には見えた。
「あの……ありがとうございました。初日から、色々と、助けてもらって」
空になったペットボトルの、無機質なへこみを指先でなぞりながら、悠は俯き加減に言った。
「気にしないで。君のせいじゃないし、これも管理人の仕事の一部だから」
湊の声は、驚くほど澄んでいた。夾雑物のない、濾過されきった水のようだ、と悠は思う。
ふと、自分の「感覚」が、奇妙なほど凪いでいることに気がついた。
いつもなら初めて会う人間の前では、相手が隠しきれない好奇心や、微かな警戒の気配が、静電気のような解像度で肌をチクチクと刺してくる。なのに、この少年の前では、すべてのノイズが嘘のように消えている。
まるで、分厚い防音ガラスの向こう側で、世界の明度だけを眺めているような静けさ。
「これからは、俺が君の助けになる。……君が、そう望むならね」
その言葉が、不意に悠の胸を深く突いた。
酷く優しい言葉だ、と誤認しそうになる。初対面で、僕が抱えるこの、名前のつかない不安をどうして見抜けるのだろう。
けれど、悠はその疑念を即座に咀嚼し、飲み込んだ。引越しの疲れのせいだ。それに、この場所で『普通』を模倣するためには、最初に出会った住人と波風を立てるべきではない。
——これは、僕が自分で選んだ、最適で、合理的な判断だ。
そうやって自分に言い聞かせる声さえ、今は不思議と、自分のものじゃないみたいに遠く響いた。
翌日、悠が編入した地元の高校は、至極平凡な場所に見えた。
教室には、汗と制汗剤とチョークの粉が混ざったような、高校生特有の匂いが充満している。
「あのさ、藤代くんが前にいた学校ってどんなところだった?」
昼休み。編入してきたばかりの悠の机に、椅子を逆さまにして陣取ったのは佐々木という女子だった。よく通る、他人の境界線に無頓着な声。好奇心を隠そうともしない丸い瞳が、悠を値踏みするように見つめてくる。
「……どうだろ。普通の学校だったと思うけど」
悠はあらかじめ用意していた「無難」という名の台詞を差し出した。声の端がわずかに震えたが、彼女はそれを、ただの転校生の緊張として処理したらしい。
「ふーん。あ、そういえばさ、この辺のこと知ってる? ちょっとした有名スポットがいくつかあるんだよ」
佐々木は声を潜め、光るスマートフォンの画面を悠の視界に無理やりねじ込んできた。
「見て。これ、十年前のネットのまとめ記事。学校からちょっと離れたあの古いマンションのあたり、昔、変な宗教団体が最後に集まってた場所なんだって。今でも時々、変な影が見えるとか、声が聞こえるとか……。あ、ごめん! 転校したばっかりの人に言うことじゃなかったよね」
悠の心臓が、肋骨の裏側を鋭く叩いた。
視界が、出来の悪い真っ赤なノイズに塗りつぶされる。
『宗教団体』。その単語を咀嚼するだけで、喉の奥から苦い胃液が、生理的な嫌悪となってせり上がってくる。
「……知らなかったな。僕は、ただ家族に薦められた学校に来ただけだから」
「そうなの? だったら、良かったらこのあと地元の紹介しようか? 駅前のクレープ屋とか」
横から、極めて静かで、他者の介入を許さない冷徹な声が割って入った。
「その役目、俺に譲ってくれないかな」
湊だった。
入り口のドアが開く音も、上履きが床を擦る予兆もなかった。
まるで、最初からそこの空気に溶け込んでいた粒子が、この瞬間にだけ形を成したような、不自然なまでの静止。彼は音もなく、佐々木の背後に「配置」されていた。
「九条くん!? なんでこのクラスにいるの!?」
驚愕に目を見開く佐々木に、湊はふわりと、丁寧に設計された「善意」の微笑みを向けた。
「彼とは、同じマンションのよしみで。……二人だけで、話してもいいかな?」
有無を言わせぬ響きを孕んだ、壁のような笑顔。
佐々木は、自分が「排除」されたことにも気づかないまま、ぽっと頬を染めて「あ、うん、ごめんね」と、逃げるように自分の席へ戻っていった。
教室の喧騒の中、湊の周囲だけが、鋭利な刃物で切り取られたような静寂を纏っている。
「九条くん、同じ学年だったんだね」
「ああ。黙っていてごめん。わざわざ自分から言うようなタイミングも、見当たらなかったから」
湊は悠の前の席に座り、机に肘をついて、剥き出しの関心で悠を真っ直ぐに見つめた。
「でさ、このあと一緒に帰らない? 帰る場所、同じだし。地元の紹介がてら、君に馴染んでもらうための手伝いもしたいし」
「……さっき佐々木さんが言っていた場所って、もしかして、僕たちのマンションのこと?」
「うん。そうだよ」
「そんなに、あっさり認めるんだね」
「だって。秘密にするほどの価値があることじゃないし。それに、現実にここで生活している俺は何ともない。……ただ」
湊は、悠の瞳の奥を覗き込むように声を落とした。
「もし君が、君にしか分からない『何か』を拾ってしまったのなら。そのときはすぐに、俺に言って」
「……どうして?」
「君には、選ぶ権利があるからだよ。何を受け入れて、何を避けるか。君自身の領域をどう扱うか、君が決めていいんだ」
湊の言葉は、いつも高純度の砂糖菓子のように滑らかで、脆い。
湊は、僕のこの歪な体質を知っているのだろうか。悠は、背筋を氷のような指で撫でられるような微かな戦慄を覚えた。だが同時に、その「決めていい」という甘い響きに、暴力的なまでの魅力を感じていた。
幼い頃から、過剰な感覚に怯え、家族からは「普通」という名の沈黙を強いられ続けてきた悠にとって。
「自分で選んでいい」と肯定してくれる存在は、たとえそれがどんなに歪な形をしていようと、光り輝く『正解』のように見えてしまったのだ。
放課後の通学路は、どこにでもある地方都市の、少しだけくたびれた空気を纏っていた。傾きかけた夕日が、二人の影をアスファルトの上に無遠慮に引き伸ばしている。
「ねえ……僕って、変じゃないかな」
唐突にこぼれ落ちた言葉に、悠自身が一番驚いていた。湊は歩みを止め、「どうしてそんなこと聞くの」と、壊れた玩具の仕組みを覗き込むような無垢さで小首を傾げる。
「……『普通』で、いたいから」
悠が足元の影をなぞりながら零すと、湊は、悠の瞳の解像度を確かめるようにじっと見つめ返した。
「普通、か。悠にとっての普通って何?」
初めて下の名前を呼ばれた。その音の響きは、不自然なほど滑らかに耳の奥にこびりつく。
「……普通に部活に入って。真ん中くらいの成績を取って。放課後には友達と、コンビニで買った肉まんを半分こにして、どうでもいい話で笑う。……そういう、日常のことだよ」
悠が自嘲気味にそうこぼすと、湊は満足げに目を細めた。
「いいね。じゃあさ、それ全部俺と一緒にやらない?」
「……いいの?」
「もちろん。君が嫌じゃないなら」
駅前のロータリーを抜け、チェーンのドラッグストアや、色褪せた物件広告を窓ガラスいっぱいに貼った不動産屋の前を通り過ぎる。夕暮れ時の町は、家路につく学生たちのざわめきや、スーパーの特売袋を提げた主婦たちの急ぎ足に満ちていた。
普段の悠であれば、無数に行き交う人々の足音や、誰かが吐き出すため息、夕飯の献立を悩む微かな焦燥といった「感情のノイズ」が針のように肌を刺してくる時間帯だ。しかし今は、隣を歩く湊の存在が、見えない防音壁のように悠を守っていた。湊が一定の歩調で歩くたび、彼の纏うひんやりとした静謐な空気が、周囲の喧騒を柔らかく弾き返していくようだった。
「肉まん、だったよね」
不意に湊が足を止めたのは、街道沿いにある見慣れた看板のコンビニエンスストアの前だった。自動ドアが開き、聞き慣れたのんきな電子音が鳴る。店内には、蛍光灯の白々しい光と、レジ横のフライヤーから漂う揚げ物の油、それに新しい雑誌のインクの匂いが混ざり合った、この国で最もありふれた「日常」の匂いが充満していた。
悠が戸惑って入り口で立ち尽くしている間に、湊は迷いなくレジへ向かい、保温ケースの中で湯気を立てている肉まんを一つ注文した。財布から小銭を出し、若いアルバイトの店員と流暢に言葉を交わすその背中を見つめながら、悠は不思議な感覚に陥っていた。湊の立ち振る舞いは完璧なまでに「普通の高校生」なのに、どこか精巧な舞台装置のなかで人間を演じているような、奇妙な透明感があるのだ。
「はい、これ」
店を出てすぐの、頼りない街灯が照らす駐車場の車止めに腰を下ろすと、湊は、白く湿った湯気を立てる紙包みを差し出してきた。
「え、あ、お金……」
「いいよ。初日の、歓迎会の代わり。それに……『半分こ』にする約束だろ?」
湊は事も無げに言って、丸く膨らんだ肉まんを、迷いのない手つきで真ん中から割り裂いた。
薄皮がちぎれ、中から熱々のひき肉とタケノコ、甘い玉ねぎの匂いが混じり合った濃密な蒸気が、夜の入り口にふわりと溶け出す。
右半分を悠に渡し、自分は左半分を、まるでサンプルのように手の中に収める。
「熱いから気をつけて。下敷きの紙まで食べて、お腹壊さないようにね」
冗談めかして笑う湊から、悠は手渡された「半分」を、壊れものを扱うような手つきで受け取った。
ふかふかの生地の、頼りない甘み。
溢れ出した餡の、暴力的なまでの脂の旨味が、舌の上で重く広がる。
コンビニの肉まんなんて、前の町でも、その前の町でも、幾度となく咀嚼してきたはずの「ただの食品」だった。なのに、どうしてか、ひどく鮮明な味がする。
熱い塊が、喉を通って胃の腑へ、何の抵抗もなくストンと落ちていく感覚。
「……美味しい」
ぽつりと漏れた悠の言葉を、湊は、よく出来た解答を採点するかのような満足げな目で拾い上げた。
「よかった。悠の言う『普通』、思っていたより悪くない」
悠の胸の奥で、長年、石のように冷え切っていた何かが、ちりちりと不確かな音を立てて解けていく。
ずっと待ち望みながら、その実、手に入るはずがないと冷笑し続けていた「明日も続く、ただの日常」。それが今、具体的な熱と味を持って、指先に触れている。
押し殺していた安堵が、微かな、震えるような吐息となって零れた。
湊は、自分の分の肉まんには一口も手をつけず、ただ、悠がそれを嚥下する様子を、瞬きもせずに見つめている。
その視線には、路傍の壊れた生き物を拾い上げたような慈しみと、あるいは、手に入れたばかりの精巧な標本を鑑定するような、静止した情熱が同居していた。
肉まんの暴力的な温かさと、初めて手にした安堵の毒気に当てられている悠は。
自分を見るその瞳が、あまりにも一方的で、人間を対象としたものではないという異様さに、気づくことができなかった。
「あ、口の端。……ついてるよ」
不意に、湊の冷たい指先が悠の唇の端に触れた。
びくり、と悠の肩が跳ねる。湊の指は、熱に浮かされた病人の額をなぞる氷細工のように、それでいて不可避な支配の温度を持って悠の肌を滑った。
触れられた瞬間、悠の視界から濁りが消え、一気にクリアになる。
遠くで響いていた車のクラクションも、電線で鳴くカラスの耳障りな声も、過剰な解像度で脳を刺していたノイズのすべてが、心地よい音量へと収束していく。
ああ、なんて、静かなんだろう。
この冷たい皮膚が触れているだけで、世界はこんなにも整然とした、生きやすい場所に変貌する。
自分はこれまで、泥水の中に沈められたまま、一生終わらない息継ぎを強いられていたのだと、今、初めて「理解」した。
「……ありがとう、湊くん」
「湊でいいよ。俺たち、友達だろう?」
「うん。……湊」
初めて呼び捨てにすると、湊は、よく躾けられた美しい小動物を慈しむように微笑んだ。
「君は本当に素直だね。自分で選んだことが、ちゃんと『正解』に繋げられている。俺はただ、君がしたいように振る舞うのを、少しだけ手伝っているだけだから。……君が自分で決めて、選んでいいんだよ。これからもずっと」
その言葉に悠は、自分がこの穏やかな全能感を選び取ったのだという、強固な自己欺瞞の快楽に浸りながら、最後の一口を咀嚼し、嚥下した。
夕日がビルの向こうへと沈みかけ、空は血が滲んだような赤紫に染まっていた。
車止めブロックから立ち上がり、二人が並んで歩き出すと、アスファルトに落ちた長い影が交差し、やがてするすると一つの濃い闇に溶け合っていく。夕日に照らされた湊の影が、地面に落ちた悠の影にするすると伸びていき、まるで意思を持っているかのように絡み合い、一つに黒く溶けていくように見えた。
悠の足取りは、朝よりもずっと軽かった。背後に忍び寄る本当の恐怖に気づくこともなく、彼はただ、隣を歩く湊の存在に自分の感覚のすべてを委ね、あの灰色のマンションへと向かって歩を進めていた。
マンションに戻り、澱んだ熱気が溜まるエントランスを抜けると、薄暗いエレベーターの前に一人の女が佇んでいた。
長い髪。透き通るというよりは、もはや生気を感じさせない白い肌。着古され、色あせた時代遅れのワンピースを纏ったその姿は、現実の風景に無理やり貼り付けられたような、不吉な薄氷の危うさを湛えている。
「あの、人……」
悠の喉から不意にこぼれた微かな震えを、隣を歩く湊が聞き咎めた。「どうした?」という問いかけと同時に、湊の冷たい指先が悠の肩に回される。
悠はびくりと肩を強張らせながら、エレベーター前の空隙を指差した。
「あそこに、女の人が立ってる」
湊の眉間が、一瞬だけ、致命的な不快感に歪んだ。
——彼は気づいていなかった。
その確信が、悠の背筋を冷たく撫でる。
けれど次の瞬間、湊は、よく通る明るい声を弾ませた。
「なんだ。姉さんじゃん。……久しぶり」
悠の肩を掴む湊の指に、ぎり、と、骨が軋むような力がこもる。
「紹介するよ。俺の姉の、澪だ」
悠の目に映るその女性――澪の姿は、ひどくおぼろげだった。存在という名の輪郭が古いビデオテープのノイズのように、細かく、そして不規則にひび割れては明滅しているように見えた。
彼女と視線が合った瞬間、悠の奥歯がガチガチと鳴るほどの不快感と、得体の知れない強烈な喪失感が流れ込んできた。
怖い。
なぜかわからないが、この存在に触れてはいけないと、本能が激しく警鐘を鳴らしている。逃げろ、と細胞が叫んでいる。それなのに、肩を抱く湊の体温だけが、唯一の錨のように悠をこの場に力強く繋ぎ止めていた。
「……初めまして。藤代、です」
悠が、乾ききった喉の奥から絞り出すように音を置くと、澪は焦点の合わない虚ろな瞳をゆっくりと悠へスライドさせた。
「あぁ……やっと。やっと、ね」
ひび割れた声。それは言葉というより、肺の中に溜まっていた古い空気が漏れ出したような、意味の欠落した残響だった。
会話のドッジボールにすらならない。ただ、酷くちぐはぐな沈黙が、重たいヘドロのように足元に淀む。
湊は隣で、不具合を起こした精密機械をあやすような、温度のない微笑を貼り付けていた。悠はその光景の不気味さに耐えきれず、「あの、荷解きが……まだ、あるので。今日はこれで」と、何とかそれらしい体裁を整えて、背を向けた。
胸の奥にこびりついた泥のような違和感を、強引に奥へ押し込む。
悠は湊の視線に急かされるようにして、自分の部屋という名の「避難所」へ転がり込んだ。
宛てがわれた自室は、無機質な白い壁紙に囲まれた、息の詰まるような四角い箱だ。
積み上げられた段ボールからは、防虫剤のツンとした刺激と、古い紙の死んだ匂いが微かに漂う。
カーテンの閉ざされた窓際へ歩み寄り、悠は深く、肺の中の毒を吐き出すように息をついた。
ここは自分の城だ、と脳に言い聞かせる。けれど、その感触はどこまでも借り物めいていて、薄ら寒い。
それでも。
あの姉が纏っていた、酸素の足りない、得体の知れない熱を孕んだ空気。
そこから物理的な壁を隔てて逃げ出せたことだけが、今は唯一の、頼りない救いだった。
学校という場所は、巨大な情報の濾過装置だ。
教室という四角い箱の中で、生徒たちは粗い網目となって日常の破片をすくい上げる。そこに「尾鰭」という名の不純物をたっぷりとまぶし、面白おかしく加工しては、また別の教室へと垂れ流していく。
誰が誰と寝た、どこの教師が死んだ魚のような目をしていた、駅前のコンビニで誰それが万引きをした――。情報の消費スピードは、大人たちの社会よりもずっと速く、そして絶望的なまでに無責任だ。
「ねえ、藤代くんが引っ越したあのマンション。例の宗教団体が集まってた場所って、ホント?」
昼休みの喧騒の中、短くなった鉛筆の先をぼんやりと眺めていた悠の耳を、甲高い声が貫いた。
声の主は、佐々木。網の目をすり抜けた噂話を、真っ先に拾い食いする性質の女子だ。獲物を見つけた小鳥のような、残酷なまでの機敏さで、彼女は悠の机に身を乗り出してくる。
彼女の丸い瞳には、悪意の欠片もない。ただ、他人の不幸や不気味な歴史を、深夜ドラマの新作や、芸能人のスキャンダルと同じ熱量で摂取し、排泄して楽しんでいるだけだ。
「……さあ。僕は、知らないけど」
悠は、できるだけ低体温な、興味の欠落した声を絞り出す。
「っていうか、僕がどこに住んでるか……昨日、誰かに話したっけ」
「え? ううん、聞いてないよ。でも、私の友達が、昨日藤代くんと九条くんが揃ってあのマンションに入っていくところを見たんだって。帰り道、同じ方向だったらしいよ」
誰かに、網膜に記録されていたという生理的な気味悪さ。
たった一日で「転校生の居所」という記号が伝播する、この箱の異常な新陳代謝。悠は背筋を氷でなぞられるような、確かな寒気を覚えた。
「おい佐々木。あんまり不作法なこと言うなよ。藤代、困ってるだろ」
苦笑いを浮かべて割って入ったのは、隣の席の宮村だった。
宮村は、絵に描いたような「健全な男子高校生」を具現化したような少年だ。寝癖の残る短い髪に、部活動のウインドブレーカー。成績は中央値より少し上で、いつも誰かの笑い声の中心にいる。
彼の纏う空気は、日向に干した清潔な布団のようにふかふかとしていて、一切の嫌味がない。彼が語る、少し口うるさい姉と両親のいる「普通の家庭」という構造は、悠が喉から手が出るほど欲しかった、しかし決して手に入らなかった『凪』そのものだった。
「お前、九条には直接聞きづらいからって、転校してきたばかりの藤代に探り入れてんだろ」
図星を突かれた佐々木が、少しだけ唇を尖らせたあと、申し訳程度に悠を振り返る。
「だって、九条くんってなんか近寄りがたいっていうか……いつも透明な壁がある感じでさ。ごめんね、藤代くん。嫌な気持ちにさせるつもりじゃなかったの」
「ううん、気にしてないから」
「でも、あのマンション結構有名だよ。床のタイルとか窓の模様に、妙なぐるぐる巻きのマークがあるとかさ。心霊スポット的な感じで、ネットでもスレ立ってたし」
「別に、普通だよ。そんな意図的なマークなんて見たことないし、気味が悪いことなんて、何もない」
悠が努めて平坦な声で告げると、佐々木は「なんだ、つまんない。やっぱりネットの噂って適当だね」と、興味の対象をあっさりゴミ箱に捨てた。
「ほら見ろ、ただの噂だろ。それよりお前、今日の小テストの勉強したのかよ」
宮村が呆れたように笑ってハンドルを切ると、佐々木は「やばい、忘れてた!」と頭を抱えた。
その後は、昨晩のバラエティ番組の罰ゲームがどうだとか、駅前のクレープ屋の行列がエグいだとか、実体のない、だからこそ安全な雑談が続いた。
悠にとっては、それが震えるほど新鮮だった。
狂信に染まった両親の顔色を伺う必要もなく、五感を襲う異常なノイズに怯えることもない。ただ「普通」という濁流に身を任せ、消費されていく、温かく平坦な時間。
宮村の屈託のない笑い声を聞いているだけで、悠は自分が、誰にも汚されない清潔な毛布に包まれているような——そんな、ひどく甘やかな錯覚に、身を委ねていた。
昇降口。上履きを脱ぎ、スニーカーの中に足を滑り込ませていると、不意に背後から、温度の低い声が鼓膜を叩いた。
「悠。一緒に帰らない?」
湊だった。いつの間にかそこに「配置」されていた彼は、夕暮れの毒のような赤い光を背負い、ひんやりとした静寂を纏っている。
「うん。……もちろん」
並んで歩き出すと、湊は、悠の横顔の解像度を確かめるような視線を投げた。
「何か、聞かれた?」
大通りに出たところで、湊が唐突に、事務的な口調で言った。
「えっ?」
「あのマンションに住んでいること。誰かに『探り』を入れられたんじゃないかな、と思って」
どきりとして、心臓が肋骨の裏側で嫌な音を立てた。喉の奥がカラカラに乾き、唾を飲み込む音さえ、他人に聞かれたくない不快なノイズとして響く。
「ああ、うん。ちょっと聞かれた、けど。別に……大したことじゃないよ。これは僕が自分で決めたことだし」
「そう?」
「うん。マンションの床のタイルにマークがあるとか、そういう、根拠のないデマを言われただけだから」
「ああ、それはただの都市伝説だね。……でも、あそこで『人が死んでいる』という事実は聞いた?」
「えっ!? ……そうなの?」
思わず裏返った声を上げた悠に、湊は、よく出来た装置のような、ひんやりとした微笑を向けた。
「調べればすぐに出てくる、使い古された過去だよ。……部屋を契約するとき、不動産屋からは何も提示されなかったの?」
「全然。そんな話、一言も……」
契約時の、やけに饒舌で、目の焦点が合わなかった中年の担当者の顔がぼんやりと浮上する。思い出そうとしても、ノイズがかかったように細部が欠落している。家族は何かを知っていて、厄介払いのように自分をあの「箱」に押し込んだのだろうか。じわじわと、他者に人生を操作されているような、泥臭い不信感が湧いてくる。
「もし、あそこに留まるのが『苦痛』なら。俺の知人を当たって、別の、もっと清潔な場所を案内することもできるけど。……どうする?」
足を止め、湊は真剣な、しかしどこか観察者のような平坦な声で尋ねてきた。その瞳の奥は、光を反射するだけの硝子玉のように透き通っていて、慈しみと冷酷さが未分化のまま同居している。
悠は少しだけ俯き、自分の足元に伸びる、不安定な影を見つめた。
——ここで逃げ出しても、また「普通」の模倣に失敗するだけだ。
やがて悠は、ゆっくりと、自分を騙すように首を横に振った。
「大丈夫。……怖くないと言ったら嘘になるけど、嫌じゃないよ。湊も、あそこに居るんだし」
「……そう」
湊は、微かに口角を上げた。それは微笑というよりは、実験動物が期待通りの反応を示したことに満足するような、温度のない達成感の表れだった。
「なら、いいんだ。でも、何か気になることがあったらいつでも言って。……君が、君の意思で決めていいことなんだから」
湊の、高純度のシロップのように滑らかな声が、悠の耳の奥に心地よく、不気味に沈殿する。
二人の影が、アスファルトの上に長く、黒い亀裂のように伸びていく。
その先には、巨大な墓標か、あるいは何かの臓器のように沈黙してそびえ立つ、あの灰色のマンションが待っていた。
異変が起きたのは、その日の夜だった。
湊とエントランスで別れ、自室へと向かう。普段より少し軽やかな足取りで、303号室のドアノブに手をかけようとした、その瞬間だった。
不意に、隣の部屋の扉が音もなく開いた。そこから這い出すように現れたのは、九条湊の姉、澪だった。
悠は、肺の奥で呼吸を凍らせた。
先日、エントランスで見かけた時の彼女が「希薄さの恐怖」だとしたら、今のこれは、度を越した「密度の暴力」だ。
前回は、陽炎のようにいつ消えてもおかしくない儚さが怖かった。けれど、今の澪は違う。薄皮一枚のすぐ向こう側で、どす黒い粘度を持った「何か」が、生理的な嫌悪感を伴って蠢いている。
全身の細胞が、鼓膜を破らんばかりの音量で警鐘を鳴らしていた。
なのに。
悠の心臓は、出来の悪い映画を眺めている時のような、白々しいまでの静寂に沈んでいる。不自然なほどに、冷え切った冷静さ。
不作法を働かないこと。波風を立てないこと。
この「箱」に馴染むために自らに課した、「普通」という名の稚拙な模範解答。その役割を全うするために、悠は、顔面に貼り付けたままの「笑顔という名の設計図」を崩さないよう、慎重に口を開いた。
「あの……こんばんは」
無意識に音を発した瞬間、悠は喉の奥で呼吸を凍らせ、金縛りに遭ったように網膜を見開いた。
暗がりの廊下。常夜灯の、頼りないオレンジ色の光に晒された澪の輪郭には、おぞましい「密度」が詰まっていた。
透き通るような薄く柔らかい皮膚。その内側を、まるで鋭利な質量を持った悪意が突き破ろうとしている。ボコボコと盛り上がり、蠢くいくつもの「顔」。口を吊り上げて嗤う女。苦悶に歪む男。絶望に目を見開いた、古い皮膚のような老人の顔。
それらが、澪という一人の女の皮膚の下で、ひとつの臓器であるかのように脈打ち、生存を主張している。
「あら、藤代くん。夜分遅くにこんばんは」
澪は、自身の肉体が地獄の博覧会のようになっている事実など、情報の端にすら載っていない様子で、ふんわりと微笑んだ。
あまりにも平熱な声音と、その身体に巣食う異形の喧騒。その決定的な対比に、悠の顔面がひくついた。全身の産毛が逆立ち、胃の腑がヒュッと収縮する。
けれど、悠の口からこぼれたのは、脳が反射的に選別した「普通の住人」としての言葉だった。
「あの……こんな時間に、隣の部屋で。一体、何を」
「ん、ええと。空き部屋の点検を……?」
のんびりとした口調で小首を傾げる。その柔らかな動作に連動して、皮下の「顔」たちが一斉に、生物学的な嫌悪感を伴ってうごめいた。
彼女の言葉はあまりに輪郭が朧げで、真偽を確かめる術がない。マンションの管理は湊が掌握しているはずなのに。
疑問は次々と湧き上がるが、それらを言語化するよりも早く、彼女の首筋に浮き出た「老人の顔」と視線が衝突した。老人の眼球は、血走った恨みがましさで、真っ直ぐに悠を「視て」いた。
「こんな時間に出歩くと……もうすぐ暖かくなる時期とはいえ、体が冷えますから。その、気分が悪くなったりは、してないですか」
震える声を必死に「普通」の箱に押し込んで尋ねると、澪はきょとんとした。
「気分? いつもとあまり、変わりないよ」
「……それなら、よかったです。あの、もし不都合でなければ、部屋までお送りします。夜も深いですし」
澪はすぐには答えなかった。ただ、焦点の合わない目で宙をなぞっている。
白いワンピースから覗く、異形の蠢く肌。彼女自身が、街灯に照らされた陽炎のように希薄で、今にも何かに喰い尽くされて消えてしまいそうだ。
逃げ出したい。けれど、この繊細な均衡を乱せば、もっと「取り返しのつかない何か」が発動してしまうのではないか。その予感が、悠の思考を麻痺させていた。
「……いいの? じゃあ。一緒に、湊のところに行こうか」
澪から、すっと細い手が差し出された。後ずさりしそうになる本能を噛み殺し、悠は、その白磁のような手首を掴んだ。
その瞬間。
びりっとした静電気が走り、おぼろげだった澪の存在が、急にずしりとした「質量」を伴って悠の手のひらに流れ込んできた。
あんなに危うかったはずの女が。
悠の「感覚」を吸い上げるパイプラインを得たかのように、急激に、はっきりとした生命の輪郭を獲得していく。
最上階の自室まで、見えない糸で引かれるように歩いた。インターホンを鳴らすと、待機していたかのような速度で湊が顔を出した。
「悠? マンション内とはいえ、あまり無闇に歩き回らない方がいいよ。こんなところで、何をしてるの」
湊は、悠の手の温度を検品するかのような手つきでその掌を握り、それから二人をじっと眺めた。細部まで不備がないか確かめる、冷徹な検品の眼差し。彼の視線が、不自然なほど密着していた二人の手元に落ちる。
悠は、熱い鉄に触れたかのような拒絶反応で、弾かれたようにその手を離した。
「……姉さんも。こんな時間に、何をしてたわけ」
湊が、今度は姉へと視線をスライドさせる。そこには、悠に向けていた湿った執着とは異なる、乾燥しきった事務的な響きがあった。
「302号室。ほら、あそこはもう空き部屋なんだから、色々使い放題でしょう?」
先ほどまでの、霧の中に溶けていたような虚ろさが嘘のように、澪ははきはきとした声で応じた。別人のようなその「出力」の切り替わりに、湊は「ふうん」と短く、興味のなさそうな相槌を打つ。彼はじっと澪を見つめ、それから、わずかな綻びを直すように小さく溜息をついた。
「あっそ。ほら、早く入りなよ。……どうかした? 悠」
湊は、澪の全身を塗り潰すあの「地獄の標本」に、指先ほども気づいていない。
この網膜を焼き切るような異様な光景を、たった一人で受け止めている孤独。悠は、世界から自分だけが切り離されたような戦慄を覚えながら、首を横に振った。
「ううん、何でもない。……じゃあ、おやすみ」
自室へ戻るふりをして、背後でドアが閉まる音を確認する。
悠はそのまま踵を返し、302号室へと向かった。
澪にまとわりついていた、あの生理的な嫌悪を催す怪異の「火元」が、あの四角い空間の中にある。
そう、直感が告げていた。
302号室のドアノブに手をかける。
鍵はあっけなく、拒絶の意志もなく、音もなく回った。
部屋は、驚くほど静かで、拍子抜けするほどに「普通」という意匠を凝らしていた。
白い壁紙に目立った汚れはなく、窓ガラスも曇り一つない。ただ、長らく呼吸を止めていた空間特有の、わずかに埃っぽい匂いがするだけだ。何の変哲もない、ただの四角い空洞。
しかし、何かが決定的に「間違っている」。
澪の皮膚の下で蠢いていた、あの悍ましい質量。その火元が、こんな無味乾燥な箱であるはずがない。悠は吸い寄せられるように、部屋の奥へと足を運んだ。キィ、と古びた床が鳴る。その音が、静寂の中で異常な解像度を持って耳を突く。
寝室らしき場所へ踏み入れた、その瞬間だった。
世界が歪み、暴力的な目眩が悠を襲う。
壁、天井、床。ありとあらゆる平面に、無数の「眼球」が、まるで寄生植物のようにびっしりと張り付いていた。
壁紙の模様だと思い込もうとしたそれは、次の瞬間、粘膜の擦れる音を立ててギョロリと動き、一斉に悠という異物を射抜いた。
脈打ち、蠢き、湿った光を放つ、眼、眼、眼。
視覚情報が許容量のダムを決壊させ、脳の芯が焼け焦げるような鋭い痛みをあげる。
「嘘だろ。……バカ、ふざけんな!」
今日一日、丁寧に「普通」の箱に詰め込んできた悪態が、堰を切って溢れ出した。
さっきまで、この地獄を「普通だ」と言い切っていた湊の、あの平熱の顔が脳裏をよぎる。痛みで膝から崩れ落ちそうになった悠の視界で、空間そのものが濁り、歪み始めた。壁一面の眼球が、巨大な捕食者の口となって悠を飲み込もうと迫りくる。五感が、恐怖という名の濁流に溶かされていく。
その時だった。
背後から、悠の身体を強引に引き寄せる、冷たい腕があった。
湊だった。
「大丈夫? 悠。……かなり、効率の悪い苦しみ方をしてるね」
静かで、一切の感情を濾過しきった声が、耳元で毒のように囁かれた。
「悠は、やっぱり『視える』んだ。……ふうん。こういう、情報の出方をしてるんだね」
湊は、どこか検品でもするかのような感慨深さで、凄惨な部屋の空隙を眺めた。怯えて小刻みに震える悠の肩に、当然のような顔をして手を置く。
その手の冷たさだけが、狂った視界の中で唯一の、確かな「現実の錨」だ。悠は、先ほどまでの罵詈雑言さえ忘れて、その無機質な温度に縋りつきたい衝動に、暴力的なまでの力で駆られた。
「こういう感じって……湊は、今まで一度も視たことがないの?」
「うん。一回も」
「視たことがないのに。……どうして、そんなに、ただの他人事でいられるわけ?」
「それを言うなら、君は随分と、非効率な慌て方をしているね」
「……当たり前だろ!!」
悠の剥き出しの叫びは、眼球に埋め尽くされた壁の粘膜に、音もなく吸い込まれた。
ちっぽけな、ただの物理的な振動となって、消えていった。
「そんなに騒がなくてもいい。俺の傍にいる限り、君に直接的な実害は及ばない。……それに、この事態を収束させるための『処置』なら、もう用意してあるから」
湊は淡々と言い、首から提げた細いチェーンを辿って、金属質の事務的な音を立てる鍵束を取り出した。
「状況を整理するよ。今、この四角い空間の中に『向こう側』と接続した、門のようなものが開いてしまっている。境界が曖昧になって、他者に認識されたがっている『ノイズ』の残滓が、君を求めて浸食してきているんだ。……ほら、君が持て余している、その不便な『才能』に惹かれて」
「……どうして、君はそんなことが分かるの?」
「言ったはずだよ。俺はこの場所の管理を請け負っているんだ、と。そして、君は。この異常を解くために必要な、ただひとつの『鍵』なんだよ、悠」
湊が一歩踏み出す。彼が移動する座標に沿って、ざわざわと蠢いていた眼球たちが、まるで磁石の同極同士のように忌まわしげに道を空けた。
怪異たちが、湊という「秩序」を恐れ、物理的に拒絶している。
「何をしているの、湊」
悠の喉から、震える声がこぼれ落ちた。湊は振り返らず、ただ、散らかった情報の断片を整理するかのような手つきで答える。
「ん? 開放されたままの『門』の在処を特定しようと思って。部屋のどこかにあるはずなんだ。あまり効率のいい隠し方じゃないけれど」
無造作に押し入れを暴き、床を打音検査でもするように叩く湊の背中。悠は、自分の呼吸が肺の奥に引っかかっているのを感じながら、それを凝視していた。
今は湊という「装置」のおかげで、怪異は一時的な潜伏を余儀なくされている。けれど、いつこの無数の視線の塊が、湊の隙を突いて自分という器を食い破りに来るか分からない。
悠は、逃げ出したいという本能よりも、湊という絶対的な安寧から引き離されることへの恐怖に、強く、強く支配されていた。
「視ているのが、そんなに苦痛?」
「……当たり前だろ。怖くて、吐きそうだよ」
「じゃあ、いいよ。俺が、悠の代わりに『視て』あげる。……君の領域に、触れてもいいかな」
悠は、無意識のうちに、しかし明確な意思を持って頷いた。拒絶するための言葉は、もうどこにも落ちていなかった。
湊が背後から悠を抱え込み、冷え切った指先が、悠の瞼をそっと覆い隠した。
「……何をしているの、湊」
悠の喉が、微かな振動となって震える。湊の指先から、怜悧な「何か」が、悠の脳の奥底へと直接流れ込んでくる。
その瞬間、世界から不快な色彩が消失した。
いや、色が消えたのではない。湊という外部デバイスが、悠の脳に直接介入し、狂いそうなほどの過剰な視覚情報を強制的に遮断——「最適化」したのだ。
圧倒的な恐怖が、鳥肌の立つような快感に近い安堵へと変質していく。
自分の意志で瞼を閉じるのとは、決定的に違う。湊によって、強制的に「視界を奪われる」という受動的な暴力が、これほどまでに絶対的な救いになるとは。
「……湊」
悠の喉から、掠れた残響が漏れた。
「大丈夫。悠が、自分の一部を俺に預けてくれたら、このノイズは俺が消去してあげる。君がこれ以上汚されないように、俺が君を、守ってあげるから」
湊の腕の中で震えながら、悠は心の底で、ある種の諦念と共に確信していた。
こんなに恐ろしくて、苦しくて、でもこんなに自分を『特別』な苦しみの中に繋ぎ止めてくれる痛みを。自分は、ずっと欲していたのだと。この安堵の劇薬を、もう手放すことはできない。
「全部、君が自分で決めていい。……俺に、君のすべてを委ねるかどうかを」
「……あ。あった」
視界を奪われたままの悠の耳に、湊の、驚くほど平坦で明るい声が届いた。
瞼を覆っていた指が解かれ、恐る恐る光を受け入れる。
部屋の隅。そこには、ただの古い市松人形が転がっていた。両目が、乱暴に抉り取られたような暗い空洞になっている。
湊はその人形の、色褪せた時間の残骸のような着物を剥ぎ取った。背中に現れたのは、小さな黒い「鍵穴」のような、空間の綻び——門。
湊は、ポケットから金属質の無機質な音を立てて鍵束を取り出し、その綻びのサイズに適合する古びた一本を選び出した。
「閉門」
低く、事務的な呟きと共に、鍵を差し込み回転させる。
カチャリ、と硬い「拒絶」の音が響いた。
次の瞬間、部屋を埋め尽くしていた眼球の群れも、肺にまとわりつくようなねっとりとした空気も、嘘のように霧散した。人形は、耐用年数を一気に使い果たしたかのように、砂となって崩れ落ちる。
後に残ったのは、ただの、埃臭いだけの四角い空洞だった。
「じゃあ。今日はもう、解散して寝ようか」
湊が、作業を終えた職人のような顔で振り返る。そこには、先ほどまでの緊迫した空気の残影すら残っていない。
「もう……本当に、大丈夫なの?」
悠の声は、まだ自分自身の震えを制御しきれていなかった。
「閉門処置をしたばかりだからね。今日はもう、何も起きないよ。……なに。心配なら、隣で添い寝でもしてあげようか?」
冗談めかして、しかし拒絶されることを確信しているような微笑。
悠は反射的に、自分を繋ぎ止めていた緊張を怒りに変えて、むっとした。
「……そんなわけ、あるか。ばかっ」
恐怖を無理やり足元に蹴り飛ばすようにして、悠は足早に自室へと戻っていった。
その、あまりにも「健全な高校生」を演じようとする後ろ姿を。
湊は、満足げな。しかし、手に入れたばかりの標本が、箱の中でどう動くかを観察するような、極めて温度の低い視線で見守っていた。
その部屋の空気には、古い蔵書が湿気を吸い込み、頁の間で黴が静かに繁殖しているような、重く粘りつく匂いが立ち込めていた。それは、決して換気によって洗い流されることのない、何かが深く染み付いたような臭気であり、同時に、これから始まる新しい生活が、決して平穏なものにはなり得ないことを告げているようでもあった。
放課後。西日が斜めに差し込む校舎の踊り場で、湊は窓枠のサビを細い指先でなぞりながら、明日の小テストの範囲でも確認するかのような、ひどく日常的な口調で言った。
「体調はどう? ……昨夜の『ノイズ』の余韻、まだ引かない?」
悠は、指先の微かな震えを隠すように、左手首を強く握りしめた。
あの部屋で感じた、薄皮一枚を隔てて自分を喰らい尽くそうと迫ってきた、どす黒い粘度を持つ無数の眼。指先から心臓へ、侵食するように這い上がってきたあの冷たさが、今も網膜の裏側にこびりついている。
「……どうしてマンションで、ああいう現象が起きるの?」
「前に佐々木が言っていた通りだよ。あそこは元々、ある妙な集団が寄り合いに使っていた場所だ。一種の祭祀……いや、もっと独りよがりで澱んだ儀式が繰り返されていたらしい。建物そのものが、人の強い想念を吸い寄せ、逃がさない『器』になってしまっているんだよ」
湊は振り返り、悠を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、深海の底に沈む静かな光のように、悠の心の奥底を透視する。
「九条の家系には、一定の割合でその澱みに対処できる人間が出てくる。俺のような、汚れやすい場所の『清掃』を任される人間がね。……ただ、あいにく俺には澱みを浄化する力はあるけれど、残念なことに、澱みがどこに隠れているかを特定する『センサー』が備わっていないんだ」
湊が一歩、悠のパーソナルスペースを侵食するように歩み寄る。
「だから、君に出会えたのは、俺にとって、この上ない幸運だと思った。君は、特別な知覚を持つ、選ばれた人間だ。……俺には君が必要なんだよ、悠。君という『鍵』がなければ、俺は暗闇の中で闇雲に、非効率な剣を振り回すことしかできない」
悠は言葉を失った。
カルト集団の生き残りというラベル。一定の距離を保つことでかろうじて『家族』として成立している、親戚との冷え切った均衡。これ以上、彼らに『負い目』を作りたくないという、悠なりの、あまりにも稚拙で痛々しい自立心。
この町で「普通」を模倣するために必要な対価を、悠は喉から手が出るほど欲していた。
「君が抱えている生活上のあらゆる懸念を、俺が解決しよう。君の住む部屋の家賃、その他諸々のコストは、すべてこちらで用意する。もちろん、君の『家族』には一切関知させない。……君が、俺の『センサー』として機能してくれる限り、ね」
湊の言葉は、あまりにも精密に設計された提案であり、悠が最も欲していた「逃げ道」の形をしていた。
悠の胸の奥で、小さな、しかし熱い火種が爆ぜた。
「普通」でいたかった。周囲の大人たちが顔を顰める「過敏な子供」ではなく、その他大勢に紛れて、ただ平穏を呼吸したかった。
けれど、今まで自分を呪いのように苛んできたこの感覚を、目の前の美しい少年は「必要だ」と肯定した。自分にしかできない役割がある。その言葉は、孤独に慣れきった悠の心に、致死量の毒を伴う甘露となって染み渡る。
「……僕に、できることなら」
悠の声は、自分でも驚くほど静かに、世界の温度に溶けた。
それは、もう後戻りできない境界線を踏み越えた、覚悟の音だった。
湊は満足げに、ほんの少しだけ口角を上げた。
それは悠の快諾を喜ぶ友愛の微笑みなどではなく。精巧な機械の歯車が寸分の狂いもなく噛み合い、緻密に設計された計画が予定通り進行したことを確認した――「管理者」の微笑みだった。
その夜、さっそく次の「事案」が表面化した。
エントランスの、湿った拒絶のような重いガラス扉を抜けたところで、一人の男が待ち構えていた。くたびれたスーツ。寝不足で赤く充血した眼球。103号室の住人、佐藤。
男の体からは、酸化した汗の匂いと、逃げ場のない焦燥が、物理的な圧を伴って漂っている。彼から放たれる剥き出しの感情のノイズは、悠の肌を無数の針で刺すように苛み、反射的に身構えさせた。
「管理人さん、いい加減どうにかしてくれよ!」
男は湊の細い肩を掴もうとしたが、湊は流れるような動作でその不作法をかわし、穏やかな、しかし奥行きのない笑みを湛えた。
「佐藤さん。もしかして、また例の『音』ですか?」
「そうだよ! 夜中になると、壁の向こうから大勢……それこそ何十人も集まって、ブツブツ、ブツブツとうるさいんだ。隣は空室のはずだろう!? なのに、笑い声や泣き声、果ては話し声まで聞こえてくる。耳を塞いでも無駄だ、あの壁自体が、まるで誰かを招いて祝宴でも開いているみたいに。……一晩中、だぜ!?」
「うーん。誰も呼んでないですし、記録上も侵入者は皆無なんですけどね」
二人のやり取りを傍観していた悠の耳に、佐藤の激しい動悸が、不規則な太鼓の音となって響き始めた。
男の背後。壁を透過して、何十もの「影」が蠢き、言語化できない囁きを撒き散らしている。まずい、まただ。制御の効かない知覚が、無秩序に周囲のドロドロとした情報を拾い集めていく。自分の意思を無視して研ぎ澄まされていく感覚に、悠の顔から血の気が引いた。
その微かな変調を、湊は見逃さない。無言のまま、悠の腕を強引に引き寄せ、自分という座標へその身体を強制的に誘導する。まるで、悠という精巧なレンズを、この歪な怪異の核心へと正確にフォーカスさせるかのように。
「わかりました。今夜、103号室を調査します。佐藤さん、駅前のホテルを手配しますから、今夜はそちらで『良質な睡眠』を確保してください」
男は湊が差し出したカードキーを、ひったくるようにして受け取ると、一度も振り返らずに夜の闇へと逃げ去っていった。
「……あの人も、僕と同じなの?」
悠の呟きに、湊は腕を掴んだまま、その皮膚を検品するように指先を滑らせた。
「いや。おそらく、彼は君とは決定的に違うよ」
「……どうして、そんなふうに言い切れるの」
「俺が彼に触れても、何も起きないからだよ。君がそうであるように、俺が彼に触れたところで、彼の感覚が最適化されることも、ましてや怪異が鳴りを潜めることもない。……彼はただ、門の近くに立っていただけの、いくらでも取り換えのきく『ごく普通の人間』だ」
湊は黙って、エレベーターの呼び出しボタンを無機質に押し込んだ。ガラス張りの扉の向こう側、佐藤が縋るようにタクシーへ乗り込む姿が、遠い国の出来事のように映っている。
「どういうことか分かってないだろう?」
湊は、悠の目を見て言った。
「俺が君に触れると、君の乱れた感覚は『最適化』される。怪異の彩度は落ち、ノイズは消え、世界は静止する。君の知覚の目盛りは、俺の手元で調整可能なんだ。……逆に言えば、俺が触れていない時の君は、無防備に、無限に、剥き出しの情報を吸い上げ続けることになる」
エレベーターが地下から這い上がってくる振動が、床を伝って伝わる。
「佐藤さんのような『普通の人種』が、ああして門の至近距離に長期間配置されると、稀に霊体と波長が同期してしまうことがあるんだ。普段なら切り捨てているはずの些細なバグにまで、不吉な意味を見出すようになる。それが、彼の鼓膜を震わせた『声』の正体だ。……君は、その上位互換。より高精度で、より致命的な、特別な人だ」
「……へえ」
悠の喉から、意味を成さない掠れた音が零れる。
チィン、と軽やかな電子音が静寂を裂き、エレベーターが到着した。二人は狭い箱の中へと収まり、湊は迷いなく三階のボタンを押し込む。
「これまでも苦情の処理はしてきたけれど、あいにく俺には対象物が『視えない』。だから、今までは闇雲に、非効率な対処療法を繰り返すしかなかった。根本的な解決には、一度も至っていない」
湊は、自らの欠陥を報告するかのように自嘲を漏らした。
「だから。不作法を承知で言うけれど、今夜から君を、俺の『センサー』として稼働させたい」
「……うん」
悠の返事に、湊は満足げに頷いた。三階に到着し、扉が開く。
「『お泊まりセット』、用意しておくから。そのまま一〇三号室に集合でいいかな」
「え、お泊まりセットって……」
「怪異物件に、今夜二人で潜伏しようって言ってるんだよ、悠」
湊はわざとらしく、茶目っ気という名の「記号」を顔に貼り付けて見せた。
悠が唖然と立ち尽くす間に、エレベーターの扉は、断絶を告げるようにゆっくりと閉じていった。
がらんとした103号室は、生活の気配を削ぎ落とした四角い箱でしかないはずなのに、そこにはあるはずのない『粘り気のある、不吉な静寂』が堆積していた。
酸素を肺に送り込むたびに、埃と古いカビの粒子が混じり合い、気管の奥を不快にひりつかせる。
湊は、まるでピクニックの場所でも選ぶような手つきで、自室から持ち込んだ厚手の毛布をフローリングの上に広げ、悠に座るよう促した。
二人は肩を並べ、湊が持参したお菓子をつまみ、お茶を喉に流し込む。交わされるのは、どこまでも実体のない、他愛のない記号のような雑談。
けれど、どれほど時間が経過しても、部屋の彩度は変わらず、異変の予兆すら観測されない。
「何も起きないね。……予定を変更して、もう寝る?」
湊が、退屈な映画の終わりを待つような顔で言う。悠は思わず、眉間に鋭い不快感を刻んだ。
