海から、お迎えにあがりました


翌日の放課後、担任から呼び出されて、職員室の隣の小さな部屋に行った。スクールカウンセリング室、と札が貼ってある。去年も何度か来た部屋だ。ドアをノックすると「どうぞ」と声がした。

低い滑らかなよく通る声だった。録音された声を再生したような、奇妙に均された声。入ると、机の向こうに見たことのない人が座っていた。四十代の後半に見える、痩せた長身の男だった。

鉄縁の眼鏡。髪は灰色がかっていて、きっちり後ろに撫でつけてある。白衣ではない。学校のカウンセラーが着るような気楽な服装でもない。

濃紺の三つ揃いのスーツだった。ネクタイまで締めていて、胸ポケットには白いハンカチが折って差してある。何かの祝賀会から抜けてきたみたいだった。机の上には薄いファイルが一冊、銀色の万年筆、青いインクの瓶、それから白い陶器のティーポットとティーカップが一客。

湯気が立っていて、部屋の中に紅茶の匂いが満ちていた。どこかで低い音量でチェロが鳴っていた。バッハ、と俺は思った。中学の音楽の時間に聴いた気がする曲。

「悠くん、だね」

その人は言った。言いながら、俺の顔のいちばん中心――額の真ん中のあたりを見た。目を見るのでも口を見るのでもなく、額の中心。そこに見えないシールが貼ってあって、それを剥がそうとしているような見方だった。

「はい」
「お入りなさい。ドアを閉めて」

俺は言われた通りにした。閉めたドアが妙にしっかりと閉じる音がした。

「どうぞ、お座りください」

椅子を勧められて座った。男は俺の正面に座り直し、薄いファイルを丁寧に開いた。

「初めまして」

男はにっこり笑った。笑い方は柔らかかった。柔らかすぎて、逆に引っかかった。

「朔本慎一郎、と申します。今年度からこの学校のスクールカウンセリングを担当させていただきます。よろしく、悠くん」

朔本さん、と俺は心の中で繰り返した。さくもと。耳慣れない名前だった。「朔」は月の何もない状態を指す字だ、と昔何かの本で読んだ気がする。

「紅茶、お一つどうですか」
「あ、いえ」
「アールグレイです。学校の備品ではなく、自前で持ち込んでいます。学校の白湯は風情が足りない」

朔本さんは自分のカップを口元に運んで一口含んだ。ゆっくり飲み下す。その動作が、奇妙に儀式めいていた。

「悠くん、突然なのですが、ひとつ提案があります」
「はい」
「学校の外で、もう少し専門的なケアを受けてみる気はありませんか」
「外、ですか」
「私が、学校の仕事とは別に関わっている施設があります。市内の海の近くにある、小さな研究施設です。トラウマや、記憶の連続性に関する新しいアプローチを試みている場所で……」

朔本さんはそこで言葉を切って、少し笑った。

「……少し特殊な場所です」
「特殊」
「ご家族の協力も必要ですし、強制ではありません。ただ、あなたに合うかもしれない、と私は感じました」

俺は黙っていた。返事をしないまま、机の上の薄いファイルを見た。背には何も書いていない。朔本さんは続けた。

「同じ提案を、迅くんにもしています」
「迅にも」
「ええ。彼は興味を持ってくださいました」

俺は顔を上げた。朔本さんは相変わらず淡い色の目でこちらを見ていた。

「迅と一緒に通うんですか」
「希望すれば、そうなります」
「……考えます」
「もちろんです。急ぐ必要はありません。来週までにお返事をくだされば」

朔本さんはファイルを引き出しにしまって、立ち上がった。立ち上がる動作は妙に背が高くて、部屋全体が少しだけ狭くなった気がした。

「ところで悠くん」

朔本さんは振り返らずに言った。

「迅くんと、あなたは、よく似ていらっしゃいますね」

俺は黙っていた。

「兄弟ではない、と聞いていますが」
「兄弟じゃないです」
「そうですか」

朔本さんは振り返って、もう一度にっこり笑った。

「失礼しました。お引き止めしてしまって。お気をつけて」

部屋を出ると、廊下の窓からもう夕方の光が差し込んでいた。光は廊下の床を斜めに切って、白く光っている。俺はしばらく、その光の中に立っていた。光の中で自分の影を見た。

影はひとつだった。ひとつだった、はずだった。廊下の奥の窓ガラスに、もう一つ、影が薄くずれて映っていた気がした。二度見たときには、消えていた。

ガラスのそこだけ、なぜか曇っていた。息を吹きかけたあとのような丸い曇りだった。俺はその曇りを少し見た。見ているうちに、曇りはゆっくり、外側から内側に向かって消えていった。誰かが内側から手を当てて、ぬぐっているような消え方だった。