夏休みはゆっくりと過ぎた。俺と迅は、ほとんど毎日、一緒にいた。朝、迅が俺の家に迎えに来た。
「悠、起きろ」
「起きてる」
「嘘つけ」
「嘘」
「行こう」
俺たちは自転車でいろんなところに行った。堤防、漁港、隣町の本屋、図書館、コンビニ。ふつうの、夏休みの、ふつうの、二人の過ごし方。朔本さんは見つからなかった。
警察は、海外に逃げた可能性が高い、と言っていた。新聞には、施設のことが小さく載った。週刊誌が後追いで、もう少し詳しく書いた。
「世代継承記憶研究所」という名前は、しばらくの間、町の人の口に上った。そして、また、忘れられていった。
奥山さんからは、一度電話があった。
「松崎さん、藤代さん。お元気ですか」
「元気です」
「私は、一度、お会いして、お詫びを、しなければなりません」
「奥山さん、詫びる、ことは」
「いえ、あります」
奥山さんは、町を出る、と言った。東京に移って、別の仕事をする、と。
「ご自分の人生を、生きてください」
俺は言った。
「兄の名前を、奥山卓と、言います」
奥山さんは、最後に教えてくれた。
「兄も、皆さんと、同じ、海の夢を、見ていました。十七歳でした」
「奥山卓さん」
「覚えていて、いただけたら」
「覚えています」
「ありがとう」
電話は、それで切れた。夏休みも、終わる頃。俺は自分の机の前に座って、机の上に写真を置いた。中学の卒業式の三人の写真。
桜の枝の隙間の、白いぼんやりとした影。四人目の影。俺はその影をしばらく見た。
見ているうちに、影は動かなかった。ただ、薄く、そこにいた。俺はその影に向かって、言った。
「透」
「ありがとな」
「俺たち、ちゃんと、生きるよ」
「お前のぶんも」
四人目の影は答えなかった。ただ、写真の中で、薄く、そこにいた。夜、洗面所で歯を磨いた。鏡の中の俺の顔を見た。
俺の顔は俺の顔だった。ときどき、鏡の中で輪郭がふっと揺らぐことが、まだあった。別の顔が薄く重なる瞬間が、まだあった。でも、もう、怖くはなかった。
俺の中に、松崎春一の八十年前の海の記憶が、入っている。それは、これからも、たぶん、消えない。消えないことを、俺は受け入れた。俺の体は、俺一人のものでは、ない。
俺の中には、祖父がいて、祖父の中には、もっと前の人たちがいる。俺は、その、いちばん新しい一人だ。俺は、その、いちばん新しい一人として、生きる。携帯が鳴った。迅だった。
「悠、明日、堤防、行くか」
「行く」
「肉まん、持ってくる」
「夏に、肉まん、食うのか」
「夏でも、肉まんは、うまい」
「お前、変だな」
「変じゃない」
迅は笑った。笑い声を聞きながら、俺は鏡の中の自分の顔を見た。俺の顔は、笑っていた。笑い方は、迅の笑い方と、少し似ていた。
似ていることが、もう嫌ではなかった。俺は、迅と、ずっと、一緒にいる。ひとつには、ならない。ずっと、二人でいる。
九月になって、新しい学期が始まった。学校に行くと、何人かの先生が、俺と迅をふと見るようになった。あの夏に「世代継承記憶研究所」のことが地方の新聞で報じられたあと、町には少しのざわめきが広がっていた。先生たちは何を聞けばいいかわからない顔で俺と迅の顔を見て、結局、何も聞かなかった。
聞かれたくはなかった。聞かれなかったことで、少しほっとした。クラスメイトたちも似たような感じだった。何人かは、俺たちにこっそり「大丈夫?」と聞いた。
「大丈夫」とだけ答えた。それ以上の話はしなかった。迅はいつも通りだった。
授業中に居眠りして、放課後にラーメンを食べて、土日になると俺の家か自分の家でだらだらしていた。迅がいつも通りだったから、俺もいつも通りでいられた。たまに、ふと迅が何かを思い出したような顔をすることがあった。
「悠、あの、子供の、手、もう、出てこないな」
「うん。終わったのかな」
「わからない。終わったら、いいな」
そういう話を、ぽつぽつ、と、した。九月の半ばの、ある夜。迅が俺の部屋に上がりこんだ。
「悠、お前に、見せたいもの、ある」
迅は鞄から紙を出した。地図だった。日本地図。地図の上に、四つの丸が書かれていた。
「これ、何」
「俺なりに、調べた」
「調べた?」
「うん。第五群が、どこにいるか」
俺は地図を見た。四つの丸は、北の方に集中していた。東北地方の、海沿いの町。
「迅、お前、これ、どうやって、調べたんだ」
「警察に、行った時に、押収された、朔本のファイルの一部を、奥山さんが、覚えていた。そのファイルの中に、候補リストが、あった」
「奥山さん」
「うん。電話で、こっそり、教えてくれた」
「警察には」
「警察にも、伝わってる、らしい。でも、警察の、動きは、遅い」
迅は地図を机に広げた。
「俺、卒業したら、ここに、行きたい」
「東北に」
「うん。具体的に、どこに、まだ、わからない。でも、東北の、海沿いの町で、十七歳前後の、三人組が、生き残れる、ように」
「俺たちが、生き残れる、ようになった、ように」
「うん」
俺は地図を見た。四つの丸。その、どこかに、第五群がいる。
「迅、俺も、行く」
「来てくれ」
「同じところ、目指す」
「うん」
迅は頷いて、地図を丁寧に折って鞄に戻した。
「悠、卒業まで、八か月。準備しよう」
「うん」