「……本気で言ってるの? こんなところで!?」
「だって、意識をシャットダウンさせた後じゃないと、本格的に『出力』されない事象も多いからね」
そう言って湊は、他人の領域に土足で踏み込んでいる自覚など欠片もない様子で、毛布の繭にくるまった。数分と経たないうちに、等間隔で平熱な寝息が聞こえ始める。その、あまりにも「正常な機能の維持」を優先させる湊の横顔に、悠は呆れ返るのを通り越し、生理的な恐怖すら覚えるしかなかった。
――ズ、ズズ……。
最初は、古い配水管を水が流れるような、あるいは地下深くで巨大な生き物が身じろぎしたような、不明瞭な振動だった。それは、部屋の奥から、じわじわと這い出してくるような、抑圧された唸り声のようでもあった。
悠の知覚が、急速に研ぎ澄まされていく。部屋の四隅に溜まった埃が舞う音、湊の静かな寝息、そして、壁の向こうからじわじわと染み出してくる「声」を、針の先で拾い上げるように捉え始めた。
「……九条くん。起きて」
悠は毛布の上で身を固くしながら、かろうじて掠れた声を絞り出した。湊は瞬時に身を起こした。彼の瞳には、すでに眠気の色はなかった。『どこから?』『……部屋全体から』悠の言葉と同期するように、声は、最初は一つの呟きだったものが、二つ、三つと増え、やがて無数の囁きとなって、部屋を満たし始めた。それは言葉であって言葉ではない、意味を失った怨念の残滓が、虚空をさまようような不気味な音の洪水だった。
「これ、知ってる……」
「……悠?」
悠の異変に気づいた湊は、その表情をわずかに硬くした。悠の脳裏には、長い間心の奥底に封印していたはずの幼い頃の記憶が、濁流のように押し寄せていた。白装束に身を包んだ大人たちが、窓のない地下室で自分を囲み、まるで風に揺れる木々のようにゆらゆらと身体を揺らしながら、意味不明な言葉を唱え続けていた。その祝詞のような囁きは、今の部屋に響く無数の声と寸分違わず重なり、幼い悠の視界に映った、壁一面に描かれたおぞましい円環の模様、生贄のように供えられた枯れた花々、そして、自分に向けられた異様に澄んだ眼差しの女の顔が、次々とフラッシュバックする。
「僕を……僕を連れ戻しに来たんだ……!」
周囲の壁が、粘度の高い水面のようにゆらゆらと波打ち始め、天井が、まるで圧力釜の蓋のような質量で低く迫ってくる。
無数の「声」は、悠の鼓膜という境界を軽々と踏み越え、直接脳髄へと流れ込んだ。彼という「個」を内側から食い破り、同化しようと貪欲に蠢く情報の濁流。
視界から鮮やかな色彩が剥離し、すべてが砂嵐のような灰色に染まっていく。全身の毛穴が開き、皮膚の下を未知の虫が這い回るような、生理的な嫌悪を伴う幻触。
——溶ける。
自分を自分たらしめていた輪郭が、外界の狂気によって溶かされ、巨大な「無」へと混じり合っていく。それは、死よりも深い、絶対的な消失の恐怖だった。
「……あ、ああ……っ!」
叫ぼうとした悠の唇は、機能を放棄したように震えることしかできない。視界が白く濁り、自己という座標が消失しかけた、その時。
冷え切った、硬質な手のひらが、悠の右手を強く包囲した。
「悠! 俺の声だけを選別しろ!」
霧を切り裂く雷鳴のような、湊の声。
「他の雑音はすべて捨てていい。俺の手のひらの温度、指の感触、俺だけに全神経をフォーカスさせるんだ」
湊は悠の身体を守るような手つきで抱き寄せ、耳元で静かに、しかし断固とした支配の口調で囁いた。
「いいか。君の感覚の主導権を、俺以外の誰にも渡すな。俺がここにいる。俺が、君の現実の『錨』になってやる。……だから、俺に委ねろ。君の、すべてを」
悠は、半ば意識を溶解させながら、縋り付くように湊の冷たいほどに整った指に、自分の指を絡めつけた。
荒れ狂う情報の洪水の中で、その無機質な感触だけが、唯一の「よすが」だった。湊の言葉は、内側から自分を侵食する狂気を押し留める防波堤となり、悠は必死で呼吸を繋ぎ、かろうじて意識の淵に踏み止まった。
その微かな「応答」で、湊は悠がこちら側へ引き戻されつつあることを感知した。
悠というレンズを通して流れ込んでくる無数の声。湊の耳には、それは意味を成さない、ただの不快なホワイトノイズに過ぎない。けれど、その眉間には、不快と探求が入り混じった深い皺が刻まれていた。
嘆き、呪い、祈り。その無数の人間的な音の積層の中に。
ひとつだけ、場違いなほど「無機質な音」が混じっていることに、湊はやがて気づいた。
磁気テープが、微かに回転を続けるような。
乾燥した、規則的な、物理的な摩擦音。
「……あそこだ」
湊は、部屋の奥にあるクロゼットを指差した。
「一つだけ、古びた機械のような音がする。壁の、裏側から」
二人は、繋いだ手を離さないまま、ゆっくりと立ち上がった。湊の左手には、いつの間にか、鍵束が握られている。湊が、意を決したようにクローゼットの扉を勢いよく開けた。そこには、何の変哲もない、がらんとした空間が広がるばかりだった。しかし、湊は確信を持って、奥の壁に目を凝らした。剥がれかけた古い壁紙の隙間が、彼には何かを語りかけているように見えた。
「この中だね」
湊は壁紙を無造作に、あるいは暴力的に引き剥がした。石膏ボードに穿たれた小さな穴。そこに、寄生虫のように「それ」が埋め込まれていた。プラスチックのケースには、蛇が自らの尾を飲み込み、円を描く「円環」の紋章が刻印されている。
「……なるほど。負の想念を増幅させ、永劫に自動再生し続ける『門』か。ひどく悪趣味だ」
湊はテープを手に取り、それを検品するように眺めると、手元にあった鍵を迷いなくその表面へと押し当てた。
金属とプラスチック。本来なら反発し合うはずの二つの物質は、しかし、馴染むように、吸い込まれるようにしてひとつに重なり、消える。
「閉門」
低く、地を這うような、事務的な宣告。
パキリ、と、何かの均衡が決定的に崩れる乾いた音が響いた。カセットテープの表面に、亀裂という名の致命的な欠陥が走る。
その瞬間。部屋という四角い箱を埋め尽くしていた、阿鼻叫喚のノイズは一斉に停止した。
後には、ただの深夜の、静まり返った安普請な沈黙だけが、澱みのように残された。
悠は機能を失った人形のように崩れ落ち、喉の奥からせり上がる激しい嘔吐感に支配された。
湊はそんな悠の背中にそっと手を添え、まるで壊れ物を扱うような手つきで、ゆっくりとその背中を撫でた。
「終わったよ。ありがとう、悠。君がいなければ、この隠し場所は見つけられなかった」
湊の声には、純度の高い、偽りのない賞賛が混じっていた。
「やっぱり君は、俺がずっと欠いていた、理想的な半身だ」
悠は、湊の胸の内に顔を埋めた。夾雑物のない、清潔な柔軟剤の匂い。
ノイズは去ったはずなのに、どうして心臓の震えは収まらないのだろう。忌まわしい過去の残滓、呪いのような過敏さ、そして自分を「半身」という名のパーツとして定義する、この美しい少年。
これは救いなのだろうか。それとも、もっと深く、呼吸することすら許されない檻への入り口なのだろうか。
「……これが、僕の選んだ道なんだ」
悠は、自分自身を説得するように呟いた。これは僕が、僕の意志で選択し、勝ち取った居場所なのだと。
足元に広がる奈落の深さに、気づかない振りをしながら。
翌朝、佐藤という男は103号室に戻ってきた。
湊は彼に「もう大丈夫です。処置は終わりました」と説明し、穏やかに微笑んだ。男は何度も頭を下げ、晴れ晴れとした顔で自室へと入っていった。
「……あの人は、もう音を聞かないの?」
登校の道すがら、悠が尋ねると、湊は正面を見据えたまま平坦な声で答えた。
「あの人の中にいた『根』は消えた。でも、一度開いてしまった耳は、完全に閉じることに時間はかかると思う。しばらくは、日常の些細な音……冷蔵庫の振動や、換気扇の回る音にさえ、かつての怪異の影を重ねて怯えることになるだろうね」
湊の横顔には、一切の容赦がなかった。
「それが、あの世と干渉してしまった人間が払うコストだよ」
湊はふと立ち止まり、自分の右耳あたりを指先で叩いた。
「……ああ。やっぱり。今朝から、右の聴覚が死んでる」
悠は、肺の奥で呼吸を凍らせた。
「それって……昨夜の、僕の……」
「そう。『俺』のコストだ。歪んだ事象を正すためには、自分の中の正常なパーツを差し出さなきゃならない。公平な取引だろう?」
「大丈夫なの……?」
悠の声は、自分でも制御できないほどに震えていた。もしかして、僕が彼の感覚を奪ったのか。その不吉な予感に喉が詰まる。
湊は悠の「それ」を、まるで見透かしているような穏やかさで言った。
「気にしなくていい。君の過剰な情報を俺の身体へバイパスさせた分、一時的に俺の受容体が焼き切れただけだ。……すぐに、元には戻る。君の感覚が、俺の手の中で落ち着くのと同じようにね」
その言葉は、悠には到底、慰めとは認識できなかった。
それは互いの感覚を交換し、侵食し、不可逆的に汚し合う「共犯関係」の宣告だ。
研ぎ澄まされすぎて壊れていく悠の知覚と、それを引き受けるために欠落していく湊の機能。
二人を繋ぎ止めているのは、友愛という名の温かな絆などではない。互いの欠落を埋め合わせ、最適化を繰り返すための、あまりにも残酷な利害の一致。
晩春の風が吹き抜け、悠の耳には、遠くで鳴る踏切の警報音が、誰かの悲鳴のように歪んで響いた。
その不快なノイズは、これから始まる彼らの『日常』が、すでに決定的に、そして修復不能に変質してしまったことを告げていた。
昼休み。窓から差し込む初夏の光は白く、しかし教室の中は生徒たちの熱気で、どこか生暖かい。熱源は間違いなく、彼ら自身が持つ若さの燃焼だろう。悠は、宮村と佐々木の間に挟まれて座っていた。
鉛筆の芯が削れる、微かに甘い木の匂い。開かれたノートのページから立ち上る、古紙特有の乾いた匂い。そして、遠くの調理室から運ばれてくる今日の献立、豚肉の生姜焼きの香ばしい匂い。それらが熱気に溶け合い、混じり合い、悠の鼻腔をくすぐる。どこか、生臭いような、鉄のような、そして薬品のような、微かな異臭が混じっているような気もしたが、それは気のせいだと自分に言い聞かせた。まるで、この「普通」の空間に異物を持ち込まぬよう、無意識のうちに蓋をするかのように。
机の上に広げられた古典のノート。その数式ではない、ひらがなとカタカナが織りなす複雑な助動詞の活用を、指でゆっくりとなぞりながら、悠は二人に教えていた。佐々木が「すごい分かりやすい! 藤代くんて、もしかして先生より上手なんじゃない?」と目を輝かせ、宮村が「俺も藤代のおかげで、赤点回避できそうだよ。本当に助かる」と屈託のない笑みを浮かべる。そんな他愛のない会話が、悠の耳には、遠い世界の出来事のように響きながらも、なぜか心地よかった。それは、彼にとって、どこまでも脆く、しかし尊い「普通」の輪郭を形作る、たった一つの確かな線引きだった。
宮村の飾らない気遣い。佐々木の裏のない好奇心。かつては学校に自分の居場所などない、そう半ば諦めにも似た思いでいたのに、いつの間にか、休み時間になると自然と、悠はこの二人の間に収まるようになっていた。彼らと話している間だけは、自分が「特別な何か」を抱えた人間ではない、ただの平凡な高校生であると思えた。偶発的、しかし必然のように築かれたこの緩やかな関係性は、悠にとってのぎりぎりの平穏であり、それゆえに彼は、この輪郭が崩れることを何よりも恐れていた。
「ねえ、藤代くんて、九条くんとどんなこと話してるの?」
佐々木が、突然、囁くように言った。その声には、クラスメイトの男子を値踏みするような、無邪気な好奇心と、かすかな羨望が混じっている。
「九条くんてさ、なんかミステリアスだよねー。顔はめっちゃいいし、頭もいいし、完璧なんだけどさ、どこか遠いっていうか、近寄りがたいっていうか……。藤代くんと雰囲気違いすぎて、二人が話している内容が全く見当つかないんだよ。なんか、全然違う世界の人たちみたいに見えるのに、二人でいるところもよく見かけるし、不思議だなって」
悠は、古典の参考書から顔を上げ、一瞬だけ窓の外を見た。4月の終わり、来る初夏を迎える木々が、微かな風に揺れている。葉擦れの音は、この喧騒の教室の中では、ほとんど聞こえなかった。
湊の瞳の奥底にある、時折感じる感情の欠落のような透明感。あの底知れない深さを、佐々木は無意識に「遠い」と感じ取っているのだろう。悠は、そんな佐々木の言葉を否定する代わりに、ふと口の端に笑みを浮かべた。それは、まるで自分自身に言い聞かせるような、あるいは、理解されないだろうと諦めたような、複雑な笑みだった。
「湊はね、意外と、コーヒーの淹れ方にはうるさいんだ。この間、学校の帰り道で偶然会って、インスタントコーヒーでも豆の挽き方一つで味が変わるって、熱心に語ってたよ。俺はあんまり詳しくないから、ほとんど聞いてるだけだったけど」
まさかの返答に、佐々木は「え、マジで? そんなの九条くんから想像できない! 超意外、ギャップ萌えなんだけど!」と目を丸くし、身を乗り出した。宮村も「へえ、意外だな。なんか、美術とか文学とか、そういう難しい話してるのかと思ってた」と小さく漏らす。佐々木の興奮と宮村の素朴な驚きに、悠は内心、少しだけ安堵した。日常の延長線上にある、取るに足らないエピソード。彼らが想像するような「特別な」話など、自分たちにはないのだと、無意識のうちに主張しているかのようだった。
そんな他愛のない昼休みの会話は、日常の穏やかな風景に溶け込んでいく。しかし、悠の耳には、遠くの教室から聞こえる笑い声の向こうに、この場所には決して似つかわしくない、湿った土のような、粘りつくような匂いがかすかに混じり始めていた。それは、彼の「普通」の輪郭を、内側から少しずつ溶かし始める不穏な前兆だった。窓の外の木々の緑が、一瞬、澱んだ紫色を帯びたような気がして、悠は目を瞬かせた。
「どこから変な匂いがする?」
玄関先で悠を出迎えた九条湊は、端正な横顔を微塵も動かさず、ただ前を見つめたまま「そう」と短く応えた。その声には、いささかの動揺も含まれていない。
悠が異変に気づいたのは、湊と「仕事」を始めて初めて迎える、大型連休の中日の夕暮れ時だった。昨日までの快晴が嘘のように、空は重い鉛色に染まり、湿度が高い。その匂いは、最初は雨上がりのアスファルトが放つ、埃っぽい湿り気に似ていた。買い物を終え、あの重厚な鉄の門のようなマンションの入り口をくぐった瞬間、肺の奥を直接掴まれるような、むせ返るような異臭が鼻腔を突き抜けた。それは甘い百合の花の香りと、酸っぱい肉の腐敗臭、そして焦げ付いた鉄の匂いが混ざり合った、おぞましい混合物だった。匂いは、単なる空気の分子の集合ではなかった。湿度を持ち、重さを持ち、色さえ感じさせるような、得体の知れない塊となって、彼の感覚を鈍器のように殴りつけた。
「俺には何も。……ということは、向こう側の『匂い』がこちらに漏出しているのかな。どんな匂いなんだ?」
湊は淡々と問いかけた。その口調は、未知の化合物のデータを収集する科学者のそれと同じ好奇心に基づいている。悠は、知覚の混乱に酔いそうになりながら、かろうじて言葉を紡ぎ出した。
「アスファルトみたいな熱い匂いと、百合の……過剰な花の匂い。それから、肉が腐り始めたような、甘ったるい死の匂い……」
悠は、自身の鼻を覆った。だが、その情報は指の隙間を容易くすり抜け、脳の裏側に直接へばりついてくる。まるで意味の通じない悪意が、脳髄の奥底に直接ねじ込まれてくるようだ。
その匂いは、単に不快なだけではない。悠の過去の、まだ名前のついていなかった記憶の断片に微かに触れ、心臓の鼓動を不規則に乱す。
今はまだ、耐えられる。けれど、これ以上の「彩度」で迫られれば、内臓ごとひっくり返されるだろう。形容し難い吐き気に言葉を詰まらせる悠に、湊は「指向性はあるのか。どこから匂う?」と尋ねたが、悠は弱々しく首を振った。
匂いはすでに、空間の隅々にまで染み渡り、方向性という概念を消失させていた。まるで、このマンションという構造物そのものが、巨大な腐臭を放つひとつの肉塊に変質してしまったかのようだった。
「この間の『音』のときと同じだ。どこからともなく、っていうか……部屋の全方位から押し寄せてきて、わからないんだ」
前回、聴覚系のバグが出現したときも、音源が特定できずに消耗したことを思い出し、悠はそう答えた。
「そうか……不味いな」
湊が、短く呻くように吐き捨てると、廊下に出てマンションのエントランスを見下ろした。その視線は、目に見えない情報の「淀み」を探るように、空間をくまなく走査している。
「匂いっていうのは、厄介なんだ。残留するし、何より、五感の中で最も原始的な記憶の層に癒着する」
湊は、おもむろに「手、貸してくれるか」と悠に問うた。その声に迷いはなく、有無を言わさぬ、事務的な響きがあった。
悠は一瞬だけ逡巡したが、彼の瞳の奥に宿るわずかな「不快」の焦燥と、自分を苛む異臭への抗いがたい恐怖に負け、おずおずと右手を差し出した。
湊の指が悠のそれに絡む。驚くほどひんやりとした、体温の低い熱。それは、この湿った粘り気のある熱気の中で、唯一触れることを許された清涼な「正解」のように感じられた。
不思議なことに、悠を窒息させていたおぞましい情報の混合物は、接続した瞬間、幾分かその彩度を落とした。だが、湊は露骨に眉をひそめ、「……酷い匂いだな」と吐き捨てる。
悠の過剰な知覚が、湊の身体へとバイパスされている。まるで、二人の神経系が物理的にプラグインされたかのような錯覚。
「ああ。匂いは視覚や聴覚と違って、遮断が難しい。鼻腔を通り越して脳に直接作用し、記憶や感情を呼び覚ます。そして、このマンションのように、強い念が染みついた場所では、その匂いが空間そのものに定着し、特定の『記憶』や『感情』を匂わせる。それが、幽霊由来のものなのか、あるいは、人間が発した念が凝り固まったものなのか、区別がつきにくい」
湊は解説するように呟き、手を繋いだまま——そのリンクを維持したまま、マンション内を歩き出した。その足取りには一点の迷いもない。
「……幽霊由来のシグナルと、それ以外の生活ノイズが混ざり合って、解像度が落ちている。……ね、悠。幽霊のものだけに、絞り込めるか。悠」
そんな高度な「処理」は経験がない、と悠は答えようとした。けれど、口をついて出たのは、「湊がコントロール……調整してくれるなら、できるかもしれない」という、自分でも驚くほど従順な言葉だった。
もはや自分の意思というより、湊という上位のOSに導かれるように、言葉がこぼれ落ちる。湊は薄く笑い、悠の手を少しだけ、強く包囲した。
その瞬間。悠の感覚野が強制的に研ぎ澄まされ、混濁していた情報の濁流が、見えないフィルターを通るように整理されていく。
それは、霧が晴れるというよりは、脳内で情報の「取捨選択」が超高速で実行されるような、無機質な感覚。
そして。
幽霊由来の、底なし沼のような腐敗臭だけを、明確な「敵意」として抽出することに成功した。
百合の甘さもアスファルトの熱も、すべてを飲み込み、塗りつぶす。
ただ純粋な「悪意の質量」として、それは悠の鼻腔を、暴力的な鋭さで突き刺した。
二人は、地下へと潜るエレベーターホールにたどり着いた。
階数を表示するデジタル数字が、バグを起こした生き物のように蠢き、点滅を繰り返している。深度が増すにつれ、空気の彩度が不吉なほど濃くなっていくのがわかった。
視界の端。沈殿した澱のように、ねっとりとした紫色の靄が溜まり始める。それは「匂い」という情報が、処理しきれずに視覚野へと具現化し始めた証拠だ。情報はもはや嗅覚という枠組みを逸脱し、色となり、質量となり、悠の五感を内側から侵食し始めていた。脳の裏側に直接、醜悪な絵画を暴力的に描き出すように。
「湊……今回は、少し、違う気がする」
悠は、肺の中の酸素が泥に変わったかのような苦しさに喘いだ。声は乾いた砂を噛むように、低く掠れている。
「匂いだけじゃない。ここにいると、壁の向こう側に、誰かが『配置』されているような気がする。見えないのに、網膜の裏側に、腐敗した何か……あるいは、毒々しい花弁が散るような残像が見え隠れするんだ」
「おそらく、君が知覚しているのは単なる悪臭じゃない。この建物に、長い時間をかけて堆積した生と死、歓喜と絶望という名の記憶の残滓が、今、情報の濁流となって溢れ出しているんだ。……君という高精度な『センサー』が、この場所の深層にある記録(アーカイブ)に、物理的に触れてしまった証拠だよ」
湊は静かに、しかし断定するように告げた。その声は、深淵の底から響いてくる事務的な報告のように、不気味なほど安定していた。
湊が、悠の肩にそっと掌を置く。その指先が触れた瞬間、悠の背筋を、氷のような振動が走り抜けた。それは根源的な恐怖か。あるいは、絶対的な主権者に導かれるような、官能的な服従心か。
「悠。深呼吸して。……俺の声という周波数だけに、フォーカスを合わせるんだ。他のすべてのチャンネルを遮断しろ。俺が、君の感覚を濾過するフィルターになってあげるから」
湊の声は、濁った泥水の中に投げ込まれた、一欠片の透明な氷のように澄んでいた。
その響きに全意識を委ねれば、肺の奥にへばりついた死の匂いも、視界を塞ぐ紫の靄も、嘘のようにその濃度を薄めた。まるで、汚染された呼吸器に、高純度の酸素が直接送り込まれるかのように。
エレベーターが地下室で止まる。金属的な軋みを上げ、扉が開くと、そこから漏れ出す匂いの濃度が、急激に跳ね上がった。それは、もはや「匂い」というより、粘性の高い瘴気だった。悠の視界の中で、紫色の匂いはもはや色となり、模様となって壁を這っていた。それは視神経に直接焼き付く幻覚のようであり、触れるとべとつくような実体さえ持ち始めていた。そして、その色が濃くなるほどに、聴覚や触覚にも奇妙な刺激が押し寄せる。鼓膜の内側で、微かな囁き声がこだまし、肌の表面では、無数の虫が這い回るような不快感が走った。
「……誰か、泣いてるの?」
悠はふらふらと、吸い寄せられるようにその壁へ歩み寄った。彼の意識は、もはや彼自身の意思ではなく、見えない力に操られているかのようだった。
地下室の壁は、不自然なほどに新しいタイルで覆われていた。だが、そのタイルの向こうから、呻きとすすり泣きが、悠の皮膚を直接震わせるように響いてくる。壁の表面には、乾いた血痕のような赤黒い染み。それは、まるで壁が吐血したかのように、不規則な模様を描いていた。そして、どこからともなく、微かな鉄の匂いが混じり合う。それは、血の匂いであり、同時に、鈍い拷問器具の冷たさを暗示しているようだった。
悠は、かつてここで何が行われたのかを、匂いと音と視覚の複合的な情報として理解してしまった。そこにあったのは、鉄の寝台。そこに縛り付けられた手首や足首の、皮膚が擦り切れた痕。朽ちた革の拘束具の、使い古されたしなやかな感触。空になった点滴のチューブが、虚しく垂れ下がっている。使い古された手術道具が、冷たい光を放っていた。それらは皆、五感を奪うための、そして、その苦痛を長く引き延ばすためのものだった。目隠しされ、耳を塞がれ、口を塞がれ、感覚の全てを一つずつ奪い取られながら、ただ「生かされ」続けた人間たちの絶望的な悲鳴が、今、匂いとなり、声となり、壁の模様となって悠の全身を叩く。それは、彼らの死の瞬間ではなく、絶望の中で生かされ続けた、延々と続く苦痛の記憶だった。
その地獄に、最後の一滴で「神」という名のラベルが貼られた。
彼らの肉体は、彼らの信じた神との接続を強固にするための、ただの『器』——生贄の依り代とされたのだ。
視界が歪む。向こう側の死の記憶と、悠自身の「普通になれない」という疎外感が、匂いを通じて彼の自意識に溶け合っていく。
これは、あの壁の向こうに潜む何かの毒か。
それとも。悠自身の奥底に眠っていた「自分は特別で、だからこそ異物なのだ」という、癒えない傷への『共鳴』なのか。
身体が熱く、けれど背筋には氷のような汗が滑り落ちる。
膝が折れ、世界が崩れる。
悠の全身の感覚が、あまりの情報の重さに、静かな悲鳴を上げていた。
「悠! 戻ってこい!」
鋭い声と共に、視界が白く弾けた。まるで、強烈なフラッシュを浴びたかのように。気がつくと、悠は湊の腕の中にいた。湊の指が悠の頸動脈に触れ、額に触れ、頬に触れる。その手が、悠の全身に張り付いたおぞましい気配を、優しく、しかし確実な動作で拭い去っていくようだった。
湊の顔は、普段の冷静さを失い、焦燥に色めいていた。瞳の奥に宿っていたわずかな陰りは、今ははっきりとした不安の色を帯びている。
「大丈夫か!?体に違和感はないか!?」
彼はまるで精密機械を点検するかのように、悠の五感を一つ一つ確認しようとしている。
「見えるか? 俺の顔が、はっきり見えるか? 歪んでいないか?」
「聞こえるか? 俺の声以外に、何か妙な音が聞こえるか? 囁き声や、悲鳴が聞こえないか?」
「味は? 口の中に、何か異物感や、不快な味がしないか? 泥の味とか、錆びた鉄の味とか」
「匂いは? あの腐敗臭がまだ残っているか? それとも、何もないか?」
「触覚は? 肌の表面に、虫が這うような感覚はないか? 体中に力が入るか?」
悠は、湊の問いかけに一つ一つ頷いた。五感が、確かに彼自身のものに戻っている。湊は、その確認が終わると、張り詰めていた肺の中の空気を、熱を帯びた安堵として吐き出した。
「心配かけてごめん、湊くん……」
悠は掠れた声で謝辞を置こうとしたが、湊はそれを、諦念の混じった動作で遮った。
「君は悪くない。あれは、通常の霊障とは違う。マンションのように、強い念が染みついた場所では、その匂いが空間そのものに定着し、特定の『記憶』や『感情』を匂わせる。ただ、君には特に、それがダイレクトに作用、して……」
湊が言い淀む。その言葉の断絶に、悠は微かな苦みを咀嚼した。
きっと、この少年は僕の「正体」を知っている。過去の呪縛も、カルトとの繋がりも。
けれど悠は、その事実から目を逸らしたまま、乾いた唇からひとつの「嘘」を絞り出した。
「……言ったでしょ。自分で、選んだんだ」
悠は、湊の熱を帯びた掌を、むしろ自分から包み込むように握り返した。
「これは、僕の意志だよ。君のせいじゃない。……僕が、この場所で、何かを見つけるべきだと決めたんだ」
それは真実を隠蔽するための、強固な自己欺瞞だった。誰かに誘導され、ここに配置されたのだとは、口が裂けても認めるわけにはいかない。自分の意志であると信じ込むことでしか、彼は「自分」という個体の尊厳を維持できなかった。
「……敵わないな」
湊はそう呟き、悠の手を慈しむように撫でた。
悠は、その掌の中に、決定的な支配の匂いを感じ取っていた。従順で、無垢で、しかし決して飼い主のテリトリーから逸脱することのない、大切な「所有物」を愛でる手つき。
恐怖から救ってくれる聖域でありながら、同時に、自由という名の余白をじわじわと奪い去っていく存在。
けれど、悠はその支配の重みの中に、身を切られるような安心感を覚えている自分自身に、深く、慄然としていた。
二人は地下室の最奥へと足を進めた。冷たく湿った空気の中、壁際に置かれた小さな台座に、枯れたユリの花束が飾られた花瓶があった。その周囲だけ、匂いの淀みがひときわ濃い。それは、この悪意の中心であることを暗示していた。湊は何も言わず、その花瓶に手を伸ばした。
「閉門」
低い声と共に、湊が花瓶に鍵を差し込む。鍵は吸い込まれるように陶器に深くはまり込んだ。ひび割れた陶器から紫色の澱が飛び散り、霧散していった。それは、まるで腐敗した魂が、浄化されて消えていくかのようだった。
地下室を覆っていたおぞましい匂いと、それに伴う幻覚は、まるで最初から存在しなかったかのように消え去った。残ったのは、湊の体温と、それから――石鹸のような、あまりにも無機質な湊の匂いだけだった。それは、彼の感情の起伏とは無縁な、しかし確固たる存在感を持つ匂いだった。そして、それだけが、悠の五感を、清潔に、そして正常に保っていた。彼は、湊の手を握りしめたまま、微かに震える息を整えた。
テストが終わった後の教室というのは、どことなく、剥がれかけた日焼けの皮のような、むず痒い解放感に満ちている。季節はすでに初夏を迎え、窓から差し込む陽光は白く輝き、生徒たちの熱気に満ちた教室は、少し汗ばむような生暖かさを帯びていた。熱源は間違いなく、彼ら自身が持つ若さの燃焼だろう。
悠は今日もまた、宮村と佐々木の間に挟まれて座っていた。三人は、まだ熱気の残るテスト用紙を机に広げ、答え合わせをしながら感想を言い合っていた。悠が古典の先生に尋ねたポイントが的確に的中し、宮村は「藤代、マジで神!」と感嘆の声を上げていた。彼の少し擦れた声が、解放感に満ちた教室の空気によく響く。佐々木はスマートフォンをいじりながら「はー、やっと解放されたー! ね、宮村、打ち上げとか行かない?」と浮かれた声で言った。その声は、春の小鳥のように軽やかだった。
そんな時だった。ガラリ、と教室のドアが開き、そこに九条湊が立っていた。放課後、悠を迎えに来たのだ。彼の姿は、熱気と喧騒に満ちた教室の中で、まるで一枚の氷像のように際立って見えた。
「あ、九条くんだ! ちょうどいいところに! ねえ、九条くんも打ち上げどう?」
佐々木は、持ち前の天真爛漫さで、何の躊躇もなく湊に声をかけた。宮村も「うちのクラス、カラオケとか行くこと多いんすけど」と便乗する。湊は、少しだけ思案するような素振りを見せた後、静かに、しかし有無を言わさぬ声で口を開いた。
「……なら、うちに集合しない?」
「えっ!?」
悠は思わず素っ頓狂な声を上げた。湊が、自分たちの「仕事」とは無縁の、クラスメイトたちを自分のテリトリーに招き入れるなど、想像もしていなかったからだ。しかし、佐々木と宮村は目を輝かせ、「やったー! 湊くんの家、どんな感じなんだろ!?」と騒ぎ立てた。佐々木はすでにスマホで湊の家の位置を検索している。
湊は、そんな彼らの反応を少し冷めた目で見つめながら、淡々と説明した。「大所帯が来ることは想定していないから、機材はあまりない。あるのは鍋くらいだけど、それでもよければ」
「鍋! いいですね! 季節外れだけど、それもまた乙じゃない!?」と佐々木は目を輝かせ、宮村は「もうすぐ夏なのに鍋か?」とぼやき、佐々木に肘でどつかれた。
「鍋なら、闇鍋とかやりません? 激辛チョコとか、タバスコとか持ち寄って!」佐々木は、悪戯っぽい笑顔で提案した。その一言で、クラスメイトたちのテンションは最高潮に達した。
佐々木の提案に、宮村が「佐々木、それもう罰ゲームじゃん!」とさらにツッコミを入れる。悠も苦笑したが、湊はただ穏やかに「面白そうだな」と微笑んだ。その表情には、ほんの微かに、何かを企むような光が宿っているように悠には見えた。
結局、佐々木と宮村がわいわいと騒ぎながら、みんなで近くのスーパーで鍋の材料を調達することになった。夕暮れ時、スーパーの眩しい蛍光灯の下、食材を選ぶ友人たちの姿は、ただひたすらに「普通」だった。佐々木は「わさびは必須でしょ!」と変な具材を選び、宮村は「ちゃんと食べられるものも買っとけよ!」と呆れた声を上げる。
レジで会計を済ませ、スーパーを出ると、外はもうすっかり夜の帳が降り始めていた。ひんやりとした風が、日中の熱気を洗い流していく。
「そういえば。藤代、最近は耳を塞ぐのをやめたんだね。……音楽、聴いてないだろ」
湊が、不意に、悠にだけ聞こえるような声で尋ねた。悠は、気づかれていたことに少し驚いた。
「ああ……。最近、急に世界が『うるさく』なることが減ったから。音楽というノイズで、外界のノイズを上書きする必要がなくなったというか。……そういう余裕が、生まれたのかもしれない」
実際には、五感の暴走は嘘のように凪いでいる。代わりに、このマンション特有の「あちら側」の不穏な彩度が、悠の視界を占める割合は増えていたけれど。
「それはいい。ここの環境が、君に馴染んできた証拠かもしれないな」
湊は、当然の帰結であるかのように小さく頷いた。その平熱な言葉に、悠は自分でも無意識のうちに首を横に振っていた。
「それだけじゃ、ないと思う。……たぶん、湊が、僕に触れてくれるから。……それだけで、僕の狂った感覚が『普通』に戻るからだと思う」
悠の言葉に、湊は一瞬、歩みを止めた。
街灯の明かりの下、彼の横顔はわずかに、しかしはっきりと、満足げな光を帯びているように見えた。彼は何も言わなかったが、その沈黙は、悠の言葉を肯定しているようだった。悠は、知らず知らずのうちに、湊に深く依存している自分に気づいていた。それは、薄氷の上を歩くような危うい感覚だったが、同時に、確かな温かさも伴っていた。
湊の部屋で行われた「闇鍋会」は、初めは拍子抜けするほど普通だった。フローリングの床に座布団を並べ、カセットコンロの上で土鍋が湯気を上げている。スーパーで買った出来合いの具材、鶏肉、白菜、キノコ類が放り込まれ、味噌仕立ての出汁が食欲をそそる匂いを部屋中に満たしていた。佐々木が選んだ「激辛チョコ」や「くさやの干物」といった悪ふざけの具材も、賑やかな笑い声の中では、ただのスパイスに過ぎなかった。
悠は、そんな友人たちとのひとときを心から楽しんでいた。普段から自分の感覚が敏感であることに辟易していた悠にとって、こうして気兼ねなく笑い合える「普通」の時間が、何よりの慰めだった。彼の唇には自然と笑みが浮かび、緊張で強張っていた肩の力が抜けていくのが分かった。
ふと、背後のドアが微かに開く気配がした。悠は反射的に振り返った。そこには、九条湊の姉、澪が立っていた。薄暗い廊下の奥、彼女の姿は輪郭が曖昧で、まるでそこにいるのかいないのか判然としない。湊の隣に座る佐々木も宮村も、彼女の存在には気づかないようだ。澪は悠と目が合うと、ふ、と口の端を上げた。それは、微笑みというにはあまりにも感情の欠けた、しかしどこか懐かしさを伴う表情だった。
澪は、誰も彼女に気づかないまま、悠に近づいてきた。その足音は、床には何の痕跡も残さなかった。彼女は、音もなく悠の目の前に立つと、そっと重箱を手渡した。それは、古い木製の、三段重ねの重箱だった。表面には、細かな彫り物が施され、どこか不気味な精緻さを帯びている。
「悠くん、これ、お鍋に入れてあげて。みんな、喜ぶわよ」
澪の声は、風が木の葉を揺らすような、か細い響きだった。その声が、悠の鼓膜ではなく、脳の奥に直接響いたような気がした。彼女の手はひんやりと冷たく、指先が悠の肌に触れた瞬間、びりりとした電流が走った。それは、触覚というよりも、内側から何かを揺さぶられるような、奇妙な感覚だった。悠は思わず重箱を受け取った。重箱は、見た目よりもずっと重かった。
佐々木と宮村は、まだ屈託のない笑顔で談笑を続けている。彼らの視界には、澪の姿は映っていない。悠は、胸の奥に薄気味悪い感覚を覚えたものの、せっかくの場の雰囲気を壊すまいと、そっと重箱をテーブルの隅に置いた。そして、何事もなかったかのように、再び鍋へと箸を伸ばした。しかし、彼の心には、すでに小さな、しかし確かな亀裂が走り始めていた。
異変は、三杯目の取り皿を口にした時に起きた。
悠は、味噌の甘い香りが立つ鍋から、出来立て熱々の鶏肉を取り出し、口に運んだ。しかし、舌の先に触れた瞬間、それは「食べ物」としての属性を失った。熱々の土鍋から取ったはずの鶏肉が、氷を噛んだように冷ややかだったのだ。それだけではない。噛みしめた瞬間、肉の繊維の間から溢れ出したのは、芳醇な肉汁ではなく「腐敗」の味だった。湿った土と、長い間放置された排水溝の、あの饐えた臭気が鼻腔を突き抜け、脳の奥に直接へばりつく。それは、単なる不味さとは異なる、根本的な「喪失」の味だった。
悠はたまらず箸を落とした。カチャン、と小さな音が、彼の耳には雷鳴のように響いた。
「藤代か?どうした? 辛すぎたか? 佐々木が持ってきた七味入れすぎた?」
隣にいた宮村が心配そうな声で尋ねてくる。彼の声は、遠くで響くようで、現実味がなかった。
「……ううん、なんでもない」
悠は、胃の底からせり上がってくる酸っぱいものを、無理やり飲み込んだ。喉の奥が焼け付くように熱い。
ふと見ると、部屋の隅、影の濃い場所に誰かが立っていた。
澪だ。彼女は、相変わらず誰にも気づかれず、ただそこに立っている。澪は悠と目が合うと、ふふ、と喉の奥で笑った。その笑い声は、ひんやりとした冬の空気を震わせるかのようだった。
「おいしい? 悠くん。それはね、『このマンションにいるみんな』を煮詰めた味なのよ」
その言葉が、直接脳裏に響く。悠の視界の中で、鍋の中の具材が変容する。白菜の白い肌が爛れた肉のように見え、キノコは無数の眼球となって彼を見つめ返す。佐々木も宮村も、一切の異変に気づかないまま、「おいしいね」と笑いながら、腐敗した死肉にしか見えないものを次々と口に運んでいる。彼らの笑顔が、悠の目には、狂気の仮面のように映った。
悠はたまらず席を立ち、トイレに駆け込み、すべてを吐き出した。胃液と共に、肺の奥にへばりついていた「喪失」の匂いが、どろりと口から溢れ出る。
蛇口から出る水で口を濯いでも、舌にこびりついた「喪失」の味は消えない。唇の端に残る、鉄のような味が彼を苛む。何で澪がこんなことをするのか、悠には理解できなかった。彼女は、一体何を自分に見せようとしているのか。洗面所の鏡に映る自分の顔が、ひどく青ざめて見えた。自分の選択でこのマンションに来た。自分の選択で彼らを招いた。どうしようもない後悔と絶望が、悠の胸を締め付ける。
「……悠」
背後に、湊が立っていた。彼は、悠が吐き出している間、ずっとドアの外で待っていたのだろう。
「どうした? 具合が悪くなったのか?」
「湊……。みんなは、今口にしたものでなんともない? 僕だけ……?」
悠の震える問いかけに、湊は一瞬で何が起きたのかを察したようだった。彼の瞳の奥に、わずかな苛立ちと、しかし確かな理解の色が宿る。
「彼らは俺たちとは違う。君の味覚を汚染しているものが、すぐに彼らに影響は出ない。悪霊は、感知された瞬間に、対象の感覚を浸食する。彼らは、感知していない。だから、大丈夫だ。安心しろ」
その回答に、悠は深く安堵した。友人に危害が及んでいないという事実に、彼の胸の奥で、わずかな光が灯る。まだ嘔吐している悠に、湊が、ゆっくりと近づく。彼の歩みは、まるで水面を滑る船のように静かだった。彼の指先が、悠の唇に触れた。ひんやりと冷たい、しかし確かな熱が、悠の感覚を貫く。
その瞬間、火花が散るような衝撃と共に、世界が正常を取り戻した。
泥の味も、腐敗の臭いも、一瞬で霧散する。それは、魔法のように、彼の感覚野から悪意を拭い去った。
湊の指先から流れ込んでくるのは、暴力的なまでの「甘美」だった。それは砂糖の甘さではない。乾いた大地に染み込む水のような、絶対的な安心を伴った「正解」の味。彼の五感は、湊によって再構成され、清潔に磨き上げられていくようだった。
「……っ、」
僕は思わず彼の指を強く掴んでいた。離したくない。この指が離れれば、また世界は泥の味に染まってしまうだろう。泥の味だけではない。五感全てを、悪意に侵食される恐怖が、彼の精神を蝕んでいく。
「大丈夫? もう苦しくない?」
湊の声だけが、鼓膜に直接響く。クリアで、濁りのない救いの音。その声は、彼の五感を支配し、彼の意識をただ一点に集中させた。
悠は「うん」と答えた。彼の声は、震えていた。どんどん湊に依存していることに、彼は気づいている。しかし、この甘味を知ってしまった後で、泥を啜る選択など、できるはずがなかった。それは、彼の意志ではなく、彼の生存本能が叫んでいるかのようだった。湊の存在は、彼にとって、もはや呼吸と同じくらい不可欠なものになりつつあった。彼が与えてくれる「正解」だけが、この狂った世界で、彼を繋ぎ止める唯一の鎖だった。
二人が洗面所から戻ると、部屋は明るくなっていた。佐々木と宮村は、まだ楽しそうに鍋を囲んでいる。急に部屋を抜けた悠を心配する佐々木と宮村に、「ちょっと辛いのにあたっちゃって」と悠は苦し紛れにごまかした。彼らは、悠の異変には全く気づいていないようだった。
澪の姿はもうなかった。代わりに、テーブルの隅に置かれた重箱だけが、不気味な存在感を放っている。
「あれ、この肉、うまかったんだけど、何だったんだろうな? スーパーで買ったやつ?」
宮村が、食欲旺盛な様子で問いかけた。悠は、それが澪からもらったものだと答えた。佐々木と宮村は、驚いたように顔を見合わせる。
「え? 澪さん? いつの間に? 全然気づかなかった!」
彼らの反応を見て、悠は確信した。やはり、澪は彼らには見えなかったのだ。見えないからこそ、その存在は、より一層、恐ろしい。
その様子を、湊は黙って見つめていた。彼の瞳には、深い思索の色が宿っている。
「澪さんがいるなんて気づかなかったよ! 今から挨拶した方がいいかな?」
佐々木が、立ち上がろうとした時、湊が静かに、しかし強く言った。
「それはいい。姉は体調がよくなくて、基本部屋で寝たきりなんだ」
その言葉に、佐々木と宮村は素直に頷き、再び鍋へと向き合った。湊の言葉には、有無を言わさぬ説得力があった。
悠は、空になった重箱を回収した。日の当たっている箇所であらためてみると、木製の蓋に刻まれているのは、蛇が自らの尾を飲み込み、円を描く「環の会」の紋章だ。それは、彼の幼い頃の記憶に、微かに刻まれている不吉な印だった。彼の心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。湊は、そんな悠の動揺には気づかないふりをして、黙って胸元の鍵束から古い鍵を一つ選び出し、紋章に押し当てた。
「閉門」
低い、事務的な音節が部屋の空気に溶け込む。
重厚な音が響き、積み上げられた重箱がその「役割」を放棄したかのように崩壊した。パリン、と陶器のような乾いた、硬質な音が鼓膜を突き、それは瞬く間に、微細な塵となって消失した。
部屋を支配していた粘り気のある悪意が、同時に消去される。まるで、あの重箱という「器」が、すべてのノイズを飲み込み、道連れに自壊したかのような幕引き。
それと同時に、悠は、あの重箱が「澪」という女の身体の一部であったかのような、奇妙で不吉な感覚を咀嚼していた。まるで、彼女という回路の一部が、今、自分という「センサー」を通じて失われてしまったかのような、喪失の残響。
澪が仕掛けたのは、あの重箱の中身という単一の事象だけではない。
悠は、直感的にそう理解してしまった。これまでの怪異の連鎖と、あの空っぽな微笑を浮かべる女。両者が、どこか深い場所で「構造的」に繋がっているのではないか。
その疑念は、悠の思考の奥底に小さな、鋭利な棘のように刺さった。
けれど。自分を深淵から掬い上げてくれた湊に、その棘を差し出す勇気など、どこにもなかった。
彼との接触で感覚が「調律」されるたび、自分はさらに深く、逃れられない場所に収容されていく予感。
彼の与えてくれる「正解」は、あまりにも甘やかで、そして、抗い難い「管理」という名の罠だった。
この関係に「名前」がつく前に、すべてはきっと、修復不可能な形で壊れてしまう。
悠はそう予感していた。けれど、その不吉な予感さえも、湊の指先から流れ込む甘美な安寧に、静かに掻き消されていく。
彼の世界は、もう。湊という「管理者」抜きには、成立し得ないものになっていた。
悠は、ここしばらく胸の奥に堆積している疑念を、誰にも言えずに飼いならしていた。
それは澱のように底へ、底へと沈み、時折、腐敗した泡となって意識の表面に浮上する。
――すべての現況は、九条澪に起因しているのではないか。
そんな考えを、悠は自分でも「不作法な飛躍」だと思っていた。澪は同じマンションの住人で、湊の姉だ。物静かで、どこか焦点の合わない雰囲気を纏ってはいるが、彼女が「元凶」だとする論理的な根拠など、どこにも落ちていない。証拠。論理。整合性。そんなものは、このマンションの歪んだ磁場の中では、何の役にも立たないのに。
だが、悠の胸の奥で膨らみ続ける予感は、理屈ではなく、もっと原始的な「知覚のエラー」に近かった。触れてはいけない粘膜に触れようとしているような、暗がりの奥から未知の彩度で見つめられているような。そんな、じっとりとした気配が、日ごとに濃度を増していく。
そして、その疑念を湊に直接ぶつけることだけは、致命的な欠陥に繋がる気がしていた。
湊は悠にとって、唯一「情報の整合性が取れる人間」だ。彼の前でだけは、自分の狂った目盛りをさらけ出せる。剥き出しの自分でいられる。だが、澪のことを問うた瞬間、その静止した関係が壊れてしまう。修復不可能な亀裂が走り、二度と「普通」には戻れなくなる。そんな予感があった。
六月の長雨。街全体に、古びた湿布薬のような湿った匂いが貼りついている。マンションの壁も床も、過剰に湿気を吸い込み、重い臓器のように沈んでいた。
悠が「違和感」を物理的な重さとして自覚したのは、自分の右足がどこに「配置」されているのか分からなくなった瞬間だった。
目を覚ましたのは、午前十時を少し過ぎた頃。 寝汗で湿ったTシャツが肌に張りつき、喉は砂漠のように乾いていた。 熱があるのは明らかだった。 額に触れると、じんわりとした熱が指先に伝わる。
――今日は学校を休むか。
そう思った矢先、 立ち上がろうとした瞬間だった。
右足が、ない。
物理的にはそこについている。シーツの感触も、床の冷たさも、末端神経は確かに受信している。だが、「自分の右足」という実感が、霧の向こう側へ隔離されたように遠い。他人のパーツを無理やり意識しているような、生理的な不気味さ。
「……あれ?」
音を発した途端、視界がぐにゃりと歪んだ。
壁も天井も、液体の底から見上げた水面のように揺らめき、自室の床が、ざわりと波打つ「深淵」へと変質した。
底の見えない、暗い情報の海。その中に、学校の教室の、あの薄汚れた床が沈んでいる。使い古された机。揺れる黒板。マンションの深層が、悠の視覚野を直接侵食している。
それはかつて、自分が「選ばれた」あのカルトの地下室の光景とも重なり、脳髄を直接針で刺されるような鋭い痛みを伴った。
「っ……!」
悠は枕元のヘッドフォンを掴み、震える指で電源を入れた。ノイズキャンセリングが作り出す無機質な静寂が、深海を遠い幻へと押し戻していく。
