海から、お迎えにあがりました


その年の秋。東北のある小さな海辺の町。人口、四万人弱。冬は風が強く、夏は湿度が高い。

観光客が来るような場所ではない。その町の、海の見える小さな建物の、地下の保管室。四十代の後半に見える、痩せた長身の男が、薄いファイルを開いていた。濃紺の三つ揃いのスーツ。

鉄縁の眼鏡。手には、銀色の万年筆。ファイルの表紙には、三人の少年たちの顔写真が貼られていた。

地元の、小さな高校の、二年生。十六歳。男はファイルの最初の頁に、青いインクで、一行、書き加えた。

 第五群 観察開始

書き終わると、万年筆のキャップを丁寧に閉めて、ファイルを閉じた。棚の上の白い陶器のティーカップを手に取った。紅茶はまだ温かい。一口含んで、ゆっくり飲み下す。

部屋の隅では、低い音量で、バッハの無伴奏チェロ組曲のプレリュードが流れていた。男はファイルを棚の引き出しに戻して、引き出しを閉めた。そして、独り言のように呟いた。

「ええ、ええ」
「松崎くんと、藤代くんは、私の手から、お逃げになった。それは、それで、結構です」
「予測の外に、出てくださった。観察の、新しい、知見です」

男は紅茶をもう一口飲んだ。

「けれど、彼らが、私の手を、離れたことと、私の、観察が、終わることは、別の話です」

男は立ち上がった。立ち上がる動作は、優雅で計算されていた。

「次の、お三方を、お迎えに、上がります」

男は棚の上のチェロの音に目を向けた。

「八神先生。私は、まだ、続けております」

部屋の隅では、バッハが続いていた。部屋には、男のほか、誰もいなかった。少なくとも、目に見える形では。ただ、棚の上の白いティーカップの紅茶の表面が、ふと、ほんの少し、波打った気がした。

風は、なかった。その同じ日、海月町。俺と迅は、堤防に座っていた。夕日が、海に沈んでいた。迅は、肉まんを二つ、持ってきていた。

「悠、これ」
「ありがとう」
「あったかいうちに、食え」

俺は肉まんを口に運んだ。うまかった。肉まんを食べながら、海を見た。海は、いつもの、海月町の海だった。

海鳴りが聞こえていた。ただ、海鳴りの中に、もう、別の音は混じっていなかった。ないはずだった。ないことを信じていた。

「悠、お前、肉まんの食べ方、変だぞ」
「変じゃない」
「変だ」
「うるさい」
「うるさい、はこっちのセリフだ」

俺たちは笑った。笑いながら、肉まんを食べ終えた。夕日が、海に、半分、沈んでいた。

「迅、来年、卒業したら、お前、どうする」
「決めてない」
「俺も」
「お前と、近いところに、いる」
「うん」
「俺もだ」

俺は迅の横顔を見た。迅は海を見ていた。迅の横顔に、夕日が深く当たっていた。俺は、その横顔を、しばらく見た。迅がこちらを向いた。

「なんだよ」
「いや」
「見るな」
「うん」
「うん、じゃない」

迅は笑った。俺も笑った。笑った迅の頬に、夕日が当たっていた。海鳴りが続いていた。俺たちのいる堤防のすぐ下まで、海は来ていた。