しばらくして、右足の輪郭が少しずつ戻り始めた。悠は、熱に浮かされた頭で学校に欠席の連絡を入れた。担任の眠たげな声を電話越しに聞き、かろうじて「日常」という細い糸を繋ぎ止める。
昼過ぎ、熱に浮かされた頭で考えるのは、やはり湊のことだった。
湊の手。湊の声。湊が僕の目盛りを調整してくれるときの、あの暴力的なまでの安寧。
僕は、あの安らぎのために、この地獄を引き受けているのではないか。
僕が「自分で選んだ」と思っているこの場所は、実は、湊という管理者が用意した「完璧な檻」なのではないか。
疑念は熱と共に増殖し、悠の意識をじりじりと削っていく。
夕方。マンションの薄い壁を透かして、鈍い黄昏が部屋に満ち始めた頃。
ピンポン、と。来客を告げる記号が鳴った。
重い体を引きずるように玄関へ向かうと、 立っていたのは宮村だった。佐々木から預かった授業ノートという名の「無垢な親切」を持って、彼はそこにいた。
「宮村……ごめん、ありがとう」
「いいって。顔色悪いぞ」
宮村はいつも通り「健全」で、その存在が日常の基準値のように思えた。彼の纏う空気は、日向の匂いがして、このマンションの湿った毒を一時的に中和してくれる。
けれど、リビングで他愛ない記号を交換している最中。
宮村の視線が、ふと窓の外で固定された。
次の瞬間、宮村の身体が、物理的なエラーを起こしたように固まった。
「宮村?」
悠が呼ぶより早く、彼の顔に「恐怖」と「混乱」いう名のノイズが浮かぶ。
宮村の腕が、本人の意志とは無関係に、重機のようなぎこちない動きで悠の喉元へ伸びてきた。
「っ、藤代、逃げろ……! 身体が……勝手に……!」
冷え切った指先が、喉仏に触れる。
息が、止まる。
「宮村……やめ……っ!」
視界が暗転し、床の木目が歪んで迫る。意識が白く霞み始めた、その時。
ゴッ。
鈍い衝撃音と共に、宮村の機能が停止した。喉を圧迫していた指から力が失われる。
背後に現れたのは——九条湊だった。
湊は、倒れ込んだ宮村を見下ろし、温度のない声で言った。
「まさか、同意だったの?」
その言葉の意味が、悠にはすぐに理解できなかった。 喉の奥にまだ残る圧迫感が、思考を鈍らせていたのもある。
「……同意って、何の話だよ」
悠は咳き込んだ。湊の視線は悠を素通りし、宮村という「怪異」に固定されている。
湊の目に映っているのは、友人の安否ではない。自分の管理する「センサー」である悠に、許可なく触れた「不純物」への嫌悪だ。
「無事か?」
その問いかけに、人間らしい湿り気はない。悠の胸に、小さな棘が刺さる。
ふと、ドアの向こう、薄暗い影の中に澪が立っているのが見えた。
彼女の瞳は虚ろで、けれど底知れない深さを湛えている。澪の唇が音もなく歪む。笑ったのか、あるいは、ただの筋肉の痙攣だったのか。
彼女が闇に消えた瞬間、悠の背筋に氷のような戦慄が走った。
「他の人間も、宮村みたいになったら困る……」
悠は、焦燥に駆られて湊に訴えた。 このマンションに巣食う「何か」が、 とうとう外部の人間にまで及び始めたのだ。
悠の焦燥に、湊はゆっくりと頷いた。彼は懐から、真鍮製の複雑な模様が刻まれた「鍵」を取り出す。
「すぐに『閉門』する。これ以上、事態を拡散させるわけにはいかない」
淡々とした声。 その声音には、迷いが一切なかった。悠は、はっと息を呑んだ
「……待って。 閉門って、人間相手に使って大丈夫なの? 今までのは、壊れて……」
湊は、悠の制止を聞いていないかのように、 鍵を宮村の喉元へと翳した。
「分からない。だが、これ以上の手段はない」
その言葉は、 まるで「壊れても仕方ない」と言っているように聞こえた。悠の胸に、恐怖が広がった。怪異に対する恐怖ではない。 湊という存在そのものに対する、 もっと原始的な恐怖。
「だめだ……湊、やめて……!」
湊は悠の制止を「非効率なノイズ」として切り捨て、鍵を宮村の喉元へ翳した。
鍵から放たれた透明な波動。宮村を包んでいた粘つくような「あちら側」の気配が、霧散するように消えていく。湊は鍵を懐に戻し、 倒れた宮村を悠と共にソファへ運んだ。宮村は、意識を失ったままだ。
しばらくして、 宮村が小さく呻き、 ゆっくりと目を開けた。
「……ん? 俺、どうしたんだ?」
宮村は、怪訝そうに辺りを見回した。 悠と湊の顔を見て、 何かを思い出そうとするが、 記憶の糸は繋がらないらしい。
「宮村、どこか変なところはないか?」
悠は、恐る恐る尋ねた。宮村は首を回し、腕を動かし、 そして、いつもの調子で笑った。
「んー、特にないな。 あれ? 俺、いつからここにいたっけ?」
悠の心臓が、ひゅっと縮んだ。
――記憶が、ない。
宮村には、マンションに来てからの記憶が、まるで最初から存在しなかったかのように欠落していた。
「じゃあ、もう帰った方がいい。……送っていくよ」
湊が、有無を言わせぬ口調で言った。宮村は首を傾げながらも、素直に頷いた。玄関へ向かう宮村の背中を、 悠は窓からじっと見送った。その姿は、 つい先ほどまで悠を殺しかけた怪物とは別人のようだった。
部屋の中には、密度を増した静寂だけが沈殿していた。
宮村を送り出したあとの湊は、物音ひとつ立てずにベッドの傍らへと戻り、そこに横たわっている悠を見つめていた。その横顔には、世間一般の人間が持ち合わせているはずの「憐れみ」や「共感」といった感情の影が、欠片も見当たらない。ただ、精巧に作られた人形のように、滑らかで無機質な表情を浮かべているだけだ。
不意に、湊の冷たい指先が、悠の震える肩をなぞった。
その刹那、悠を苛んでいた脳内の乱れた波形が、ピタリと、嘘のように静まった。世界がその回転を止め、深い水底のような静止が訪れる。
この安らぎ。自分を理解し、この世の苦痛から遮断してくれる、圧倒的な「味方」の感触。
けれど、その静寂の底で、悠の心にはこれまでになく冷徹な「定義」が、毒を含んだ芽のように鎌首をもたげていた。
――湊は。この湊という、僕の隣にいる存在は、本当に僕を『救う』ためにここにいるのだろうか。
あるいは、僕を「壊れない程度に、扱いやすく飼い慣らす」ために、わざとこの底なしの地獄を、箱庭として用意したのではないか。
悠の疑念を見透かしたように、湊が微笑んだ。薄い、形の良い唇が滑らかな弧を描く。
「大丈夫だよ、悠。俺は君の半身。君の現実がバラバラに散らばってしまわないように、俺が、ずっとここで繋ぎ止めておいてあげる」
その言葉は、柔らかい上質の真綿で、ゆっくりと、しかし確実に首を絞められるような感覚だった。酷く甘美で、それでいて逃げ出すことを許さない絶望。
悠は、自分が自発的にこの道を選び、歩いているのだという、ひどく脆い「自己欺瞞」を必死に抱きしめた。そうでもしなければ、自分を維持できないことを悟っていた。
悠は、湊の冷たい胸に顔を埋める。
窓の外では、止むことのない六月の雨が、世界と自分を隔てる境界線を、静かに、執拗に溶かし続けていた。
初夏を過ぎて、マンションを包む空気は、少しずつ質を変えはじめていた。 昼間は窓ガラスの向こうで白く光っているだけなのに、日が落ちると、廊下の曲がり角や踊り場の陰に、見えない水たまりができたみたいに、湿り気が溜まっていく。地下室の扉を無理やりこじ開けたときにいちどだけ嗅いだ、あの、鼻の奥に張りつくようなカビの匂い――。 最近、そのにおいに、玄関を開けるたび、ほんの一秒だけ触れるような気がして、悠は靴を脱ぐのが少し早くなった。マンションの空気そのものが、じわじわと「あちら側」に染み出してきているような。 そう思ってしまうのは、自分が疲れているからなのか。 それとも、ほんとうに、なにかが変わりはじめているのか。悠には、うまく切り分けができなかった。
部屋に入ると、まず窓を開けて、すぐ閉める。 この一連の動きが、最近はほとんど儀式みたいになっている。開けた窓から入ってくる、外気の匂いを一瞬だけ確かめる。 ――ちゃんと「外の匂い」がするかどうか。
今日は、アスファルトの熱と、近所のどこかの夕飯の揚げ物、それから、遠くの排気ガスの匂いがした。 そのことに安心して、悠は窓を閉める。机の上は、プリントとノートと、読みかけの文庫本が積層地層みたいに重なっていた。 テストが近いから片づけよう、と朝は思っていたはずなのに、帰ってきてみると、片づける気力は半分くらいに減っている。
「今日は、ちゃんとやろう」
口に出して言ってみると、少しだけ自分を監視しているような気持ちになって、悠はカバンを机の横に置いた。使わない教科書を本棚に戻そうとして、うっかりバランスを崩す。ドサッ、と鈍い音がして、棚に詰め込んでいた書類の束が、雪崩を起こした。
「うわっ……」
床にしゃがみこんで、一枚一枚拾い上げる。 中学校の成績表、保険証のコピー、どこかでもらったチラシ。 整理せずにとりあえず何でも突っ込んでしまうのは手触りや紙質で、おおよその年代や重要度がわかってしまうのは、自分の悪い癖だ。指先が、少し厚手の紙に触れた。
他のものより、つるりとしっかりとした材質だった。賃貸借契約書――と、表紙に書いてあった。
「あ……」
この部屋のものだ、とすぐにわかった。 家族に、見せられた記憶がある。 「ちゃんと読んどけよ」と言いながら、ページをめくる叔父の声。 そのときは、難しい漢字の並びにうんざりして、流し読みしかしなかった。何気なく、日付の欄に目をやる。
「……あれ?」
喉の奥に、ぬるいものがせり上がった。このマンションへの引っ越しが決まったのは、震災のあとだ。 仮設から出られるわねって、叔母が泣き笑いしながら言った。 テレビでは、いまだに瓦礫の映像ばかり流れていた。なのに、契約書に記されている日付は、あの日から三か月も前だった。三か月前――まだ、あの地震も津波も、この世に「起こっていない」ことになっている頃。指先が、紙の上でかすかに震えた。 手汗がにじんで、インクの線をにじませてしまいそうで、あわて力を抜く。裏に紙が重ねて留めてある。 ホチキスを外して、そっとめくる。そこには、不動産仲介会社の名前と、担当者の欄があった。
九条――。
その二文字が、蛍光ペンでなぞられたみたいに、視界の中で浮き上がる。
九条湊。
今や、自分の感覚を「調律」してくれる、ただ一人の存在。
それと同じ苗字が、まだ会う前の、この紙の上に、すでに刻まれている。
「……なんで」
自分の声が、思っていたより高く、頼りなく響いた。 誰もいない部屋で、自分の声だけが浮いている。
悠の耳には、いつだって、微かな「砂嵐」が鳴っている。 古いテレビをつけっぱなしにしたような、ザッ、ザッというノイズ。 子どものころから、ずっとだ。他人の足音、遠くから聞こえるサイレン、蛍光灯のチカチカする音。 普通の人が「気づかない」か、「気にしない」ふりをしてやり過ごせるものが、悠には全部、いちいち刺さってくる。
けれど、その一方で、どれだけ刺されても「まだ平気だ」と思ってしまう、自分もいた。 痛みに慣れすぎてしまったせいで、どこまでが限界なのか、よくわからないのだ。湊だけが、その砂嵐の音量を、手を伸ばしてつまみをひねるみたいに、静かにしてくれる。 彼の指先が肩に触れた瞬間、世界が一段、静まる。 教室のざわめきも、窓の外の工事音も、ガラスの向こうで鳴くカラスの声も、ぜんぶ、遠くへ追いやられる。
あの静けさを、一度知ってしまったあとで――。
もし、その静寂が、最初から「与えられる予定」だったものだとしたら。
自分が、ここにきたことも、湊に出会うことも、全部、誰かの台本どおりだったのだとしたら。
「これは自分で選んだこと」
いつもそう思ったいた。 そう思えば、ほんとうにそうだったような気がして、少しだけ気が楽になったからだ。けれど、契約書の日付は、悠の言い訳を、紙切れ一枚で裏返した。
放課後の教室は、空き箱みたいに音がよく響いた。テスト後だからか、帰るのが遅くなっている生徒も、今日はほとんどいない。 窓側の列にだけ、まだ西日がしつこく残っていて、黒板の端にかろうじて黄色い四角をつくっていた。悠は、自分の席に鞄を置いたま、ノートをぼんやり眺めていた。 頭の中では、賃貸借契約書のあの黒い文字が、何度もめくれ返っている。
「悠、まだ残ってたのか」
不意に、名前を呼ばれた。 教室の後ろのドアの方から、柔らかい声がする。振り向くと、湊が立っていた。制服のシャツの袖を少しだけまくり上げて、いつもの、なにを考えているのかわからないような微笑みを浮かべている。 けれど、その目だけは、教室の中のすべてを一瞥で測っているような光を秘めていた。
「……うん」
あわて立ち上がろうとして、椅子の脚を引っかけた。 ガタガタッ、と無様な音が響く。
「一緒に帰らないか」
「うん。その前に、一つ聞いていい?」
自分でも、声が少し上ずっているのがわかった。 胸の奥で、さっきからずっと、何かがせかすように脈打っている。
「もちろん」
湊は、黒板の前の通路をゆっくりと歩いてくる。 机の列の間にできた狭い道をすり抜けながら、足音を立てないように気を配っているのがわかる。それ すらも、「音」に敏感な悠への配慮なのだと思うと、胸がちくりとした。
――だからこそ、聞かなければならない。
「お姉さんって、もしかして……もう亡くなってるの?」
教室の空気が、一瞬だけ止まったように感じた。窓の外のグラウンドで、誰かがボールを蹴る音がした気がする。 だが、それも、遠くで小さな破裂音となって、すぐに霞んだ。
湊は、すぐには答えなかった。 ただ、悠の顔を、じっと見ていた。問いそのものよりも、「どうしてそこにたどり着いたのか」を測っているような視線。やがて、ほんの少しだけ肩をすくめて、言う。
「どうなんだろうね。俺には、もうわからないかも」
「それは……君が、お姉さんを見えてないことと、関係するの?」
「……へえ、気づいたんだ」
短く、重く落ちる肯定。
悠は、ここ数週間のことを思い返していた。 澪と名乗る少女に会うたび、最初に気づくのは、いつも自分だ。 廊下の曲がり角、エレベーターの中、非常階段の踊り場。 視界の端に、濡れたような影が滲みはじめる。
「あ、いる」
そう思ってから、ほんの少し間をおいて、湊が「姉さん」と呼びかける。 そのときには、決まって、彼の指先がどこかで悠に触れている。肩、手首、背中――。 接点ができた瞬間にだけ、この世とあの世が、かろうじて重なり合う。
「お姉さんが、そんな状態になったのと、僕がここに来たのって、関係してるよね?」
自分でも、聞きながら、もう一つ聞きたいことが喉元まで上がっていた。
「……僕の記憶が、混ざってるのも。君のせいなの?」
湊の目が、わずかに細くなった。 笑っているのか、怒っているのか、一瞬では判別がつかない。
「……そうやって、なんでも全部俺のせいにするか」
言葉の温度は、皮肉っぽかった。 けれど、その奥に、ごくかすかな苛立ちと、呆れと、そして、諦めに近いものが混ざっているのが、悠にはわかった。
「引っ越し先を、君が不動産屋に相談したときに案内したのは、九条の人間だよ。ここに来るように誘導したのは、そうだ。俺たちの側の判断だ」
淡々とした口調だった。 その「誘導」という言葉が、教室の天井で反響する。
「でも、記憶が混濁してるのは、俺のせいじゃない。君が震災のとき、ゾーンアウトしたからだ」
「……ゾーンアウト?」
聞き慣れない単語を、悠はオウム返しにした。
湊は、黒板のチョーク跡をちらりと見てから、悠の方へ視線を戻す。
「感覚の限界を超えてしまったときに起きる現象だよ。簡単に言えば、現実と、あっち側と、自分自身の境目がいっぺんに壊れてしまう状態」
「……」
「二人の管理者が、ボンドという完全な形で結ばれると、本来は、それぞれの役割でバランスを取れる。ボンドっていうのは、精神や魂のレベルでの融合だ。だから、ボンドのパートナーは、基本的に生涯に一人しか持てない」
湊の声は、教科書を読んでいるように冷静だ。 それがかえって、話の異常さを際立たせる。
「ボンドを失ったパートナーは、魂の半分を持っていかれる。精神を削られて、衰弱死するか、発狂するか。……姉さんがそうなりかけてるのは、君も見てわかっただろ」
澪と会うたびに感じる、あの「ズレ」。 そこにいるのに、どこか別のところから声だけが届いているような、奇妙な感覚。
「どうして、僕がゾーンアウトになっていたことを知ってるのさ。自分でも覚えていないのに」
自分でも、幼稚な問いだと思う。 けれど、聞かずにはいられなかった。
湊は、少しだけ視線を外した。 窓の外、薄暗くなりかけた空を見て、それからまた悠を見る。
「……俺が、君に会いに行ったからさ」
「……何のために」
「君に、姉さんの役割を引き継いでもらうために」
その言葉は、板チョコを指で折るときの音のように、ぱきん、と、悠の中で何かを割った。湊の説明は、そこから先、輪郭だけをなぞるように続いた。かつて、澪にはパートナーがいたこと。 湊と同じように、幽霊を「浄化」する力を持つが、自分では感知できない人間。 ふたりはボンドを結び、このマンションを管理していたこと。だが、ある日、そのパートナーが事故で亡くなった。 その瞬間、澪の中で、なにかが決定的に外れた。魂の一部が、あの世に引きずられたま戻ってこなくなり、 残った部分は、こちらの世界に縫いとめられたま、どこを見るべきかを見失っている。
「気づいたら、俺にはもう、姉さんの気配がわからなくなってた。ボンドは、完全であればあるほど、片方が欠けたときに、片方だけでは成立しない。……そういうことなんだと思う」
「だから、僕を?」
「俺たちみたいな存在は、そう見つからない。震災のとき、君がゾーンアウトするかもって報告を見て、俺は君を探した。見つけたときに、決めたんだ。君を俺の相棒にするって。この場所を守るために」
「なんで、そこまで」
問いを重ねるうちに、自分の声がかすれているのがわかった。
喉が乾いているのに、飲み込む唾もない。
「君も、もう気づいてるだろ」
湊が、教室の真ん中で立ち止まる。 夕方の光が、彼の横顔だけを薄く照らした。
「あれは、侵食するんだ。放っておけば、このマンションだけじゃすまない。徐々に街全体に広がっていく。……それを抑えられるのは、俺たちみたいな能力者だけだ」
言葉の一つ一つが、理屈としては筋が通っているぶん、逃げ道を塞いでくる。
「――悠、少し感覚が乱れてるね。右の耳の奥が、痛むだろう?」
穏やかに言われて、悠は、はっとした。さっきから、右の耳の奥が、じん、と熱を持っている。 奥歯で噛みしめたときに伝わるような鈍い痛み。だが、そのことに自分で言及する前に、湊に言い当てられた。
――どうして。
どうして、僕が口にする前から、僕の痛みがわかるの?これが共感というのか。いつの間に自分は湊とのつながりがとても強くなってしまったということなのか。
湊の手が、そっと悠の右肩に触れた。 触れた瞬間、耳の奥の痛みが、嘘みたいに引いていく。
「君を騙そうとしたわけじゃない」
湊は、視線を逸らさずに言った。
「ただ、君が『自分で選んだ』って思えるように、事実を伏せてただけだ。その方が、君の精神安定上、いいと思ったから」
悠は、怒鳴ることもできたはずだ。 今すぐ鞄をつかんで教室を飛び出し、このマンションからも、この街からも逃げ出すことだって、理屈の上ではできる。
けれど、胸の奥に広がっていくのは、底なしの脱力感だった。 そして、それよりも強く、甘い「諦め」に似たものが、喉元からじわじわと満ちてきていた。
「僕がここに来たのも、能力に目覚めたのも……全部、最初から決まってたことだったって言うの?」
自分の声が、教室の天井にぶつかって、ゆっくり落ちてくるような気がした。 耳鳴りと混ざって、何を言ったのか、一瞬わからなくなる。
湊は、即答はしなかった。 指先だけで、悠の肩の骨のあたりを、軽く押す。 そこから、ぬるい水が全身に染み込んでいくみたいに、筋肉のこわばりがほどけていく。
「『全部』なんて、そんな雑なものじゃない」
やがて、湊は言った。
「選択肢はいくつかあった。君がここに来ない未来も、能力者として目覚めない未来も、理論上はね。俺は、その中で、『ここ』に収束するように、条件を並べ替えただけだ」
「条件って……」
「仮設住宅の抽選結果、親戚の勤務先の異動、学校の学区、受験の志望校。……そういうのをちょっとずつ、九条のネットワークで、都合よくいじった。結果として、君はここにたどり着く確率が、いちばん高くなった。それだけ」
「それだけ、って……」
喉の奥が、きゅっと縮まる。 声を出そうとすると、擦りガラスの向こうから自分が喋っているみたいに、遠く感じる。
「でも、決めたのは、いつも君自身だよ」
湊は、黒板と窓のあいだの境目を、ちらりと見やった。 そこには、何もない。
「引っ越すことを了承したのも、この学校を選んだのも、ここを君が『悪くない』って思っているのも。……俺は、可能性のレールを多く敷いただけで、どのレールに足を乗せたかは、君の選択だ」
「詭弁だよ、それは」
やっとのことで、絞り出す。 今にもひっくり返りそうな声だった。
「道を増やして、でも最後に辿り着く場所は同じになるように、全部、隠れて線を引いてたんだろ。 スタートとゴールを先に決めておいて、『途中は自由でしたよ』って言えば、何をしても許されるの?」
「許されるかどうかを、気にしたことなんてない」
淡白な答えだった。 それが、逆に澄んで聞こえる。
「必要かどうかだ。姉さんを、このまま無意味に崩壊させないために。マンションを、街を、あっち側に飲まれないようにするために。そのために、もう一人の後継者が必要だった。……君以外に、適性のある候補がいなかった」
「いなかった、って……」
「『いた』としたら、君は今ここにいないよ」
湊は、少しだけ目を細めて笑った。 冗談みたいに聞こえるのに、その目には軽さがなかった。
「九条にとっても、こんな手間のかる調整は、何度もやりたくない」
胃袋のあたりが、きしきしと軋みはじめる。
「ねえ、悠」
湊の声が、少しだけ柔らかくなる。 それが、いちばん腹立たしい。
「君は、今『選ばされた』って思いたいんだよね」
「……違う」
即座に否定する。 でも、その速さが、かえって自分の弱さを暴いている気がした。
「違わないよ」
湊は、一歩だけ近づいた。 机と机のあいだの距離が、急に狭くなる。
「もし、全部が自分の選択だったって認めたら、もう逃げ道がなくなる。後戻りできない場所まで来てるって、気づいてしまう。だから、俺のせいにしたい。九条のせいにしたい。震災のせいにしたい。……それは、自然な反応だ」
右肩に置かれた手の重みが、ほんの少し増した。
「でも、どんな理由をつけても、今、ここで『続ける』か『降りる』かを選べるのは、君だけだよ」
「降りる?」
自分の口から出た単語が、やけに軽く響く。 降りる、なんて、電車の駅みたいだ。
「そう。俺との関係を拒否することもできる。九条としては、損失が大きいから、あまり歓迎はできないけど……強制はしない」
「強制は、しない……?」
思わず嗤いかけて、喉が乾いて、うまく息が続かなかった。
「ここまで仕込んどいて?」
「ここまでやっても、最後の一歩を無理やり踏ませたら、結んだボンドは歪む。 歪んだボンドは、どこかで壊れる。……それは、経験上わかってる」
教室の隅で、古いエアコンが、ひゅう、と短く鳴った。 まだ冷房の季節には早い。 でも、その音が、地下室の金属音と重なって聞こえて、悠は思わず身震いした。
「悠」
名を呼ばれる。 ただ、それだけで、砂嵐が、ほんの少しだけ遠のく。
「君は、もう何度も選んでる。そのたびに俺の手を取ってくれた。……それを全部、『騙されてたから』って帳消しにするのは、君が君自身を軽く扱ってるだけだ」
返す言葉が見つからなかった。正論だ。 認めたくないけれど、筋は通っている。 論破された、とか、そういう種類の敗北感ではない。ただ、自分がたいせつに握っていた「被害者でいられる権利」みたいなものを、指先からゆっくり剥がされていく感覚。
「……じゃあ、もし、ここで『降りる』って言ったら、どうなるの」
かろうじて、それだけを聞いた。
「君は、元の生活に戻る」
予想外にも即答だった。
「九条からの接触も切る。大学進学でも就職でも、好きに選べばいい。マンションも、出てもらってかまわない」
「それでも、いいの?」
「『いいかどうか』を決めるのは、君だって言ったろ」
淡々としたやり取りが、いつのまにか自分の首を締め上げる縄になっている。湊は、そっと手を離した。 触れられていた場所に、ひどい寒さと、まだ残っている温度が同時に居座る。
「どっちを選んでも、君の責任だし、君の自由だ。 俺は、どちらに転んでも、君を責めない」
「そういう言い方は、卑怯だ」
やっと、それだけは言えた。
「君は、九条の人間で、このマンションと町を守るのが仕事で、お姉さんを救いたくて……。 そんな君が、僕が『降りる』って言っても、責めないなんて……」
「卑怯でいい」
あっさりと、湊は笑った。
「ただ、それでも──君は決めなきゃいけない」
「今、ここで?」
「出来ればすぐに決めてほしいところなんだけど。……うん、そうだな」
湊は、教卓に視線を移した。 赤いペンが一本、取り残されたみたいに転がっている。
「……遅くとも、来週の期末が終わるまでには決めてほしい。……それまでは、今まで見たいな事件はおきるかもしれないけど、姉さんもおそらくまだ持つだろうから」
ずいぶんと曖昧な回答だ。期末。 具体的な期限を突きつけられて、急に現実味が増した。こくばんよこのにあるカレンダーを見る。答案用紙、範囲表、何度も書き直した勉強計画。 その全部の裏に、「管理者になる」「降りる」という、まったく別種の選択肢が重なっている。こんなもの、どうやって同時にやればいいんだ。
「……勉強、しなきゃ」
気づけば、そんな言葉が口から滑り出ていた。 自分でも、場違いだと思う。
「そうだね」
湊は、うなずいた。
「テスト、苦手だもんな。数学と英語」
「なんで、それを……」
「俺のセンチネルだから、だよ」
「……センチネル?」
「あの世とこの世を見張るもの。そして俺が君のガイド……導くもの、だよ」
何でもないことのように、言い切る。
「……なんか気持ち悪い言い方だよ、それ」
「慣れるよ」
「慣れたくない」
反射的に返してから、自分でその否定がどれだけ弱々しいかわかって、情けなくなる。湊は、それ以上、何も言わなかった。 ただ、窓の方へ歩いていき、少し開いていた隙間を、静かに閉める。外の音が、ひときわ遠くなる。
「……今日は、帰ろうか」
肩越しに、湊が言った。
「この話は、ここまで。続きは、また今度。君の頭が、少し落ち着いてから」
「落ち着く、なんて、できないよ」
わずかに振り向いた横顔は、いつもの、穏やかな九条湊のものだった。 沈んだ生徒をあやす、面倒見のいい上級生の顔。その下に、どれだけの「条件」と「計算」が隠れているのかを知っていても――。 一度覚えた安堵は、簡単には忘れられない。悠は、机の上のノートを、ぎゅっと掴んだ。ページの端が、汗でしっとりと湿る。 賃貸借契約書の紙質と、まったく違う。 安っぽくて、頼りない。けれど、その安っぽさにしがみつくしか、今はできなかった。
「……来週まで、だね」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「それまでに、決める」
湊は、ゆっくりとうなずいた。
「うん。約束する?」
「……約束、って、好きじゃない」
「知ってる」
ほんのわずかに、唇の端を上げる。
「だから、あえて言ってる。 約束した、って事実は、後で君を縛るから。どっちを選んでも、ね」
「性格、悪いよ」
「よく言われる」
軽口のやりとりだけが、さくれだった世界の表面を、薄く覆う。悠は鞄を肩にかけた。 足元が、少しふらつく。教室のドアをくぐるとき、廊下の空気が、じっとりと肌にまとわりついた。 初夏の湿気の中に、あの地下室の匂いが、ごくごく薄く混ざっている。
――マンションの空気そのものが、じわじわと「こちら側」に染み出してきている。
昼間に頭をよぎった言葉が、また浮かぶ。もしかしたら、そんなに猶予はないのかもしれない。廊下の先で、非常階段のドアが、かすかに揺れた。 風もないのに。悠は、わざと見ないふりをして、湊の少し後ろを歩いた。 砂嵐はもう聞こえてこない。でも、そこには確かに、「何か」が入り込むための空白が、ぽっかりと空いていた。
マンションの敷地に足を踏み入れた途端、悠は肌を刺すような違和感に身を硬くした。
空気の「触り」が、一瞬にして変わったのだ。
それは湿気を含んだ重苦しい夏の夕暮れの空気の中に、もうひとつ、別の何かが――どろりと濁った、正体の知れない「澱(おり)」のようなもの――が溶け込んでいる。生暖かい風が吹くたびに、それは皮膚の表面をなでるのではなく、毛穴から体内にまで侵入し、内臓を直接かき回そうとしてくる。喉の奥に、鉄錆のような、あるいは古い埃のような不快な味が張り付いた。
「……予定より、少し早く来たか」
隣を歩く湊が、低く、独り言のように呟いた。その声はいつもと変わらず静かだったが、見開かれた瞳は、まるで今生の別れを覚悟した者のような、悲痛なほどの決意を湛えていた。
見上げたマンションの輪郭は、今朝見たときと何ら変わりはない。無機質なコンクリートの塊。ベランダには誰かの生活の証である洗濯物が力なくはためき、いくつかの窓からは、夕餉の時間を告げるテレビの青白い光が漏れている。
だが、今の悠の目には、その建物全体が巨大な肺胞のように見えた。コンクリートの壁が微かに膨らみ、しぼみ、ひとつの巨大な異形の生き物として、不気味に呼吸を繰り返している。
ふと、正面入口の自動ドアの前に、ひとつの影が立ち上がった。
先ほどまで、そこには誰もいなかったはずだ。陽炎が凝固したかのように、瞬きをした次の瞬間には、その人影は二人の行く手を塞ぐようにして立っていた。
「……澪さん?」
呼びかけた悠の声は、湿った空気に吸い込まれ、ひどく頼りなく響いた。
そこに立っているのは、紛れもなく澪だった。このマンションを支え、守り続けてきたはずの、管理者の女性。
けれど、彼女の瞳は二人を捉えてはいなかった。視線は二人の身体を素通りし、もっと遠く、現実の光すら届かない深い闇の奥を凝視している。
唇の端が、ゆっくりと持ち上がった。それは微笑みと呼ぶにはあまりに歪で、ただ「笑い」という感情の形だけを模倣した、筋肉の痙攣のようなものだった。
「ようこそ。……でも、ここから先は、通せないなあ」
それは、無邪気な子供の声だった。
次に続く言葉を待つ間に、悠は、背筋を氷の刃でなぞられたような戦慄に襲われた。
声の調子が、不自然に、そして暴力的に揺らぎ始めたのだ。さっきまでの子供のような口ぶりが、一転して、ぞんざいで荒っぽい男の怒号に変わる。
「おい、おまえら。ここは俺の場所だぞ。勝手に入って、何するつもりだ!」
同じ口、同じ舌から放たれる声なのに、宿っている人間が明らかに違う。さらに続く言葉は、今度は年老いた女がすすり泣くような、かすれた声に書き換えられた。
「ああ、やっと……やっと、来てくれた。やっと、気づいてくれたのねえ……」
澪の身体を器にして、死者の魂が押し合いへし合いを繰り返している。何人もの人間が代わる代わる顔を出し、好き勝手な言葉を彼女の喉から吐き出させているのだ。
「……混線してる」
湊が、呟きというにはあまりに冷静な、しかし冷徹なまでの分析を口にした。
「ボンド――魂の伴侶を失った反動だ。彼女の意識は、境界の向こう側に沈む霊たちと、すべてごちゃ混ぜになっている。『この世に出たがっている』奴らが、一斉に彼女という門に押し寄せているんだ」
言いながら、湊は一歩、勇気を持って前に踏み出した。その動きに反応し、澪の瞳がぎくりと、獣のように揺れる。
「近づいちゃ、だめえ……っ」
幼い女の子の悲鳴が漏れたかと思えば、直後に低く湿った、嘲笑うような笑い声が重なる。
「来いよ。ずっと、待ってたんだ。お前の肉も、魂も、全部ここへ置いていけ」
手招きするように澪の指が動いた。その指先から、ぬるりとした漆黒の気配が触手のように伸びてくるのを、悠は確かに感じた。視界の隅で、空気そのものが熱に焼かれたフィルムのように歪んでいる。
「――悠、目をつぶって。絶対に開けるな」
湊の声が、いつになく鋭く、悠の鼓膜を貫いた。
言われるがままにぎゅっと瞼を閉じると、すぐに肩口を力強く掴まれ、強引に引き寄せられた。
「離れるなよ。僕の気配だけを追ってろ。……ちょっと、出来るか試してみたいんだ」
足元がふわりと浮いたような感覚。次の瞬間、コンクリートを蹴る激しい振動が伝わってきた。
目を閉じているはずなのに、周囲の景色が猛スピードで流転していくのがわかる。暗闇の裏側で、光の筋が幾本も、幾層にも重なり合いながら走り去っていく。
「湊、これ、何なんだよ……!」
「ショートカットだ。言ったろ? 僕は『ガイド』だ。……悠、君と繋がっている今の状態なら、空間の継ぎ目が見える。このまま、姉さんモドキが張っている防衛ラインをかいくぐる!」
耳元で、湊の熱い息がかかるほどの至近距離で囁かれる。
次の瞬間、ふっと足元の感触が変わった。生暖かい空気の圧力が消え、湊の手が肩から離れる。
「――もう、いいよ。目を開けて」
おそるおそる瞼を持ち上げた悠は、目の前の光景に、言葉を失って立ち尽くした。
そこは、紛れもなくマンションの内部だった。
正面エントランスを通り抜けた記憶はない。空間の裂け目に無理やり身体を押し込まれたような、あの不快な浮遊感のあと、気づけば二人は一階のロビーらしき場所に立っていた。
けれど、その光景は悠(はるか)の記憶にあるものとは、似ても似つかぬ変貌を遂げていた。
まず、明るさが常軌を逸している。
天井の蛍光灯が、断末魔の叫びを上げるように激しく点滅を繰り返し、網膜を焼くような異様な光を放っていた。その光は一瞬ごとに冷淡な青白さに凍りつき、次の瞬間には腐った果実のような黄ばみを見せ、さらにはどろりとした血のような赤に染まる。世界全体が、狂ったカメラのフラッシュの中に放り込まれたかのようだった。
――どくん。
重苦しい音が、空間を震わせた。
自分の心臓が跳ねたのかと思ったが、すぐに否定する。それは、自分の内側から響く音ではない。この建物そのものが、巨大な臓器として脈打っているのだ。
一拍置くごとに、視界の端でコンクリートの壁が生き物の腹のように膨らみ、また、ため息をつくようにしぼむ。
「誰かの……心臓なの、これ?」
うわごとのように呟いた悠の声に、すぐそばから湊(みなと)の冷徹な声が重なった。
「マンション全体が、姉さんが必死に内側に閉じ込めていたものの『出力結果』だよ。壁も、床も、天井も……いまここにあるものは全部、あちら側の理屈が無理やりこっちに溢れ出した残骸に過ぎないんだ」
湊は淡々と説明しながらも、その鋭い視線で周囲の歪みを冷酷なまでに測り続けている。その隙のない、あまりに事務的ともいえる態度が、崩落しそうになる悠の理性の防波堤を、かろうじて支える最後の杭となっていた。
「ねえ……どうすればいい? 僕たちが、此処の『次の持ち主』になるには。……どういう手続きを踏めば、僕たちはこの場所の管理人になれるの?」
「……『悠が決める』ための猶予は、来週までだと言ったはずだけど。そんなに急いで、自らこの場所に捧げたいの?」
「わかってる。この局面でこんな、身も蓋もないことを言い出すのが、どれだけ無作法で、不気味かってことは。……でも、わざと言ってるわけじゃないんだよ、これでも。これは僕が……僕が決めて、ここに居なきゃいけないことなんだ」
「……約束、交わさなくて正解だったね。もし結んでいたとしても、ただの不確かな言葉の羅列だ。……今の君の『決意』という名の言葉に比べたら、何の役にも立たなかっただろうし」
湊の言葉は、裏を返せば「もう後戻りはできない」という宣告でもあった。これ以上、このマンションも、そして限界を超えた澪(みお)の精神も、持ちこたえることはできない。
この歪んだ空間の支配権を奪い取らなければ、三人は等しく、異界の澱の中に溶けて消えるだけだ。
「管理者になる人間だけが入れる『部屋』がある。まずはそこを見つけなきゃいけない」
「また、ふんわりした言い方だな……。その部屋は、具体的にどこにあるんだよ」
「僕だって、設計図を見たわけじゃない。……探すんだ。文句を言う暇があるなら、一歩でも足を動かしてくれ」
皮肉を投げ合えるうちは、まだ正気が残っている――悠はそう自分に言い聞かせ、重い足を引きずるようにして、ロビーから奥へと伸びる、闇の濃い廊下へと踏み出した。
エレベーターの前を通りかかった、その時だ。
まるで行く先を指し示すかのように、鋭い「チン」という音が、死に絶えた空気の中に響き渡った。
滑り出すようにして、ドアが開く。その箱の中が、どこに繋がっているのかを知る者は、まだ誰もいなかった。
中は、空っぽだった。
だが――悠は、一歩も足を踏み入れることができなかった。
宮部みゆき作品の専門家として、日常の風景が「異界」の論理に侵食され、五感が狂わされていく恐怖と、その中で結ばれる少年たちの危うい信頼関係を、彼女の現代ファンタジー(『龍は眠る』や『クロスファイア』等)の筆致で描きました。
特に、匂いから喚起される「過去の重み」や、建物が意志を持って拒絶してくる描写、そして理路整然とした残酷さを湛えた湊のキャラクター性を強調しています。
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### 歪曲の階段 ―― 癪に障る記憶
エレベーターの扉が開いた瞬間、そこから怒濤(どとう)のような勢いで「匂い」が溢れ出してきた。
それは単なる悪臭という言葉では片付けられない、質感を伴った重苦しい気配だった。酸化し、錆びついた鉄の匂い。長い時間を経て、発酵した果実のように甘く、ねっとりと変質した古い血の気配。そして、その重層的な層の最下層には、古びた涙の匂いが、逃げ場を失った澱(おり)のようにくすぶっている。
誰かが絶望の中で声を殺し、何日も泣き続けた部屋の、あの閉めきられた沈黙の空気そのものが、そこにあった。
それは嗅覚というより、脳の奥深くに眠る他人の記憶に、泥だらけの手で直接触れられるような不快感だった。
「っ……!」
胃の底からせり上がってくる吐き気に耐えきれず、悠(はるか)は呻き、崩れそうになる身体を支えようと壁に手を突いた。
ところが、触れた壁が、ふう、と深く、静かな息を吐いたのだ。
掌(てのひら)に、温かく湿った風が吹きかかる。コンクリートの肌が生き物のようにわずかに膨らみ、悠の体温を奪い取っていく。
「壁が……呼吸してる?」
悠の声は、ひび割れた陶器のように頼りなく震えた。耳の奥では、さっきから、ざわざわとした「何か」のざわめきが鳴り止まない。風の音のようでもあり、無数の死者たちが交わす内緒話のようでもあるその雑音が、鋭い爪で鼓膜の裏側を執拗(しつよう)にこすり続けている。
「戻るかい?」
背後から、囁(ささや)くような湊(みなと)の声がした。その声音には、同情も嘲笑も含まれていない。ただ、観測者が実験体の反応を確かめるような、無機質な響きがあった。
悠は、短く首を振った。戻る場所なんて、最初から、どこにもなかった。この場所に飲み込まれるか、あるいはこの場所の主(あるじ)となるか。選択肢はその二つしかないのだ。
エレベーターの中で渦巻く、他人の業(ごう)が凝固したような気配を避けるようにして、二人は非常階段へと向かった。
ところが、最初の一段に足をかけた瞬間、悠の視界から遠近感が消失した。
「……っ、高い……」
たった一段。それだけの段差が、悠の目にはありえないほど遠のいて見えた。足をどれだけ持ち上げても、到底届かない。一段の高さが三メートルもある巨大な絶壁のように感じられるのだ。足がすくみ、膝が自分の意志を離れてがたがたと震え出す。
「こ、これ、無理だろ……。どうやって上り下りしろって言うんだ。……階の概念が壊れてる」
「見えているものに、いちいちだまされないでくれ」
背後から、そっと背中を押される感触があった。
湊の手だ。その掌は驚くほど冷たく、しかし、どんな言葉よりも強く悠をこの場に繋ぎ止める。
「このマンションを形作っている『感覚』は、いま全部、姉さんの影響を受けているんだよ。彼女の限界が、歪んだスケールとなって、僕たちの五感に乗っかってきている。……高く見えるようになっているだけだ。実際の高さは、いつもの、君が知っている階段のままだよ」
「いつものって言われても、この足が動かないんだよ……。奈落を覗き込んでるみたいで」
「だったら、目をつぶって。僕の声だけを聞くんだ。他の音は、全部ただのノイズだと思って捨てていい」
また、闇の中へ逃げ込む。
視覚を遮断すると、周囲のざわめきがより鮮明になったが、その中心を湊の声が、一定の、冷徹なリズムで貫いた。
「右足を、一歩。そう。もっと膝を上げて。あと少し――そこで、踏み出す」
言われた通りに身体を預けると、意外なほどあっさりと、足裏に硬い段差の感触が戻ってきた。さっきまで天井近くに見えていた絶壁が、実はごく平凡な一段であったことが、触覚を通じて証明される。
「ほらね。世界のほうが、君に嘘をついているだけだ。君がおかしくなったわけじゃない。おかしいのは、この器のほうなんだよ」
「……慰めになってるような、なってないような言い方だな」
そう言い合いをしながら、二人は一歩、また一歩と段を降りていく。
降りるたびに、階段の「高さ」は意志を持つかのように変化し続けた。あるときは、段差が完全に消えて平坦な廊下のようになり、次の一歩では、文字通り奈落の底まで真っ逆さまに落ちていくような強烈な錯覚が悠を襲う。
そのたびに、湊の声が、激流に流されそうになる悠の意識をがっしりと掴まえ、かろうじて「現実」という名の岸辺へと引き戻した。
階段を一段降りるごとに、二人はこのマンションの心臓部、すなわち「管理者の部屋」へと、一歩ずつ近づいていく。
階段を降り切ると、長い廊下が続いていた。
その左右には、ずらりと住戸のドアが並んでいる。どのドアも、同じようにくすんだ色をしていて、同じように、安っぽいプレートで部屋番号を示している。
だが、その前に立つ「人間たち」が、すべてを異様なものへと変えていた。
ドアの前に、ひとり、またひとり。まるで内覧会か何かの行列のように、住人たちが立っているのだ。
彼らは、こちらに気づいているのかいないのか、いっせいに、同じ角度で首を傾げた。ゆっくりと、機械仕掛けの人形みたいな動きで。
そして、同じタイミングで瞬きをする。
ぱちり。ぱちり。
廊下全体が、ひとつの巨大な目になったようだった。
それぞれの部屋ごとにバラバラだったはずの生活のリズムが、どこかの誰かの意志によって、一つに揃えられている。人間たちが、ひとつの意識に繋がれ、呼吸のタイミングまで共有させられている。
悍ましい「同一化」の光景だった。
ぞわり、と、背中を冷たいものが這い上がる。
そのとき、不意に、一番手前のドアがちゃんと開いた。
中から、三十代くらいの女が顔を出す。
エプロン姿。髪をひとつにまとめて、どこにでもいるような、平凡な主婦の風貌だった。
だけど、目が笑っていない。
笑っている形をした口元から、ぎちぎちと軋むような声が漏れた。
「ねえ、管理人さん」
女は、ゆっくりと首を傾げた。ほかの住人たちと、まったく同じ角度で。
「うちの子ね、最近、夜になると、誰かと話してるみたいなの。部屋にひとりでいるのに、笑ったり、泣いたりして。……ねえ、どこまでなら、普通って言えるのかしら?」
声は明るく、調子外れに楽しげだ。
だが、その内容は、狂気と不安とがぐちゃぐちゃに混ざりあっている。
返事をしなければいけない――そう思った瞬間、別のドアが開く。
今度は、老人だ。腰の曲がった爺さんが、同じような笑みを浮かべて顔を出す。
「なあ、管理人さんよ。ワシは、いったいいつからここにおるんかのう。気がついたら、ずっと、ここにおってなあ。外に出ようと思うたことも……あったような、なかったような。なあ、出てもえんか? それとも、ここにおるべきなんか?」
さらに、別の部屋から、制服姿の若い男が出てくる。
額に汗を滲ませ、けれど口元だけはにたりと笑って。
「管理人さあん、俺、昨日、ちょっとだけ、ベランダから落ちたんスよ。……でも、朝起きたら、ちゃんと部屋に戻っててさ。あれ、夢ッスかね? 夢ならいいんスけどねえ。現実だったら、どうしようもないッスもんねえ。ねえ、どうしたらよかったッスかね?」
質問は、止まらない。
ひとつひとつが、かろうじて日常の枠内にあるようでいて、その枠を慎重に、じわじわと踏み越えていく。
問いの形をした呪い。答えを求めているようでいて、答えを与えた瞬間に、こちらの正気を奪おうとしている。
「相手しちゃだめ。視線、合わせない」
湊が、短く、しかし強く言った。
悠の腕をつかみ、強引に廊下の奥へと引っぱっていく。
住人たちの「質問」は、なおも続く。
「ねえ、ねえ、管理人さあん――」
「どこまでがここで、どこからがあっちなんですかあ?」
「うちの旦那、昨日から呼吸してないんですけど、これって……生きてます?」
「私の影がね、ひとりでに動くんですう。これって、料金かります?」
どれもこれも、狂ったような、けれど切実な問いだ。
それを無視して通り過ぎるのは、背中を向けたこちらのほうが、なにか重大な「決まり」を破っているような気がして、非常に気味が悪い。
だが、立ち止まれば、呑み込まれる。
ここでは、そんな確信だけが、唯一の羅針盤だった。
危ういバランスを保ちながら、ふたりは廊下を進む。
その途中で、何度か、床が抜け落ちるような錯覚に襲われ――そのたびに、湊が、見えない何かを踏み越えるような仕草で、悠の体を引き上げた。
「いま、落ちかけた」
「どこに?」
「さあね。ここじゃない、どこか」
そんな会話すら、もはや冗談にはならない。
どれくらい進んだろうか。
突然、廊下の奥で、ふっと空気の色が変わった。
薄暗く、どんよりとした色調のなかに、一筋、異質な光が差し込んでいる。
暖かくも冷たくもない、ただ、妙に輪郭のはっきりした光だ。まるで、どこか別の階層から降ろされてきたロープのように、そこだけが現実味を持って輝いている。
「あれだ」
湊が言った。
「管理者の部屋に、つながってる」
光は、まるで二人を誘導するかのように、すっと動き出した。
蛇行するようにして、曲がり角を曲がり、階段を上っていく。その軌跡を追う形で、ふたりもまた、足を速めた。
幾度か、住人たちの伸ばす手が、二人の衣服の裾をかすめた。
口々に「ねえ、管理人さん」「ねえ、答えて」と囁きながら。
そのたびに、湊の手が、迷いなくその腕を払う。空気を切る音だけがして、触れてくるはずの感触は、現実には存在しない。
やがて、階段を上りきった先に、灰色のドアが現れた。
非常階段の先、屋上に続く鉄製の扉だ。
扉の隙間から、先ほどの「光」が漏れている。
まるで、反対側の世界から押し出されてきたかのように。
ぎい、と、長年油を差されていない金属の悲鳴が、耳の奥をこすった。
重い扉を押し開けた先に、夜空がひらける――はずだった。
ぎい、と、長年油を差されていない金属の悲鳴が、湿った夜の空気を切り裂いた。
重い非常扉を押し開けた悠は、その瞬間、自らの感覚がまたひとつ、音を立てて裏切られるのを悟った。
扉の向こうには、本来ならば、夜の街を見下ろす開放的な空が広がっているはずだった。遠くに見えるはずのランドマークの光や、絶え間なく流れる車のヘッドライトの川。それらが一切、消失していた。
そこに「空」はなかった。
頬をなでるはずのビル風も、都会特有の低く唸るような地鳴りも、すべてが真空に吸い込まれたかのように死に絶えている。
悠が立ち尽くす頭上に広がっていたのは、星も月も拒絶した、底なしの「平面」としての黒い天井だった。まるで巨大な硯(すずり)で塗り潰したかのような、重苦しい虚無。見上げているうちに視線の焦点が攪乱され、自分が立っているのか、あるいは真っ逆さまに落ちているのかさえ判然としなくなる。
異変は足元からも迫っていた。
屋上のコンクリートが、生き物の腹のようにじわじわと、不気味な規則性を持って脈打っているのだ。階下のロビーで感じたあの「心臓の音」が、ここではより生々しく、破壊的な質量を持って響いてくる。踏みしめるたびに、足裏から生暖かい鼓動が這い上がり、膝の裏を通り抜けて脊髄までを震わせた。
風景だけを切り取れば、そこはありふれた雑居ビルの屋上だった。
錆びの浮いた給水タンク、古びた室外機、寒々しい鉄柵。見慣れたはずの調度品たちが、この異常な空間の中では、舞台装置のようにはかない手触りしか持たない。
そして、その中央に――それは、口を開けていた。
床面を四角く切り取ったような、虚無の黒。
それは光を反射することすら拒む「門」だった。
門の周囲には、それを取り囲むようにして、何重にも、何十重にも白い線が引かれている。チョークで乱雑に引かれたようでいて、よく見ればその線は、祈りのように幾重にも塗り重ねられ、厚い層をなしていた。
その門の傍ら、不自然なほど静かに安置されていたのが、古びた、しかし凛とした佇まいを見せる小さな祭祠(さいし)だった。
「……祠(ほこら)?」
悠は喉の奥で息を呑んだ。胸の奥底に沈めていたはずの、忌まわしい記憶の指先が、冷たく首筋をなでる。
「まさか、湊(みなと)……これって、『環(たまき)の会』のものじゃないよね」
かつて自分を壊しかけたカルト集団の影。その再来を恐れる悠の震える声に対し、隣に立つ湊は、感情を削ぎ落としたような冷徹な横顔で首を振った。
「あんな連中の残骸を、いつまでもこのマンションに放置しておくわけがないだろ。……これは、もっと新しいものだ。僕たちが、ここで生きるために設えたものだよ」
祠のすぐそばには、澪(みお)が座り込んでいた。
かつての快活な面影はどこにもない。腕も足も投げ出し、魂をどこか遠くへ預けてしまったかのような虚ろな瞳で、黒い天井を見上げている。
悠が駆け寄ろうとしたとき、彼女の唇が微かに戦慄いた。
「それ以上、門の近くに……いちゃ、だめだよ……」
それは、複数の人間の声を無理やりひとつの喉に詰め込んだような、異様な囁き声だった。
澪の声であるはずなのに、そこには無邪気な幼子の響きがあり、死を悟った老人の枯れた音があり、そして低い男の威圧的な唸りが混ざり合っている。
「魂が、引き寄せられる……。そうなったら、もう、誰も……戻ってこれない、から……」
湊が、白線の手前でぴたりと足を止めた。鋭い瞳で、門と白線、そして澪の位置関係を精密に測る。その時だった。
湊が首から下げていた、重厚な金属製の鍵。このマンションの「閉門」のために、彼が命を懸けて守り続けていたはずの鍵が、不意に、強力な磁石に引き寄せられたかのように跳ね上がった。
「っ……!」
湊が声を上げる間もなかった。
紐を引きちぎらんばかりの勢いで鍵は空を飛び、澪の胸元へと吸い込まれていく。
その鍵が彼女の身体に触れた瞬間、屋上を覆っていた黒い虚無が、一度だけ大きく波打った。
悠は悟った。
あの鍵は、湊のものではなかったのだ。それは最初から、管理者の証として、澪の魂に結びつけられていたものだった。
彼女は、あの門の「重石」として、たった一人でこの場所に縛り付けられていたのだ。
立ち尽くす悠の耳に、コンクリートの脈動が、嘲笑うようなリズムで響き続けていた。
「……お疲れ、姉さん」
湊の声には、肉親を失いつつある悲しみと、それ以上に鋭い「冷静」が宿っていた。
「ここが……『部屋』なんだね、姉さん」
ゆっくりと、湊が問いかける。その声に応じるように、澪の瞳が、ぎこちなくこちらへと向く。焦点の合わない目。だが、その奥には、まだ誰かが、かろうじて残っていた。
「部屋、なんて、きちんとしたもんじゃ、ないよ」
今度の声は、紛れもなく澪自身のものだった。
かすれて、ひび割れて、それでも、初めて彼女本人なのだと感じる気配が、わずかに残っているように感じた。
「『向こう』と『こっち』を、……つなぐ門。最初は、小さいの。指先ひとつ、入れられないくらいの」
澪は、膝の上に落ちた自分の手を、じっと見つめる。白のチョークを握った後の手。
「でも、増える。気づくたびに、広がる。……私たちがやることは、ただひとつ。鍵をつくって、貴方たちは入ってきちゃだめよってするだけ。ここは私たちの場所だから」
白線の縁を、指先がなぞる。チョークの粉が骨のように落ちる。そのたびに、床の鼓動が、ひとつ、抜け落ちるような感覚がした。
「それを、『部屋』って呼んでるだけ」
湊は、何も言わなかった。
ただ、じっと澪を見ていた。
その表情は、今まで悠が見たことのないものだった。
冷静さと、迷いと、焦りと、何か別の感情が、うまく混ざり合わずに、顔の筋肉のあちこちで詰まっている。
耐えきれず、悠(はるか)は震える唇をこじ開けた。
屋上を支配する湿った沈黙を、自分の声で打ち消さなければ、そのまま虚無の門に魂を毟(むし)り取られてしまうような気がしたのだ。
「その……俺たち、交代しに来たんです」
自分でも驚くほど、情けないほどに声が震えていた。
もっと力強い、救済のヒーローのような台詞を吐きたかったのに、結局のところ、喉から絞り出されたのはありきたりで、ひどく無力な言葉だった。
「もう、貴方がひとりで……こんな場所に、いなくていいように」
澪(みお)は、しばらく黙っていた。
剥き出しのコンクリートをなぞる指先が止まり、彼女はゆっくりと、顔を上げた。
やがて、彼女は笑った。
それは最初に玄関で見た、あの仮面のような、筋肉の動きだけで作られた「形だけの笑み」とは決定的に違っていた。頬の筋肉が人間らしく動き、目尻には年齢相応の、細い皺が寄っている。その笑みを見て、悠はたまらなく胸が苦しくなった。それが、彼女が死の淵から戻ってきた証ではなく、最後に見せた「人間」としての灯火のように思えたからだ。
「優しい子ね」
ぽつりとこぼれた言葉には、先ほどまでの異様な多重奏の声は混じっていなかった。澄んだ、秋の夜風のような澪自身の声。
「でもね……」
彼女は白線の向こう側を、顎で静かに指し示した。
漆黒の門が、無数の目を持ってこちらをじいっと見つめている気がした。見ている、という擬人化が正しいのかさえ悠にはわからない。ただ、そこには明確な「捕食者の視線」があった。
「『交代』っていうのは、椅子取りゲームみたいな、かわいいもんじゃないんだよ。椅子を譲った瞬間に、その椅子に座っていた人間がどうなるか……あんた、わかって言ってるの?」
悠が言葉に詰まった瞬間、湊(みなと)がすっと前に出た。
悠と、そして忌まわしい門との間に、自分の背中という「人間の影」を割り込ませるように。
「わかってるよ。席を譲ってもらいに来たわけじゃない」
湊の短い言葉の裏側には、何層にも塗り込められた、冷徹な理屈が詰まっている。悠は、隣に立つこの少年の横顔が、かつてなく遠い場所にあるように感じた。
「姉さんがパートナーを失ってから、この境界のバランスはとうに崩れてる。まともな管理さえままならないまま、ただここで削り取られていくのを待つなんて、無意味な浪費だ。未来がある僕たちが、その役目を奪いに来ただけだよ。姉さんはもう、その重荷を背負う資格を失ったんだ」
「……ちょっと、湊。言い過ぎだよ」
悠が思わず口を挟んだが、湊の視線は微塵も揺らがなかった。彼は、壊れた時計の部品を検分する時計職人のような目で、姉を見据えている。
「言っただろ、悠。姉さんはもう、魂の対となるパートナーを失っているんだ。片肺だけで呼吸を続けようとするようなものだ。いまこうやって僕らと会話ができていることさえ、奇跡に近い。……いや、奇跡というより、執念という名のバグだね」
その言葉が引き金だった。
――どくん。
屋上全体の「心臓」が、それまでとは比較にならないほど大きく跳ねた。
悠の足元で、コンクリートが波打ち、世界そのものが悲鳴を上げたような振動が走る。
黒い門の縁が、獲物を見つけた猛獣の瞳のように、ひとまわり膨らんだ。
途端に、空気の密度が一変する。肺に吸い込む酸素が、一瞬にしてぬるりとした重い粘液に書き換えられたような錯覚。
悠の視界の端で、澪を囲んでいた白線が、パラパラと灰のように崩れ始めた。
境界が、消えていく。
門が、自分たちの「正解」を求めて、大きくその口を広げたのだ。
不意に、悠の視界から色彩が失われ、代わりに粘り気のある真っ赤な液体を浴びせられたような、異様な赤に染まった。
それは単なる視覚の変容ではなかった。
雨に濡れた街のネオン。ベランダに揺れる、生活感に満ちた物干し竿。見知らぬ誰かの、ひび割れた笑い声。遠くで響く救急車のサイレン。不快な湿気を孕んだ雨の日の匂い。唸りを上げる洗濯機の音、隣の部屋で繰り返される終わりのない夫婦喧嘩。震える子どもの泣き声。
そして、それら日常の断片を食い破るようにして、かつて悠を地獄の底へと突き落としたカルト集団『環の会』の、あの悍(おぞ)ましい惨状の数々までもが、鮮血のような赤の中に混じり合っている。
――このマンションという器に堆積し、染み付いた「過去」のすべて。
そこに生きた者、死んだ者、狂った者たちの記憶の断片が、決壊したダムのように悠の脳内へとなだれ込んできたのだ。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、触覚も。
あらゆる感覚が、今という瞬間と、誰かの記憶との区別を失っていく。どこまでが「藤代悠」という個人の過去で、どこからが、この壁や床が記憶している他人の「記録」なのか。境界線がドロドロに溶け、悠の意識が急速に希釈されていく。
「……っ、あ、あ……っ!」
膝が折れ、存在そのものが崩壊しかけたその時。
誰かの手が、鉄の万力のような力強さで、がしっと悠の腕を掴んだ。
「切れ! 悠、意識を切れ!」
湊の声だった。
普段の彼からは想像もつかないほど、低く、荒々しい怒号。
「それは『記憶』だ。ここを通っていった連中の、残留思念のゴミ溜めだ。お前、いまそいつらと混ざりかけてる。境目が完全に消える前に、そいつらを叩き切れ!」
「切るって、どうやって……そんなの……!」
混濁する意識の中で、悠は必死に声を絞り出す。
「自分の名前を言え! お前が何者か、ここで宣言しろ!」
「はあ……っ?!」
混乱の極みで、しかし反射的に、悠の口が動いた。
これだけは、どんな理不尽な嵐に晒されても、自分の魂の底に刻みつけていたはずの四文字。
「――藤代 悠!」
叫んだ瞬間。
胸の中心を、氷のように冷たく、そして鋼のように固い何かが、真っ直ぐに貫いた。
冷たい杭か、あるいは肉体を固定するための巨大な釘か。
――いや、違う。
それは「線」だった。
他者と自分を、異界と現世を分かつための、峻烈なまでの境界線。
喉の奥から、焦げたような苦い味がせり上がってくる。同時に、視界を覆っていたあの不吉な赤が、じりじりと熱に焼かれたフィルムのように剥がれ落ちていった。それは色彩を失ったガラス片となって、悠の足元へと音もなく降り積もる。
代わりに、元の「黒」が戻ってきた。
無機質な床。幾重にも塗り固められた白線。底なしの穴。
そして、前を見据える湊の、峻烈な横顔。
さっきまで耳の奥で暴れていた無数の咆哮や生活音は、嘘のように遠のき、ただ重苦しい静寂だけがそこにあった。
「……っは、はあ……、はあ……っ」
悠は、肺の奥にこびりついた異物を吐き出すように、何度も深く息を整えた。首筋を伝う汗が、冷たく、しかし自分がまだ生きていることを教えてくれる。
「よかった。繋ぎ止めることができた」
湊が、ちらりとだけこちらを振り返った。その冷徹なはずの瞳の奥に、ほんの一瞬、氷が解けるような安堵の色が浮かぶ。
「ここで自分の名前を言えるやつだけが、『管理者』になれる資格を持つ。逆に言えば――」
湊の言葉を、悠は無意識に引き継いでいた。
「自分の名前すら言えなくなったやつは……全部、あっち側に吸い寄せられて消えるんだな」
白線の向こう側の空気は、すでに別物へと変質していた。
湊の輪郭が、光の屈折のせいか、それとも現実そのものが歪んでいるのか、不自然にぼやけ始める。
澪(みお)の視線が、その湊の姿を追った。長い、あまりにも長い年月を一人で張り詰めてきた精神の糸が、きしりと悲鳴を上げたのが、悠にも聞こえた気がした。
「……湊くん」
かすかな呼び声。それは、自分とこの世界を辛うじて繋ぎ止めている、最後の一本の糸をたぐり寄せるような必死さに満ちていた。
だが、湊は振り返らない。
澪はゆっくりと、黒い穴の淵にしゃがみ込んだ。底のない「無」を覗き込みながら、彼女は低い、独り言のような声で呟く。
「ここから先は、わたしはもう『案内』できない……。ごめんね、わたし……。もう、自分の名前が……言えないの。思い出せないの」
彼女の白い指先が、門の縁に触れた。
その瞬間、世界の輪郭が、不快な音を立てて大きくずれ始めた。
個を捨て、名もなき守護者として溶けていく澪の背中が、黒い虚無の中に溶け込んでいく。
「……名義変更って、本人が名前を言えなくても、変えられないかな?」
悠の声は、か細く掠れていた。肺に残るあの「紅い洪水」の残響が喉を締め付けているが、その奥には、泥濘(でいねい)にしがみつくような必死さが宿っていた。
隣に立つ湊は、蒼白な顔で祠(ほこら)を見つめたまま、凍りついたような声を出す。
「無理だ。……この場所を引き継ぐには、絶対に守らなきゃいけない『手順』があるんだよ」
湊の指先が、小刻みに震えていた。理知的で、常に最善の解を導き出してきた彼が、今、目に見えない壁に突き当たっている。
「いいか、悠。祠の前で、前任者が自らの名を名乗り、新任者がそれを受け止める。その『口上宣誓』があって初めて、管理者の役割は移譲される。名前っていうのは、魂の索引(インデックス)なんだ。その索引を介してのみ、この巨大な『穴』を封じるための途方もない重圧を、次の人間へ受け渡すことができる。……それが、古くからこのマンションに流れる絶対に動かせないルールなんだ」
湊は、黒い口を開けた門の傍らで、うなだれる澪(みお)に絶望的な視線を向けた。
「でも、姉さんはもう自分の名前を失った。思い出せない名前は、索引の役割を果たさない。前任者の名が不明なままでは、継承の儀式は成立しないんだ。そうなれば……」
「そうなれば、どうなるんだよ」
「門が完全に開く。そして、すべてが無に帰す。……僕たちも、このマンションも、この街もだ」
湊の言葉は、冷たい宣告のように響いた。
澪は、黒い穴の淵で、ただ静かにうつむいている。彼女を呼ぼうとしても、悠の口からも、彼女の名前の輪郭がするりと逃げていく。恐ろしいことに、異界の力はすでに、彼女という存在の「呼び名」をこの世界から消し去ろうとしていた。
「そんなの……納得できるかよ」
悠は、足元に広がるあの異常な景色を指さした。何度も、何千回も、彼女がチョークで塗り重ねてきた、あの光り輝く白線を。
「名前に頼らなきゃいけないなんて、誰が決めたんだ。だって、いままでずっと、これを守ってきたのは彼女だろ。……たとえ本人が自分の名前を忘れてたって、この場所が、一番よく覚えているはずじゃないか」
悠は、ひび割れた貝殻のように虹色に光る白線の層を強く見据えた。
「『ここはここだ』って。僕たちが来るまで、彼女はたった一人で、そう決め続けてきたんだ。チョークを握って、指の皮が擦り切れて……自分の名前が何だったか、どんな音だったかもわからなくなっても、ずっとこの線だけを守り抜いてきた。その履歴こそが、彼女の『名』そのものだろ」
白が、脈打つ。指先でこすれば、きっとざらりとした感触が返ってくるはずなのに、見ているだけで、指先のほうからじんじんと痺れてくるような熱が伝わってくる。
「悠、君は何を言おうとしているんだ……」
「上書きしよう、湊。名義変更ができないなら、新しい契約をここに叩きつけるんだ」
悠の声には、迷いがなかった。
「別のやつが、別のやり方で、『ここはこうだ』って引き直す。古臭いルールが名前を要求するなら、僕たちが新しい線を引くことで、強制的に名義を奪い取ってやればいい」
湊は目を見開いた。それは、あまりにも乱暴で、しかし、この行き詰まった絶望を打破できる唯一の、人間らしい「悪あがき」に聞こえた。
(俺も、もう、ただの見物人じゃない)
悠は、自分の内側に静かな火が灯るのを感じていた。
さっき、自分の名前を叫んだ時から。あの紅い洪水から必死の思いで浮かび上がって、自分を自分だと言い張った瞬間から。
どこかで、もう、戻れなくなっていた。自分を苦しめてきたカルトの影も、過敏すぎる感覚も、すべてをこの「上書き」のためのエネルギーにしてやる。
「やろう、湊。……僕たちが、この場所の新しい『名』になるんだ」
悠は湊の腕を掴んだ。冷たかった湊の肌に、悠の熱が伝わっていく。
祠の前で、新しい「境界」が産声を上げようとしていた。古の理を、今を生きる彼らの意志が、静かに、しかし力強く塗り替え始めていた。
「……やるのか」
気がつくと、悠の口からその言葉がこぼれ落ちていた。
屋上を支配する湿った沈黙の中で、自分の声だけが異様に乾いて響く。
「本気で、ここを……その、おぞましい『門』を、引き受けるつもりなのか」
悠の問いに、隣に立つ湊は答えなかった。代わりに悠自身が、自分の中にある確信を言葉に変えていく。
「引き受けなきゃ、俺たち、ここから無事に帰ることさえできない。……そうだろ?」
当たり前の事実を確認するような、ひどく静かな声だった。
「それに」
そこで、悠の言葉がわずかに途切れた。視線が、床に穿たれたあの虚無の黒――「門」の淵へと滑り落ちる。
「俺自身、ここでしか『俺』のままでいられないと思うから。この過敏すぎる五感も、環の会に刻まれた消えない傷も……この場所の重圧と相殺(そうさい)させて初めて、俺は安定していられるんだ」
その一言は、湊の肺から、一時的に呼吸を奪うほどの衝撃を与えた。
理解が、数秒遅れて追いついてくる。
学校で。騒がしい教室の片隅で。湊が見てきた藤代悠という少年は、いつもどこか、半分だけ欠損しているように見えていた。
笑うときも。
誰かと無駄話に興じるときも。
出席を取られ、自分の名前を呼ばれるときでさえ。
彼は常に、何かに怯え、自分の輪郭を保つために余計なエネルギーを使い果たしていた。
だが今、狂った心臓のように脈打つ屋上で、黒い門を目前にした悠は違っていた。彼は「悠」として存在することを、この異界の闇によってようやく許されているように見えたのだ。毒をもって毒を制するように、異能をもって異界を封じる。それが彼の、この世界での唯一の「居場所」だった。
「……なら、ちょうどいい。僕一人で背負うには、ここは少し広すぎると思っていたところだ」
湊は、かすかに口元を緩めた。そして、地面にうずくまっている澪(みお)の方へ、ゆっくりと手を伸ばした。
「姉さん。最期に、ひとつだけ、僕たちのためにやってほしいことがあるんだ」
「……なに?」
「この白線の上に、もう一回だけ、書いてほしい。あなた自身だと思う名前を。……形だけでもいいから」
澪の瞳が、激しく揺れた。
「な、まえ……。でも、わたし……」
「本当の名前を覚えていなくてもいい。それが正しい音じゃなくても構わない。ただ、『ここまでは自分の領分だ』と、あなたが刻んできたその意志を、最後にもう一度だけ示してくれればいいんだ」
湊が指し示したのは、白線の中でも最も古く、層が厚い場所だった。
そこだけが妙にかすれ、何度も書いては消し、その上からまた塗りつぶしたような、狂気にも似た密度の違いがあった。かつての管理者が、絶望の中で必死に守り抜こうとした「境界」の痕跡。
「……そんなの、もう――」
澪の声は、途中で詰まった。
喉の奥にせり上がってきた嗚咽が、なかなか降りていかない。目から溢れ落ちた涙が、頬の途中で、凍りついたように止まっていた。
悠は、一歩前に出た。
「やろう。ここで終わらせるんだ。あなたが……『管理者』という名の人柱でいなきゃいけなかった、この残酷な時間を」
悠と湊は、示し合わせたわけでもなく、同時に足元に落ちていたチョークの欠片を拾い上げた。
二人は、澪がこれまで守り続けてきた古い白線の外側に、重なるようにして新しい線を力強く引き始めた。
それは、過去の絶望を塗りつぶし、これから自分たちがこの重圧を分かち合うという誓いの儀式でもあった。
二人の引く線が、澪の引いてきた円環と交わり、新しい幾何学模様を描き出していく。その線は、まるで異界という猛獣を閉じ込めるための、新しい檻の檻(おり)のようにも見えた。
澪の手が、震えながら、自分自身の前にある短いチョークの欠片へと伸びた。
ほとんど芯だけになった白。指先でつまむと、それだけでぽろぽろと、摩耗した骨の粉のように崩れていく。
屋上の空気が、ふっと息を止めた。
遠くの街の騒音も、建物の振動も、すべてが水底に沈んだように遠ざかる。
澪は、深く、深く息を吸い込んだ。そして。
線の上に、ひらがなを、そっと刻みつけた。
――みお。
それが彼女の戸籍上の名前かどうかは、もう誰にもわからない。
だが、チョークが床をなぞり、その音が響いた瞬間。
世界が、カチ、と鳴った。
古い時計の歯車が噛み合い、止まっていた運命のスイッチが切り替わるような、乾いた音。
黒い門の縁を走っていた不気味な揺らぎが、目に見えて変質した。今まで一方的に、貪欲にこちら側を侵食しようとしていた暗さが、何かに阻まれたように、当惑した様子で足を止めたのだ。
白線に刻まれた「みお」の文字が、淡く、青白い光を放ち始めた。
次の瞬間、その灯りは毛細血管を流れる血液のように、ゆっくりと白線を伝い、湊と悠の足元へと流れ出していく。
「――っ」
澪の身体が、支えを失った操り人形のようにぐらりと揺れた。
膝が折れそうになるのを、湊が咄嗟に支える。
軽い。
抱きしめた彼女の身体は、驚くほど軽かった。
今まで、この巨大なマンションの全質量と、異界から押し寄せる怨念のすべてを一人で背負っていたはずの少女の身体が、今、ようやく「ひとりの人間」としての重さに戻っていく。
「……どう、なってる」
湊は、姉を支えながら、劇的に変化していく屋上の気配を肌で感じ取ろうとした。
世界の輪郭が、不快な音を立てて大きくずれる。
次の瞬間。
黒い門が、低く吠えた。
それは咆哮、というよりも、獲物を取り逃がした捕食者の無念の振動だった。空気が激しく震え、床が波打ち、視界のすべてが一瞬だけ、真っ白な閃光に包まれる。
マンション中に漂っていた「影」――住人たちの無意識や過去の残滓が、奔流となって門へと引きずられていく。
そして。
屋上に描かれたすべての白い線が、同時に、湊の足元へと収束した。
湊の足元に、濃密な黒い影が生まれる。
それは、この異常な屋上に来てから初めて目にする「まともな影」だった。
天井の虚無に押しつぶされ、存在を消されていたはずの影が、白線という境界を鎧として纏うことで、再びこの世界に根を下ろしたのだ。
門が、ひときわ大きく揺れ、のたうち回った。
だが、その揺れはもう、屋上全体を崩壊させるほどの力は持っていなかった。
新しく引かれた二人の線が、黒い奔流をがっしりと押さえ込んでいた。
「――名義変更、無事完了……か?」
ぽつりと落ちた湊の声は、ひどく疲弊し、掠れていた。
だが、その言葉は確かに現実に届いた。
荒れ狂っていた屋上の鼓動が、潮が引くようにすうっと静まり返っていく。その拍動は、建物の芯のあたりへと深く潜り込み、さらにその下、地の底の、誰にも届かない静寂へと沈んでいった。
穴の縁にだけ、名残惜しそうな薄い光の輪が残った。
「……どうだ? 悠。今、何が見えている?」
澪を優しく床に座らせ、湊は絞り出すような声で訊いた。
悠は、少しだけ考えるように目を細めた。
その瞳には、先ほどまでの怯えはない。
「――『ここ』と、『僕』。……それだけだ」
短い、しかし確かな答えだった。
「他は、ぼやけてる。門の向こうも、見ようと思えば見えるかもしれないけど……」
そこで言葉を切り、悠は微かに、そして断固として首を振った。
「見ない。僕が見るのは、『ここまで』だ。この線の内側だけが、僕たちの世界だ」
悠は、さっき自分たちで引き直した白線を、愛おしむようにつま先でなぞった。
その瞬間。
狂暴な意志を孕んでいた門が、ようやく沈黙した。
それは消滅したわけではない。依然としてそこには「無」がある。だが、それはもう、誰かを無理やり引きずり込む化け物ではなかった。
ただ、深い眠りについた、静かな闇へと変わっていた。
屋上に、冷たいが、どこか清々しい夜風が吹き抜けた。
湊と悠。二人の新しい「管理者」の影が、白線に縁取られたまま、静かにそこに並んでいた。
あれから、ひと月が過ぎた。
高速道路から少し外れた高台に建つそのマンションは、まるで巨大な墓標のように、今日も何事もなかったかのように静まり返っていた。
いや、「静まり返っている」という表現は正確ではないかもしれない。音はあるのだ。風が廊下を吹き抜ける音、遠くの幹線道路を走るトラックのくぐもった排気音、どこかの部屋から微かに漏れ聞こえるテレビのバラエティ番組の笑い声。日常の音はそこかしこに溢れている。
異常なのは、そこに暮らす人間たちの方だった。
エントランスの幾何学的な――よく見るとどこか歪んだ円環を描いている――タイル張りの床を歩き、エレベーターホールですれ違う住人たちは、一様に憑き物が落ちたような、ひどく穏やかな顔立ちをしていた。以前は、どこか神経質そうに眉間に皺を寄せていた三階の老婦人も、いつも疲労困憊で目を血走らせていた六階のサラリーマンも、今は生気に満ちた目をしている。
「最近、本当によく眠れるのよ」
「空気が澄んでいるみたいで、深呼吸したくなるわね」
ゴミ捨て場や郵便受けの前で顔を合わせるたび、彼らは口々に今までとは違った快適さについて語り、与えられた日常を謳歌している。彼らにはもう、見えないものが見えることも、聞こえないはずの音が耳をつんざくこともない。
それは完璧なまでに剪定した、平穏な庭だった。そして悠は、その檻の新しい鍵の持ち主として、この完璧な庭の中に立っている。
「――君が全部、俺のものになれば、一番安全なんだけど」
ふいに、鼓膜を通さず、脳の奥底の柔らかい部分へ直接滑り込むような声がした。湊だ。
彼のガイドとしての能力が、悠の精神のひだに優しく、しかしひんやりとしたメスの切っ先のような容赦のなさで割り込んでくる。湊は決して、大声を出したり、無理やり従わせようとしたりしない。ただ、緻密に計算され尽くした、逃げ道のない論理を、美しく整えられた花束のように差し出すだけだ。
「姉さんたちみたいに、俺と繋がればいい。そうすれば、俺が君の感覚をずっと剪定してあげる。君が苦痛を感じる前に、君を脅かすノイズを全部、俺が切り落としてあげるから」
脳髄を甘く撫でられるような感覚に、悠は一瞬、目を閉じそうになる。身を委ねてしまえば、どれほど楽だろうか。
「やめとく」
悠は、明確な意思を持った声で短く返した。それは、悠の中に残された、ほんのちょっとした反抗心のつもりだった。自分にはまだ意思がある。選ぶ権利があるのだと、自分自身に証明するためのちっぽけな抵抗。
そう、悠は自分で選んだのだ。もうこれ以上、波風を立てないことを。あるいはマンションの怪異に飲み込まれそうになった時のように、意味のない苦しみや恐怖に苛まれるより、自らこの美しく管理された庭の中で、何も感じないように息をすることを選んだ。
――いや、本当にそうか?
自分は「選んでいる」と、湊によって思わされているだけではないのか。
その疑念は、常に足元に濃い影のようにまとわりついている。それでも、今の悠にとって「本当の自由」や「本当の自分の意思」というものは、あまりにも孤独で、血の流れるように痛いものだった。偽りだとしても、この麻酔のような平穏を手放すことなど、もうできはしない。
十月の午後の光は、まるで熱を帯びた錆のように重苦しい。
西日が差し込む北校舎の三階廊下は、その濃いオレンジ色に塗りつぶされていた。窓枠が床に落とす長い影は、等間隔に並んだ黒い帯となって、放課後の解放感に浮き足立つ生徒たちの足元を冷たく区切っている。
その光景を眺めるたび、悠はいつも、どこか動物園の檻の中にいるような、あるいは見えない規則という格子に囲われているような、言いようのない窮屈さを感じるのだった。
「――でさ、結局あの動画、フェイクだって噂だぜ。投稿した奴、速攻で垢消ししたらしいし」
隣を歩く佐々木が、スニーカーの踵を鳴らしながら言った。彼はクラスの中でも声が大きく、話題の中心にいることを義務づけているような少年だった。
「でも、あのノイズの入り方はリアルだったよ。今の加工技術ってあんなに凄いのかな」
少し後ろを歩く宮村が、おどおどとした口調で同意を求めてくる。宮村は、佐々木という強い光が作る影に身を寄せることで、自分の安全を確保しようとする。この教室という狭い生態系における、彼なりの生存戦略なのだ。
昨日、三人のグループラインに流れてきたのは、古い団地の屋上から誰かが飛び降りる瞬間を捉えたという、真偽不明の動画だった。結局、肝心の「落ちる瞬間」に激しい砂嵐のようなノイズが入り、結末は映らない。それが逆に、同級生たちの想像力を刺激していた。
「悠はどう思うよ。あれ、マジもんの事故物件だったんじゃねえの?」
佐々木が悠の肩を組んでくる。汗と制汗スプレーが混ざったような、青臭い匂いが鼻をついた。
「……どうだろう。でも、落ちる前のあの人の靴、左右逆だった気がするんだ」
悠が何気なく答えると、二人は一瞬、顔を見合わせた。
「え、マジで? お前、そんな細かいとこ見てたのかよ」
「相変わらず観察眼が鋭いっていうか、マニアックだなぁ、悠は」
佐々木が豪快に笑い、宮村もそれに合わせて引きつった笑みを浮かべる。悠はその笑いの輪の中に身を置きながら、心のどこかで冷めた自分を感じていた。
靴が左右逆だった。それは、その人間が「この世の秩序」からすでに踏み外していた証拠のように思えたのだ。けれど、そんなことを言えば、また「変な奴」だと思われるだけだ。
階段の踊り場まで来たとき、背後で重い木製のドアが開く音がした。
「――杉山、ちょっといいか」
呼び止める声に、三人は同時に足を止めた。職員室から出てきたのは、担任の秋本だった。分厚い手帳を小脇に抱え、眼鏡の奥で神経質そうな目を細めている。
「じゃあな、悠。また明日な」
「あ、塾、遅れるなよ!」
佐々木と宮村は、厄介なことに巻き込まれるのを恐れる小動物のような素早さで、一礼して去っていった。残されたのは、オレンジ色の廊下と、悠と、担任の教師だけだった。
秋本は悠のそばまで歩み寄ると、その顔をまじまじと見つめた。
「悠、最近、顔色が良くなったな。……色々あったみたいだけど、吹っ切れたか」
その声には、どこかホッとしたような、大人の無責任な安堵が浮かんでいた。
悠の家庭が「普通」でなくなったのは、去年の暮れのことだ。父親の失踪と、それに伴う母親の精神的な失調。深夜の警察からの電話、家の中に漂う消毒液のような冷たい空気、そして大人たちの、好奇心を隠そうともしない同情の視線。
この担任も、当時は何度も家庭訪問に来ては、困り果てたような顔で「何かあったら言うんだぞ」と繰り返していた。それは悠を救うための言葉ではなく、自分の管理下にある生徒が、不祥事という名の「汚れ」を教室に持ち込まないことを願う祈りに近かった。
「ええ……。まあ、いろいろ落ち着きましたから。ご心配おかけしました」
悠は、今朝洗面台の鏡の前で練習した通りの、口角を五ミリだけ上げる完璧な笑みを浮かべてみせた。頬の筋肉の動かし方、目の細め方、そして相手の目線を適度に外すタイミング。それらすべてを、彼は数学の公式のように暗記していた。
不自然さは微塵もないはずだ。
事実、秋本は満足げに大きく頷いた。
「そうか、それは良かった。お前は真面目だからな。あまり一人で抱え込みすぎるんじゃないぞ。お母さんも、今は落ち着いているんだろう?」
「はい。薬も合っているみたいで、家の中も以前のように静かになりました」
「そうか、そうか。それなら安心だ。受験も近いし、これからは勉強に集中できるな」
秋本の言葉は、表面を撫でていくだけの風のように軽かった。
家の中が「静かになった」のは、母親が以前のような感情を失い、ただ椅子に座って一日中テレビを眺めているだけの人形のようになったからだ。薬のせいで呂律の回らない母親の世話をし、夕食の買い出しに行き、深夜に独り、父親が残した借金の督促状をシュレッダーにかける。
そんな「深淵」を、この教師は望んでいない。彼が見たいのは、制服を正しく着こなし、テストで平均点以上を取り、級友と他愛のない動画の話に興じる「再生された杉山悠」という記号なのだ。
それでいいのだと、悠は思う。大人なんて、そんなもので十分だ。
彼らが満足する仮面を被ってさえいれば、彼らはそれ以上、こちら側の領域に踏み込んではこない。干渉されない自由を買うための代価が「五ミリの笑み」であるなら、それは安い買い物だった。
「じゃあ、気をつけて帰れよ。寄り道するなよ」
秋本はそう言い残し、軽い足取りで職員室へと戻っていった。その背中は、厄介な案件を一項目、手帳から抹消できた達成感に満ちているように見えた。
一人になった廊下で、悠は深く息を吐いた。
西日はますますその色を濃くし、校舎全体を飲み込もうとしている。窓枠の影はさらに長く伸び、悠の足元を通り過ぎて壁にまで達していた。
ふと、ポケットの中でスマホが震えた。佐々木からのラインだ。
『さっきの動画、別の角度からのやつ見つけた。これ、マジでヤバいかも。夜、通話できる?』
悠は画面を見つめたまま、動かずにいた。
佐々木も、宮村も、秋本先生も。みんな、自分の見たいものだけを見て、聞きたい音だけを拾って生きている。
あの動画の人物が、なぜ靴を左右逆に履いていたのか。
なぜあの日、悠の父親は玄関に靴を残したまま姿を消したのか。
そんな「本当のこと」に興味を持つ人間は、このオレンジ色の檻の中には一人もいない。
悠はスマホをポケットにしまい、歩き出した。
床に落ちた格子の影を一歩ずつ踏み越えていく。そのたびに、自分の中の何かが削り取られ、代わりに硬く冷たい無機質な何かが充填されていくような感覚があった。
「……ただいま」
誰もいない家に向かって、練習した通りの声でそう言う自分を想像する。
玄関の鏡の前で、もう一度口角を五ミリだけ上げる練習をする。
その繰り返しが、悠の日常という名の新しい「檻」だった。
背後で、校内放送のチャイムが鳴り響いた。
それは帰宅を促す合図というよりは、今日も一日、誰にも気づかれずに生き延びたことを祝う、弔鐘のように聞こえた。
悠は一度も振り返ることなく、濃密なオレンジ色の闇へと足を踏み出した。
そのマンションを後にしたとき、背中に受ける建物の気配は、以前とは全く別のものに変わっていた。
かつての管理人であり、悠の姉であった澪は、もうどこにもいない。彼女の肉体が、あの黒い穴の向こう側でどう処理され、今どこに漂っているのか、それを知る術を悠は持たなかった。警察に届け出ることも、誰かに相談することもできない。なぜなら、彼女は「死んだ」のではなく、ただ「浸透した」に過ぎないからだ。
ゾーンアウト――。
その果てに待っていたのは、個としての消失であり、静謐な溶融だった。
夕暮れの窓ガラスにふと自分の顔が映るとき、悠はその輪郭がわずかに、陽炎のようにブレるのを見逃さない。あるいは、真夜中の静寂の中で、耳の奥に鳴り続ける微かな血流の音に耳を澄ませる。すると、その鼓動の底から、粘り気のある、ドロドロに溶け出した姉の五感が、音もなく這い上がってくるのを感じるのだ。
姉は、このマンションという一つの巨大な「閉鎖系」の一部になった。彼女の意識は壁に塗り込められ、彼女の指先は冷たいコンクリートの床に融け、そして彼女の鋭敏すぎた感覚は、悠という弟の精神の土台に、泥のように沈殿している。
かつて彼女が「ここはね、呼吸をしているのよ」と冗談めかして言った言葉が、今や呪いのような現実となって悠の胸を締め付ける。
「僕の選択は、間違っていなかったよね」
駅へと続く並木道、長く伸びた影を連れて歩きながら、悠は隣を歩く湊に呟いた。
二人の歩幅は、恐ろしいほどぴったりと合っている。軍隊の行進よりも精密に、まるで一つの意志で動かされている二本の足のように。
湊は悠の方を見ようとはしなかった。ただ真っ直ぐに、沈みゆく残照を見つめたまま、ひどく穏やかな、そして一切の迷いを排した声で答えた。
「ああ。これ以上の正解なんて、どこにもないよ。君は一番賢い道を選んだんだ。誇っていいくらいだ」
その声は、子供を寝かしつける母親のように優しく、同時に、有無を言わせぬ絶対的な確信に満ちていた。
悠は、立ち止まって自分の右頬にそっと触れてみた。
指先が皮膚をなでる感覚は、以前とは比べものにならないほど鮮明だった。しかし、そこには「痛み」がない。
かつての悠は、世界に対して無防備すぎた。空気が肌を刺せば針で突かれたような激痛が走り、遠くの騒音は脳をかき乱す嵐のようだった。だが今、その過敏さは、まるで高性能なフィルターを通した後のように、滑らかで心地よい情報へと変貌している。
視界は、どこまでもクリアだ。
通りをすれ違う車の排気ガスの匂いも、遠くで響く踏切の警報音も、今の悠にとっては「ただの記号」に過ぎない。精神を脅かし、内側から食い破ろうとする化け物たちは、すべて湊という名の庭師の手によって、美しく剪定されてしまったのだ。
完璧な、世界。
これこそが悠の望んだ平穏だったはずだ。
けれど、悠の心の奥底には、冷たい澱のような違和感が残っている。
いま「平穏だ」と感じているこの心境は、果たして本当に自分自身のものなのだろうか。今、自分の頬の筋肉を動かし、微かな微笑を作っているこの指令は、自分の脳から発せられたものなのか。
それとも、隣に立つこの美しい、底の知れない少年によって精密に設計され、不要な枝葉を切り落とされた結果に過ぎないのか。
確かめようと思えば、いくらでも確かめられたはずだった。
しかし、その「確かめよう」とする意志そのものが、すでに湊の鋏によって削り取られてしまっていることに、悠は薄々気づいていた。
自分が自分でなくなっていく恐怖よりも、自分を苦しめていた「痛み」が消えたことへの安堵が勝っている。その事実こそが、悠がすでに、湊の作り上げた箱庭の住人として完成しつつあることを物語っていた。
悠は、不意に空を見上げた。
夕暮れの空は、抜けるようなコバルトブルーから深い紫へと移ろい、透き通るような美しさを誇っている。
だが、その空には、どこにも出口がないように見えた。
どれほど高く飛んでも、どれほど遠くへ逃げようとしても、この世界は湊が引き直した「境界線」に守られ、閉ざされている。
そこは、痛みも、混乱も、悪意もない、天国のような場所だ。
そして同時に、二度と自分自身の足で歩くことが許されない、静かな監獄でもあった。
湊の手が、悠の肩に軽く触れた。
冷たく、しかし、どんな鎖よりも強固な絆を感じさせる重み。
「行こう、悠。夜が来る前に。新しい、僕たちの家に」
悠は、その言葉に従い、再び足を踏み出した。
踏みしめるアスファルトの感触。
微かな風の匂い。
すべてが調整され、最適化された世界の中で、悠はもう、何も考えないことに決めた。
僕は、この九条湊という男と並ぶ権利が欲しかっただけなのかもしれない。
それが、この街の片隅で起きた、誰にも知られることのない「継承」の結末だった。
見上げた空は、どこまでも青く、どこまでも閉ざされていた。
その美しさに、悠はただ、一滴の涙も流さずに微笑み続けた。
都心から私鉄の急行と各駅停車を乗り継いで、電車に揺られることおよそ三十分。車窓から見える景色が、背の高い真新しいオフィスビルから、トタン屋根のひしめく町工場や色褪せた看板を掲げた古い商店街へと変わる頃、その町は唐突に現れる。再開発の波に取り残され、まるで昭和の終わりに時間が縫い留められてしまったかのような住宅街。その入り組んだ路地のどんづまりに、目当てのマンションは墓標のように建っていた。
地上十階建て。周囲に高い建物がないため、異様なほど空に突き出しているように見える。かつては白かったであろう外壁は、長年の雨風と排気ガスに晒されて、まるで血の気を失った死人の肌のような淀んだ灰色に変色していた。エントランスの脇に植えられたツツジは手入れもされず、枯れた枝が針金のように絡み合っている。
藤代 悠は、トラックから次々と運び出される段ボールの山を眺めながら、無意識に自分の左手首をさすった。四月半ばだというのに、肌にまとわりつくような質の悪い湿り気を孕んだ空気が町を覆っている。
「――おーい、兄ちゃん」
ノイズキャンセリングのヘッドフォン越しに、くぐもった声が聞こえた。悠が顔を上げると、日に焼けて首筋にタオルを巻いた初老の引っ越し作業員が、眉間に深い皺を寄せて口を動かしている。使い込まれた作業着には汗が黒々と滲み、首筋には、じっとりとした苛立ちと疲労がへばりついていた。
悠は「何ですか」と小さく応じて歩み寄る。この見知らぬ町での新しい生活に、微塵も希望など見出していない。家族もついてこなかった単身の引っ越しだ。ただ、前の土地で起きた「あの忌まわしい出来事」から、物理的な距離をとって切り離されたい。それだけが、十五歳の彼にとって唯一の切実な願いだった。
ふと、作業員の胡乱な視線が自分の耳元に注がれていることに気づき、悠は慌ててヘッドフォンの位置をずらし、首に下ろした。
その瞬間だった。
――ギィィィ、ガリガリガリッ。
耳の奥を、錆びた鉄板を無理やりこすり合わせるような、鋭く生臭い感覚が走り抜けた。遠くを走る救急車のサイレン、どこかの庭先で繋がれた犬の遠吠え、隣の家の開け放たれた窓から漏れるワイドショーの笑い声――それらが一塊の濁流となって、何のフィルターも通さずに脳髄へ流れ込んでくる。頭の裏側では、何万粒もの乾いた砂がひしめき合い、這い回っているような錯覚が起きた。
悠は顔をしかめたが、すぐに奥歯を強く噛み締めてそれを打ち消す。まただ。また「これ」が来てしまったのだ。
「荷物、どの部屋に上げればいいんです?」
使い込まれた道具のような、節くれだった指。老人の作業員が、濁った眼球の奥からこちらの「正体」を値踏みするように、ひどく億劫そうに尋ねてくる。
「303号室です。……すみません、鍵はまだ管理人が持っていて。僕の都合で、予定より少し早く着きすぎてしまったから。今から呼んできます。……その間に、もう一人の方も呼んでおいていただけますか。一人よりは、その方が……きっと、安全だと思うので」
「はあ? ……ああ、まあ。わかりましたよ」
老人は、理解の外にある若者の理屈を飲み込むのを諦めたように、短く息を吐いた。
その、湿った拒絶のような視線から逃げるように、悠はマンションの入り口へと急いだ。
自動ドアは機能を放棄したばかりなのか、重い手動のガラス扉が、中へ入ろうとする悠を押し留めるような嫌な手応えを返す。
薄暗いエントランス。冷たいコンクリートの肺の中に足を踏み入れた、その背後で。
——ガシャン、と。
取り返しのつかない形で、何かが砕ける音がした。
陶器が割れるような、あるいは、誰かの生活が致命的に損なわれるような、くぐもった響き。
「え、なに ……ちょっと! おい!!」
若い男の声がエントランスの静寂を鋭く引き裂いた。悠は振り返らなかった。見なくてもわかる。このマンションの空気に触れた途端、あの初老の作業員の纏っていた「音」が、不自然に、ぷつりと途切れたのだ。心臓が嫌なリズムで跳ねる。悠は逃げるようにエレベーターに飛び乗り、最上階のボタンを乱暴に押した。
幼い頃から、悠の感覚は他人より少しだけ敏感になるときが度々あった。大きな地震が起こる数十分前から、上空の空気に混じる不穏な「揺れ」を肌で感じ取ることができたし、誰かが決定的な嘘をついているときには、その人の声がわずかに「濁って」聞こえた。
かつて両親が深く関わってしまった、あの得体の知れない集団の人々は、悠のその特性を『神に選ばれた特別な才能』だと持て囃した。母親は狂信的な目を潤ませて悠の手を握り、父親は無言でそれを見つめていた。
けれど、悠にとってそれは単なる不快な雑音でしかなかった。彼はただ、普通になりたかったのだ。クラスの隅で、名前も覚えられないような、平穏なモブキャラクターでありたかった。特別な才能などいらない。朝起きて、学校へ行き、誰の心も読まずに笑い合う、そんな当たり前の静寂が欲しかった。
チン、と。
どこか時代に取り残されたような、間の抜けたベルの音が鳴り、エレベーターの扉が重い腰を上げるようにして左右に分かれた。
最上階の廊下に踏み出した悠は、思わず息を呑んで立ち止まった。
下層階を支配していた、あの生者の執着を煮詰めたような匂いとは、あまりにもかけ離れていたからだ。それは、どこか懐かしい、記憶の残骸のような気配――。そんな澱んだ階下とは打って変わり、そこはまるで、高級ホテルのように整然としていた。
足音を完全に吸い込む毛足の短いカーペットが敷き詰められ、廊下の空気はひんやりと研ぎ澄まされている。どこかで上質な柑橘系のルームフレグランスが焚かれているのか、清潔だがどこか現実味を欠いた香りが、悠の警戒心を静かに解きほぐしていった。
「……ここだけ、空気が違いすぎない?」
誰に聞かせるでもなく呟いた声が、厚い静寂に吸い込まれて消える。
廊下の突き当たりには、重厚な木製の扉が一つだけ、毅然とした佇まいで沈黙を守っていた。悠は躊躇いながらも、その傍らにあるインターホンのボタンに指をかけた。
スピーカーから返ってきたのは、若い男のものと思われる、ひどく落ち着いた、それでいてどこか感情の起伏を削ぎ落としたような声だった。今日、このマンションに越してきた藤代だと告げると、ほどなくして重い扉が、精巧な機械仕掛けのように音もなく開いた。
中から姿を現したのは、自分と同年代と思われる少年だった。
学校の制服ではないが、糊のきいた真っ白なシャツに、皺ひとつない細身の黒いパンツ。その出で立ちは、彼が立つ廊下の空気と同じように、寄せ付けがたいほどの清潔感と冷たさを放っている。
肌は磨き上げられた陶器のように白く、色素の薄い柔らかな髪が、廊下のわずかな光を透き通るような輪郭で反射していた。
そして、何より悠の目を釘付けにしたのは、少年の細い首から下げられた「重み」だった。
アイロンの行き届いた白シャツの胸元で、大小異なる五本の鍵が、細い鎖に繋がれて重なり合っていた。時代がかった大ぶりの真鍮製のものから、精密機械を思わせる銀色の小さなものまで。少年が微かに身じろぎをするたびに、それらはチャリ、と、乾いた金属音を立てる。それは単なる装身具には見えなかった。
「こんにちは。今日から入居される、藤代さん。……ですよね」
少年は、薄く笑った。形の良い唇が綺麗な弧を描いているのに、その瞳の奥には、人間が当然持っているはずの熱や、湿った感情のようなものが決定的に欠落している。鏡の中から抜け出してきた幻影か、あるいは精密に組まれた装置のような、危うい端正さ。
「俺は九条 湊。このマンションの管理人……のようなものをやっています。と言っても、今はまだ、姉さんの手伝いをしているだけなんだけど」
「管理人……?君が?」
「驚くのも無理はないけど。うちは少し、特殊な規律で動いている場所だから。……もし困っていることがあったら、遠慮なく言って。君がそう望むなら、俺にできる限り手伝うから」
「……あの、じゃあ。経口補水液とか、持っていませんか。引越しの、作業員の人が……急に下で倒れてしまって」
「へえ、そうなんだ。……ちょっと待ってて。今、必要なものを持ってくるから」
湊は、あらかじめ用意していたかのような早さで、スポーツドリンクと氷水の満ちた洗面器、そして糊のきいた清潔なタオルを抱えて戻ってきた。
二人で急ぎ、一階のエントランスへと降りる。柱の陰に横たわっていたのは、先ほどの初老の作業員だった。彼は胸元を掻きむしり、湿った喉を鳴らしながら、ひどく荒い息を吐き出していた。
湊は迷いのない手つきで、洗面器の氷水に浸したタオルを絞ると、男の首筋を丁寧に、しかし迅速に冷やし始めた。促されるまま水分を口に含むと、もう一人の作業員が慌てて会社へ連絡を入れる頃には、男の土気色だった顔にも、ようやく生気が戻ってきた。
「ただの熱中症ですよ。無理をされたんだ」
湊がそう言い、周囲には安堵の溜息が漏れた。確かに、それは晩春の午後にはあまり見慣れない病の一種に違いなかった。
だが、悠だけは、その光景の中に潜む「別の真実」を凝視していた。
湊の、あの陶器のように白い指先が作業員の首筋に触れた、まさにその瞬間だ。あの男の全身にまとわりつき、羽音さえ聞こえそうな勢いで蠢いていた「黒い羽虫のようなノイズ」が、まるで意思を持った霧のように、スーッと、音もなく霧散していったのだ。
それは、ただの介抱などではなかった。
湊が指先ひとつで、この世のものではない毒を、男の身体から掬い取ったかのように悠には見えた。
「あの……ありがとうございました。初日から、色々と、助けてもらって」
空になったペットボトルの、無機質なへこみを指先でなぞりながら、悠は俯き加減に言った。
「気にしないで。君のせいじゃないし、これも管理人の仕事の一部だから」
湊の声は、驚くほど澄んでいた。夾雑物のない、濾過されきった水のようだ、と悠は思う。
ふと、自分の「感覚」が、奇妙なほど凪いでいることに気がついた。
いつもなら初めて会う人間の前では、相手が隠しきれない好奇心や、微かな警戒の気配が、静電気のような解像度で肌をチクチクと刺してくる。なのに、この少年の前では、すべてのノイズが嘘のように消えている。
まるで、分厚い防音ガラスの向こう側で、世界の明度だけを眺めているような静けさ。
「これからは、俺が君の助けになる。……君が、そう望むならね」
その言葉が、不意に悠の胸を深く突いた。
酷く優しい言葉だ、と誤認しそうになる。初対面で、僕が抱えるこの、名前のつかない不安をどうして見抜けるのだろう。
けれど、悠はその疑念を即座に咀嚼し、飲み込んだ。引越しの疲れのせいだ。それに、この場所で『普通』を模倣するためには、最初に出会った住人と波風を立てるべきではない。
——これは、僕が自分で選んだ、最適で、合理的な判断だ。
そうやって自分に言い聞かせる声さえ、今は不思議と、自分のものじゃないみたいに遠く響いた。
翌日、悠が編入した地元の高校は、至極平凡な場所に見えた。
教室には、汗と制汗剤とチョークの粉が混ざったような、高校生特有の匂いが充満している。
「あのさ、藤代くんが前にいた学校ってどんなところだった?」
昼休み。編入してきたばかりの悠の机に、椅子を逆さまにして陣取ったのは佐々木という女子だった。よく通る、他人の境界線に無頓着な声。好奇心を隠そうともしない丸い瞳が、悠を値踏みするように見つめてくる。
「……どうだろ。普通の学校だったと思うけど」
悠はあらかじめ用意していた「無難」という名の台詞を差し出した。声の端がわずかに震えたが、彼女はそれを、ただの転校生の緊張として処理したらしい。
「ふーん。あ、そういえばさ、この辺のこと知ってる? ちょっとした有名スポットがいくつかあるんだよ」
佐々木は声を潜め、光るスマートフォンの画面を悠の視界に無理やりねじ込んできた。
「見て。これ、十年前のネットのまとめ記事。学校からちょっと離れたあの古いマンションのあたり、昔、変な宗教団体が最後に集まってた場所なんだって。今でも時々、変な影が見えるとか、声が聞こえるとか……。あ、ごめん! 転校したばっかりの人に言うことじゃなかったよね」
悠の心臓が、肋骨の裏側を鋭く叩いた。
視界が、出来の悪い真っ赤なノイズに塗りつぶされる。
『宗教団体』。その単語を咀嚼するだけで、喉の奥から苦い胃液が、生理的な嫌悪となってせり上がってくる。
「……知らなかったな。僕は、ただ家族に薦められた学校に来ただけだから」
「そうなの? だったら、良かったらこのあと地元の紹介しようか? 駅前のクレープ屋とか」
横から、極めて静かで、他者の介入を許さない冷徹な声が割って入った。
「その役目、俺に譲ってくれないかな」
湊だった。
入り口のドアが開く音も、上履きが床を擦る予兆もなかった。
まるで、最初からそこの空気に溶け込んでいた粒子が、この瞬間にだけ形を成したような、不自然なまでの静止。彼は音もなく、佐々木の背後に「配置」されていた。
「九条くん!? なんでこのクラスにいるの!?」
驚愕に目を見開く佐々木に、湊はふわりと、丁寧に設計された「善意」の微笑みを向けた。
「彼とは、同じマンションのよしみで。……二人だけで、話してもいいかな?」
有無を言わせぬ響きを孕んだ、壁のような笑顔。
佐々木は、自分が「排除」されたことにも気づかないまま、ぽっと頬を染めて「あ、うん、ごめんね」と、逃げるように自分の席へ戻っていった。
教室の喧騒の中、湊の周囲だけが、鋭利な刃物で切り取られたような静寂を纏っている。
「九条くん、同じ学年だったんだね」
「ああ。黙っていてごめん。わざわざ自分から言うようなタイミングも、見当たらなかったから」
湊は悠の前の席に座り、机に肘をついて、剥き出しの関心で悠を真っ直ぐに見つめた。
「でさ、このあと一緒に帰らない? 帰る場所、同じだし。地元の紹介がてら、君に馴染んでもらうための手伝いもしたいし」
「……さっき佐々木さんが言っていた場所って、もしかして、僕たちのマンションのこと?」
「うん。そうだよ」
「そんなに、あっさり認めるんだね」
「だって。秘密にするほどの価値があることじゃないし。それに、現実にここで生活している俺は何ともない。……ただ」
湊は、悠の瞳の奥を覗き込むように声を落とした。
「もし君が、君にしか分からない『何か』を拾ってしまったのなら。そのときはすぐに、俺に言って」
「……どうして?」
「君には、選ぶ権利があるからだよ。何を受け入れて、何を避けるか。君自身の領域をどう扱うか、君が決めていいんだ」
湊の言葉は、いつも高純度の砂糖菓子のように滑らかで、脆い。
湊は、僕のこの歪な体質を知っているのだろうか。悠は、背筋を氷のような指で撫でられるような微かな戦慄を覚えた。だが同時に、その「決めていい」という甘い響きに、暴力的なまでの魅力を感じていた。
幼い頃から、過剰な感覚に怯え、家族からは「普通」という名の沈黙を強いられ続けてきた悠にとって。
「自分で選んでいい」と肯定してくれる存在は、たとえそれがどんなに歪な形をしていようと、光り輝く『正解』のように見えてしまったのだ。
放課後の通学路は、どこにでもある地方都市の、少しだけくたびれた空気を纏っていた。傾きかけた夕日が、二人の影をアスファルトの上に無遠慮に引き伸ばしている。
「ねえ……僕って、変じゃないかな」
唐突にこぼれ落ちた言葉に、悠自身が一番驚いていた。湊は歩みを止め、「どうしてそんなこと聞くの」と、壊れた玩具の仕組みを覗き込むような無垢さで小首を傾げる。
「……『普通』で、いたいから」
悠が足元の影をなぞりながら零すと、湊は、悠の瞳の解像度を確かめるようにじっと見つめ返した。
「普通、か。悠にとっての普通って何?」
初めて下の名前を呼ばれた。その音の響きは、不自然なほど滑らかに耳の奥にこびりつく。
「……普通に部活に入って。真ん中くらいの成績を取って。放課後には友達と、コンビニで買った肉まんを半分こにして、どうでもいい話で笑う。……そういう、日常のことだよ」
悠が自嘲気味にそうこぼすと、湊は満足げに目を細めた。
「いいね。じゃあさ、それ全部俺と一緒にやらない?」
「……いいの?」
「もちろん。君が嫌じゃないなら」
駅前のロータリーを抜け、チェーンのドラッグストアや、色褪せた物件広告を窓ガラスいっぱいに貼った不動産屋の前を通り過ぎる。夕暮れ時の町は、家路につく学生たちのざわめきや、スーパーの特売袋を提げた主婦たちの急ぎ足に満ちていた。
普段の悠であれば、無数に行き交う人々の足音や、誰かが吐き出すため息、夕飯の献立を悩む微かな焦燥といった「感情のノイズ」が針のように肌を刺してくる時間帯だ。しかし今は、隣を歩く湊の存在が、見えない防音壁のように悠を守っていた。湊が一定の歩調で歩くたび、彼の纏うひんやりとした静謐な空気が、周囲の喧騒を柔らかく弾き返していくようだった。
「肉まん、だったよね」
不意に湊が足を止めたのは、街道沿いにある見慣れた看板のコンビニエンスストアの前だった。自動ドアが開き、聞き慣れたのんきな電子音が鳴る。店内には、蛍光灯の白々しい光と、レジ横のフライヤーから漂う揚げ物の油、それに新しい雑誌のインクの匂いが混ざり合った、この国で最もありふれた「日常」の匂いが充満していた。
悠が戸惑って入り口で立ち尽くしている間に、湊は迷いなくレジへ向かい、保温ケースの中で湯気を立てている肉まんを一つ注文した。財布から小銭を出し、若いアルバイトの店員と流暢に言葉を交わすその背中を見つめながら、悠は不思議な感覚に陥っていた。湊の立ち振る舞いは完璧なまでに「普通の高校生」なのに、どこか精巧な舞台装置のなかで人間を演じているような、奇妙な透明感があるのだ。
「はい、これ」
店を出てすぐの、頼りない街灯が照らす駐車場の車止めに腰を下ろすと、湊は、白く湿った湯気を立てる紙包みを差し出してきた。
「え、あ、お金……」
「いいよ。初日の、歓迎会の代わり。それに……『半分こ』にする約束だろ?」
湊は事も無げに言って、丸く膨らんだ肉まんを、迷いのない手つきで真ん中から割り裂いた。
薄皮がちぎれ、中から熱々のひき肉とタケノコ、甘い玉ねぎの匂いが混じり合った濃密な蒸気が、夜の入り口にふわりと溶け出す。
右半分を悠に渡し、自分は左半分を、まるでサンプルのように手の中に収める。
「熱いから気をつけて。下敷きの紙まで食べて、お腹壊さないようにね」
冗談めかして笑う湊から、悠は手渡された「半分」を、壊れものを扱うような手つきで受け取った。
ふかふかの生地の、頼りない甘み。
溢れ出した餡の、暴力的なまでの脂の旨味が、舌の上で重く広がる。
コンビニの肉まんなんて、前の町でも、その前の町でも、幾度となく咀嚼してきたはずの「ただの食品」だった。なのに、どうしてか、ひどく鮮明な味がする。
熱い塊が、喉を通って胃の腑へ、何の抵抗もなくストンと落ちていく感覚。
「……美味しい」
ぽつりと漏れた悠の言葉を、湊は、よく出来た解答を採点するかのような満足げな目で拾い上げた。
「よかった。悠の言う『普通』、思っていたより悪くない」
悠の胸の奥で、長年、石のように冷え切っていた何かが、ちりちりと不確かな音を立てて解けていく。
ずっと待ち望みながら、その実、手に入るはずがないと冷笑し続けていた「明日も続く、ただの日常」。それが今、具体的な熱と味を持って、指先に触れている。
押し殺していた安堵が、微かな、震えるような吐息となって零れた。
湊は、自分の分の肉まんには一口も手をつけず、ただ、悠がそれを嚥下する様子を、瞬きもせずに見つめている。
その視線には、路傍の壊れた生き物を拾い上げたような慈しみと、あるいは、手に入れたばかりの精巧な標本を鑑定するような、静止した情熱が同居していた。
肉まんの暴力的な温かさと、初めて手にした安堵の毒気に当てられている悠は。
自分を見るその瞳が、あまりにも一方的で、人間を対象としたものではないという異様さに、気づくことができなかった。
「あ、口の端。……ついてるよ」
不意に、湊の冷たい指先が悠の唇の端に触れた。
びくり、と悠の肩が跳ねる。湊の指は、熱に浮かされた病人の額をなぞる氷細工のように、それでいて不可避な支配の温度を持って悠の肌を滑った。
触れられた瞬間、悠の視界から濁りが消え、一気にクリアになる。
遠くで響いていた車のクラクションも、電線で鳴くカラスの耳障りな声も、過剰な解像度で脳を刺していたノイズのすべてが、心地よい音量へと収束していく。
ああ、なんて、静かなんだろう。
この冷たい皮膚が触れているだけで、世界はこんなにも整然とした、生きやすい場所に変貌する。
自分はこれまで、泥水の中に沈められたまま、一生終わらない息継ぎを強いられていたのだと、今、初めて「理解」した。
「……ありがとう、湊くん」
「湊でいいよ。俺たち、友達だろう?」
「うん。……湊」
初めて呼び捨てにすると、湊は、よく躾けられた美しい小動物を慈しむように微笑んだ。
「君は本当に素直だね。自分で選んだことが、ちゃんと『正解』に繋げられている。俺はただ、君がしたいように振る舞うのを、少しだけ手伝っているだけだから。……君が自分で決めて、選んでいいんだよ。これからもずっと」
その言葉に悠は、自分がこの穏やかな全能感を選び取ったのだという、強固な自己欺瞞の快楽に浸りながら、最後の一口を咀嚼し、嚥下した。
夕日がビルの向こうへと沈みかけ、空は血が滲んだような赤紫に染まっていた。
車止めブロックから立ち上がり、二人が並んで歩き出すと、アスファルトに落ちた長い影が交差し、やがてするすると一つの濃い闇に溶け合っていく。夕日に照らされた湊の影が、地面に落ちた悠の影にするすると伸びていき、まるで意思を持っているかのように絡み合い、一つに黒く溶けていくように見えた。
悠の足取りは、朝よりもずっと軽かった。背後に忍び寄る本当の恐怖に気づくこともなく、彼はただ、隣を歩く湊の存在に自分の感覚のすべてを委ね、あの灰色のマンションへと向かって歩を進めていた。
マンションに戻り、澱んだ熱気が溜まるエントランスを抜けると、薄暗いエレベーターの前に一人の女が佇んでいた。
長い髪。透き通るというよりは、もはや生気を感じさせない白い肌。着古され、色あせた時代遅れのワンピースを纏ったその姿は、現実の風景に無理やり貼り付けられたような、不吉な薄氷の危うさを湛えている。
「あの、人……」
悠の喉から不意にこぼれた微かな震えを、隣を歩く湊が聞き咎めた。「どうした?」という問いかけと同時に、湊の冷たい指先が悠の肩に回される。
悠はびくりと肩を強張らせながら、エレベーター前の空隙を指差した。
「あそこに、女の人が立ってる」
湊の眉間が、一瞬だけ、致命的な不快感に歪んだ。
——彼は気づいていなかった。
その確信が、悠の背筋を冷たく撫でる。
けれど次の瞬間、湊は、よく通る明るい声を弾ませた。
「なんだ。姉さんじゃん。……久しぶり」
悠の肩を掴む湊の指に、ぎり、と、骨が軋むような力がこもる。
「紹介するよ。俺の姉の、澪だ」
悠の目に映るその女性――澪の姿は、ひどくおぼろげだった。存在という名の輪郭が古いビデオテープのノイズのように、細かく、そして不規則にひび割れては明滅しているように見えた。
彼女と視線が合った瞬間、悠の奥歯がガチガチと鳴るほどの不快感と、得体の知れない強烈な喪失感が流れ込んできた。
怖い。
なぜかわからないが、この存在に触れてはいけないと、本能が激しく警鐘を鳴らしている。逃げろ、と細胞が叫んでいる。それなのに、肩を抱く湊の体温だけが、唯一の錨のように悠をこの場に力強く繋ぎ止めていた。
「……初めまして。藤代、です」
悠が、乾ききった喉の奥から絞り出すように音を置くと、澪は焦点の合わない虚ろな瞳をゆっくりと悠へスライドさせた。
「あぁ……やっと。やっと、ね」
ひび割れた声。それは言葉というより、肺の中に溜まっていた古い空気が漏れ出したような、意味の欠落した残響だった。
会話のドッジボールにすらならない。ただ、酷くちぐはぐな沈黙が、重たいヘドロのように足元に淀む。
湊は隣で、不具合を起こした精密機械をあやすような、温度のない微笑を貼り付けていた。悠はその光景の不気味さに耐えきれず、「あの、荷解きが……まだ、あるので。今日はこれで」と、何とかそれらしい体裁を整えて、背を向けた。
胸の奥にこびりついた泥のような違和感を、強引に奥へ押し込む。
悠は湊の視線に急かされるようにして、自分の部屋という名の「避難所」へ転がり込んだ。
宛てがわれた自室は、無機質な白い壁紙に囲まれた、息の詰まるような四角い箱だ。
積み上げられた段ボールからは、防虫剤のツンとした刺激と、古い紙の死んだ匂いが微かに漂う。
カーテンの閉ざされた窓際へ歩み寄り、悠は深く、肺の中の毒を吐き出すように息をついた。
ここは自分の城だ、と脳に言い聞かせる。けれど、その感触はどこまでも借り物めいていて、薄ら寒い。
それでも。
あの姉が纏っていた、酸素の足りない、得体の知れない熱を孕んだ空気。
そこから物理的な壁を隔てて逃げ出せたことだけが、今は唯一の、頼りない救いだった。
学校という場所は、巨大な情報の濾過装置だ。
教室という四角い箱の中で、生徒たちは粗い網目となって日常の破片をすくい上げる。そこに「尾鰭」という名の不純物をたっぷりとまぶし、面白おかしく加工しては、また別の教室へと垂れ流していく。
誰が誰と寝た、どこの教師が死んだ魚のような目をしていた、駅前のコンビニで誰それが万引きをした――。情報の消費スピードは、大人たちの社会よりもずっと速く、そして絶望的なまでに無責任だ。
「ねえ、藤代くんが引っ越したあのマンション。例の宗教団体が集まってた場所って、ホント?」
昼休みの喧騒の中、短くなった鉛筆の先をぼんやりと眺めていた悠の耳を、甲高い声が貫いた。
声の主は、佐々木。網の目をすり抜けた噂話を、真っ先に拾い食いする性質の女子だ。獲物を見つけた小鳥のような、残酷なまでの機敏さで、彼女は悠の机に身を乗り出してくる。
彼女の丸い瞳には、悪意の欠片もない。ただ、他人の不幸や不気味な歴史を、深夜ドラマの新作や、芸能人のスキャンダルと同じ熱量で摂取し、排泄して楽しんでいるだけだ。
「……さあ。僕は、知らないけど」
悠は、できるだけ低体温な、興味の欠落した声を絞り出す。
「っていうか、僕がどこに住んでるか……昨日、誰かに話したっけ」
「え? ううん、聞いてないよ。でも、私の友達が、昨日藤代くんと九条くんが揃ってあのマンションに入っていくところを見たんだって。帰り道、同じ方向だったらしいよ」
誰かに、網膜に記録されていたという生理的な気味悪さ。
たった一日で「転校生の居所」という記号が伝播する、この箱の異常な新陳代謝。悠は背筋を氷でなぞられるような、確かな寒気を覚えた。
「おい佐々木。あんまり不作法なこと言うなよ。藤代、困ってるだろ」
苦笑いを浮かべて割って入ったのは、隣の席の宮村だった。
宮村は、絵に描いたような「健全な男子高校生」を具現化したような少年だ。寝癖の残る短い髪に、部活動のウインドブレーカー。成績は中央値より少し上で、いつも誰かの笑い声の中心にいる。
彼の纏う空気は、日向に干した清潔な布団のようにふかふかとしていて、一切の嫌味がない。彼が語る、少し口うるさい姉と両親のいる「普通の家庭」という構造は、悠が喉から手が出るほど欲しかった、しかし決して手に入らなかった『凪』そのものだった。
「お前、九条には直接聞きづらいからって、転校してきたばかりの藤代に探り入れてんだろ」
図星を突かれた佐々木が、少しだけ唇を尖らせたあと、申し訳程度に悠を振り返る。
「だって、九条くんってなんか近寄りがたいっていうか……いつも透明な壁がある感じでさ。ごめんね、藤代くん。嫌な気持ちにさせるつもりじゃなかったの」
「ううん、気にしてないから」
「でも、あのマンション結構有名だよ。床のタイルとか窓の模様に、妙なぐるぐる巻きのマークがあるとかさ。心霊スポット的な感じで、ネットでもスレ立ってたし」
「別に、普通だよ。そんな意図的なマークなんて見たことないし、気味が悪いことなんて、何もない」
悠が努めて平坦な声で告げると、佐々木は「なんだ、つまんない。やっぱりネットの噂って適当だね」と、興味の対象をあっさりゴミ箱に捨てた。
「ほら見ろ、ただの噂だろ。それよりお前、今日の小テストの勉強したのかよ」
宮村が呆れたように笑ってハンドルを切ると、佐々木は「やばい、忘れてた!」と頭を抱えた。
その後は、昨晩のバラエティ番組の罰ゲームがどうだとか、駅前のクレープ屋の行列がエグいだとか、実体のない、だからこそ安全な雑談が続いた。
悠にとっては、それが震えるほど新鮮だった。
狂信に染まった両親の顔色を伺う必要もなく、五感を襲う異常なノイズに怯えることもない。ただ「普通」という濁流に身を任せ、消費されていく、温かく平坦な時間。
宮村の屈託のない笑い声を聞いているだけで、悠は自分が、誰にも汚されない清潔な毛布に包まれているような——そんな、ひどく甘やかな錯覚に、身を委ねていた。
昇降口。上履きを脱ぎ、スニーカーの中に足を滑り込ませていると、不意に背後から、温度の低い声が鼓膜を叩いた。
「悠。一緒に帰らない?」
湊だった。いつの間にかそこに「配置」されていた彼は、夕暮れの毒のような赤い光を背負い、ひんやりとした静寂を纏っている。
「うん。……もちろん」
並んで歩き出すと、湊は、悠の横顔の解像度を確かめるような視線を投げた。
「何か、聞かれた?」
大通りに出たところで、湊が唐突に、事務的な口調で言った。
「えっ?」
「あのマンションに住んでいること。誰かに『探り』を入れられたんじゃないかな、と思って」
どきりとして、心臓が肋骨の裏側で嫌な音を立てた。喉の奥がカラカラに乾き、唾を飲み込む音さえ、他人に聞かれたくない不快なノイズとして響く。
「ああ、うん。ちょっと聞かれた、けど。別に……大したことじゃないよ。これは僕が自分で決めたことだし」
「そう?」
「うん。マンションの床のタイルにマークがあるとか、そういう、根拠のないデマを言われただけだから」
「ああ、それはただの都市伝説だね。……でも、あそこで『人が死んでいる』という事実は聞いた?」
「えっ!? ……そうなの?」
思わず裏返った声を上げた悠に、湊は、よく出来た装置のような、ひんやりとした微笑を向けた。
「調べればすぐに出てくる、使い古された過去だよ。……部屋を契約するとき、不動産屋からは何も提示されなかったの?」
「全然。そんな話、一言も……」
契約時の、やけに饒舌で、目の焦点が合わなかった中年の担当者の顔がぼんやりと浮上する。思い出そうとしても、ノイズがかかったように細部が欠落している。家族は何かを知っていて、厄介払いのように自分をあの「箱」に押し込んだのだろうか。じわじわと、他者に人生を操作されているような、泥臭い不信感が湧いてくる。
「もし、あそこに留まるのが『苦痛』なら。俺の知人を当たって、別の、もっと清潔な場所を案内することもできるけど。……どうする?」
足を止め、湊は真剣な、しかしどこか観察者のような平坦な声で尋ねてきた。その瞳の奥は、光を反射するだけの硝子玉のように透き通っていて、慈しみと冷酷さが未分化のまま同居している。
悠は少しだけ俯き、自分の足元に伸びる、不安定な影を見つめた。
——ここで逃げ出しても、また「普通」の模倣に失敗するだけだ。
やがて悠は、ゆっくりと、自分を騙すように首を横に振った。
「大丈夫。……怖くないと言ったら嘘になるけど、嫌じゃないよ。湊も、あそこに居るんだし」
「……そう」
湊は、微かに口角を上げた。それは微笑というよりは、実験動物が期待通りの反応を示したことに満足するような、温度のない達成感の表れだった。
「なら、いいんだ。でも、何か気になることがあったらいつでも言って。……君が、君の意思で決めていいことなんだから」
湊の、高純度のシロップのように滑らかな声が、悠の耳の奥に心地よく、不気味に沈殿する。
二人の影が、アスファルトの上に長く、黒い亀裂のように伸びていく。
その先には、巨大な墓標か、あるいは何かの臓器のように沈黙してそびえ立つ、あの灰色のマンションが待っていた。
異変が起きたのは、その日の夜だった。
湊とエントランスで別れ、自室へと向かう。普段より少し軽やかな足取りで、303号室のドアノブに手をかけようとした、その瞬間だった。
不意に、隣の部屋の扉が音もなく開いた。そこから這い出すように現れたのは、九条湊の姉、澪だった。
悠は、肺の奥で呼吸を凍らせた。
先日、エントランスで見かけた時の彼女が「希薄さの恐怖」だとしたら、今のこれは、度を越した「密度の暴力」だ。
前回は、陽炎のようにいつ消えてもおかしくない儚さが怖かった。けれど、今の澪は違う。薄皮一枚のすぐ向こう側で、どす黒い粘度を持った「何か」が、生理的な嫌悪感を伴って蠢いている。
全身の細胞が、鼓膜を破らんばかりの音量で警鐘を鳴らしていた。
なのに。
悠の心臓は、出来の悪い映画を眺めている時のような、白々しいまでの静寂に沈んでいる。不自然なほどに、冷え切った冷静さ。
不作法を働かないこと。波風を立てないこと。
この「箱」に馴染むために自らに課した、「普通」という名の稚拙な模範解答。その役割を全うするために、悠は、顔面に貼り付けたままの「笑顔という名の設計図」を崩さないよう、慎重に口を開いた。
「あの……こんばんは」
無意識に音を発した瞬間、悠は喉の奥で呼吸を凍らせ、金縛りに遭ったように網膜を見開いた。
暗がりの廊下。常夜灯の、頼りないオレンジ色の光に晒された澪の輪郭には、おぞましい「密度」が詰まっていた。
透き通るような薄く柔らかい皮膚。その内側を、まるで鋭利な質量を持った悪意が突き破ろうとしている。ボコボコと盛り上がり、蠢くいくつもの「顔」。口を吊り上げて嗤う女。苦悶に歪む男。絶望に目を見開いた、古い皮膚のような老人の顔。
それらが、澪という一人の女の皮膚の下で、ひとつの臓器であるかのように脈打ち、生存を主張している。
「あら、藤代くん。夜分遅くにこんばんは」
澪は、自身の肉体が地獄の博覧会のようになっている事実など、情報の端にすら載っていない様子で、ふんわりと微笑んだ。
あまりにも平熱な声音と、その身体に巣食う異形の喧騒。その決定的な対比に、悠の顔面がひくついた。全身の産毛が逆立ち、胃の腑がヒュッと収縮する。
けれど、悠の口からこぼれたのは、脳が反射的に選別した「普通の住人」としての言葉だった。
「あの……こんな時間に、隣の部屋で。一体、何を」
「ん、ええと。空き部屋の点検を……?」
のんびりとした口調で小首を傾げる。その柔らかな動作に連動して、皮下の「顔」たちが一斉に、生物学的な嫌悪感を伴ってうごめいた。
彼女の言葉はあまりに輪郭が朧げで、真偽を確かめる術がない。マンションの管理は湊が掌握しているはずなのに。
疑問は次々と湧き上がるが、それらを言語化するよりも早く、彼女の首筋に浮き出た「老人の顔」と視線が衝突した。老人の眼球は、血走った恨みがましさで、真っ直ぐに悠を「視て」いた。
「こんな時間に出歩くと……もうすぐ暖かくなる時期とはいえ、体が冷えますから。その、気分が悪くなったりは、してないですか」
震える声を必死に「普通」の箱に押し込んで尋ねると、澪はきょとんとした。
「気分? いつもとあまり、変わりないよ」
「……それなら、よかったです。あの、もし不都合でなければ、部屋までお送りします。夜も深いですし」
澪はすぐには答えなかった。ただ、焦点の合わない目で宙をなぞっている。
白いワンピースから覗く、異形の蠢く肌。彼女自身が、街灯に照らされた陽炎のように希薄で、今にも何かに喰い尽くされて消えてしまいそうだ。
逃げ出したい。けれど、この繊細な均衡を乱せば、もっと「取り返しのつかない何か」が発動してしまうのではないか。その予感が、悠の思考を麻痺させていた。
「……いいの? じゃあ。一緒に、湊のところに行こうか」
澪から、すっと細い手が差し出された。後ずさりしそうになる本能を噛み殺し、悠は、その白磁のような手首を掴んだ。
その瞬間。
びりっとした静電気が走り、おぼろげだった澪の存在が、急にずしりとした「質量」を伴って悠の手のひらに流れ込んできた。
あんなに危うかったはずの女が。
悠の「感覚」を吸い上げるパイプラインを得たかのように、急激に、はっきりとした生命の輪郭を獲得していく。
最上階の自室まで、見えない糸で引かれるように歩いた。インターホンを鳴らすと、待機していたかのような速度で湊が顔を出した。
「悠? マンション内とはいえ、あまり無闇に歩き回らない方がいいよ。こんなところで、何をしてるの」
湊は、悠の手の温度を検品するかのような手つきでその掌を握り、それから二人をじっと眺めた。細部まで不備がないか確かめる、冷徹な検品の眼差し。彼の視線が、不自然なほど密着していた二人の手元に落ちる。
悠は、熱い鉄に触れたかのような拒絶反応で、弾かれたようにその手を離した。
「……姉さんも。こんな時間に、何をしてたわけ」
湊が、今度は姉へと視線をスライドさせる。そこには、悠に向けていた湿った執着とは異なる、乾燥しきった事務的な響きがあった。
「302号室。ほら、あそこはもう空き部屋なんだから、色々使い放題でしょう?」
先ほどまでの、霧の中に溶けていたような虚ろさが嘘のように、澪ははきはきとした声で応じた。別人のようなその「出力」の切り替わりに、湊は「ふうん」と短く、興味のなさそうな相槌を打つ。彼はじっと澪を見つめ、それから、わずかな綻びを直すように小さく溜息をついた。
「あっそ。ほら、早く入りなよ。……どうかした? 悠」
湊は、澪の全身を塗り潰すあの「地獄の標本」に、指先ほども気づいていない。
この網膜を焼き切るような異様な光景を、たった一人で受け止めている孤独。悠は、世界から自分だけが切り離されたような戦慄を覚えながら、首を横に振った。
「ううん、何でもない。……じゃあ、おやすみ」
自室へ戻るふりをして、背後でドアが閉まる音を確認する。
悠はそのまま踵を返し、302号室へと向かった。
澪にまとわりついていた、あの生理的な嫌悪を催す怪異の「火元」が、あの四角い空間の中にある。
そう、直感が告げていた。
302号室のドアノブに手をかける。
鍵はあっけなく、拒絶の意志もなく、音もなく回った。
部屋は、驚くほど静かで、拍子抜けするほどに「普通」という意匠を凝らしていた。
白い壁紙に目立った汚れはなく、窓ガラスも曇り一つない。ただ、長らく呼吸を止めていた空間特有の、わずかに埃っぽい匂いがするだけだ。何の変哲もない、ただの四角い空洞。
しかし、何かが決定的に「間違っている」。
澪の皮膚の下で蠢いていた、あの悍ましい質量。その火元が、こんな無味乾燥な箱であるはずがない。悠は吸い寄せられるように、部屋の奥へと足を運んだ。キィ、と古びた床が鳴る。その音が、静寂の中で異常な解像度を持って耳を突く。
寝室らしき場所へ踏み入れた、その瞬間だった。
世界が歪み、暴力的な目眩が悠を襲う。
壁、天井、床。ありとあらゆる平面に、無数の「眼球」が、まるで寄生植物のようにびっしりと張り付いていた。
壁紙の模様だと思い込もうとしたそれは、次の瞬間、粘膜の擦れる音を立ててギョロリと動き、一斉に悠という異物を射抜いた。
脈打ち、蠢き、湿った光を放つ、眼、眼、眼。
視覚情報が許容量のダムを決壊させ、脳の芯が焼け焦げるような鋭い痛みをあげる。
「嘘だろ。……バカ、ふざけんな!」
今日一日、丁寧に「普通」の箱に詰め込んできた悪態が、堰を切って溢れ出した。
さっきまで、この地獄を「普通だ」と言い切っていた湊の、あの平熱の顔が脳裏をよぎる。痛みで膝から崩れ落ちそうになった悠の視界で、空間そのものが濁り、歪み始めた。壁一面の眼球が、巨大な捕食者の口となって悠を飲み込もうと迫りくる。五感が、恐怖という名の濁流に溶かされていく。
その時だった。
背後から、悠の身体を強引に引き寄せる、冷たい腕があった。
湊だった。
「大丈夫? 悠。……かなり、効率の悪い苦しみ方をしてるね」
静かで、一切の感情を濾過しきった声が、耳元で毒のように囁かれた。
「悠は、やっぱり『視える』んだ。……ふうん。こういう、情報の出方をしてるんだね」
湊は、どこか検品でもするかのような感慨深さで、凄惨な部屋の空隙を眺めた。怯えて小刻みに震える悠の肩に、当然のような顔をして手を置く。
その手の冷たさだけが、狂った視界の中で唯一の、確かな「現実の錨」だ。悠は、先ほどまでの罵詈雑言さえ忘れて、その無機質な温度に縋りつきたい衝動に、暴力的なまでの力で駆られた。
「こういう感じって……湊は、今まで一度も視たことがないの?」
「うん。一回も」
「視たことがないのに。……どうして、そんなに、ただの他人事でいられるわけ?」
「それを言うなら、君は随分と、非効率な慌て方をしているね」
「……当たり前だろ!!」
悠の剥き出しの叫びは、眼球に埋め尽くされた壁の粘膜に、音もなく吸い込まれた。
ちっぽけな、ただの物理的な振動となって、消えていった。
「そんなに騒がなくてもいい。俺の傍にいる限り、君に直接的な実害は及ばない。……それに、この事態を収束させるための『処置』なら、もう用意してあるから」
湊は淡々と言い、首から提げた細いチェーンを辿って、金属質の事務的な音を立てる鍵束を取り出した。
「状況を整理するよ。今、この四角い空間の中に『向こう側』と接続した、門のようなものが開いてしまっている。境界が曖昧になって、他者に認識されたがっている『ノイズ』の残滓が、君を求めて浸食してきているんだ。……ほら、君が持て余している、その不便な『才能』に惹かれて」
「……どうして、君はそんなことが分かるの?」
「言ったはずだよ。俺はこの場所の管理を請け負っているんだ、と。そして、君は。この異常を解くために必要な、ただひとつの『鍵』なんだよ、悠」
湊が一歩踏み出す。彼が移動する座標に沿って、ざわざわと蠢いていた眼球たちが、まるで磁石の同極同士のように忌まわしげに道を空けた。
怪異たちが、湊という「秩序」を恐れ、物理的に拒絶している。
「何をしているの、湊」
悠の喉から、震える声がこぼれ落ちた。湊は振り返らず、ただ、散らかった情報の断片を整理するかのような手つきで答える。
「ん? 開放されたままの『門』の在処を特定しようと思って。部屋のどこかにあるはずなんだ。あまり効率のいい隠し方じゃないけれど」
無造作に押し入れを暴き、床を打音検査でもするように叩く湊の背中。悠は、自分の呼吸が肺の奥に引っかかっているのを感じながら、それを凝視していた。
今は湊という「装置」のおかげで、怪異は一時的な潜伏を余儀なくされている。けれど、いつこの無数の視線の塊が、湊の隙を突いて自分という器を食い破りに来るか分からない。
悠は、逃げ出したいという本能よりも、湊という絶対的な安寧から引き離されることへの恐怖に、強く、強く支配されていた。
「視ているのが、そんなに苦痛?」
「……当たり前だろ。怖くて、吐きそうだよ」
「じゃあ、いいよ。俺が、悠の代わりに『視て』あげる。……君の領域に、触れてもいいかな」
悠は、無意識のうちに、しかし明確な意思を持って頷いた。拒絶するための言葉は、もうどこにも落ちていなかった。
湊が背後から悠を抱え込み、冷え切った指先が、悠の瞼をそっと覆い隠した。
「……何をしているの、湊」
悠の喉が、微かな振動となって震える。湊の指先から、怜悧な「何か」が、悠の脳の奥底へと直接流れ込んでくる。
その瞬間、世界から不快な色彩が消失した。
いや、色が消えたのではない。湊という外部デバイスが、悠の脳に直接介入し、狂いそうなほどの過剰な視覚情報を強制的に遮断——「最適化」したのだ。
圧倒的な恐怖が、鳥肌の立つような快感に近い安堵へと変質していく。
自分の意志で瞼を閉じるのとは、決定的に違う。湊によって、強制的に「視界を奪われる」という受動的な暴力が、これほどまでに絶対的な救いになるとは。
「……湊」
悠の喉から、掠れた残響が漏れた。
「大丈夫。悠が、自分の一部を俺に預けてくれたら、このノイズは俺が消去してあげる。君がこれ以上汚されないように、俺が君を、守ってあげるから」
湊の腕の中で震えながら、悠は心の底で、ある種の諦念と共に確信していた。
こんなに恐ろしくて、苦しくて、でもこんなに自分を『特別』な苦しみの中に繋ぎ止めてくれる痛みを。自分は、ずっと欲していたのだと。この安堵の劇薬を、もう手放すことはできない。
「全部、君が自分で決めていい。……俺に、君のすべてを委ねるかどうかを」
「……あ。あった」
視界を奪われたままの悠の耳に、湊の、驚くほど平坦で明るい声が届いた。
瞼を覆っていた指が解かれ、恐る恐る光を受け入れる。
部屋の隅。そこには、ただの古い市松人形が転がっていた。両目が、乱暴に抉り取られたような暗い空洞になっている。
湊はその人形の、色褪せた時間の残骸のような着物を剥ぎ取った。背中に現れたのは、小さな黒い「鍵穴」のような、空間の綻び——門。
湊は、ポケットから金属質の無機質な音を立てて鍵束を取り出し、その綻びのサイズに適合する古びた一本を選び出した。
「閉門」
低く、事務的な呟きと共に、鍵を差し込み回転させる。
カチャリ、と硬い「拒絶」の音が響いた。
次の瞬間、部屋を埋め尽くしていた眼球の群れも、肺にまとわりつくようなねっとりとした空気も、嘘のように霧散した。人形は、耐用年数を一気に使い果たしたかのように、砂となって崩れ落ちる。
後に残ったのは、ただの、埃臭いだけの四角い空洞だった。
「じゃあ。今日はもう、解散して寝ようか」
湊が、作業を終えた職人のような顔で振り返る。そこには、先ほどまでの緊迫した空気の残影すら残っていない。
「もう……本当に、大丈夫なの?」
悠の声は、まだ自分自身の震えを制御しきれていなかった。
「閉門処置をしたばかりだからね。今日はもう、何も起きないよ。……なに。心配なら、隣で添い寝でもしてあげようか?」
冗談めかして、しかし拒絶されることを確信しているような微笑。
悠は反射的に、自分を繋ぎ止めていた緊張を怒りに変えて、むっとした。
「……そんなわけ、あるか。ばかっ」
恐怖を無理やり足元に蹴り飛ばすようにして、悠は足早に自室へと戻っていった。
その、あまりにも「健全な高校生」を演じようとする後ろ姿を。
湊は、満足げな。しかし、手に入れたばかりの標本が、箱の中でどう動くかを観察するような、極めて温度の低い視線で見守っていた。
その部屋の空気には、古い蔵書が湿気を吸い込み、頁の間で黴が静かに繁殖しているような、重く粘りつく匂いが立ち込めていた。それは、決して換気によって洗い流されることのない、何かが深く染み付いたような臭気であり、同時に、これから始まる新しい生活が、決して平穏なものにはなり得ないことを告げているようでもあった。
放課後。西日が斜めに差し込む校舎の踊り場で、湊は窓枠のサビを細い指先でなぞりながら、明日の小テストの範囲でも確認するかのような、ひどく日常的な口調で言った。
「体調はどう? ……昨夜の『ノイズ』の余韻、まだ引かない?」
悠は、指先の微かな震えを隠すように、左手首を強く握りしめた。
あの部屋で感じた、薄皮一枚を隔てて自分を喰らい尽くそうと迫ってきた、どす黒い粘度を持つ無数の眼。指先から心臓へ、侵食するように這い上がってきたあの冷たさが、今も網膜の裏側にこびりついている。
「……どうしてマンションで、ああいう現象が起きるの?」
「前に佐々木が言っていた通りだよ。あそこは元々、ある妙な集団が寄り合いに使っていた場所だ。一種の祭祀……いや、もっと独りよがりで澱んだ儀式が繰り返されていたらしい。建物そのものが、人の強い想念を吸い寄せ、逃がさない『器』になってしまっているんだよ」
湊は振り返り、悠を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、深海の底に沈む静かな光のように、悠の心の奥底を透視する。
「九条の家系には、一定の割合でその澱みに対処できる人間が出てくる。俺のような、汚れやすい場所の『清掃』を任される人間がね。……ただ、あいにく俺には澱みを浄化する力はあるけれど、残念なことに、澱みがどこに隠れているかを特定する『センサー』が備わっていないんだ」
湊が一歩、悠のパーソナルスペースを侵食するように歩み寄る。
「だから、君に出会えたのは、俺にとって、この上ない幸運だと思った。君は、特別な知覚を持つ、選ばれた人間だ。……俺には君が必要なんだよ、悠。君という『鍵』がなければ、俺は暗闇の中で闇雲に、非効率な剣を振り回すことしかできない」
悠は言葉を失った。
カルト集団の生き残りというラベル。一定の距離を保つことでかろうじて『家族』として成立している、親戚との冷え切った均衡。これ以上、彼らに『負い目』を作りたくないという、悠なりの、あまりにも稚拙で痛々しい自立心。
この町で「普通」を模倣するために必要な対価を、悠は喉から手が出るほど欲していた。
「君が抱えている生活上のあらゆる懸念を、俺が解決しよう。君の住む部屋の家賃、その他諸々のコストは、すべてこちらで用意する。もちろん、君の『家族』には一切関知させない。……君が、俺の『センサー』として機能してくれる限り、ね」
湊の言葉は、あまりにも精密に設計された提案であり、悠が最も欲していた「逃げ道」の形をしていた。
悠の胸の奥で、小さな、しかし熱い火種が爆ぜた。
「普通」でいたかった。周囲の大人たちが顔を顰める「過敏な子供」ではなく、その他大勢に紛れて、ただ平穏を呼吸したかった。
けれど、今まで自分を呪いのように苛んできたこの感覚を、目の前の美しい少年は「必要だ」と肯定した。自分にしかできない役割がある。その言葉は、孤独に慣れきった悠の心に、致死量の毒を伴う甘露となって染み渡る。
「……僕に、できることなら」
悠の声は、自分でも驚くほど静かに、世界の温度に溶けた。
それは、もう後戻りできない境界線を踏み越えた、覚悟の音だった。
湊は満足げに、ほんの少しだけ口角を上げた。
それは悠の快諾を喜ぶ友愛の微笑みなどではなく。精巧な機械の歯車が寸分の狂いもなく噛み合い、緻密に設計された計画が予定通り進行したことを確認した――「管理者」の微笑みだった。
その夜、さっそく次の「事案」が表面化した。
エントランスの、湿った拒絶のような重いガラス扉を抜けたところで、一人の男が待ち構えていた。くたびれたスーツ。寝不足で赤く充血した眼球。103号室の住人、佐藤。
男の体からは、酸化した汗の匂いと、逃げ場のない焦燥が、物理的な圧を伴って漂っている。彼から放たれる剥き出しの感情のノイズは、悠の肌を無数の針で刺すように苛み、反射的に身構えさせた。
「管理人さん、いい加減どうにかしてくれよ!」
男は湊の細い肩を掴もうとしたが、湊は流れるような動作でその不作法をかわし、穏やかな、しかし奥行きのない笑みを湛えた。
「佐藤さん。もしかして、また例の『音』ですか?」
「そうだよ! 夜中になると、壁の向こうから大勢……それこそ何十人も集まって、ブツブツ、ブツブツとうるさいんだ。隣は空室のはずだろう!? なのに、笑い声や泣き声、果ては話し声まで聞こえてくる。耳を塞いでも無駄だ、あの壁自体が、まるで誰かを招いて祝宴でも開いているみたいに。……一晩中、だぜ!?」
「うーん。誰も呼んでないですし、記録上も侵入者は皆無なんですけどね」
二人のやり取りを傍観していた悠の耳に、佐藤の激しい動悸が、不規則な太鼓の音となって響き始めた。
男の背後。壁を透過して、何十もの「影」が蠢き、言語化できない囁きを撒き散らしている。まずい、まただ。制御の効かない知覚が、無秩序に周囲のドロドロとした情報を拾い集めていく。自分の意思を無視して研ぎ澄まされていく感覚に、悠の顔から血の気が引いた。
その微かな変調を、湊は見逃さない。無言のまま、悠の腕を強引に引き寄せ、自分という座標へその身体を強制的に誘導する。まるで、悠という精巧なレンズを、この歪な怪異の核心へと正確にフォーカスさせるかのように。
「わかりました。今夜、103号室を調査します。佐藤さん、駅前のホテルを手配しますから、今夜はそちらで『良質な睡眠』を確保してください」
男は湊が差し出したカードキーを、ひったくるようにして受け取ると、一度も振り返らずに夜の闇へと逃げ去っていった。
「……あの人も、僕と同じなの?」
悠の呟きに、湊は腕を掴んだまま、その皮膚を検品するように指先を滑らせた。
「いや。おそらく、彼は君とは決定的に違うよ」
「……どうして、そんなふうに言い切れるの」
「俺が彼に触れても、何も起きないからだよ。君がそうであるように、俺が彼に触れたところで、彼の感覚が最適化されることも、ましてや怪異が鳴りを潜めることもない。……彼はただ、門の近くに立っていただけの、いくらでも取り換えのきく『ごく普通の人間』だ」
湊は黙って、エレベーターの呼び出しボタンを無機質に押し込んだ。ガラス張りの扉の向こう側、佐藤が縋るようにタクシーへ乗り込む姿が、遠い国の出来事のように映っている。
「どういうことか分かってないだろう?」
湊は、悠の目を見て言った。
「俺が君に触れると、君の乱れた感覚は『最適化』される。怪異の彩度は落ち、ノイズは消え、世界は静止する。君の知覚の目盛りは、俺の手元で調整可能なんだ。……逆に言えば、俺が触れていない時の君は、無防備に、無限に、剥き出しの情報を吸い上げ続けることになる」
エレベーターが地下から這い上がってくる振動が、床を伝って伝わる。
「佐藤さんのような『普通の人種』が、ああして門の至近距離に長期間配置されると、稀に霊体と波長が同期してしまうことがあるんだ。普段なら切り捨てているはずの些細なバグにまで、不吉な意味を見出すようになる。それが、彼の鼓膜を震わせた『声』の正体だ。……君は、その上位互換。より高精度で、より致命的な、特別な人だ」
「……へえ」
悠の喉から、意味を成さない掠れた音が零れる。
チィン、と軽やかな電子音が静寂を裂き、エレベーターが到着した。二人は狭い箱の中へと収まり、湊は迷いなく三階のボタンを押し込む。
「これまでも苦情の処理はしてきたけれど、あいにく俺には対象物が『視えない』。だから、今までは闇雲に、非効率な対処療法を繰り返すしかなかった。根本的な解決には、一度も至っていない」
湊は、自らの欠陥を報告するかのように自嘲を漏らした。
「だから。不作法を承知で言うけれど、今夜から君を、俺の『センサー』として稼働させたい」
「……うん」
悠の返事に、湊は満足げに頷いた。三階に到着し、扉が開く。
「『お泊まりセット』、用意しておくから。そのまま一〇三号室に集合でいいかな」
「え、お泊まりセットって……」
「怪異物件に、今夜二人で潜伏しようって言ってるんだよ、悠」
湊はわざとらしく、茶目っ気という名の「記号」を顔に貼り付けて見せた。
悠が唖然と立ち尽くす間に、エレベーターの扉は、断絶を告げるようにゆっくりと閉じていった。
がらんとした103号室は、生活の気配を削ぎ落とした四角い箱でしかないはずなのに、そこにはあるはずのない『粘り気のある、不吉な静寂』が堆積していた。
酸素を肺に送り込むたびに、埃と古いカビの粒子が混じり合い、気管の奥を不快にひりつかせる。
湊は、まるでピクニックの場所でも選ぶような手つきで、自室から持ち込んだ厚手の毛布をフローリングの上に広げ、悠に座るよう促した。
二人は肩を並べ、湊が持参したお菓子をつまみ、お茶を喉に流し込む。交わされるのは、どこまでも実体のない、他愛のない記号のような雑談。
けれど、どれほど時間が経過しても、部屋の彩度は変わらず、異変の予兆すら観測されない。
「何も起きないね。……予定を変更して、もう寝る?」
湊が、退屈な映画の終わりを待つような顔で言う。悠は思わず、眉間に鋭い不快感を刻んだ。
「……本気で言ってるの? こんなところで!?」
「だって、意識をシャットダウンさせた後じゃないと、本格的に『出力』されない事象も多いからね」
そう言って湊は、他人の領域に土足で踏み込んでいる自覚など欠片もない様子で、毛布の繭にくるまった。数分と経たないうちに、等間隔で平熱な寝息が聞こえ始める。その、あまりにも「正常な機能の維持」を優先させる湊の横顔に、悠は呆れ返るのを通り越し、生理的な恐怖すら覚えるしかなかった。
――ズ、ズズ……。
最初は、古い配水管を水が流れるような、あるいは地下深くで巨大な生き物が身じろぎしたような、不明瞭な振動だった。それは、部屋の奥から、じわじわと這い出してくるような、抑圧された唸り声のようでもあった。
悠の知覚が、急速に研ぎ澄まされていく。部屋の四隅に溜まった埃が舞う音、湊の静かな寝息、そして、壁の向こうからじわじわと染み出してくる「声」を、針の先で拾い上げるように捉え始めた。
「……九条くん。起きて」
悠は毛布の上で身を固くしながら、かろうじて掠れた声を絞り出した。湊は瞬時に身を起こした。彼の瞳には、すでに眠気の色はなかった。『どこから?』『……部屋全体から』悠の言葉と同期するように、声は、最初は一つの呟きだったものが、二つ、三つと増え、やがて無数の囁きとなって、部屋を満たし始めた。それは言葉であって言葉ではない、意味を失った怨念の残滓が、虚空をさまようような不気味な音の洪水だった。
「これ、知ってる……」
「……悠?」
悠の異変に気づいた湊は、その表情をわずかに硬くした。悠の脳裏には、長い間心の奥底に封印していたはずの幼い頃の記憶が、濁流のように押し寄せていた。白装束に身を包んだ大人たちが、窓のない地下室で自分を囲み、まるで風に揺れる木々のようにゆらゆらと身体を揺らしながら、意味不明な言葉を唱え続けていた。その祝詞のような囁きは、今の部屋に響く無数の声と寸分違わず重なり、幼い悠の視界に映った、壁一面に描かれたおぞましい円環の模様、生贄のように供えられた枯れた花々、そして、自分に向けられた異様に澄んだ眼差しの女の顔が、次々とフラッシュバックする。
「僕を……僕を連れ戻しに来たんだ……!」
周囲の壁が、粘度の高い水面のようにゆらゆらと波打ち始め、天井が、まるで圧力釜の蓋のような質量で低く迫ってくる。
無数の「声」は、悠の鼓膜という境界を軽々と踏み越え、直接脳髄へと流れ込んだ。彼という「個」を内側から食い破り、同化しようと貪欲に蠢く情報の濁流。
視界から鮮やかな色彩が剥離し、すべてが砂嵐のような灰色に染まっていく。全身の毛穴が開き、皮膚の下を未知の虫が這い回るような、生理的な嫌悪を伴う幻触。
——溶ける。
自分を自分たらしめていた輪郭が、外界の狂気によって溶かされ、巨大な「無」へと混じり合っていく。それは、死よりも深い、絶対的な消失の恐怖だった。
「……あ、ああ……っ!」
叫ぼうとした悠の唇は、機能を放棄したように震えることしかできない。視界が白く濁り、自己という座標が消失しかけた、その時。
冷え切った、硬質な手のひらが、悠の右手を強く包囲した。
「悠! 俺の声だけを選別しろ!」
霧を切り裂く雷鳴のような、湊の声。
「他の雑音はすべて捨てていい。俺の手のひらの温度、指の感触、俺だけに全神経をフォーカスさせるんだ」
湊は悠の身体を守るような手つきで抱き寄せ、耳元で静かに、しかし断固とした支配の口調で囁いた。
「いいか。君の感覚の主導権を、俺以外の誰にも渡すな。俺がここにいる。俺が、君の現実の『錨』になってやる。……だから、俺に委ねろ。君の、すべてを」
悠は、半ば意識を溶解させながら、縋り付くように湊の冷たいほどに整った指に、自分の指を絡めつけた。
荒れ狂う情報の洪水の中で、その無機質な感触だけが、唯一の「よすが」だった。湊の言葉は、内側から自分を侵食する狂気を押し留める防波堤となり、悠は必死で呼吸を繋ぎ、かろうじて意識の淵に踏み止まった。
その微かな「応答」で、湊は悠がこちら側へ引き戻されつつあることを感知した。
悠というレンズを通して流れ込んでくる無数の声。湊の耳には、それは意味を成さない、ただの不快なホワイトノイズに過ぎない。けれど、その眉間には、不快と探求が入り混じった深い皺が刻まれていた。
嘆き、呪い、祈り。その無数の人間的な音の積層の中に。
ひとつだけ、場違いなほど「無機質な音」が混じっていることに、湊はやがて気づいた。
磁気テープが、微かに回転を続けるような。
乾燥した、規則的な、物理的な摩擦音。
「……あそこだ」
湊は、部屋の奥にあるクロゼットを指差した。
「一つだけ、古びた機械のような音がする。壁の、裏側から」
二人は、繋いだ手を離さないまま、ゆっくりと立ち上がった。湊の左手には、いつの間にか、鍵束が握られている。湊が、意を決したようにクローゼットの扉を勢いよく開けた。そこには、何の変哲もない、がらんとした空間が広がるばかりだった。しかし、湊は確信を持って、奥の壁に目を凝らした。剥がれかけた古い壁紙の隙間が、彼には何かを語りかけているように見えた。
「この中だね」
湊は壁紙を無造作に、あるいは暴力的に引き剥がした。石膏ボードに穿たれた小さな穴。そこに、寄生虫のように「それ」が埋め込まれていた。プラスチックのケースには、蛇が自らの尾を飲み込み、円を描く「円環」の紋章が刻印されている。
「……なるほど。負の想念を増幅させ、永劫に自動再生し続ける『門』か。ひどく悪趣味だ」
湊はテープを手に取り、それを検品するように眺めると、手元にあった鍵を迷いなくその表面へと押し当てた。
金属とプラスチック。本来なら反発し合うはずの二つの物質は、しかし、馴染むように、吸い込まれるようにしてひとつに重なり、消える。
「閉門」
低く、地を這うような、事務的な宣告。
パキリ、と、何かの均衡が決定的に崩れる乾いた音が響いた。カセットテープの表面に、亀裂という名の致命的な欠陥が走る。
その瞬間。部屋という四角い箱を埋め尽くしていた、阿鼻叫喚のノイズは一斉に停止した。
後には、ただの深夜の、静まり返った安普請な沈黙だけが、澱みのように残された。
悠は機能を失った人形のように崩れ落ち、喉の奥からせり上がる激しい嘔吐感に支配された。
湊はそんな悠の背中にそっと手を添え、まるで壊れ物を扱うような手つきで、ゆっくりとその背中を撫でた。
「終わったよ。ありがとう、悠。君がいなければ、この隠し場所は見つけられなかった」
湊の声には、純度の高い、偽りのない賞賛が混じっていた。
「やっぱり君は、俺がずっと欠いていた、理想的な半身だ」
悠は、湊の胸の内に顔を埋めた。夾雑物のない、清潔な柔軟剤の匂い。
ノイズは去ったはずなのに、どうして心臓の震えは収まらないのだろう。忌まわしい過去の残滓、呪いのような過敏さ、そして自分を「半身」という名のパーツとして定義する、この美しい少年。
これは救いなのだろうか。それとも、もっと深く、呼吸することすら許されない檻への入り口なのだろうか。
「……これが、僕の選んだ道なんだ」
悠は、自分自身を説得するように呟いた。これは僕が、僕の意志で選択し、勝ち取った居場所なのだと。
足元に広がる奈落の深さに、気づかない振りをしながら。
翌朝、佐藤という男は103号室に戻ってきた。
湊は彼に「もう大丈夫です。処置は終わりました」と説明し、穏やかに微笑んだ。男は何度も頭を下げ、晴れ晴れとした顔で自室へと入っていった。
「……あの人は、もう音を聞かないの?」
登校の道すがら、悠が尋ねると、湊は正面を見据えたまま平坦な声で答えた。
「あの人の中にいた『根』は消えた。でも、一度開いてしまった耳は、完全に閉じることに時間はかかると思う。しばらくは、日常の些細な音……冷蔵庫の振動や、換気扇の回る音にさえ、かつての怪異の影を重ねて怯えることになるだろうね」
湊の横顔には、一切の容赦がなかった。
「それが、あの世と干渉してしまった人間が払うコストだよ」
湊はふと立ち止まり、自分の右耳あたりを指先で叩いた。
「……ああ。やっぱり。今朝から、右の聴覚が死んでる」
悠は、肺の奥で呼吸を凍らせた。
「それって……昨夜の、僕の……」
「そう。『俺』のコストだ。歪んだ事象を正すためには、自分の中の正常なパーツを差し出さなきゃならない。公平な取引だろう?」
「大丈夫なの……?」
悠の声は、自分でも制御できないほどに震えていた。もしかして、僕が彼の感覚を奪ったのか。その不吉な予感に喉が詰まる。
湊は悠の「それ」を、まるで見透かしているような穏やかさで言った。
「気にしなくていい。君の過剰な情報を俺の身体へバイパスさせた分、一時的に俺の受容体が焼き切れただけだ。……すぐに、元には戻る。君の感覚が、俺の手の中で落ち着くのと同じようにね」
その言葉は、悠には到底、慰めとは認識できなかった。
それは互いの感覚を交換し、侵食し、不可逆的に汚し合う「共犯関係」の宣告だ。
研ぎ澄まされすぎて壊れていく悠の知覚と、それを引き受けるために欠落していく湊の機能。
二人を繋ぎ止めているのは、友愛という名の温かな絆などではない。互いの欠落を埋め合わせ、最適化を繰り返すための、あまりにも残酷な利害の一致。
晩春の風が吹き抜け、悠の耳には、遠くで鳴る踏切の警報音が、誰かの悲鳴のように歪んで響いた。
その不快なノイズは、これから始まる彼らの『日常』が、すでに決定的に、そして修復不能に変質してしまったことを告げていた。
昼休み。窓から差し込む初夏の光は白く、しかし教室の中は生徒たちの熱気で、どこか生暖かい。熱源は間違いなく、彼ら自身が持つ若さの燃焼だろう。悠は、宮村と佐々木の間に挟まれて座っていた。
鉛筆の芯が削れる、微かに甘い木の匂い。開かれたノートのページから立ち上る、古紙特有の乾いた匂い。そして、遠くの調理室から運ばれてくる今日の献立、豚肉の生姜焼きの香ばしい匂い。それらが熱気に溶け合い、混じり合い、悠の鼻腔をくすぐる。どこか、生臭いような、鉄のような、そして薬品のような、微かな異臭が混じっているような気もしたが、それは気のせいだと自分に言い聞かせた。まるで、この「普通」の空間に異物を持ち込まぬよう、無意識のうちに蓋をするかのように。
机の上に広げられた古典のノート。その数式ではない、ひらがなとカタカナが織りなす複雑な助動詞の活用を、指でゆっくりとなぞりながら、悠は二人に教えていた。佐々木が「すごい分かりやすい! 藤代くんて、もしかして先生より上手なんじゃない?」と目を輝かせ、宮村が「俺も藤代のおかげで、赤点回避できそうだよ。本当に助かる」と屈託のない笑みを浮かべる。そんな他愛のない会話が、悠の耳には、遠い世界の出来事のように響きながらも、なぜか心地よかった。それは、彼にとって、どこまでも脆く、しかし尊い「普通」の輪郭を形作る、たった一つの確かな線引きだった。
宮村の飾らない気遣い。佐々木の裏のない好奇心。かつては学校に自分の居場所などない、そう半ば諦めにも似た思いでいたのに、いつの間にか、休み時間になると自然と、悠はこの二人の間に収まるようになっていた。彼らと話している間だけは、自分が「特別な何か」を抱えた人間ではない、ただの平凡な高校生であると思えた。偶発的、しかし必然のように築かれたこの緩やかな関係性は、悠にとってのぎりぎりの平穏であり、それゆえに彼は、この輪郭が崩れることを何よりも恐れていた。
「ねえ、藤代くんて、九条くんとどんなこと話してるの?」
佐々木が、突然、囁くように言った。その声には、クラスメイトの男子を値踏みするような、無邪気な好奇心と、かすかな羨望が混じっている。
「九条くんてさ、なんかミステリアスだよねー。顔はめっちゃいいし、頭もいいし、完璧なんだけどさ、どこか遠いっていうか、近寄りがたいっていうか……。藤代くんと雰囲気違いすぎて、二人が話している内容が全く見当つかないんだよ。なんか、全然違う世界の人たちみたいに見えるのに、二人でいるところもよく見かけるし、不思議だなって」
悠は、古典の参考書から顔を上げ、一瞬だけ窓の外を見た。4月の終わり、来る初夏を迎える木々が、微かな風に揺れている。葉擦れの音は、この喧騒の教室の中では、ほとんど聞こえなかった。
湊の瞳の奥底にある、時折感じる感情の欠落のような透明感。あの底知れない深さを、佐々木は無意識に「遠い」と感じ取っているのだろう。悠は、そんな佐々木の言葉を否定する代わりに、ふと口の端に笑みを浮かべた。それは、まるで自分自身に言い聞かせるような、あるいは、理解されないだろうと諦めたような、複雑な笑みだった。
「湊はね、意外と、コーヒーの淹れ方にはうるさいんだ。この間、学校の帰り道で偶然会って、インスタントコーヒーでも豆の挽き方一つで味が変わるって、熱心に語ってたよ。俺はあんまり詳しくないから、ほとんど聞いてるだけだったけど」
まさかの返答に、佐々木は「え、マジで? そんなの九条くんから想像できない! 超意外、ギャップ萌えなんだけど!」と目を丸くし、身を乗り出した。宮村も「へえ、意外だな。なんか、美術とか文学とか、そういう難しい話してるのかと思ってた」と小さく漏らす。佐々木の興奮と宮村の素朴な驚きに、悠は内心、少しだけ安堵した。日常の延長線上にある、取るに足らないエピソード。彼らが想像するような「特別な」話など、自分たちにはないのだと、無意識のうちに主張しているかのようだった。
そんな他愛のない昼休みの会話は、日常の穏やかな風景に溶け込んでいく。しかし、悠の耳には、遠くの教室から聞こえる笑い声の向こうに、この場所には決して似つかわしくない、湿った土のような、粘りつくような匂いがかすかに混じり始めていた。それは、彼の「普通」の輪郭を、内側から少しずつ溶かし始める不穏な前兆だった。窓の外の木々の緑が、一瞬、澱んだ紫色を帯びたような気がして、悠は目を瞬かせた。
「どこから変な匂いがする?」
玄関先で悠を出迎えた九条湊は、端正な横顔を微塵も動かさず、ただ前を見つめたまま「そう」と短く応えた。その声には、いささかの動揺も含まれていない。
悠が異変に気づいたのは、湊と「仕事」を始めて初めて迎える、大型連休の中日の夕暮れ時だった。昨日までの快晴が嘘のように、空は重い鉛色に染まり、湿度が高い。その匂いは、最初は雨上がりのアスファルトが放つ、埃っぽい湿り気に似ていた。買い物を終え、あの重厚な鉄の門のようなマンションの入り口をくぐった瞬間、肺の奥を直接掴まれるような、むせ返るような異臭が鼻腔を突き抜けた。それは甘い百合の花の香りと、酸っぱい肉の腐敗臭、そして焦げ付いた鉄の匂いが混ざり合った、おぞましい混合物だった。匂いは、単なる空気の分子の集合ではなかった。湿度を持ち、重さを持ち、色さえ感じさせるような、得体の知れない塊となって、彼の感覚を鈍器のように殴りつけた。
「俺には何も。……ということは、向こう側の『匂い』がこちらに漏出しているのかな。どんな匂いなんだ?」
湊は淡々と問いかけた。その口調は、未知の化合物のデータを収集する科学者のそれと同じ好奇心に基づいている。悠は、知覚の混乱に酔いそうになりながら、かろうじて言葉を紡ぎ出した。
「アスファルトみたいな熱い匂いと、百合の……過剰な花の匂い。それから、肉が腐り始めたような、甘ったるい死の匂い……」
悠は、自身の鼻を覆った。だが、その情報は指の隙間を容易くすり抜け、脳の裏側に直接へばりついてくる。まるで意味の通じない悪意が、脳髄の奥底に直接ねじ込まれてくるようだ。
その匂いは、単に不快なだけではない。悠の過去の、まだ名前のついていなかった記憶の断片に微かに触れ、心臓の鼓動を不規則に乱す。
今はまだ、耐えられる。けれど、これ以上の「彩度」で迫られれば、内臓ごとひっくり返されるだろう。形容し難い吐き気に言葉を詰まらせる悠に、湊は「指向性はあるのか。どこから匂う?」と尋ねたが、悠は弱々しく首を振った。
匂いはすでに、空間の隅々にまで染み渡り、方向性という概念を消失させていた。まるで、このマンションという構造物そのものが、巨大な腐臭を放つひとつの肉塊に変質してしまったかのようだった。
「この間の『音』のときと同じだ。どこからともなく、っていうか……部屋の全方位から押し寄せてきて、わからないんだ」
前回、聴覚系のバグが出現したときも、音源が特定できずに消耗したことを思い出し、悠はそう答えた。
「そうか……不味いな」
湊が、短く呻くように吐き捨てると、廊下に出てマンションのエントランスを見下ろした。その視線は、目に見えない情報の「淀み」を探るように、空間をくまなく走査している。
「匂いっていうのは、厄介なんだ。残留するし、何より、五感の中で最も原始的な記憶の層に癒着する」
湊は、おもむろに「手、貸してくれるか」と悠に問うた。その声に迷いはなく、有無を言わさぬ、事務的な響きがあった。
悠は一瞬だけ逡巡したが、彼の瞳の奥に宿るわずかな「不快」の焦燥と、自分を苛む異臭への抗いがたい恐怖に負け、おずおずと右手を差し出した。
湊の指が悠のそれに絡む。驚くほどひんやりとした、体温の低い熱。それは、この湿った粘り気のある熱気の中で、唯一触れることを許された清涼な「正解」のように感じられた。
不思議なことに、悠を窒息させていたおぞましい情報の混合物は、接続した瞬間、幾分かその彩度を落とした。だが、湊は露骨に眉をひそめ、「……酷い匂いだな」と吐き捨てる。
悠の過剰な知覚が、湊の身体へとバイパスされている。まるで、二人の神経系が物理的にプラグインされたかのような錯覚。
「ああ。匂いは視覚や聴覚と違って、遮断が難しい。鼻腔を通り越して脳に直接作用し、記憶や感情を呼び覚ます。そして、このマンションのように、強い念が染みついた場所では、その匂いが空間そのものに定着し、特定の『記憶』や『感情』を匂わせる。それが、幽霊由来のものなのか、あるいは、人間が発した念が凝り固まったものなのか、区別がつきにくい」
湊は解説するように呟き、手を繋いだまま——そのリンクを維持したまま、マンション内を歩き出した。その足取りには一点の迷いもない。
「……幽霊由来のシグナルと、それ以外の生活ノイズが混ざり合って、解像度が落ちている。……ね、悠。幽霊のものだけに、絞り込めるか。悠」
そんな高度な「処理」は経験がない、と悠は答えようとした。けれど、口をついて出たのは、「湊がコントロール……調整してくれるなら、できるかもしれない」という、自分でも驚くほど従順な言葉だった。
もはや自分の意思というより、湊という上位のOSに導かれるように、言葉がこぼれ落ちる。湊は薄く笑い、悠の手を少しだけ、強く包囲した。
その瞬間。悠の感覚野が強制的に研ぎ澄まされ、混濁していた情報の濁流が、見えないフィルターを通るように整理されていく。
それは、霧が晴れるというよりは、脳内で情報の「取捨選択」が超高速で実行されるような、無機質な感覚。
そして。
幽霊由来の、底なし沼のような腐敗臭だけを、明確な「敵意」として抽出することに成功した。
百合の甘さもアスファルトの熱も、すべてを飲み込み、塗りつぶす。
ただ純粋な「悪意の質量」として、それは悠の鼻腔を、暴力的な鋭さで突き刺した。
二人は、地下へと潜るエレベーターホールにたどり着いた。
階数を表示するデジタル数字が、バグを起こした生き物のように蠢き、点滅を繰り返している。深度が増すにつれ、空気の彩度が不吉なほど濃くなっていくのがわかった。
視界の端。沈殿した澱のように、ねっとりとした紫色の靄が溜まり始める。それは「匂い」という情報が、処理しきれずに視覚野へと具現化し始めた証拠だ。情報はもはや嗅覚という枠組みを逸脱し、色となり、質量となり、悠の五感を内側から侵食し始めていた。脳の裏側に直接、醜悪な絵画を暴力的に描き出すように。
「湊……今回は、少し、違う気がする」
悠は、肺の中の酸素が泥に変わったかのような苦しさに喘いだ。声は乾いた砂を噛むように、低く掠れている。
「匂いだけじゃない。ここにいると、壁の向こう側に、誰かが『配置』されているような気がする。見えないのに、網膜の裏側に、腐敗した何か……あるいは、毒々しい花弁が散るような残像が見え隠れするんだ」
「おそらく、君が知覚しているのは単なる悪臭じゃない。この建物に、長い時間をかけて堆積した生と死、歓喜と絶望という名の記憶の残滓が、今、情報の濁流となって溢れ出しているんだ。……君という高精度な『センサー』が、この場所の深層にある記録(アーカイブ)に、物理的に触れてしまった証拠だよ」
湊は静かに、しかし断定するように告げた。その声は、深淵の底から響いてくる事務的な報告のように、不気味なほど安定していた。
湊が、悠の肩にそっと掌を置く。その指先が触れた瞬間、悠の背筋を、氷のような振動が走り抜けた。それは根源的な恐怖か。あるいは、絶対的な主権者に導かれるような、官能的な服従心か。
「悠。深呼吸して。……俺の声という周波数だけに、フォーカスを合わせるんだ。他のすべてのチャンネルを遮断しろ。俺が、君の感覚を濾過するフィルターになってあげるから」
湊の声は、濁った泥水の中に投げ込まれた、一欠片の透明な氷のように澄んでいた。
その響きに全意識を委ねれば、肺の奥にへばりついた死の匂いも、視界を塞ぐ紫の靄も、嘘のようにその濃度を薄めた。まるで、汚染された呼吸器に、高純度の酸素が直接送り込まれるかのように。
エレベーターが地下室で止まる。金属的な軋みを上げ、扉が開くと、そこから漏れ出す匂いの濃度が、急激に跳ね上がった。それは、もはや「匂い」というより、粘性の高い瘴気だった。悠の視界の中で、紫色の匂いはもはや色となり、模様となって壁を這っていた。それは視神経に直接焼き付く幻覚のようであり、触れるとべとつくような実体さえ持ち始めていた。そして、その色が濃くなるほどに、聴覚や触覚にも奇妙な刺激が押し寄せる。鼓膜の内側で、微かな囁き声がこだまし、肌の表面では、無数の虫が這い回るような不快感が走った。
「……誰か、泣いてるの?」
悠はふらふらと、吸い寄せられるようにその壁へ歩み寄った。彼の意識は、もはや彼自身の意思ではなく、見えない力に操られているかのようだった。
地下室の壁は、不自然なほどに新しいタイルで覆われていた。だが、そのタイルの向こうから、呻きとすすり泣きが、悠の皮膚を直接震わせるように響いてくる。壁の表面には、乾いた血痕のような赤黒い染み。それは、まるで壁が吐血したかのように、不規則な模様を描いていた。そして、どこからともなく、微かな鉄の匂いが混じり合う。それは、血の匂いであり、同時に、鈍い拷問器具の冷たさを暗示しているようだった。
悠は、かつてここで何が行われたのかを、匂いと音と視覚の複合的な情報として理解してしまった。そこにあったのは、鉄の寝台。そこに縛り付けられた手首や足首の、皮膚が擦り切れた痕。朽ちた革の拘束具の、使い古されたしなやかな感触。空になった点滴のチューブが、虚しく垂れ下がっている。使い古された手術道具が、冷たい光を放っていた。それらは皆、五感を奪うための、そして、その苦痛を長く引き延ばすためのものだった。目隠しされ、耳を塞がれ、口を塞がれ、感覚の全てを一つずつ奪い取られながら、ただ「生かされ」続けた人間たちの絶望的な悲鳴が、今、匂いとなり、声となり、壁の模様となって悠の全身を叩く。それは、彼らの死の瞬間ではなく、絶望の中で生かされ続けた、延々と続く苦痛の記憶だった。
その地獄に、最後の一滴で「神」という名のラベルが貼られた。
彼らの肉体は、彼らの信じた神との接続を強固にするための、ただの『器』——生贄の依り代とされたのだ。
視界が歪む。向こう側の死の記憶と、悠自身の「普通になれない」という疎外感が、匂いを通じて彼の自意識に溶け合っていく。
これは、あの壁の向こうに潜む何かの毒か。
それとも。悠自身の奥底に眠っていた「自分は特別で、だからこそ異物なのだ」という、癒えない傷への『共鳴』なのか。
身体が熱く、けれど背筋には氷のような汗が滑り落ちる。
膝が折れ、世界が崩れる。
悠の全身の感覚が、あまりの情報の重さに、静かな悲鳴を上げていた。
「悠! 戻ってこい!」
鋭い声と共に、視界が白く弾けた。まるで、強烈なフラッシュを浴びたかのように。気がつくと、悠は湊の腕の中にいた。湊の指が悠の頸動脈に触れ、額に触れ、頬に触れる。その手が、悠の全身に張り付いたおぞましい気配を、優しく、しかし確実な動作で拭い去っていくようだった。
湊の顔は、普段の冷静さを失い、焦燥に色めいていた。瞳の奥に宿っていたわずかな陰りは、今ははっきりとした不安の色を帯びている。
「大丈夫か!?体に違和感はないか!?」
彼はまるで精密機械を点検するかのように、悠の五感を一つ一つ確認しようとしている。
「見えるか? 俺の顔が、はっきり見えるか? 歪んでいないか?」
「聞こえるか? 俺の声以外に、何か妙な音が聞こえるか? 囁き声や、悲鳴が聞こえないか?」
「味は? 口の中に、何か異物感や、不快な味がしないか? 泥の味とか、錆びた鉄の味とか」
「匂いは? あの腐敗臭がまだ残っているか? それとも、何もないか?」
「触覚は? 肌の表面に、虫が這うような感覚はないか? 体中に力が入るか?」
悠は、湊の問いかけに一つ一つ頷いた。五感が、確かに彼自身のものに戻っている。湊は、その確認が終わると、張り詰めていた肺の中の空気を、熱を帯びた安堵として吐き出した。
「心配かけてごめん、湊くん……」
悠は掠れた声で謝辞を置こうとしたが、湊はそれを、諦念の混じった動作で遮った。
「君は悪くない。あれは、通常の霊障とは違う。マンションのように、強い念が染みついた場所では、その匂いが空間そのものに定着し、特定の『記憶』や『感情』を匂わせる。ただ、君には特に、それがダイレクトに作用、して……」
湊が言い淀む。その言葉の断絶に、悠は微かな苦みを咀嚼した。
きっと、この少年は僕の「正体」を知っている。過去の呪縛も、カルトとの繋がりも。
けれど悠は、その事実から目を逸らしたまま、乾いた唇からひとつの「嘘」を絞り出した。
「……言ったでしょ。自分で、選んだんだ」
悠は、湊の熱を帯びた掌を、むしろ自分から包み込むように握り返した。
「これは、僕の意志だよ。君のせいじゃない。……僕が、この場所で、何かを見つけるべきだと決めたんだ」
それは真実を隠蔽するための、強固な自己欺瞞だった。誰かに誘導され、ここに配置されたのだとは、口が裂けても認めるわけにはいかない。自分の意志であると信じ込むことでしか、彼は「自分」という個体の尊厳を維持できなかった。
「……敵わないな」
湊はそう呟き、悠の手を慈しむように撫でた。
悠は、その掌の中に、決定的な支配の匂いを感じ取っていた。従順で、無垢で、しかし決して飼い主のテリトリーから逸脱することのない、大切な「所有物」を愛でる手つき。
恐怖から救ってくれる聖域でありながら、同時に、自由という名の余白をじわじわと奪い去っていく存在。
けれど、悠はその支配の重みの中に、身を切られるような安心感を覚えている自分自身に、深く、慄然としていた。
二人は地下室の最奥へと足を進めた。冷たく湿った空気の中、壁際に置かれた小さな台座に、枯れたユリの花束が飾られた花瓶があった。その周囲だけ、匂いの淀みがひときわ濃い。それは、この悪意の中心であることを暗示していた。湊は何も言わず、その花瓶に手を伸ばした。
「閉門」
低い声と共に、湊が花瓶に鍵を差し込む。鍵は吸い込まれるように陶器に深くはまり込んだ。ひび割れた陶器から紫色の澱が飛び散り、霧散していった。それは、まるで腐敗した魂が、浄化されて消えていくかのようだった。
地下室を覆っていたおぞましい匂いと、それに伴う幻覚は、まるで最初から存在しなかったかのように消え去った。残ったのは、湊の体温と、それから――石鹸のような、あまりにも無機質な湊の匂いだけだった。それは、彼の感情の起伏とは無縁な、しかし確固たる存在感を持つ匂いだった。そして、それだけが、悠の五感を、清潔に、そして正常に保っていた。彼は、湊の手を握りしめたまま、微かに震える息を整えた。
テストが終わった後の教室というのは、どことなく、剥がれかけた日焼けの皮のような、むず痒い解放感に満ちている。季節はすでに初夏を迎え、窓から差し込む陽光は白く輝き、生徒たちの熱気に満ちた教室は、少し汗ばむような生暖かさを帯びていた。熱源は間違いなく、彼ら自身が持つ若さの燃焼だろう。
悠は今日もまた、宮村と佐々木の間に挟まれて座っていた。三人は、まだ熱気の残るテスト用紙を机に広げ、答え合わせをしながら感想を言い合っていた。悠が古典の先生に尋ねたポイントが的確に的中し、宮村は「藤代、マジで神!」と感嘆の声を上げていた。彼の少し擦れた声が、解放感に満ちた教室の空気によく響く。佐々木はスマートフォンをいじりながら「はー、やっと解放されたー! ね、宮村、打ち上げとか行かない?」と浮かれた声で言った。その声は、春の小鳥のように軽やかだった。
そんな時だった。ガラリ、と教室のドアが開き、そこに九条湊が立っていた。放課後、悠を迎えに来たのだ。彼の姿は、熱気と喧騒に満ちた教室の中で、まるで一枚の氷像のように際立って見えた。
「あ、九条くんだ! ちょうどいいところに! ねえ、九条くんも打ち上げどう?」
佐々木は、持ち前の天真爛漫さで、何の躊躇もなく湊に声をかけた。宮村も「うちのクラス、カラオケとか行くこと多いんすけど」と便乗する。湊は、少しだけ思案するような素振りを見せた後、静かに、しかし有無を言わさぬ声で口を開いた。
「……なら、うちに集合しない?」
「えっ!?」
悠は思わず素っ頓狂な声を上げた。湊が、自分たちの「仕事」とは無縁の、クラスメイトたちを自分のテリトリーに招き入れるなど、想像もしていなかったからだ。しかし、佐々木と宮村は目を輝かせ、「やったー! 湊くんの家、どんな感じなんだろ!?」と騒ぎ立てた。佐々木はすでにスマホで湊の家の位置を検索している。
湊は、そんな彼らの反応を少し冷めた目で見つめながら、淡々と説明した。「大所帯が来ることは想定していないから、機材はあまりない。あるのは鍋くらいだけど、それでもよければ」
「鍋! いいですね! 季節外れだけど、それもまた乙じゃない!?」と佐々木は目を輝かせ、宮村は「もうすぐ夏なのに鍋か?」とぼやき、佐々木に肘でどつかれた。
「鍋なら、闇鍋とかやりません? 激辛チョコとか、タバスコとか持ち寄って!」佐々木は、悪戯っぽい笑顔で提案した。その一言で、クラスメイトたちのテンションは最高潮に達した。
佐々木の提案に、宮村が「佐々木、それもう罰ゲームじゃん!」とさらにツッコミを入れる。悠も苦笑したが、湊はただ穏やかに「面白そうだな」と微笑んだ。その表情には、ほんの微かに、何かを企むような光が宿っているように悠には見えた。
結局、佐々木と宮村がわいわいと騒ぎながら、みんなで近くのスーパーで鍋の材料を調達することになった。夕暮れ時、スーパーの眩しい蛍光灯の下、食材を選ぶ友人たちの姿は、ただひたすらに「普通」だった。佐々木は「わさびは必須でしょ!」と変な具材を選び、宮村は「ちゃんと食べられるものも買っとけよ!」と呆れた声を上げる。
レジで会計を済ませ、スーパーを出ると、外はもうすっかり夜の帳が降り始めていた。ひんやりとした風が、日中の熱気を洗い流していく。
「そういえば。藤代、最近は耳を塞ぐのをやめたんだね。……音楽、聴いてないだろ」
湊が、不意に、悠にだけ聞こえるような声で尋ねた。悠は、気づかれていたことに少し驚いた。
「ああ……。最近、急に世界が『うるさく』なることが減ったから。音楽というノイズで、外界のノイズを上書きする必要がなくなったというか。……そういう余裕が、生まれたのかもしれない」
実際には、五感の暴走は嘘のように凪いでいる。代わりに、このマンション特有の「あちら側」の不穏な彩度が、悠の視界を占める割合は増えていたけれど。
「それはいい。ここの環境が、君に馴染んできた証拠かもしれないな」
湊は、当然の帰結であるかのように小さく頷いた。その平熱な言葉に、悠は自分でも無意識のうちに首を横に振っていた。
「それだけじゃ、ないと思う。……たぶん、湊が、僕に触れてくれるから。……それだけで、僕の狂った感覚が『普通』に戻るからだと思う」
悠の言葉に、湊は一瞬、歩みを止めた。
街灯の明かりの下、彼の横顔はわずかに、しかしはっきりと、満足げな光を帯びているように見えた。彼は何も言わなかったが、その沈黙は、悠の言葉を肯定しているようだった。悠は、知らず知らずのうちに、湊に深く依存している自分に気づいていた。それは、薄氷の上を歩くような危うい感覚だったが、同時に、確かな温かさも伴っていた。
湊の部屋で行われた「闇鍋会」は、初めは拍子抜けするほど普通だった。フローリングの床に座布団を並べ、カセットコンロの上で土鍋が湯気を上げている。スーパーで買った出来合いの具材、鶏肉、白菜、キノコ類が放り込まれ、味噌仕立ての出汁が食欲をそそる匂いを部屋中に満たしていた。佐々木が選んだ「激辛チョコ」や「くさやの干物」といった悪ふざけの具材も、賑やかな笑い声の中では、ただのスパイスに過ぎなかった。
悠は、そんな友人たちとのひとときを心から楽しんでいた。普段から自分の感覚が敏感であることに辟易していた悠にとって、こうして気兼ねなく笑い合える「普通」の時間が、何よりの慰めだった。彼の唇には自然と笑みが浮かび、緊張で強張っていた肩の力が抜けていくのが分かった。
ふと、背後のドアが微かに開く気配がした。悠は反射的に振り返った。そこには、九条湊の姉、澪が立っていた。薄暗い廊下の奥、彼女の姿は輪郭が曖昧で、まるでそこにいるのかいないのか判然としない。湊の隣に座る佐々木も宮村も、彼女の存在には気づかないようだ。澪は悠と目が合うと、ふ、と口の端を上げた。それは、微笑みというにはあまりにも感情の欠けた、しかしどこか懐かしさを伴う表情だった。
澪は、誰も彼女に気づかないまま、悠に近づいてきた。その足音は、床には何の痕跡も残さなかった。彼女は、音もなく悠の目の前に立つと、そっと重箱を手渡した。それは、古い木製の、三段重ねの重箱だった。表面には、細かな彫り物が施され、どこか不気味な精緻さを帯びている。
「悠くん、これ、お鍋に入れてあげて。みんな、喜ぶわよ」
澪の声は、風が木の葉を揺らすような、か細い響きだった。その声が、悠の鼓膜ではなく、脳の奥に直接響いたような気がした。彼女の手はひんやりと冷たく、指先が悠の肌に触れた瞬間、びりりとした電流が走った。それは、触覚というよりも、内側から何かを揺さぶられるような、奇妙な感覚だった。悠は思わず重箱を受け取った。重箱は、見た目よりもずっと重かった。
佐々木と宮村は、まだ屈託のない笑顔で談笑を続けている。彼らの視界には、澪の姿は映っていない。悠は、胸の奥に薄気味悪い感覚を覚えたものの、せっかくの場の雰囲気を壊すまいと、そっと重箱をテーブルの隅に置いた。そして、何事もなかったかのように、再び鍋へと箸を伸ばした。しかし、彼の心には、すでに小さな、しかし確かな亀裂が走り始めていた。
異変は、三杯目の取り皿を口にした時に起きた。
悠は、味噌の甘い香りが立つ鍋から、出来立て熱々の鶏肉を取り出し、口に運んだ。しかし、舌の先に触れた瞬間、それは「食べ物」としての属性を失った。熱々の土鍋から取ったはずの鶏肉が、氷を噛んだように冷ややかだったのだ。それだけではない。噛みしめた瞬間、肉の繊維の間から溢れ出したのは、芳醇な肉汁ではなく「腐敗」の味だった。湿った土と、長い間放置された排水溝の、あの饐えた臭気が鼻腔を突き抜け、脳の奥に直接へばりつく。それは、単なる不味さとは異なる、根本的な「喪失」の味だった。
悠はたまらず箸を落とした。カチャン、と小さな音が、彼の耳には雷鳴のように響いた。
「藤代か?どうした? 辛すぎたか? 佐々木が持ってきた七味入れすぎた?」
隣にいた宮村が心配そうな声で尋ねてくる。彼の声は、遠くで響くようで、現実味がなかった。
「……ううん、なんでもない」
悠は、胃の底からせり上がってくる酸っぱいものを、無理やり飲み込んだ。喉の奥が焼け付くように熱い。
ふと見ると、部屋の隅、影の濃い場所に誰かが立っていた。
澪だ。彼女は、相変わらず誰にも気づかれず、ただそこに立っている。澪は悠と目が合うと、ふふ、と喉の奥で笑った。その笑い声は、ひんやりとした冬の空気を震わせるかのようだった。
「おいしい? 悠くん。それはね、『このマンションにいるみんな』を煮詰めた味なのよ」
その言葉が、直接脳裏に響く。悠の視界の中で、鍋の中の具材が変容する。白菜の白い肌が爛れた肉のように見え、キノコは無数の眼球となって彼を見つめ返す。佐々木も宮村も、一切の異変に気づかないまま、「おいしいね」と笑いながら、腐敗した死肉にしか見えないものを次々と口に運んでいる。彼らの笑顔が、悠の目には、狂気の仮面のように映った。
悠はたまらず席を立ち、トイレに駆け込み、すべてを吐き出した。胃液と共に、肺の奥にへばりついていた「喪失」の匂いが、どろりと口から溢れ出る。
蛇口から出る水で口を濯いでも、舌にこびりついた「喪失」の味は消えない。唇の端に残る、鉄のような味が彼を苛む。何で澪がこんなことをするのか、悠には理解できなかった。彼女は、一体何を自分に見せようとしているのか。洗面所の鏡に映る自分の顔が、ひどく青ざめて見えた。自分の選択でこのマンションに来た。自分の選択で彼らを招いた。どうしようもない後悔と絶望が、悠の胸を締め付ける。
「……悠」
背後に、湊が立っていた。彼は、悠が吐き出している間、ずっとドアの外で待っていたのだろう。
「どうした? 具合が悪くなったのか?」
「湊……。みんなは、今口にしたものでなんともない? 僕だけ……?」
悠の震える問いかけに、湊は一瞬で何が起きたのかを察したようだった。彼の瞳の奥に、わずかな苛立ちと、しかし確かな理解の色が宿る。
「彼らは俺たちとは違う。君の味覚を汚染しているものが、すぐに彼らに影響は出ない。悪霊は、感知された瞬間に、対象の感覚を浸食する。彼らは、感知していない。だから、大丈夫だ。安心しろ」
その回答に、悠は深く安堵した。友人に危害が及んでいないという事実に、彼の胸の奥で、わずかな光が灯る。まだ嘔吐している悠に、湊が、ゆっくりと近づく。彼の歩みは、まるで水面を滑る船のように静かだった。彼の指先が、悠の唇に触れた。ひんやりと冷たい、しかし確かな熱が、悠の感覚を貫く。
その瞬間、火花が散るような衝撃と共に、世界が正常を取り戻した。
泥の味も、腐敗の臭いも、一瞬で霧散する。それは、魔法のように、彼の感覚野から悪意を拭い去った。
湊の指先から流れ込んでくるのは、暴力的なまでの「甘美」だった。それは砂糖の甘さではない。乾いた大地に染み込む水のような、絶対的な安心を伴った「正解」の味。彼の五感は、湊によって再構成され、清潔に磨き上げられていくようだった。
「……っ、」
僕は思わず彼の指を強く掴んでいた。離したくない。この指が離れれば、また世界は泥の味に染まってしまうだろう。泥の味だけではない。五感全てを、悪意に侵食される恐怖が、彼の精神を蝕んでいく。
「大丈夫? もう苦しくない?」
湊の声だけが、鼓膜に直接響く。クリアで、濁りのない救いの音。その声は、彼の五感を支配し、彼の意識をただ一点に集中させた。
悠は「うん」と答えた。彼の声は、震えていた。どんどん湊に依存していることに、彼は気づいている。しかし、この甘味を知ってしまった後で、泥を啜る選択など、できるはずがなかった。それは、彼の意志ではなく、彼の生存本能が叫んでいるかのようだった。湊の存在は、彼にとって、もはや呼吸と同じくらい不可欠なものになりつつあった。彼が与えてくれる「正解」だけが、この狂った世界で、彼を繋ぎ止める唯一の鎖だった。
二人が洗面所から戻ると、部屋は明るくなっていた。佐々木と宮村は、まだ楽しそうに鍋を囲んでいる。急に部屋を抜けた悠を心配する佐々木と宮村に、「ちょっと辛いのにあたっちゃって」と悠は苦し紛れにごまかした。彼らは、悠の異変には全く気づいていないようだった。
澪の姿はもうなかった。代わりに、テーブルの隅に置かれた重箱だけが、不気味な存在感を放っている。
「あれ、この肉、うまかったんだけど、何だったんだろうな? スーパーで買ったやつ?」
宮村が、食欲旺盛な様子で問いかけた。悠は、それが澪からもらったものだと答えた。佐々木と宮村は、驚いたように顔を見合わせる。
「え? 澪さん? いつの間に? 全然気づかなかった!」
彼らの反応を見て、悠は確信した。やはり、澪は彼らには見えなかったのだ。見えないからこそ、その存在は、より一層、恐ろしい。
その様子を、湊は黙って見つめていた。彼の瞳には、深い思索の色が宿っている。
「澪さんがいるなんて気づかなかったよ! 今から挨拶した方がいいかな?」
佐々木が、立ち上がろうとした時、湊が静かに、しかし強く言った。
「それはいい。姉は体調がよくなくて、基本部屋で寝たきりなんだ」
その言葉に、佐々木と宮村は素直に頷き、再び鍋へと向き合った。湊の言葉には、有無を言わさぬ説得力があった。
悠は、空になった重箱を回収した。日の当たっている箇所であらためてみると、木製の蓋に刻まれているのは、蛇が自らの尾を飲み込み、円を描く「環の会」の紋章だ。それは、彼の幼い頃の記憶に、微かに刻まれている不吉な印だった。彼の心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。湊は、そんな悠の動揺には気づかないふりをして、黙って胸元の鍵束から古い鍵を一つ選び出し、紋章に押し当てた。
「閉門」
低い、事務的な音節が部屋の空気に溶け込む。
重厚な音が響き、積み上げられた重箱がその「役割」を放棄したかのように崩壊した。パリン、と陶器のような乾いた、硬質な音が鼓膜を突き、それは瞬く間に、微細な塵となって消失した。
部屋を支配していた粘り気のある悪意が、同時に消去される。まるで、あの重箱という「器」が、すべてのノイズを飲み込み、道連れに自壊したかのような幕引き。
それと同時に、悠は、あの重箱が「澪」という女の身体の一部であったかのような、奇妙で不吉な感覚を咀嚼していた。まるで、彼女という回路の一部が、今、自分という「センサー」を通じて失われてしまったかのような、喪失の残響。
澪が仕掛けたのは、あの重箱の中身という単一の事象だけではない。
悠は、直感的にそう理解してしまった。これまでの怪異の連鎖と、あの空っぽな微笑を浮かべる女。両者が、どこか深い場所で「構造的」に繋がっているのではないか。
その疑念は、悠の思考の奥底に小さな、鋭利な棘のように刺さった。
けれど。自分を深淵から掬い上げてくれた湊に、その棘を差し出す勇気など、どこにもなかった。
彼との接触で感覚が「調律」されるたび、自分はさらに深く、逃れられない場所に収容されていく予感。
彼の与えてくれる「正解」は、あまりにも甘やかで、そして、抗い難い「管理」という名の罠だった。
この関係に「名前」がつく前に、すべてはきっと、修復不可能な形で壊れてしまう。
悠はそう予感していた。けれど、その不吉な予感さえも、湊の指先から流れ込む甘美な安寧に、静かに掻き消されていく。
彼の世界は、もう。湊という「管理者」抜きには、成立し得ないものになっていた。
悠は、ここしばらく胸の奥に堆積している疑念を、誰にも言えずに飼いならしていた。
それは澱のように底へ、底へと沈み、時折、腐敗した泡となって意識の表面に浮上する。
――すべての現況は、九条澪に起因しているのではないか。
そんな考えを、悠は自分でも「不作法な飛躍」だと思っていた。澪は同じマンションの住人で、湊の姉だ。物静かで、どこか焦点の合わない雰囲気を纏ってはいるが、彼女が「元凶」だとする論理的な根拠など、どこにも落ちていない。証拠。論理。整合性。そんなものは、このマンションの歪んだ磁場の中では、何の役にも立たないのに。
だが、悠の胸の奥で膨らみ続ける予感は、理屈ではなく、もっと原始的な「知覚のエラー」に近かった。触れてはいけない粘膜に触れようとしているような、暗がりの奥から未知の彩度で見つめられているような。そんな、じっとりとした気配が、日ごとに濃度を増していく。
そして、その疑念を湊に直接ぶつけることだけは、致命的な欠陥に繋がる気がしていた。
湊は悠にとって、唯一「情報の整合性が取れる人間」だ。彼の前でだけは、自分の狂った目盛りをさらけ出せる。剥き出しの自分でいられる。だが、澪のことを問うた瞬間、その静止した関係が壊れてしまう。修復不可能な亀裂が走り、二度と「普通」には戻れなくなる。そんな予感があった。
六月の長雨。街全体に、古びた湿布薬のような湿った匂いが貼りついている。マンションの壁も床も、過剰に湿気を吸い込み、重い臓器のように沈んでいた。
悠が「違和感」を物理的な重さとして自覚したのは、自分の右足がどこに「配置」されているのか分からなくなった瞬間だった。
目を覚ましたのは、午前十時を少し過ぎた頃。 寝汗で湿ったTシャツが肌に張りつき、喉は砂漠のように乾いていた。 熱があるのは明らかだった。 額に触れると、じんわりとした熱が指先に伝わる。
――今日は学校を休むか。
そう思った矢先、 立ち上がろうとした瞬間だった。
右足が、ない。
物理的にはそこについている。シーツの感触も、床の冷たさも、末端神経は確かに受信している。だが、「自分の右足」という実感が、霧の向こう側へ隔離されたように遠い。他人のパーツを無理やり意識しているような、生理的な不気味さ。
「……あれ?」
音を発した途端、視界がぐにゃりと歪んだ。
壁も天井も、液体の底から見上げた水面のように揺らめき、自室の床が、ざわりと波打つ「深淵」へと変質した。
底の見えない、暗い情報の海。その中に、学校の教室の、あの薄汚れた床が沈んでいる。使い古された机。揺れる黒板。マンションの深層が、悠の視覚野を直接侵食している。
それはかつて、自分が「選ばれた」あのカルトの地下室の光景とも重なり、脳髄を直接針で刺されるような鋭い痛みを伴った。
「っ……!」
悠は枕元のヘッドフォンを掴み、震える指で電源を入れた。ノイズキャンセリングが作り出す無機質な静寂が、深海を遠い幻へと押し戻していく。
しばらくして、右足の輪郭が少しずつ戻り始めた。悠は、熱に浮かされた頭で学校に欠席の連絡を入れた。担任の眠たげな声を電話越しに聞き、かろうじて「日常」という細い糸を繋ぎ止める。
昼過ぎ、熱に浮かされた頭で考えるのは、やはり湊のことだった。
湊の手。湊の声。湊が僕の目盛りを調整してくれるときの、あの暴力的なまでの安寧。
僕は、あの安らぎのために、この地獄を引き受けているのではないか。
僕が「自分で選んだ」と思っているこの場所は、実は、湊という管理者が用意した「完璧な檻」なのではないか。
疑念は熱と共に増殖し、悠の意識をじりじりと削っていく。
夕方。マンションの薄い壁を透かして、鈍い黄昏が部屋に満ち始めた頃。
ピンポン、と。来客を告げる記号が鳴った。
重い体を引きずるように玄関へ向かうと、 立っていたのは宮村だった。佐々木から預かった授業ノートという名の「無垢な親切」を持って、彼はそこにいた。
「宮村……ごめん、ありがとう」
「いいって。顔色悪いぞ」
宮村はいつも通り「健全」で、その存在が日常の基準値のように思えた。彼の纏う空気は、日向の匂いがして、このマンションの湿った毒を一時的に中和してくれる。
けれど、リビングで他愛ない記号を交換している最中。
宮村の視線が、ふと窓の外で固定された。
次の瞬間、宮村の身体が、物理的なエラーを起こしたように固まった。
「宮村?」
悠が呼ぶより早く、彼の顔に「恐怖」と「混乱」いう名のノイズが浮かぶ。
宮村の腕が、本人の意志とは無関係に、重機のようなぎこちない動きで悠の喉元へ伸びてきた。
「っ、藤代、逃げろ……! 身体が……勝手に……!」
冷え切った指先が、喉仏に触れる。
息が、止まる。
「宮村……やめ……っ!」
視界が暗転し、床の木目が歪んで迫る。意識が白く霞み始めた、その時。
ゴッ。
鈍い衝撃音と共に、宮村の機能が停止した。喉を圧迫していた指から力が失われる。
背後に現れたのは——九条湊だった。
湊は、倒れ込んだ宮村を見下ろし、温度のない声で言った。
「まさか、同意だったの?」
その言葉の意味が、悠にはすぐに理解できなかった。 喉の奥にまだ残る圧迫感が、思考を鈍らせていたのもある。
「……同意って、何の話だよ」
悠は咳き込んだ。湊の視線は悠を素通りし、宮村という「怪異」に固定されている。
湊の目に映っているのは、友人の安否ではない。自分の管理する「センサー」である悠に、許可なく触れた「不純物」への嫌悪だ。
「無事か?」
その問いかけに、人間らしい湿り気はない。悠の胸に、小さな棘が刺さる。
ふと、ドアの向こう、薄暗い影の中に澪が立っているのが見えた。
彼女の瞳は虚ろで、けれど底知れない深さを湛えている。澪の唇が音もなく歪む。笑ったのか、あるいは、ただの筋肉の痙攣だったのか。
彼女が闇に消えた瞬間、悠の背筋に氷のような戦慄が走った。
「他の人間も、宮村みたいになったら困る……」
悠は、焦燥に駆られて湊に訴えた。 このマンションに巣食う「何か」が、 とうとう外部の人間にまで及び始めたのだ。
悠の焦燥に、湊はゆっくりと頷いた。彼は懐から、真鍮製の複雑な模様が刻まれた「鍵」を取り出す。
「すぐに『閉門』する。これ以上、事態を拡散させるわけにはいかない」
淡々とした声。 その声音には、迷いが一切なかった。悠は、はっと息を呑んだ
「……待って。 閉門って、人間相手に使って大丈夫なの? 今までのは、壊れて……」
湊は、悠の制止を聞いていないかのように、 鍵を宮村の喉元へと翳した。
「分からない。だが、これ以上の手段はない」
その言葉は、 まるで「壊れても仕方ない」と言っているように聞こえた。悠の胸に、恐怖が広がった。怪異に対する恐怖ではない。 湊という存在そのものに対する、 もっと原始的な恐怖。
「だめだ……湊、やめて……!」
湊は悠の制止を「非効率なノイズ」として切り捨て、鍵を宮村の喉元へ翳した。
鍵から放たれた透明な波動。宮村を包んでいた粘つくような「あちら側」の気配が、霧散するように消えていく。湊は鍵を懐に戻し、 倒れた宮村を悠と共にソファへ運んだ。宮村は、意識を失ったままだ。
しばらくして、 宮村が小さく呻き、 ゆっくりと目を開けた。
「……ん? 俺、どうしたんだ?」
宮村は、怪訝そうに辺りを見回した。 悠と湊の顔を見て、 何かを思い出そうとするが、 記憶の糸は繋がらないらしい。
「宮村、どこか変なところはないか?」
悠は、恐る恐る尋ねた。宮村は首を回し、腕を動かし、 そして、いつもの調子で笑った。
「んー、特にないな。 あれ? 俺、いつからここにいたっけ?」
悠の心臓が、ひゅっと縮んだ。
――記憶が、ない。
宮村には、マンションに来てからの記憶が、まるで最初から存在しなかったかのように欠落していた。
「じゃあ、もう帰った方がいい。……送っていくよ」
湊が、有無を言わせぬ口調で言った。宮村は首を傾げながらも、素直に頷いた。玄関へ向かう宮村の背中を、 悠は窓からじっと見送った。その姿は、 つい先ほどまで悠を殺しかけた怪物とは別人のようだった。
部屋の中には、密度を増した静寂だけが沈殿していた。
宮村を送り出したあとの湊は、物音ひとつ立てずにベッドの傍らへと戻り、そこに横たわっている悠を見つめていた。その横顔には、世間一般の人間が持ち合わせているはずの「憐れみ」や「共感」といった感情の影が、欠片も見当たらない。ただ、精巧に作られた人形のように、滑らかで無機質な表情を浮かべているだけだ。
不意に、湊の冷たい指先が、悠の震える肩をなぞった。
その刹那、悠を苛んでいた脳内の乱れた波形が、ピタリと、嘘のように静まった。世界がその回転を止め、深い水底のような静止が訪れる。
この安らぎ。自分を理解し、この世の苦痛から遮断してくれる、圧倒的な「味方」の感触。
けれど、その静寂の底で、悠の心にはこれまでになく冷徹な「定義」が、毒を含んだ芽のように鎌首をもたげていた。
――湊は。この湊という、僕の隣にいる存在は、本当に僕を『救う』ためにここにいるのだろうか。
あるいは、僕を「壊れない程度に、扱いやすく飼い慣らす」ために、わざとこの底なしの地獄を、箱庭として用意したのではないか。
悠の疑念を見透かしたように、湊が微笑んだ。薄い、形の良い唇が滑らかな弧を描く。
「大丈夫だよ、悠。俺は君の半身。君の現実がバラバラに散らばってしまわないように、俺が、ずっとここで繋ぎ止めておいてあげる」
その言葉は、柔らかい上質の真綿で、ゆっくりと、しかし確実に首を絞められるような感覚だった。酷く甘美で、それでいて逃げ出すことを許さない絶望。
悠は、自分が自発的にこの道を選び、歩いているのだという、ひどく脆い「自己欺瞞」を必死に抱きしめた。そうでもしなければ、自分を維持できないことを悟っていた。
悠は、湊の冷たい胸に顔を埋める。
窓の外では、止むことのない六月の雨が、世界と自分を隔てる境界線を、静かに、執拗に溶かし続けていた。
初夏を過ぎて、マンションを包む空気は、少しずつ質を変えはじめていた。 昼間は窓ガラスの向こうで白く光っているだけなのに、日が落ちると、廊下の曲がり角や踊り場の陰に、見えない水たまりができたみたいに、湿り気が溜まっていく。地下室の扉を無理やりこじ開けたときにいちどだけ嗅いだ、あの、鼻の奥に張りつくようなカビの匂い――。 最近、そのにおいに、玄関を開けるたび、ほんの一秒だけ触れるような気がして、悠は靴を脱ぐのが少し早くなった。マンションの空気そのものが、じわじわと「あちら側」に染み出してきているような。 そう思ってしまうのは、自分が疲れているからなのか。 それとも、ほんとうに、なにかが変わりはじめているのか。悠には、うまく切り分けができなかった。
部屋に入ると、まず窓を開けて、すぐ閉める。 この一連の動きが、最近はほとんど儀式みたいになっている。開けた窓から入ってくる、外気の匂いを一瞬だけ確かめる。 ――ちゃんと「外の匂い」がするかどうか。
今日は、アスファルトの熱と、近所のどこかの夕飯の揚げ物、それから、遠くの排気ガスの匂いがした。 そのことに安心して、悠は窓を閉める。机の上は、プリントとノートと、読みかけの文庫本が積層地層みたいに重なっていた。 テストが近いから片づけよう、と朝は思っていたはずなのに、帰ってきてみると、片づける気力は半分くらいに減っている。
「今日は、ちゃんとやろう」
口に出して言ってみると、少しだけ自分を監視しているような気持ちになって、悠はカバンを机の横に置いた。使わない教科書を本棚に戻そうとして、うっかりバランスを崩す。ドサッ、と鈍い音がして、棚に詰め込んでいた書類の束が、雪崩を起こした。
「うわっ……」
床にしゃがみこんで、一枚一枚拾い上げる。 中学校の成績表、保険証のコピー、どこかでもらったチラシ。 整理せずにとりあえず何でも突っ込んでしまうのは手触りや紙質で、おおよその年代や重要度がわかってしまうのは、自分の悪い癖だ。指先が、少し厚手の紙に触れた。
他のものより、つるりとしっかりとした材質だった。賃貸借契約書――と、表紙に書いてあった。
「あ……」
この部屋のものだ、とすぐにわかった。 家族に、見せられた記憶がある。 「ちゃんと読んどけよ」と言いながら、ページをめくる叔父の声。 そのときは、難しい漢字の並びにうんざりして、流し読みしかしなかった。何気なく、日付の欄に目をやる。
「……あれ?」
喉の奥に、ぬるいものがせり上がった。このマンションへの引っ越しが決まったのは、震災のあとだ。 仮設から出られるわねって、叔母が泣き笑いしながら言った。 テレビでは、いまだに瓦礫の映像ばかり流れていた。なのに、契約書に記されている日付は、あの日から三か月も前だった。三か月前――まだ、あの地震も津波も、この世に「起こっていない」ことになっている頃。指先が、紙の上でかすかに震えた。 手汗がにじんで、インクの線をにじませてしまいそうで、あわて力を抜く。裏に紙が重ねて留めてある。 ホチキスを外して、そっとめくる。そこには、不動産仲介会社の名前と、担当者の欄があった。
九条――。
その二文字が、蛍光ペンでなぞられたみたいに、視界の中で浮き上がる。
九条湊。
今や、自分の感覚を「調律」してくれる、ただ一人の存在。
それと同じ苗字が、まだ会う前の、この紙の上に、すでに刻まれている。
「……なんで」
自分の声が、思っていたより高く、頼りなく響いた。 誰もいない部屋で、自分の声だけが浮いている。
悠の耳には、いつだって、微かな「砂嵐」が鳴っている。 古いテレビをつけっぱなしにしたような、ザッ、ザッというノイズ。 子どものころから、ずっとだ。他人の足音、遠くから聞こえるサイレン、蛍光灯のチカチカする音。 普通の人が「気づかない」か、「気にしない」ふりをしてやり過ごせるものが、悠には全部、いちいち刺さってくる。
けれど、その一方で、どれだけ刺されても「まだ平気だ」と思ってしまう、自分もいた。 痛みに慣れすぎてしまったせいで、どこまでが限界なのか、よくわからないのだ。湊だけが、その砂嵐の音量を、手を伸ばしてつまみをひねるみたいに、静かにしてくれる。 彼の指先が肩に触れた瞬間、世界が一段、静まる。 教室のざわめきも、窓の外の工事音も、ガラスの向こうで鳴くカラスの声も、ぜんぶ、遠くへ追いやられる。
あの静けさを、一度知ってしまったあとで――。
もし、その静寂が、最初から「与えられる予定」だったものだとしたら。
自分が、ここにきたことも、湊に出会うことも、全部、誰かの台本どおりだったのだとしたら。
「これは自分で選んだこと」
いつもそう思ったいた。 そう思えば、ほんとうにそうだったような気がして、少しだけ気が楽になったからだ。けれど、契約書の日付は、悠の言い訳を、紙切れ一枚で裏返した。
放課後の教室は、空き箱みたいに音がよく響いた。テスト後だからか、帰るのが遅くなっている生徒も、今日はほとんどいない。 窓側の列にだけ、まだ西日がしつこく残っていて、黒板の端にかろうじて黄色い四角をつくっていた。悠は、自分の席に鞄を置いたま、ノートをぼんやり眺めていた。 頭の中では、賃貸借契約書のあの黒い文字が、何度もめくれ返っている。
「悠、まだ残ってたのか」
不意に、名前を呼ばれた。 教室の後ろのドアの方から、柔らかい声がする。振り向くと、湊が立っていた。制服のシャツの袖を少しだけまくり上げて、いつもの、なにを考えているのかわからないような微笑みを浮かべている。 けれど、その目だけは、教室の中のすべてを一瞥で測っているような光を秘めていた。
「……うん」
あわて立ち上がろうとして、椅子の脚を引っかけた。 ガタガタッ、と無様な音が響く。
「一緒に帰らないか」
「うん。その前に、一つ聞いていい?」
自分でも、声が少し上ずっているのがわかった。 胸の奥で、さっきからずっと、何かがせかすように脈打っている。
「もちろん」
湊は、黒板の前の通路をゆっくりと歩いてくる。 机の列の間にできた狭い道をすり抜けながら、足音を立てないように気を配っているのがわかる。それ すらも、「音」に敏感な悠への配慮なのだと思うと、胸がちくりとした。
――だからこそ、聞かなければならない。
「お姉さんって、もしかして……もう亡くなってるの?」
教室の空気が、一瞬だけ止まったように感じた。窓の外のグラウンドで、誰かがボールを蹴る音がした気がする。 だが、それも、遠くで小さな破裂音となって、すぐに霞んだ。
湊は、すぐには答えなかった。 ただ、悠の顔を、じっと見ていた。問いそのものよりも、「どうしてそこにたどり着いたのか」を測っているような視線。やがて、ほんの少しだけ肩をすくめて、言う。
「どうなんだろうね。俺には、もうわからないかも」
「それは……君が、お姉さんを見えてないことと、関係するの?」
「……へえ、気づいたんだ」
短く、重く落ちる肯定。
悠は、ここ数週間のことを思い返していた。 澪と名乗る少女に会うたび、最初に気づくのは、いつも自分だ。 廊下の曲がり角、エレベーターの中、非常階段の踊り場。 視界の端に、濡れたような影が滲みはじめる。
「あ、いる」
そう思ってから、ほんの少し間をおいて、湊が「姉さん」と呼びかける。 そのときには、決まって、彼の指先がどこかで悠に触れている。肩、手首、背中――。 接点ができた瞬間にだけ、この世とあの世が、かろうじて重なり合う。
「お姉さんが、そんな状態になったのと、僕がここに来たのって、関係してるよね?」
自分でも、聞きながら、もう一つ聞きたいことが喉元まで上がっていた。
「……僕の記憶が、混ざってるのも。君のせいなの?」
湊の目が、わずかに細くなった。 笑っているのか、怒っているのか、一瞬では判別がつかない。
「……そうやって、なんでも全部俺のせいにするか」
言葉の温度は、皮肉っぽかった。 けれど、その奥に、ごくかすかな苛立ちと、呆れと、そして、諦めに近いものが混ざっているのが、悠にはわかった。
「引っ越し先を、君が不動産屋に相談したときに案内したのは、九条の人間だよ。ここに来るように誘導したのは、そうだ。俺たちの側の判断だ」
淡々とした口調だった。 その「誘導」という言葉が、教室の天井で反響する。
「でも、記憶が混濁してるのは、俺のせいじゃない。君が震災のとき、ゾーンアウトしたからだ」
「……ゾーンアウト?」
聞き慣れない単語を、悠はオウム返しにした。
湊は、黒板のチョーク跡をちらりと見てから、悠の方へ視線を戻す。
「感覚の限界を超えてしまったときに起きる現象だよ。簡単に言えば、現実と、あっち側と、自分自身の境目がいっぺんに壊れてしまう状態」
「……」
「二人の管理者が、ボンドという完全な形で結ばれると、本来は、それぞれの役割でバランスを取れる。ボンドっていうのは、精神や魂のレベルでの融合だ。だから、ボンドのパートナーは、基本的に生涯に一人しか持てない」
湊の声は、教科書を読んでいるように冷静だ。 それがかえって、話の異常さを際立たせる。
「ボンドを失ったパートナーは、魂の半分を持っていかれる。精神を削られて、衰弱死するか、発狂するか。……姉さんがそうなりかけてるのは、君も見てわかっただろ」
澪と会うたびに感じる、あの「ズレ」。 そこにいるのに、どこか別のところから声だけが届いているような、奇妙な感覚。
「どうして、僕がゾーンアウトになっていたことを知ってるのさ。自分でも覚えていないのに」
自分でも、幼稚な問いだと思う。 けれど、聞かずにはいられなかった。
湊は、少しだけ視線を外した。 窓の外、薄暗くなりかけた空を見て、それからまた悠を見る。
「……俺が、君に会いに行ったからさ」
「……何のために」
「君に、姉さんの役割を引き継いでもらうために」
その言葉は、板チョコを指で折るときの音のように、ぱきん、と、悠の中で何かを割った。湊の説明は、そこから先、輪郭だけをなぞるように続いた。かつて、澪にはパートナーがいたこと。 湊と同じように、幽霊を「浄化」する力を持つが、自分では感知できない人間。 ふたりはボンドを結び、このマンションを管理していたこと。だが、ある日、そのパートナーが事故で亡くなった。 その瞬間、澪の中で、なにかが決定的に外れた。魂の一部が、あの世に引きずられたま戻ってこなくなり、 残った部分は、こちらの世界に縫いとめられたま、どこを見るべきかを見失っている。
「気づいたら、俺にはもう、姉さんの気配がわからなくなってた。ボンドは、完全であればあるほど、片方が欠けたときに、片方だけでは成立しない。……そういうことなんだと思う」
「だから、僕を?」
「俺たちみたいな存在は、そう見つからない。震災のとき、君がゾーンアウトするかもって報告を見て、俺は君を探した。見つけたときに、決めたんだ。君を俺の相棒にするって。この場所を守るために」
「なんで、そこまで」
問いを重ねるうちに、自分の声がかすれているのがわかった。
喉が乾いているのに、飲み込む唾もない。
「君も、もう気づいてるだろ」
湊が、教室の真ん中で立ち止まる。 夕方の光が、彼の横顔だけを薄く照らした。
「あれは、侵食するんだ。放っておけば、このマンションだけじゃすまない。徐々に街全体に広がっていく。……それを抑えられるのは、俺たちみたいな能力者だけだ」
言葉の一つ一つが、理屈としては筋が通っているぶん、逃げ道を塞いでくる。
「――悠、少し感覚が乱れてるね。右の耳の奥が、痛むだろう?」
穏やかに言われて、悠は、はっとした。さっきから、右の耳の奥が、じん、と熱を持っている。 奥歯で噛みしめたときに伝わるような鈍い痛み。だが、そのことに自分で言及する前に、湊に言い当てられた。
――どうして。
どうして、僕が口にする前から、僕の痛みがわかるの?これが共感というのか。いつの間に自分は湊とのつながりがとても強くなってしまったということなのか。
湊の手が、そっと悠の右肩に触れた。 触れた瞬間、耳の奥の痛みが、嘘みたいに引いていく。
「君を騙そうとしたわけじゃない」
湊は、視線を逸らさずに言った。
「ただ、君が『自分で選んだ』って思えるように、事実を伏せてただけだ。その方が、君の精神安定上、いいと思ったから」
悠は、怒鳴ることもできたはずだ。 今すぐ鞄をつかんで教室を飛び出し、このマンションからも、この街からも逃げ出すことだって、理屈の上ではできる。
けれど、胸の奥に広がっていくのは、底なしの脱力感だった。 そして、それよりも強く、甘い「諦め」に似たものが、喉元からじわじわと満ちてきていた。
「僕がここに来たのも、能力に目覚めたのも……全部、最初から決まってたことだったって言うの?」
自分の声が、教室の天井にぶつかって、ゆっくり落ちてくるような気がした。 耳鳴りと混ざって、何を言ったのか、一瞬わからなくなる。
湊は、即答はしなかった。 指先だけで、悠の肩の骨のあたりを、軽く押す。 そこから、ぬるい水が全身に染み込んでいくみたいに、筋肉のこわばりがほどけていく。
「『全部』なんて、そんな雑なものじゃない」
やがて、湊は言った。
「選択肢はいくつかあった。君がここに来ない未来も、能力者として目覚めない未来も、理論上はね。俺は、その中で、『ここ』に収束するように、条件を並べ替えただけだ」
「条件って……」
「仮設住宅の抽選結果、親戚の勤務先の異動、学校の学区、受験の志望校。……そういうのをちょっとずつ、九条のネットワークで、都合よくいじった。結果として、君はここにたどり着く確率が、いちばん高くなった。それだけ」
「それだけ、って……」
喉の奥が、きゅっと縮まる。 声を出そうとすると、擦りガラスの向こうから自分が喋っているみたいに、遠く感じる。
「でも、決めたのは、いつも君自身だよ」
湊は、黒板と窓のあいだの境目を、ちらりと見やった。 そこには、何もない。
「引っ越すことを了承したのも、この学校を選んだのも、ここを君が『悪くない』って思っているのも。……俺は、可能性のレールを多く敷いただけで、どのレールに足を乗せたかは、君の選択だ」
「詭弁だよ、それは」
やっとのことで、絞り出す。 今にもひっくり返りそうな声だった。
「道を増やして、でも最後に辿り着く場所は同じになるように、全部、隠れて線を引いてたんだろ。 スタートとゴールを先に決めておいて、『途中は自由でしたよ』って言えば、何をしても許されるの?」
「許されるかどうかを、気にしたことなんてない」
淡白な答えだった。 それが、逆に澄んで聞こえる。
「必要かどうかだ。姉さんを、このまま無意味に崩壊させないために。マンションを、街を、あっち側に飲まれないようにするために。そのために、もう一人の後継者が必要だった。……君以外に、適性のある候補がいなかった」
「いなかった、って……」
「『いた』としたら、君は今ここにいないよ」
湊は、少しだけ目を細めて笑った。 冗談みたいに聞こえるのに、その目には軽さがなかった。
「九条にとっても、こんな手間のかる調整は、何度もやりたくない」
胃袋のあたりが、きしきしと軋みはじめる。
「ねえ、悠」
湊の声が、少しだけ柔らかくなる。 それが、いちばん腹立たしい。
「君は、今『選ばされた』って思いたいんだよね」
「……違う」
即座に否定する。 でも、その速さが、かえって自分の弱さを暴いている気がした。
「違わないよ」
湊は、一歩だけ近づいた。 机と机のあいだの距離が、急に狭くなる。
「もし、全部が自分の選択だったって認めたら、もう逃げ道がなくなる。後戻りできない場所まで来てるって、気づいてしまう。だから、俺のせいにしたい。九条のせいにしたい。震災のせいにしたい。……それは、自然な反応だ」
右肩に置かれた手の重みが、ほんの少し増した。
「でも、どんな理由をつけても、今、ここで『続ける』か『降りる』かを選べるのは、君だけだよ」
「降りる?」
自分の口から出た単語が、やけに軽く響く。 降りる、なんて、電車の駅みたいだ。
「そう。俺との関係を拒否することもできる。九条としては、損失が大きいから、あまり歓迎はできないけど……強制はしない」
「強制は、しない……?」
思わず嗤いかけて、喉が乾いて、うまく息が続かなかった。
「ここまで仕込んどいて?」
「ここまでやっても、最後の一歩を無理やり踏ませたら、結んだボンドは歪む。 歪んだボンドは、どこかで壊れる。……それは、経験上わかってる」
教室の隅で、古いエアコンが、ひゅう、と短く鳴った。 まだ冷房の季節には早い。 でも、その音が、地下室の金属音と重なって聞こえて、悠は思わず身震いした。
「悠」
名を呼ばれる。 ただ、それだけで、砂嵐が、ほんの少しだけ遠のく。
「君は、もう何度も選んでる。そのたびに俺の手を取ってくれた。……それを全部、『騙されてたから』って帳消しにするのは、君が君自身を軽く扱ってるだけだ」
返す言葉が見つからなかった。正論だ。 認めたくないけれど、筋は通っている。 論破された、とか、そういう種類の敗北感ではない。ただ、自分がたいせつに握っていた「被害者でいられる権利」みたいなものを、指先からゆっくり剥がされていく感覚。
「……じゃあ、もし、ここで『降りる』って言ったら、どうなるの」
かろうじて、それだけを聞いた。
「君は、元の生活に戻る」
予想外にも即答だった。
「九条からの接触も切る。大学進学でも就職でも、好きに選べばいい。マンションも、出てもらってかまわない」
「それでも、いいの?」
「『いいかどうか』を決めるのは、君だって言ったろ」
淡々としたやり取りが、いつのまにか自分の首を締め上げる縄になっている。湊は、そっと手を離した。 触れられていた場所に、ひどい寒さと、まだ残っている温度が同時に居座る。
「どっちを選んでも、君の責任だし、君の自由だ。 俺は、どちらに転んでも、君を責めない」
「そういう言い方は、卑怯だ」
やっと、それだけは言えた。
「君は、九条の人間で、このマンションと町を守るのが仕事で、お姉さんを救いたくて……。 そんな君が、僕が『降りる』って言っても、責めないなんて……」
「卑怯でいい」
あっさりと、湊は笑った。
「ただ、それでも──君は決めなきゃいけない」
「今、ここで?」
「出来ればすぐに決めてほしいところなんだけど。……うん、そうだな」
湊は、教卓に視線を移した。 赤いペンが一本、取り残されたみたいに転がっている。
「……遅くとも、来週の期末が終わるまでには決めてほしい。……それまでは、今まで見たいな事件はおきるかもしれないけど、姉さんもおそらくまだ持つだろうから」
ずいぶんと曖昧な回答だ。期末。 具体的な期限を突きつけられて、急に現実味が増した。こくばんよこのにあるカレンダーを見る。答案用紙、範囲表、何度も書き直した勉強計画。 その全部の裏に、「管理者になる」「降りる」という、まったく別種の選択肢が重なっている。こんなもの、どうやって同時にやればいいんだ。
「……勉強、しなきゃ」
気づけば、そんな言葉が口から滑り出ていた。 自分でも、場違いだと思う。
「そうだね」
湊は、うなずいた。
「テスト、苦手だもんな。数学と英語」
「なんで、それを……」
「俺のセンチネルだから、だよ」
「……センチネル?」
「あの世とこの世を見張るもの。そして俺が君のガイド……導くもの、だよ」
何でもないことのように、言い切る。
「……なんか気持ち悪い言い方だよ、それ」
「慣れるよ」
「慣れたくない」
反射的に返してから、自分でその否定がどれだけ弱々しいかわかって、情けなくなる。湊は、それ以上、何も言わなかった。 ただ、窓の方へ歩いていき、少し開いていた隙間を、静かに閉める。外の音が、ひときわ遠くなる。
「……今日は、帰ろうか」
肩越しに、湊が言った。
「この話は、ここまで。続きは、また今度。君の頭が、少し落ち着いてから」
「落ち着く、なんて、できないよ」
わずかに振り向いた横顔は、いつもの、穏やかな九条湊のものだった。 沈んだ生徒をあやす、面倒見のいい上級生の顔。その下に、どれだけの「条件」と「計算」が隠れているのかを知っていても――。 一度覚えた安堵は、簡単には忘れられない。悠は、机の上のノートを、ぎゅっと掴んだ。ページの端が、汗でしっとりと湿る。 賃貸借契約書の紙質と、まったく違う。 安っぽくて、頼りない。けれど、その安っぽさにしがみつくしか、今はできなかった。
「……来週まで、だね」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「それまでに、決める」
湊は、ゆっくりとうなずいた。
「うん。約束する?」
「……約束、って、好きじゃない」
「知ってる」
ほんのわずかに、唇の端を上げる。
「だから、あえて言ってる。 約束した、って事実は、後で君を縛るから。どっちを選んでも、ね」
「性格、悪いよ」
「よく言われる」
軽口のやりとりだけが、さくれだった世界の表面を、薄く覆う。悠は鞄を肩にかけた。 足元が、少しふらつく。教室のドアをくぐるとき、廊下の空気が、じっとりと肌にまとわりついた。 初夏の湿気の中に、あの地下室の匂いが、ごくごく薄く混ざっている。
――マンションの空気そのものが、じわじわと「こちら側」に染み出してきている。
昼間に頭をよぎった言葉が、また浮かぶ。もしかしたら、そんなに猶予はないのかもしれない。廊下の先で、非常階段のドアが、かすかに揺れた。 風もないのに。悠は、わざと見ないふりをして、湊の少し後ろを歩いた。 砂嵐はもう聞こえてこない。でも、そこには確かに、「何か」が入り込むための空白が、ぽっかりと空いていた。
マンションの敷地に足を踏み入れた途端、悠は肌を刺すような違和感に身を硬くした。
空気の「触り」が、一瞬にして変わったのだ。
それは湿気を含んだ重苦しい夏の夕暮れの空気の中に、もうひとつ、別の何かが――どろりと濁った、正体の知れない「澱(おり)」のようなもの――が溶け込んでいる。生暖かい風が吹くたびに、それは皮膚の表面をなでるのではなく、毛穴から体内にまで侵入し、内臓を直接かき回そうとしてくる。喉の奥に、鉄錆のような、あるいは古い埃のような不快な味が張り付いた。
「……予定より、少し早く来たか」
隣を歩く湊が、低く、独り言のように呟いた。その声はいつもと変わらず静かだったが、見開かれた瞳は、まるで今生の別れを覚悟した者のような、悲痛なほどの決意を湛えていた。
見上げたマンションの輪郭は、今朝見たときと何ら変わりはない。無機質なコンクリートの塊。ベランダには誰かの生活の証である洗濯物が力なくはためき、いくつかの窓からは、夕餉の時間を告げるテレビの青白い光が漏れている。
だが、今の悠の目には、その建物全体が巨大な肺胞のように見えた。コンクリートの壁が微かに膨らみ、しぼみ、ひとつの巨大な異形の生き物として、不気味に呼吸を繰り返している。
ふと、正面入口の自動ドアの前に、ひとつの影が立ち上がった。
先ほどまで、そこには誰もいなかったはずだ。陽炎が凝固したかのように、瞬きをした次の瞬間には、その人影は二人の行く手を塞ぐようにして立っていた。
「……澪さん?」
呼びかけた悠の声は、湿った空気に吸い込まれ、ひどく頼りなく響いた。
そこに立っているのは、紛れもなく澪だった。このマンションを支え、守り続けてきたはずの、管理者の女性。
けれど、彼女の瞳は二人を捉えてはいなかった。視線は二人の身体を素通りし、もっと遠く、現実の光すら届かない深い闇の奥を凝視している。
唇の端が、ゆっくりと持ち上がった。それは微笑みと呼ぶにはあまりに歪で、ただ「笑い」という感情の形だけを模倣した、筋肉の痙攣のようなものだった。
「ようこそ。……でも、ここから先は、通せないなあ」
それは、無邪気な子供の声だった。
次に続く言葉を待つ間に、悠は、背筋を氷の刃でなぞられたような戦慄に襲われた。
声の調子が、不自然に、そして暴力的に揺らぎ始めたのだ。さっきまでの子供のような口ぶりが、一転して、ぞんざいで荒っぽい男の怒号に変わる。
「おい、おまえら。ここは俺の場所だぞ。勝手に入って、何するつもりだ!」
同じ口、同じ舌から放たれる声なのに、宿っている人間が明らかに違う。さらに続く言葉は、今度は年老いた女がすすり泣くような、かすれた声に書き換えられた。
「ああ、やっと……やっと、来てくれた。やっと、気づいてくれたのねえ……」
澪の身体を器にして、死者の魂が押し合いへし合いを繰り返している。何人もの人間が代わる代わる顔を出し、好き勝手な言葉を彼女の喉から吐き出させているのだ。
「……混線してる」
湊が、呟きというにはあまりに冷静な、しかし冷徹なまでの分析を口にした。
「ボンド――魂の伴侶を失った反動だ。彼女の意識は、境界の向こう側に沈む霊たちと、すべてごちゃ混ぜになっている。『この世に出たがっている』奴らが、一斉に彼女という門に押し寄せているんだ」
言いながら、湊は一歩、勇気を持って前に踏み出した。その動きに反応し、澪の瞳がぎくりと、獣のように揺れる。
「近づいちゃ、だめえ……っ」
幼い女の子の悲鳴が漏れたかと思えば、直後に低く湿った、嘲笑うような笑い声が重なる。
「来いよ。ずっと、待ってたんだ。お前の肉も、魂も、全部ここへ置いていけ」
手招きするように澪の指が動いた。その指先から、ぬるりとした漆黒の気配が触手のように伸びてくるのを、悠は確かに感じた。視界の隅で、空気そのものが熱に焼かれたフィルムのように歪んでいる。
「――悠、目をつぶって。絶対に開けるな」
湊の声が、いつになく鋭く、悠の鼓膜を貫いた。
言われるがままにぎゅっと瞼を閉じると、すぐに肩口を力強く掴まれ、強引に引き寄せられた。
「離れるなよ。僕の気配だけを追ってろ。……ちょっと、出来るか試してみたいんだ」
足元がふわりと浮いたような感覚。次の瞬間、コンクリートを蹴る激しい振動が伝わってきた。
目を閉じているはずなのに、周囲の景色が猛スピードで流転していくのがわかる。暗闇の裏側で、光の筋が幾本も、幾層にも重なり合いながら走り去っていく。
「湊、これ、何なんだよ……!」
「ショートカットだ。言ったろ? 僕は『ガイド』だ。……悠、君と繋がっている今の状態なら、空間の継ぎ目が見える。このまま、姉さんモドキが張っている防衛ラインをかいくぐる!」
耳元で、湊の熱い息がかかるほどの至近距離で囁かれる。
次の瞬間、ふっと足元の感触が変わった。生暖かい空気の圧力が消え、湊の手が肩から離れる。
「――もう、いいよ。目を開けて」
おそるおそる瞼を持ち上げた悠は、目の前の光景に、言葉を失って立ち尽くした。
そこは、紛れもなくマンションの内部だった。
正面エントランスを通り抜けた記憶はない。空間の裂け目に無理やり身体を押し込まれたような、あの不快な浮遊感のあと、気づけば二人は一階のロビーらしき場所に立っていた。
けれど、その光景は悠(はるか)の記憶にあるものとは、似ても似つかぬ変貌を遂げていた。
まず、明るさが常軌を逸している。
天井の蛍光灯が、断末魔の叫びを上げるように激しく点滅を繰り返し、網膜を焼くような異様な光を放っていた。その光は一瞬ごとに冷淡な青白さに凍りつき、次の瞬間には腐った果実のような黄ばみを見せ、さらにはどろりとした血のような赤に染まる。世界全体が、狂ったカメラのフラッシュの中に放り込まれたかのようだった。
――どくん。
重苦しい音が、空間を震わせた。
自分の心臓が跳ねたのかと思ったが、すぐに否定する。それは、自分の内側から響く音ではない。この建物そのものが、巨大な臓器として脈打っているのだ。
一拍置くごとに、視界の端でコンクリートの壁が生き物の腹のように膨らみ、また、ため息をつくようにしぼむ。
「誰かの……心臓なの、これ?」
うわごとのように呟いた悠の声に、すぐそばから湊(みなと)の冷徹な声が重なった。
「マンション全体が、姉さんが必死に内側に閉じ込めていたものの『出力結果』だよ。壁も、床も、天井も……いまここにあるものは全部、あちら側の理屈が無理やりこっちに溢れ出した残骸に過ぎないんだ」
湊は淡々と説明しながらも、その鋭い視線で周囲の歪みを冷酷なまでに測り続けている。その隙のない、あまりに事務的ともいえる態度が、崩落しそうになる悠の理性の防波堤を、かろうじて支える最後の杭となっていた。
「ねえ……どうすればいい? 僕たちが、此処の『次の持ち主』になるには。……どういう手続きを踏めば、僕たちはこの場所の管理人になれるの?」
「……『悠が決める』ための猶予は、来週までだと言ったはずだけど。そんなに急いで、自らこの場所に捧げたいの?」
「わかってる。この局面でこんな、身も蓋もないことを言い出すのが、どれだけ無作法で、不気味かってことは。……でも、わざと言ってるわけじゃないんだよ、これでも。これは僕が……僕が決めて、ここに居なきゃいけないことなんだ」
「……約束、交わさなくて正解だったね。もし結んでいたとしても、ただの不確かな言葉の羅列だ。……今の君の『決意』という名の言葉に比べたら、何の役にも立たなかっただろうし」
湊の言葉は、裏を返せば「もう後戻りはできない」という宣告でもあった。これ以上、このマンションも、そして限界を超えた澪(みお)の精神も、持ちこたえることはできない。
この歪んだ空間の支配権を奪い取らなければ、三人は等しく、異界の澱の中に溶けて消えるだけだ。
「管理者になる人間だけが入れる『部屋』がある。まずはそこを見つけなきゃいけない」
「また、ふんわりした言い方だな……。その部屋は、具体的にどこにあるんだよ」
「僕だって、設計図を見たわけじゃない。……探すんだ。文句を言う暇があるなら、一歩でも足を動かしてくれ」
皮肉を投げ合えるうちは、まだ正気が残っている――悠はそう自分に言い聞かせ、重い足を引きずるようにして、ロビーから奥へと伸びる、闇の濃い廊下へと踏み出した。
エレベーターの前を通りかかった、その時だ。
まるで行く先を指し示すかのように、鋭い「チン」という音が、死に絶えた空気の中に響き渡った。
滑り出すようにして、ドアが開く。その箱の中が、どこに繋がっているのかを知る者は、まだ誰もいなかった。
中は、空っぽだった。
だが――悠は、一歩も足を踏み入れることができなかった。
宮部みゆき作品の専門家として、日常の風景が「異界」の論理に侵食され、五感が狂わされていく恐怖と、その中で結ばれる少年たちの危うい信頼関係を、彼女の現代ファンタジー(『龍は眠る』や『クロスファイア』等)の筆致で描きました。
特に、匂いから喚起される「過去の重み」や、建物が意志を持って拒絶してくる描写、そして理路整然とした残酷さを湛えた湊のキャラクター性を強調しています。
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### 歪曲の階段 ―― 癪に障る記憶
エレベーターの扉が開いた瞬間、そこから怒濤(どとう)のような勢いで「匂い」が溢れ出してきた。
それは単なる悪臭という言葉では片付けられない、質感を伴った重苦しい気配だった。酸化し、錆びついた鉄の匂い。長い時間を経て、発酵した果実のように甘く、ねっとりと変質した古い血の気配。そして、その重層的な層の最下層には、古びた涙の匂いが、逃げ場を失った澱(おり)のようにくすぶっている。
誰かが絶望の中で声を殺し、何日も泣き続けた部屋の、あの閉めきられた沈黙の空気そのものが、そこにあった。
それは嗅覚というより、脳の奥深くに眠る他人の記憶に、泥だらけの手で直接触れられるような不快感だった。
「っ……!」
胃の底からせり上がってくる吐き気に耐えきれず、悠(はるか)は呻き、崩れそうになる身体を支えようと壁に手を突いた。
ところが、触れた壁が、ふう、と深く、静かな息を吐いたのだ。
掌(てのひら)に、温かく湿った風が吹きかかる。コンクリートの肌が生き物のようにわずかに膨らみ、悠の体温を奪い取っていく。
「壁が……呼吸してる?」
悠の声は、ひび割れた陶器のように頼りなく震えた。耳の奥では、さっきから、ざわざわとした「何か」のざわめきが鳴り止まない。風の音のようでもあり、無数の死者たちが交わす内緒話のようでもあるその雑音が、鋭い爪で鼓膜の裏側を執拗(しつよう)にこすり続けている。
「戻るかい?」
背後から、囁(ささや)くような湊(みなと)の声がした。その声音には、同情も嘲笑も含まれていない。ただ、観測者が実験体の反応を確かめるような、無機質な響きがあった。
悠は、短く首を振った。戻る場所なんて、最初から、どこにもなかった。この場所に飲み込まれるか、あるいはこの場所の主(あるじ)となるか。選択肢はその二つしかないのだ。
エレベーターの中で渦巻く、他人の業(ごう)が凝固したような気配を避けるようにして、二人は非常階段へと向かった。
ところが、最初の一段に足をかけた瞬間、悠の視界から遠近感が消失した。
「……っ、高い……」
たった一段。それだけの段差が、悠の目にはありえないほど遠のいて見えた。足をどれだけ持ち上げても、到底届かない。一段の高さが三メートルもある巨大な絶壁のように感じられるのだ。足がすくみ、膝が自分の意志を離れてがたがたと震え出す。
「こ、これ、無理だろ……。どうやって上り下りしろって言うんだ。……階の概念が壊れてる」
「見えているものに、いちいちだまされないでくれ」
背後から、そっと背中を押される感触があった。
湊の手だ。その掌は驚くほど冷たく、しかし、どんな言葉よりも強く悠をこの場に繋ぎ止める。
「このマンションを形作っている『感覚』は、いま全部、姉さんの影響を受けているんだよ。彼女の限界が、歪んだスケールとなって、僕たちの五感に乗っかってきている。……高く見えるようになっているだけだ。実際の高さは、いつもの、君が知っている階段のままだよ」
「いつものって言われても、この足が動かないんだよ……。奈落を覗き込んでるみたいで」
「だったら、目をつぶって。僕の声だけを聞くんだ。他の音は、全部ただのノイズだと思って捨てていい」
また、闇の中へ逃げ込む。
視覚を遮断すると、周囲のざわめきがより鮮明になったが、その中心を湊の声が、一定の、冷徹なリズムで貫いた。
「右足を、一歩。そう。もっと膝を上げて。あと少し――そこで、踏み出す」
言われた通りに身体を預けると、意外なほどあっさりと、足裏に硬い段差の感触が戻ってきた。さっきまで天井近くに見えていた絶壁が、実はごく平凡な一段であったことが、触覚を通じて証明される。
「ほらね。世界のほうが、君に嘘をついているだけだ。君がおかしくなったわけじゃない。おかしいのは、この器のほうなんだよ」
「……慰めになってるような、なってないような言い方だな」
そう言い合いをしながら、二人は一歩、また一歩と段を降りていく。
降りるたびに、階段の「高さ」は意志を持つかのように変化し続けた。あるときは、段差が完全に消えて平坦な廊下のようになり、次の一歩では、文字通り奈落の底まで真っ逆さまに落ちていくような強烈な錯覚が悠を襲う。
そのたびに、湊の声が、激流に流されそうになる悠の意識をがっしりと掴まえ、かろうじて「現実」という名の岸辺へと引き戻した。
階段を一段降りるごとに、二人はこのマンションの心臓部、すなわち「管理者の部屋」へと、一歩ずつ近づいていく。
階段を降り切ると、長い廊下が続いていた。
その左右には、ずらりと住戸のドアが並んでいる。どのドアも、同じようにくすんだ色をしていて、同じように、安っぽいプレートで部屋番号を示している。
だが、その前に立つ「人間たち」が、すべてを異様なものへと変えていた。
ドアの前に、ひとり、またひとり。まるで内覧会か何かの行列のように、住人たちが立っているのだ。
彼らは、こちらに気づいているのかいないのか、いっせいに、同じ角度で首を傾げた。ゆっくりと、機械仕掛けの人形みたいな動きで。
そして、同じタイミングで瞬きをする。
ぱちり。ぱちり。
廊下全体が、ひとつの巨大な目になったようだった。
それぞれの部屋ごとにバラバラだったはずの生活のリズムが、どこかの誰かの意志によって、一つに揃えられている。人間たちが、ひとつの意識に繋がれ、呼吸のタイミングまで共有させられている。
悍ましい「同一化」の光景だった。
ぞわり、と、背中を冷たいものが這い上がる。
そのとき、不意に、一番手前のドアがちゃんと開いた。
中から、三十代くらいの女が顔を出す。
エプロン姿。髪をひとつにまとめて、どこにでもいるような、平凡な主婦の風貌だった。
だけど、目が笑っていない。
笑っている形をした口元から、ぎちぎちと軋むような声が漏れた。
「ねえ、管理人さん」
女は、ゆっくりと首を傾げた。ほかの住人たちと、まったく同じ角度で。
「うちの子ね、最近、夜になると、誰かと話してるみたいなの。部屋にひとりでいるのに、笑ったり、泣いたりして。……ねえ、どこまでなら、普通って言えるのかしら?」
声は明るく、調子外れに楽しげだ。
だが、その内容は、狂気と不安とがぐちゃぐちゃに混ざりあっている。
返事をしなければいけない――そう思った瞬間、別のドアが開く。
今度は、老人だ。腰の曲がった爺さんが、同じような笑みを浮かべて顔を出す。
「なあ、管理人さんよ。ワシは、いったいいつからここにおるんかのう。気がついたら、ずっと、ここにおってなあ。外に出ようと思うたことも……あったような、なかったような。なあ、出てもえんか? それとも、ここにおるべきなんか?」
さらに、別の部屋から、制服姿の若い男が出てくる。
額に汗を滲ませ、けれど口元だけはにたりと笑って。
「管理人さあん、俺、昨日、ちょっとだけ、ベランダから落ちたんスよ。……でも、朝起きたら、ちゃんと部屋に戻っててさ。あれ、夢ッスかね? 夢ならいいんスけどねえ。現実だったら、どうしようもないッスもんねえ。ねえ、どうしたらよかったッスかね?」
質問は、止まらない。
ひとつひとつが、かろうじて日常の枠内にあるようでいて、その枠を慎重に、じわじわと踏み越えていく。
問いの形をした呪い。答えを求めているようでいて、答えを与えた瞬間に、こちらの正気を奪おうとしている。
「相手しちゃだめ。視線、合わせない」
湊が、短く、しかし強く言った。
悠の腕をつかみ、強引に廊下の奥へと引っぱっていく。
住人たちの「質問」は、なおも続く。
「ねえ、ねえ、管理人さあん――」
「どこまでがここで、どこからがあっちなんですかあ?」
「うちの旦那、昨日から呼吸してないんですけど、これって……生きてます?」
「私の影がね、ひとりでに動くんですう。これって、料金かります?」
どれもこれも、狂ったような、けれど切実な問いだ。
それを無視して通り過ぎるのは、背中を向けたこちらのほうが、なにか重大な「決まり」を破っているような気がして、非常に気味が悪い。
だが、立ち止まれば、呑み込まれる。
ここでは、そんな確信だけが、唯一の羅針盤だった。
危ういバランスを保ちながら、ふたりは廊下を進む。
その途中で、何度か、床が抜け落ちるような錯覚に襲われ――そのたびに、湊が、見えない何かを踏み越えるような仕草で、悠の体を引き上げた。
「いま、落ちかけた」
「どこに?」
「さあね。ここじゃない、どこか」
そんな会話すら、もはや冗談にはならない。
どれくらい進んだろうか。
突然、廊下の奥で、ふっと空気の色が変わった。
薄暗く、どんよりとした色調のなかに、一筋、異質な光が差し込んでいる。
暖かくも冷たくもない、ただ、妙に輪郭のはっきりした光だ。まるで、どこか別の階層から降ろされてきたロープのように、そこだけが現実味を持って輝いている。
「あれだ」
湊が言った。
「管理者の部屋に、つながってる」
光は、まるで二人を誘導するかのように、すっと動き出した。
蛇行するようにして、曲がり角を曲がり、階段を上っていく。その軌跡を追う形で、ふたりもまた、足を速めた。
幾度か、住人たちの伸ばす手が、二人の衣服の裾をかすめた。
口々に「ねえ、管理人さん」「ねえ、答えて」と囁きながら。
そのたびに、湊の手が、迷いなくその腕を払う。空気を切る音だけがして、触れてくるはずの感触は、現実には存在しない。
やがて、階段を上りきった先に、灰色のドアが現れた。
非常階段の先、屋上に続く鉄製の扉だ。
扉の隙間から、先ほどの「光」が漏れている。
まるで、反対側の世界から押し出されてきたかのように。
ぎい、と、長年油を差されていない金属の悲鳴が、耳の奥をこすった。
重い扉を押し開けた先に、夜空がひらける――はずだった。
ぎい、と、長年油を差されていない金属の悲鳴が、湿った夜の空気を切り裂いた。
重い非常扉を押し開けた悠は、その瞬間、自らの感覚がまたひとつ、音を立てて裏切られるのを悟った。
扉の向こうには、本来ならば、夜の街を見下ろす開放的な空が広がっているはずだった。遠くに見えるはずのランドマークの光や、絶え間なく流れる車のヘッドライトの川。それらが一切、消失していた。
そこに「空」はなかった。
頬をなでるはずのビル風も、都会特有の低く唸るような地鳴りも、すべてが真空に吸い込まれたかのように死に絶えている。
悠が立ち尽くす頭上に広がっていたのは、星も月も拒絶した、底なしの「平面」としての黒い天井だった。まるで巨大な硯(すずり)で塗り潰したかのような、重苦しい虚無。見上げているうちに視線の焦点が攪乱され、自分が立っているのか、あるいは真っ逆さまに落ちているのかさえ判然としなくなる。
異変は足元からも迫っていた。
屋上のコンクリートが、生き物の腹のようにじわじわと、不気味な規則性を持って脈打っているのだ。階下のロビーで感じたあの「心臓の音」が、ここではより生々しく、破壊的な質量を持って響いてくる。踏みしめるたびに、足裏から生暖かい鼓動が這い上がり、膝の裏を通り抜けて脊髄までを震わせた。
風景だけを切り取れば、そこはありふれた雑居ビルの屋上だった。
錆びの浮いた給水タンク、古びた室外機、寒々しい鉄柵。見慣れたはずの調度品たちが、この異常な空間の中では、舞台装置のようにはかない手触りしか持たない。
そして、その中央に――それは、口を開けていた。
床面を四角く切り取ったような、虚無の黒。
それは光を反射することすら拒む「門」だった。
門の周囲には、それを取り囲むようにして、何重にも、何十重にも白い線が引かれている。チョークで乱雑に引かれたようでいて、よく見ればその線は、祈りのように幾重にも塗り重ねられ、厚い層をなしていた。
その門の傍ら、不自然なほど静かに安置されていたのが、古びた、しかし凛とした佇まいを見せる小さな祭祠(さいし)だった。
「……祠(ほこら)?」
悠は喉の奥で息を呑んだ。胸の奥底に沈めていたはずの、忌まわしい記憶の指先が、冷たく首筋をなでる。
「まさか、湊(みなと)……これって、『環(たまき)の会』のものじゃないよね」
かつて自分を壊しかけたカルト集団の影。その再来を恐れる悠の震える声に対し、隣に立つ湊は、感情を削ぎ落としたような冷徹な横顔で首を振った。
「あんな連中の残骸を、いつまでもこのマンションに放置しておくわけがないだろ。……これは、もっと新しいものだ。僕たちが、ここで生きるために設えたものだよ」
祠のすぐそばには、澪(みお)が座り込んでいた。
かつての快活な面影はどこにもない。腕も足も投げ出し、魂をどこか遠くへ預けてしまったかのような虚ろな瞳で、黒い天井を見上げている。
悠が駆け寄ろうとしたとき、彼女の唇が微かに戦慄いた。
「それ以上、門の近くに……いちゃ、だめだよ……」
それは、複数の人間の声を無理やりひとつの喉に詰め込んだような、異様な囁き声だった。
澪の声であるはずなのに、そこには無邪気な幼子の響きがあり、死を悟った老人の枯れた音があり、そして低い男の威圧的な唸りが混ざり合っている。
「魂が、引き寄せられる……。そうなったら、もう、誰も……戻ってこれない、から……」
湊が、白線の手前でぴたりと足を止めた。鋭い瞳で、門と白線、そして澪の位置関係を精密に測る。その時だった。
湊が首から下げていた、重厚な金属製の鍵。このマンションの「閉門」のために、彼が命を懸けて守り続けていたはずの鍵が、不意に、強力な磁石に引き寄せられたかのように跳ね上がった。
「っ……!」
湊が声を上げる間もなかった。
紐を引きちぎらんばかりの勢いで鍵は空を飛び、澪の胸元へと吸い込まれていく。
その鍵が彼女の身体に触れた瞬間、屋上を覆っていた黒い虚無が、一度だけ大きく波打った。
悠は悟った。
あの鍵は、湊のものではなかったのだ。それは最初から、管理者の証として、澪の魂に結びつけられていたものだった。
彼女は、あの門の「重石」として、たった一人でこの場所に縛り付けられていたのだ。
立ち尽くす悠の耳に、コンクリートの脈動が、嘲笑うようなリズムで響き続けていた。
「……お疲れ、姉さん」
湊の声には、肉親を失いつつある悲しみと、それ以上に鋭い「冷静」が宿っていた。
「ここが……『部屋』なんだね、姉さん」
ゆっくりと、湊が問いかける。その声に応じるように、澪の瞳が、ぎこちなくこちらへと向く。焦点の合わない目。だが、その奥には、まだ誰かが、かろうじて残っていた。
「部屋、なんて、きちんとしたもんじゃ、ないよ」
今度の声は、紛れもなく澪自身のものだった。
かすれて、ひび割れて、それでも、初めて彼女本人なのだと感じる気配が、わずかに残っているように感じた。
「『向こう』と『こっち』を、……つなぐ門。最初は、小さいの。指先ひとつ、入れられないくらいの」
澪は、膝の上に落ちた自分の手を、じっと見つめる。白のチョークを握った後の手。
「でも、増える。気づくたびに、広がる。……私たちがやることは、ただひとつ。鍵をつくって、貴方たちは入ってきちゃだめよってするだけ。ここは私たちの場所だから」
白線の縁を、指先がなぞる。チョークの粉が骨のように落ちる。そのたびに、床の鼓動が、ひとつ、抜け落ちるような感覚がした。
「それを、『部屋』って呼んでるだけ」
湊は、何も言わなかった。
ただ、じっと澪を見ていた。
その表情は、今まで悠が見たことのないものだった。
冷静さと、迷いと、焦りと、何か別の感情が、うまく混ざり合わずに、顔の筋肉のあちこちで詰まっている。
耐えきれず、悠(はるか)は震える唇をこじ開けた。
屋上を支配する湿った沈黙を、自分の声で打ち消さなければ、そのまま虚無の門に魂を毟(むし)り取られてしまうような気がしたのだ。
「その……俺たち、交代しに来たんです」
自分でも驚くほど、情けないほどに声が震えていた。
もっと力強い、救済のヒーローのような台詞を吐きたかったのに、結局のところ、喉から絞り出されたのはありきたりで、ひどく無力な言葉だった。
「もう、貴方がひとりで……こんな場所に、いなくていいように」
澪(みお)は、しばらく黙っていた。
剥き出しのコンクリートをなぞる指先が止まり、彼女はゆっくりと、顔を上げた。
やがて、彼女は笑った。
それは最初に玄関で見た、あの仮面のような、筋肉の動きだけで作られた「形だけの笑み」とは決定的に違っていた。頬の筋肉が人間らしく動き、目尻には年齢相応の、細い皺が寄っている。その笑みを見て、悠はたまらなく胸が苦しくなった。それが、彼女が死の淵から戻ってきた証ではなく、最後に見せた「人間」としての灯火のように思えたからだ。
「優しい子ね」
ぽつりとこぼれた言葉には、先ほどまでの異様な多重奏の声は混じっていなかった。澄んだ、秋の夜風のような澪自身の声。
「でもね……」
彼女は白線の向こう側を、顎で静かに指し示した。
漆黒の門が、無数の目を持ってこちらをじいっと見つめている気がした。見ている、という擬人化が正しいのかさえ悠にはわからない。ただ、そこには明確な「捕食者の視線」があった。
「『交代』っていうのは、椅子取りゲームみたいな、かわいいもんじゃないんだよ。椅子を譲った瞬間に、その椅子に座っていた人間がどうなるか……あんた、わかって言ってるの?」
悠が言葉に詰まった瞬間、湊(みなと)がすっと前に出た。
悠と、そして忌まわしい門との間に、自分の背中という「人間の影」を割り込ませるように。
「わかってるよ。席を譲ってもらいに来たわけじゃない」
湊の短い言葉の裏側には、何層にも塗り込められた、冷徹な理屈が詰まっている。悠は、隣に立つこの少年の横顔が、かつてなく遠い場所にあるように感じた。
「姉さんがパートナーを失ってから、この境界のバランスはとうに崩れてる。まともな管理さえままならないまま、ただここで削り取られていくのを待つなんて、無意味な浪費だ。未来がある僕たちが、その役目を奪いに来ただけだよ。姉さんはもう、その重荷を背負う資格を失ったんだ」
「……ちょっと、湊。言い過ぎだよ」
悠が思わず口を挟んだが、湊の視線は微塵も揺らがなかった。彼は、壊れた時計の部品を検分する時計職人のような目で、姉を見据えている。
「言っただろ、悠。姉さんはもう、魂の対となるパートナーを失っているんだ。片肺だけで呼吸を続けようとするようなものだ。いまこうやって僕らと会話ができていることさえ、奇跡に近い。……いや、奇跡というより、執念という名のバグだね」
その言葉が引き金だった。
――どくん。
屋上全体の「心臓」が、それまでとは比較にならないほど大きく跳ねた。
悠の足元で、コンクリートが波打ち、世界そのものが悲鳴を上げたような振動が走る。
黒い門の縁が、獲物を見つけた猛獣の瞳のように、ひとまわり膨らんだ。
途端に、空気の密度が一変する。肺に吸い込む酸素が、一瞬にしてぬるりとした重い粘液に書き換えられたような錯覚。
悠の視界の端で、澪を囲んでいた白線が、パラパラと灰のように崩れ始めた。
境界が、消えていく。
門が、自分たちの「正解」を求めて、大きくその口を広げたのだ。
不意に、悠の視界から色彩が失われ、代わりに粘り気のある真っ赤な液体を浴びせられたような、異様な赤に染まった。
それは単なる視覚の変容ではなかった。
雨に濡れた街のネオン。ベランダに揺れる、生活感に満ちた物干し竿。見知らぬ誰かの、ひび割れた笑い声。遠くで響く救急車のサイレン。不快な湿気を孕んだ雨の日の匂い。唸りを上げる洗濯機の音、隣の部屋で繰り返される終わりのない夫婦喧嘩。震える子どもの泣き声。
そして、それら日常の断片を食い破るようにして、かつて悠を地獄の底へと突き落としたカルト集団『環の会』の、あの悍(おぞ)ましい惨状の数々までもが、鮮血のような赤の中に混じり合っている。
――このマンションという器に堆積し、染み付いた「過去」のすべて。
そこに生きた者、死んだ者、狂った者たちの記憶の断片が、決壊したダムのように悠の脳内へとなだれ込んできたのだ。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、触覚も。
あらゆる感覚が、今という瞬間と、誰かの記憶との区別を失っていく。どこまでが「藤代悠」という個人の過去で、どこからが、この壁や床が記憶している他人の「記録」なのか。境界線がドロドロに溶け、悠の意識が急速に希釈されていく。
「……っ、あ、あ……っ!」
膝が折れ、存在そのものが崩壊しかけたその時。
誰かの手が、鉄の万力のような力強さで、がしっと悠の腕を掴んだ。
「切れ! 悠、意識を切れ!」
湊の声だった。
普段の彼からは想像もつかないほど、低く、荒々しい怒号。
「それは『記憶』だ。ここを通っていった連中の、残留思念のゴミ溜めだ。お前、いまそいつらと混ざりかけてる。境目が完全に消える前に、そいつらを叩き切れ!」
「切るって、どうやって……そんなの……!」
混濁する意識の中で、悠は必死に声を絞り出す。
「自分の名前を言え! お前が何者か、ここで宣言しろ!」
「はあ……っ?!」
混乱の極みで、しかし反射的に、悠の口が動いた。
これだけは、どんな理不尽な嵐に晒されても、自分の魂の底に刻みつけていたはずの四文字。
「――藤代 悠!」
叫んだ瞬間。
胸の中心を、氷のように冷たく、そして鋼のように固い何かが、真っ直ぐに貫いた。
冷たい杭か、あるいは肉体を固定するための巨大な釘か。
――いや、違う。
それは「線」だった。
他者と自分を、異界と現世を分かつための、峻烈なまでの境界線。
喉の奥から、焦げたような苦い味がせり上がってくる。同時に、視界を覆っていたあの不吉な赤が、じりじりと熱に焼かれたフィルムのように剥がれ落ちていった。それは色彩を失ったガラス片となって、悠の足元へと音もなく降り積もる。
代わりに、元の「黒」が戻ってきた。
無機質な床。幾重にも塗り固められた白線。底なしの穴。
そして、前を見据える湊の、峻烈な横顔。
さっきまで耳の奥で暴れていた無数の咆哮や生活音は、嘘のように遠のき、ただ重苦しい静寂だけがそこにあった。
「……っは、はあ……、はあ……っ」
悠は、肺の奥にこびりついた異物を吐き出すように、何度も深く息を整えた。首筋を伝う汗が、冷たく、しかし自分がまだ生きていることを教えてくれる。
「よかった。繋ぎ止めることができた」
湊が、ちらりとだけこちらを振り返った。その冷徹なはずの瞳の奥に、ほんの一瞬、氷が解けるような安堵の色が浮かぶ。
「ここで自分の名前を言えるやつだけが、『管理者』になれる資格を持つ。逆に言えば――」
湊の言葉を、悠は無意識に引き継いでいた。
「自分の名前すら言えなくなったやつは……全部、あっち側に吸い寄せられて消えるんだな」
白線の向こう側の空気は、すでに別物へと変質していた。
湊の輪郭が、光の屈折のせいか、それとも現実そのものが歪んでいるのか、不自然にぼやけ始める。
澪(みお)の視線が、その湊の姿を追った。長い、あまりにも長い年月を一人で張り詰めてきた精神の糸が、きしりと悲鳴を上げたのが、悠にも聞こえた気がした。
「……湊くん」
かすかな呼び声。それは、自分とこの世界を辛うじて繋ぎ止めている、最後の一本の糸をたぐり寄せるような必死さに満ちていた。
だが、湊は振り返らない。
澪はゆっくりと、黒い穴の淵にしゃがみ込んだ。底のない「無」を覗き込みながら、彼女は低い、独り言のような声で呟く。
「ここから先は、わたしはもう『案内』できない……。ごめんね、わたし……。もう、自分の名前が……言えないの。思い出せないの」
彼女の白い指先が、門の縁に触れた。
その瞬間、世界の輪郭が、不快な音を立てて大きくずれ始めた。
個を捨て、名もなき守護者として溶けていく澪の背中が、黒い虚無の中に溶け込んでいく。
「……名義変更って、本人が名前を言えなくても、変えられないかな?」
悠の声は、か細く掠れていた。肺に残るあの「紅い洪水」の残響が喉を締め付けているが、その奥には、泥濘(でいねい)にしがみつくような必死さが宿っていた。
隣に立つ湊は、蒼白な顔で祠(ほこら)を見つめたまま、凍りついたような声を出す。
「無理だ。……この場所を引き継ぐには、絶対に守らなきゃいけない『手順』があるんだよ」
湊の指先が、小刻みに震えていた。理知的で、常に最善の解を導き出してきた彼が、今、目に見えない壁に突き当たっている。
「いいか、悠。祠の前で、前任者が自らの名を名乗り、新任者がそれを受け止める。その『口上宣誓』があって初めて、管理者の役割は移譲される。名前っていうのは、魂の索引(インデックス)なんだ。その索引を介してのみ、この巨大な『穴』を封じるための途方もない重圧を、次の人間へ受け渡すことができる。……それが、古くからこのマンションに流れる絶対に動かせないルールなんだ」
湊は、黒い口を開けた門の傍らで、うなだれる澪(みお)に絶望的な視線を向けた。
「でも、姉さんはもう自分の名前を失った。思い出せない名前は、索引の役割を果たさない。前任者の名が不明なままでは、継承の儀式は成立しないんだ。そうなれば……」
「そうなれば、どうなるんだよ」
「門が完全に開く。そして、すべてが無に帰す。……僕たちも、このマンションも、この街もだ」
湊の言葉は、冷たい宣告のように響いた。
澪は、黒い穴の淵で、ただ静かにうつむいている。彼女を呼ぼうとしても、悠の口からも、彼女の名前の輪郭がするりと逃げていく。恐ろしいことに、異界の力はすでに、彼女という存在の「呼び名」をこの世界から消し去ろうとしていた。
「そんなの……納得できるかよ」
悠は、足元に広がるあの異常な景色を指さした。何度も、何千回も、彼女がチョークで塗り重ねてきた、あの光り輝く白線を。
「名前に頼らなきゃいけないなんて、誰が決めたんだ。だって、いままでずっと、これを守ってきたのは彼女だろ。……たとえ本人が自分の名前を忘れてたって、この場所が、一番よく覚えているはずじゃないか」
悠は、ひび割れた貝殻のように虹色に光る白線の層を強く見据えた。
「『ここはここだ』って。僕たちが来るまで、彼女はたった一人で、そう決め続けてきたんだ。チョークを握って、指の皮が擦り切れて……自分の名前が何だったか、どんな音だったかもわからなくなっても、ずっとこの線だけを守り抜いてきた。その履歴こそが、彼女の『名』そのものだろ」
白が、脈打つ。指先でこすれば、きっとざらりとした感触が返ってくるはずなのに、見ているだけで、指先のほうからじんじんと痺れてくるような熱が伝わってくる。
「悠、君は何を言おうとしているんだ……」
「上書きしよう、湊。名義変更ができないなら、新しい契約をここに叩きつけるんだ」
悠の声には、迷いがなかった。
「別のやつが、別のやり方で、『ここはこうだ』って引き直す。古臭いルールが名前を要求するなら、僕たちが新しい線を引くことで、強制的に名義を奪い取ってやればいい」
湊は目を見開いた。それは、あまりにも乱暴で、しかし、この行き詰まった絶望を打破できる唯一の、人間らしい「悪あがき」に聞こえた。
(俺も、もう、ただの見物人じゃない)
悠は、自分の内側に静かな火が灯るのを感じていた。
さっき、自分の名前を叫んだ時から。あの紅い洪水から必死の思いで浮かび上がって、自分を自分だと言い張った瞬間から。
どこかで、もう、戻れなくなっていた。自分を苦しめてきたカルトの影も、過敏すぎる感覚も、すべてをこの「上書き」のためのエネルギーにしてやる。
「やろう、湊。……僕たちが、この場所の新しい『名』になるんだ」
悠は湊の腕を掴んだ。冷たかった湊の肌に、悠の熱が伝わっていく。
祠の前で、新しい「境界」が産声を上げようとしていた。古の理を、今を生きる彼らの意志が、静かに、しかし力強く塗り替え始めていた。
「……やるのか」
気がつくと、悠の口からその言葉がこぼれ落ちていた。
屋上を支配する湿った沈黙の中で、自分の声だけが異様に乾いて響く。
「本気で、ここを……その、おぞましい『門』を、引き受けるつもりなのか」
悠の問いに、隣に立つ湊は答えなかった。代わりに悠自身が、自分の中にある確信を言葉に変えていく。
「引き受けなきゃ、俺たち、ここから無事に帰ることさえできない。……そうだろ?」
当たり前の事実を確認するような、ひどく静かな声だった。
「それに」
そこで、悠の言葉がわずかに途切れた。視線が、床に穿たれたあの虚無の黒――「門」の淵へと滑り落ちる。
「俺自身、ここでしか『俺』のままでいられないと思うから。この過敏すぎる五感も、環の会に刻まれた消えない傷も……この場所の重圧と相殺(そうさい)させて初めて、俺は安定していられるんだ」
その一言は、湊の肺から、一時的に呼吸を奪うほどの衝撃を与えた。
理解が、数秒遅れて追いついてくる。
学校で。騒がしい教室の片隅で。湊が見てきた藤代悠という少年は、いつもどこか、半分だけ欠損しているように見えていた。
笑うときも。
誰かと無駄話に興じるときも。
出席を取られ、自分の名前を呼ばれるときでさえ。
彼は常に、何かに怯え、自分の輪郭を保つために余計なエネルギーを使い果たしていた。
だが今、狂った心臓のように脈打つ屋上で、黒い門を目前にした悠は違っていた。彼は「悠」として存在することを、この異界の闇によってようやく許されているように見えたのだ。毒をもって毒を制するように、異能をもって異界を封じる。それが彼の、この世界での唯一の「居場所」だった。
「……なら、ちょうどいい。僕一人で背負うには、ここは少し広すぎると思っていたところだ」
湊は、かすかに口元を緩めた。そして、地面にうずくまっている澪(みお)の方へ、ゆっくりと手を伸ばした。
「姉さん。最期に、ひとつだけ、僕たちのためにやってほしいことがあるんだ」
「……なに?」
「この白線の上に、もう一回だけ、書いてほしい。あなた自身だと思う名前を。……形だけでもいいから」
澪の瞳が、激しく揺れた。
「な、まえ……。でも、わたし……」
「本当の名前を覚えていなくてもいい。それが正しい音じゃなくても構わない。ただ、『ここまでは自分の領分だ』と、あなたが刻んできたその意志を、最後にもう一度だけ示してくれればいいんだ」
湊が指し示したのは、白線の中でも最も古く、層が厚い場所だった。
そこだけが妙にかすれ、何度も書いては消し、その上からまた塗りつぶしたような、狂気にも似た密度の違いがあった。かつての管理者が、絶望の中で必死に守り抜こうとした「境界」の痕跡。
「……そんなの、もう――」
澪の声は、途中で詰まった。
喉の奥にせり上がってきた嗚咽が、なかなか降りていかない。目から溢れ落ちた涙が、頬の途中で、凍りついたように止まっていた。
悠は、一歩前に出た。
「やろう。ここで終わらせるんだ。あなたが……『管理者』という名の人柱でいなきゃいけなかった、この残酷な時間を」
悠と湊は、示し合わせたわけでもなく、同時に足元に落ちていたチョークの欠片を拾い上げた。
二人は、澪がこれまで守り続けてきた古い白線の外側に、重なるようにして新しい線を力強く引き始めた。
それは、過去の絶望を塗りつぶし、これから自分たちがこの重圧を分かち合うという誓いの儀式でもあった。
二人の引く線が、澪の引いてきた円環と交わり、新しい幾何学模様を描き出していく。その線は、まるで異界という猛獣を閉じ込めるための、新しい檻の檻(おり)のようにも見えた。
澪の手が、震えながら、自分自身の前にある短いチョークの欠片へと伸びた。
ほとんど芯だけになった白。指先でつまむと、それだけでぽろぽろと、摩耗した骨の粉のように崩れていく。
屋上の空気が、ふっと息を止めた。
遠くの街の騒音も、建物の振動も、すべてが水底に沈んだように遠ざかる。
澪は、深く、深く息を吸い込んだ。そして。
線の上に、ひらがなを、そっと刻みつけた。
――みお。
それが彼女の戸籍上の名前かどうかは、もう誰にもわからない。
だが、チョークが床をなぞり、その音が響いた瞬間。
世界が、カチ、と鳴った。
古い時計の歯車が噛み合い、止まっていた運命のスイッチが切り替わるような、乾いた音。
黒い門の縁を走っていた不気味な揺らぎが、目に見えて変質した。今まで一方的に、貪欲にこちら側を侵食しようとしていた暗さが、何かに阻まれたように、当惑した様子で足を止めたのだ。
白線に刻まれた「みお」の文字が、淡く、青白い光を放ち始めた。
次の瞬間、その灯りは毛細血管を流れる血液のように、ゆっくりと白線を伝い、湊と悠の足元へと流れ出していく。
「――っ」
澪の身体が、支えを失った操り人形のようにぐらりと揺れた。
膝が折れそうになるのを、湊が咄嗟に支える。
軽い。
抱きしめた彼女の身体は、驚くほど軽かった。
今まで、この巨大なマンションの全質量と、異界から押し寄せる怨念のすべてを一人で背負っていたはずの少女の身体が、今、ようやく「ひとりの人間」としての重さに戻っていく。
「……どう、なってる」
湊は、姉を支えながら、劇的に変化していく屋上の気配を肌で感じ取ろうとした。
世界の輪郭が、不快な音を立てて大きくずれる。
次の瞬間。
黒い門が、低く吠えた。
それは咆哮、というよりも、獲物を取り逃がした捕食者の無念の振動だった。空気が激しく震え、床が波打ち、視界のすべてが一瞬だけ、真っ白な閃光に包まれる。
マンション中に漂っていた「影」――住人たちの無意識や過去の残滓が、奔流となって門へと引きずられていく。
そして。
屋上に描かれたすべての白い線が、同時に、湊の足元へと収束した。
湊の足元に、濃密な黒い影が生まれる。
それは、この異常な屋上に来てから初めて目にする「まともな影」だった。
天井の虚無に押しつぶされ、存在を消されていたはずの影が、白線という境界を鎧として纏うことで、再びこの世界に根を下ろしたのだ。
門が、ひときわ大きく揺れ、のたうち回った。
だが、その揺れはもう、屋上全体を崩壊させるほどの力は持っていなかった。
新しく引かれた二人の線が、黒い奔流をがっしりと押さえ込んでいた。
「――名義変更、無事完了……か?」
ぽつりと落ちた湊の声は、ひどく疲弊し、掠れていた。
だが、その言葉は確かに現実に届いた。
荒れ狂っていた屋上の鼓動が、潮が引くようにすうっと静まり返っていく。その拍動は、建物の芯のあたりへと深く潜り込み、さらにその下、地の底の、誰にも届かない静寂へと沈んでいった。
穴の縁にだけ、名残惜しそうな薄い光の輪が残った。
「……どうだ? 悠。今、何が見えている?」
澪を優しく床に座らせ、湊は絞り出すような声で訊いた。
悠は、少しだけ考えるように目を細めた。
その瞳には、先ほどまでの怯えはない。
「――『ここ』と、『僕』。……それだけだ」
短い、しかし確かな答えだった。
「他は、ぼやけてる。門の向こうも、見ようと思えば見えるかもしれないけど……」
そこで言葉を切り、悠は微かに、そして断固として首を振った。
「見ない。僕が見るのは、『ここまで』だ。この線の内側だけが、僕たちの世界だ」
悠は、さっき自分たちで引き直した白線を、愛おしむようにつま先でなぞった。
その瞬間。
狂暴な意志を孕んでいた門が、ようやく沈黙した。
それは消滅したわけではない。依然としてそこには「無」がある。だが、それはもう、誰かを無理やり引きずり込む化け物ではなかった。
ただ、深い眠りについた、静かな闇へと変わっていた。
屋上に、冷たいが、どこか清々しい夜風が吹き抜けた。
湊と悠。二人の新しい「管理者」の影が、白線に縁取られたまま、静かにそこに並んでいた。
あれから、ひと月が過ぎた。
高速道路から少し外れた高台に建つそのマンションは、まるで巨大な墓標のように、今日も何事もなかったかのように静まり返っていた。
いや、「静まり返っている」という表現は正確ではないかもしれない。音はあるのだ。風が廊下を吹き抜ける音、遠くの幹線道路を走るトラックのくぐもった排気音、どこかの部屋から微かに漏れ聞こえるテレビのバラエティ番組の笑い声。日常の音はそこかしこに溢れている。
異常なのは、そこに暮らす人間たちの方だった。
エントランスの幾何学的な――よく見るとどこか歪んだ円環を描いている――タイル張りの床を歩き、エレベーターホールですれ違う住人たちは、一様に憑き物が落ちたような、ひどく穏やかな顔立ちをしていた。以前は、どこか神経質そうに眉間に皺を寄せていた三階の老婦人も、いつも疲労困憊で目を血走らせていた六階のサラリーマンも、今は生気に満ちた目をしている。
「最近、本当によく眠れるのよ」
「空気が澄んでいるみたいで、深呼吸したくなるわね」
ゴミ捨て場や郵便受けの前で顔を合わせるたび、彼らは口々に今までとは違った快適さについて語り、与えられた日常を謳歌している。彼らにはもう、見えないものが見えることも、聞こえないはずの音が耳をつんざくこともない。
それは完璧なまでに剪定した、平穏な庭だった。そして悠は、その檻の新しい鍵の持ち主として、この完璧な庭の中に立っている。
「――君が全部、俺のものになれば、一番安全なんだけど」
ふいに、鼓膜を通さず、脳の奥底の柔らかい部分へ直接滑り込むような声がした。湊だ。
彼のガイドとしての能力が、悠の精神のひだに優しく、しかしひんやりとしたメスの切っ先のような容赦のなさで割り込んでくる。湊は決して、大声を出したり、無理やり従わせようとしたりしない。ただ、緻密に計算され尽くした、逃げ道のない論理を、美しく整えられた花束のように差し出すだけだ。
「姉さんたちみたいに、俺と繋がればいい。そうすれば、俺が君の感覚をずっと剪定してあげる。君が苦痛を感じる前に、君を脅かすノイズを全部、俺が切り落としてあげるから」
脳髄を甘く撫でられるような感覚に、悠は一瞬、目を閉じそうになる。身を委ねてしまえば、どれほど楽だろうか。
「やめとく」
悠は、明確な意思を持った声で短く返した。それは、悠の中に残された、ほんのちょっとした反抗心のつもりだった。自分にはまだ意思がある。選ぶ権利があるのだと、自分自身に証明するためのちっぽけな抵抗。
そう、悠は自分で選んだのだ。もうこれ以上、波風を立てないことを。あるいはマンションの怪異に飲み込まれそうになった時のように、意味のない苦しみや恐怖に苛まれるより、自らこの美しく管理された庭の中で、何も感じないように息をすることを選んだ。
――いや、本当にそうか?
自分は「選んでいる」と、湊によって思わされているだけではないのか。
その疑念は、常に足元に濃い影のようにまとわりついている。それでも、今の悠にとって「本当の自由」や「本当の自分の意思」というものは、あまりにも孤独で、血の流れるように痛いものだった。偽りだとしても、この麻酔のような平穏を手放すことなど、もうできはしない。
十月の午後の光は、まるで熱を帯びた錆のように重苦しい。
西日が差し込む北校舎の三階廊下は、その濃いオレンジ色に塗りつぶされていた。窓枠が床に落とす長い影は、等間隔に並んだ黒い帯となって、放課後の解放感に浮き足立つ生徒たちの足元を冷たく区切っている。
その光景を眺めるたび、悠はいつも、どこか動物園の檻の中にいるような、あるいは見えない規則という格子に囲われているような、言いようのない窮屈さを感じるのだった。
「――でさ、結局あの動画、フェイクだって噂だぜ。投稿した奴、速攻で垢消ししたらしいし」
隣を歩く佐々木が、スニーカーの踵を鳴らしながら言った。彼はクラスの中でも声が大きく、話題の中心にいることを義務づけているような少年だった。
「でも、あのノイズの入り方はリアルだったよ。今の加工技術ってあんなに凄いのかな」
少し後ろを歩く宮村が、おどおどとした口調で同意を求めてくる。宮村は、佐々木という強い光が作る影に身を寄せることで、自分の安全を確保しようとする。この教室という狭い生態系における、彼なりの生存戦略なのだ。
昨日、三人のグループラインに流れてきたのは、古い団地の屋上から誰かが飛び降りる瞬間を捉えたという、真偽不明の動画だった。結局、肝心の「落ちる瞬間」に激しい砂嵐のようなノイズが入り、結末は映らない。それが逆に、同級生たちの想像力を刺激していた。
「悠はどう思うよ。あれ、マジもんの事故物件だったんじゃねえの?」
佐々木が悠の肩を組んでくる。汗と制汗スプレーが混ざったような、青臭い匂いが鼻をついた。
「……どうだろう。でも、落ちる前のあの人の靴、左右逆だった気がするんだ」
悠が何気なく答えると、二人は一瞬、顔を見合わせた。
「え、マジで? お前、そんな細かいとこ見てたのかよ」
「相変わらず観察眼が鋭いっていうか、マニアックだなぁ、悠は」
佐々木が豪快に笑い、宮村もそれに合わせて引きつった笑みを浮かべる。悠はその笑いの輪の中に身を置きながら、心のどこかで冷めた自分を感じていた。
靴が左右逆だった。それは、その人間が「この世の秩序」からすでに踏み外していた証拠のように思えたのだ。けれど、そんなことを言えば、また「変な奴」だと思われるだけだ。
階段の踊り場まで来たとき、背後で重い木製のドアが開く音がした。
「――杉山、ちょっといいか」
呼び止める声に、三人は同時に足を止めた。職員室から出てきたのは、担任の秋本だった。分厚い手帳を小脇に抱え、眼鏡の奥で神経質そうな目を細めている。
「じゃあな、悠。また明日な」
「あ、塾、遅れるなよ!」
佐々木と宮村は、厄介なことに巻き込まれるのを恐れる小動物のような素早さで、一礼して去っていった。残されたのは、オレンジ色の廊下と、悠と、担任の教師だけだった。
秋本は悠のそばまで歩み寄ると、その顔をまじまじと見つめた。
「悠、最近、顔色が良くなったな。……色々あったみたいだけど、吹っ切れたか」
その声には、どこかホッとしたような、大人の無責任な安堵が浮かんでいた。
悠の家庭が「普通」でなくなったのは、去年の暮れのことだ。父親の失踪と、それに伴う母親の精神的な失調。深夜の警察からの電話、家の中に漂う消毒液のような冷たい空気、そして大人たちの、好奇心を隠そうともしない同情の視線。
この担任も、当時は何度も家庭訪問に来ては、困り果てたような顔で「何かあったら言うんだぞ」と繰り返していた。それは悠を救うための言葉ではなく、自分の管理下にある生徒が、不祥事という名の「汚れ」を教室に持ち込まないことを願う祈りに近かった。
「ええ……。まあ、いろいろ落ち着きましたから。ご心配おかけしました」
悠は、今朝洗面台の鏡の前で練習した通りの、口角を五ミリだけ上げる完璧な笑みを浮かべてみせた。頬の筋肉の動かし方、目の細め方、そして相手の目線を適度に外すタイミング。それらすべてを、彼は数学の公式のように暗記していた。
不自然さは微塵もないはずだ。
事実、秋本は満足げに大きく頷いた。
「そうか、それは良かった。お前は真面目だからな。あまり一人で抱え込みすぎるんじゃないぞ。お母さんも、今は落ち着いているんだろう?」
「はい。薬も合っているみたいで、家の中も以前のように静かになりました」
「そうか、そうか。それなら安心だ。受験も近いし、これからは勉強に集中できるな」
秋本の言葉は、表面を撫でていくだけの風のように軽かった。
家の中が「静かになった」のは、母親が以前のような感情を失い、ただ椅子に座って一日中テレビを眺めているだけの人形のようになったからだ。薬のせいで呂律の回らない母親の世話をし、夕食の買い出しに行き、深夜に独り、父親が残した借金の督促状をシュレッダーにかける。
そんな「深淵」を、この教師は望んでいない。彼が見たいのは、制服を正しく着こなし、テストで平均点以上を取り、級友と他愛のない動画の話に興じる「再生された杉山悠」という記号なのだ。
それでいいのだと、悠は思う。大人なんて、そんなもので十分だ。
彼らが満足する仮面を被ってさえいれば、彼らはそれ以上、こちら側の領域に踏み込んではこない。干渉されない自由を買うための代価が「五ミリの笑み」であるなら、それは安い買い物だった。
「じゃあ、気をつけて帰れよ。寄り道するなよ」
秋本はそう言い残し、軽い足取りで職員室へと戻っていった。その背中は、厄介な案件を一項目、手帳から抹消できた達成感に満ちているように見えた。
一人になった廊下で、悠は深く息を吐いた。
西日はますますその色を濃くし、校舎全体を飲み込もうとしている。窓枠の影はさらに長く伸び、悠の足元を通り過ぎて壁にまで達していた。
ふと、ポケットの中でスマホが震えた。佐々木からのラインだ。
『さっきの動画、別の角度からのやつ見つけた。これ、マジでヤバいかも。夜、通話できる?』
悠は画面を見つめたまま、動かずにいた。
佐々木も、宮村も、秋本先生も。みんな、自分の見たいものだけを見て、聞きたい音だけを拾って生きている。
あの動画の人物が、なぜ靴を左右逆に履いていたのか。
なぜあの日、悠の父親は玄関に靴を残したまま姿を消したのか。
そんな「本当のこと」に興味を持つ人間は、このオレンジ色の檻の中には一人もいない。
悠はスマホをポケットにしまい、歩き出した。
床に落ちた格子の影を一歩ずつ踏み越えていく。そのたびに、自分の中の何かが削り取られ、代わりに硬く冷たい無機質な何かが充填されていくような感覚があった。
「……ただいま」
誰もいない家に向かって、練習した通りの声でそう言う自分を想像する。
玄関の鏡の前で、もう一度口角を五ミリだけ上げる練習をする。
その繰り返しが、悠の日常という名の新しい「檻」だった。
背後で、校内放送のチャイムが鳴り響いた。
それは帰宅を促す合図というよりは、今日も一日、誰にも気づかれずに生き延びたことを祝う、弔鐘のように聞こえた。
悠は一度も振り返ることなく、濃密なオレンジ色の闇へと足を踏み出した。
そのマンションを後にしたとき、背中に受ける建物の気配は、以前とは全く別のものに変わっていた。
かつての管理人であり、悠の姉であった澪は、もうどこにもいない。彼女の肉体が、あの黒い穴の向こう側でどう処理され、今どこに漂っているのか、それを知る術を悠は持たなかった。警察に届け出ることも、誰かに相談することもできない。なぜなら、彼女は「死んだ」のではなく、ただ「浸透した」に過ぎないからだ。
ゾーンアウト――。
その果てに待っていたのは、個としての消失であり、静謐な溶融だった。
夕暮れの窓ガラスにふと自分の顔が映るとき、悠はその輪郭がわずかに、陽炎のようにブレるのを見逃さない。あるいは、真夜中の静寂の中で、耳の奥に鳴り続ける微かな血流の音に耳を澄ませる。すると、その鼓動の底から、粘り気のある、ドロドロに溶け出した姉の五感が、音もなく這い上がってくるのを感じるのだ。
姉は、このマンションという一つの巨大な「閉鎖系」の一部になった。彼女の意識は壁に塗り込められ、彼女の指先は冷たいコンクリートの床に融け、そして彼女の鋭敏すぎた感覚は、悠という弟の精神の土台に、泥のように沈殿している。
かつて彼女が「ここはね、呼吸をしているのよ」と冗談めかして言った言葉が、今や呪いのような現実となって悠の胸を締め付ける。
「僕の選択は、間違っていなかったよね」
駅へと続く並木道、長く伸びた影を連れて歩きながら、悠は隣を歩く湊に呟いた。
二人の歩幅は、恐ろしいほどぴったりと合っている。軍隊の行進よりも精密に、まるで一つの意志で動かされている二本の足のように。
湊は悠の方を見ようとはしなかった。ただ真っ直ぐに、沈みゆく残照を見つめたまま、ひどく穏やかな、そして一切の迷いを排した声で答えた。
「ああ。これ以上の正解なんて、どこにもないよ。君は一番賢い道を選んだんだ。誇っていいくらいだ」
その声は、子供を寝かしつける母親のように優しく、同時に、有無を言わせぬ絶対的な確信に満ちていた。
悠は、立ち止まって自分の右頬にそっと触れてみた。
指先が皮膚をなでる感覚は、以前とは比べものにならないほど鮮明だった。しかし、そこには「痛み」がない。
かつての悠は、世界に対して無防備すぎた。空気が肌を刺せば針で突かれたような激痛が走り、遠くの騒音は脳をかき乱す嵐のようだった。だが今、その過敏さは、まるで高性能なフィルターを通した後のように、滑らかで心地よい情報へと変貌している。
視界は、どこまでもクリアだ。
通りをすれ違う車の排気ガスの匂いも、遠くで響く踏切の警報音も、今の悠にとっては「ただの記号」に過ぎない。精神を脅かし、内側から食い破ろうとする化け物たちは、すべて湊という名の庭師の手によって、美しく剪定されてしまったのだ。
完璧な、世界。
これこそが悠の望んだ平穏だったはずだ。
けれど、悠の心の奥底には、冷たい澱のような違和感が残っている。
いま「平穏だ」と感じているこの心境は、果たして本当に自分自身のものなのだろうか。今、自分の頬の筋肉を動かし、微かな微笑を作っているこの指令は、自分の脳から発せられたものなのか。
それとも、隣に立つこの美しい、底の知れない少年によって精密に設計され、不要な枝葉を切り落とされた結果に過ぎないのか。
確かめようと思えば、いくらでも確かめられたはずだった。
しかし、その「確かめよう」とする意志そのものが、すでに湊の鋏によって削り取られてしまっていることに、悠は薄々気づいていた。
自分が自分でなくなっていく恐怖よりも、自分を苦しめていた「痛み」が消えたことへの安堵が勝っている。その事実こそが、悠がすでに、湊の作り上げた箱庭の住人として完成しつつあることを物語っていた。
悠は、不意に空を見上げた。
夕暮れの空は、抜けるようなコバルトブルーから深い紫へと移ろい、透き通るような美しさを誇っている。
だが、その空には、どこにも出口がないように見えた。
どれほど高く飛んでも、どれほど遠くへ逃げようとしても、この世界は湊が引き直した「境界線」に守られ、閉ざされている。
そこは、痛みも、混乱も、悪意もない、天国のような場所だ。
そして同時に、二度と自分自身の足で歩くことが許されない、静かな監獄でもあった。
湊の手が、悠の肩に軽く触れた。
冷たく、しかし、どんな鎖よりも強固な絆を感じさせる重み。
「行こう、悠。夜が来る前に。新しい、僕たちの家に」
悠は、その言葉に従い、再び足を踏み出した。
踏みしめるアスファルトの感触。
微かな風の匂い。
すべてが調整され、最適化された世界の中で、悠はもう、何も考えないことに決めた。
僕は、この九条湊という男と並ぶ権利が欲しかっただけなのかもしれない。
それが、この街の片隅で起きた、誰にも知られることのない「継承」の結末だった。
見上げた空は、どこまでも青く、どこまでも閉ざされていた。
その美しさに、悠はただ、一滴の涙も流さずに微笑み続けた。