「俺たち、ふつうの大学生に、なるかもしれない。でも、ふつうの大学生じゃない、俺たちで、いる。ふつうの顔をして、変なことをする」
迅は笑った。十月。文化祭。俺は美術部で、迅はクラスの出し物で、それぞれ忙しかった。
文化祭の前日、俺は迅と別々に過ごす予定だった。それでも、夕方、俺は美術部の準備が早く終わったので、迅のクラスを覗きに行った。迅のクラスは、お化け屋敷をやっていた。教室の入り口の前で、迅は白い布を被って立っていた。
「迅、お前、何やってる」
「お化け」
「お化けって」
「お化け屋敷の、入り口の、客寄せ」
迅は布をめくった。中の迅は笑っていた。
「お前、お化け、似合わなすぎ」
「うるさい」
「全然、怖くない」
「俺たちが、本物の、見過ぎたんだろ」
迅は、低い声で言った。俺は頷いた。
「見過ぎた」
「うん」
「もう、お化けで、驚けない」
「驚けない」
俺たちは、笑った。笑いながら、廊下の奥を見た。廊下の奥に、誰もいなかった。
ただ、廊下の突き当たりの窓に、夕日が当たっていた。夕日の光は、もう、ふつうの夕日の光だった。何の影も混じっていなかった。
「悠、お化け屋敷、入る?」
「お前のクラスの、お化け屋敷?」
「うん。お前、特別、無料」
「タダか」
「タダ」
「入る」
俺たちは教室に入った。教室の中は暗くて、安っぽいお化け屋敷だった。クラスメイトたちが変な仮装で適当に脅かしてきた。
俺たちは笑いながら、出口まで歩いた。出口で、迅が白い布を被り直した。俺の頭の上にも、布をかぶせた。
「悠、お前も、客寄せ、手伝え」
「俺、なんで」
「タダで、入ったろ」
「うっせえ」
俺は布を被ったまま、迅と教室の入り口に戻った。二人で、布を被って、立った。通りかかった一年生が、不思議そうな顔をした。
「先輩、二人で、お化け、ですか」
「うん。二人で、一つの、お化け」
迅が答えた。俺は笑った。笑いながら、自分の中で、何かが整っていくのを感じた。二人で、一つの、お化け。
二人で、一人ぶんの、寿命を、引き上げた、二人。二人で、ずっと、いる、二人。夕日が窓から入って、俺たちの白い布を染めた。十一月。
俺は机の前で、進路希望調査票を書いていた。第一志望、第二志望、第三志望。第一志望の欄に、東北にあるある国立大学の名前を書いた。その大学のすぐ近くの町に、迅が警察と奥山さんから聞いた、第五群の候補者が、住んでいるはずだった。
書きながら、俺はふと、机の上の写真を見た。中学の卒業式の三人の写真。四人目の影。
写真の中の影は、今日は薄かった。薄くなりつつある、ように見えた。俺は、写真に向かって、言った。
「透」
「俺、東北に、行くわ」
「迅と一緒に」
「お前にも、来てほしかった」
写真は答えなかった。ただ、四人目の影が、写真の中で、ほんの少し、揺らいだ気がした。揺らいで、また、止まった。俺は写真を引き出しに戻して、ノートを開いた。その夜のノートに、こう書いた。
今日、進路希望を、書いた。
東北の、海沿いの大学。
迅と、一緒に。
第五群を、探しに。
透、見ててくれ。
ノートを閉じた。窓の外で、海鳴りが聞こえた。海鳴りの中に、もう、別の音は混じっていなかった。少なくとも、今夜は。
冬になって、雪が降った。海月町は、たまにしか雪が降らない。降っても、すぐ解ける。その朝、雪は薄く町を覆っていた。
俺は迅と駅前で待ち合わせた。二人で初詣に行くことになっていた。迅は、白いセーターに、ネイビーのコートを着て、立っていた。
「悠、遅い」
「五分前だ」
「俺、十分前」
「お前、いつも、早すぎだ」
「早く来たいから、来てる」
迅は笑った。笑いながら、俺の頭の雪を、片手で払った。払って、その手を引いた。
「行くか」
「うん」
神社で、俺たちは二人で手を合わせた。迅は、何を祈ったか教えてくれなかった。俺も教えなかった。ただ、俺はこう祈った。
来年も、迅と一緒にいられますように。そして、第五群が無事でありますように。そして、もしできれば、朔本が見つかりますように。その三つを、順番に祈った。
祈り終わって、目を開けた。迅も目を開けた。俺たちはお互いを見て、笑った。
笑い方が、似ていた。帰り道、海沿いの道を、自転車を押しながら歩いた。雪は、もうほとんど解けていた。
「悠」
「ん」
「来年の今頃、俺たち、東北だな」
「うん」
「楽しみ」
「楽しみ」
俺は迅の横顔を見た。
「俺たちで、第五群、見つけよう。見つけて、止める。俺たちが止めれば、朔本の観察は終わる。観察できないと生きていけない人だから、観察が終わったら、たぶん朔本も終わる。自分の存在の理由が、なくなる」
俺は黙って頷いた。
「俺たちが第五群を守ることが、朔本に対する、最大の反撃になる」
迅は海を見た。冬の海は、灰色だった。
「俺たち、あいつに勝つ。絶対に勝つ。俺たちが、ふつうに生きてること、自体が勝ちなんだ。そして、ふつうの人を、ふつうに生かすことが、もっと勝ち」
「うん」
俺たちは、自転車を押しながら、海沿いの道を歩いた。冬の海鳴りが響いていた。その海鳴りは、もう、ふつうの海鳴りだった。俺の中に、八十年前の海の記憶が、まだあった。
迅の中にも、たぶん、あった。それは消えないまま、二人の中に住んでいた。でも、二人でいれば、その記憶に呑まれることはない。二人でいる。
ずっと、二人で。俺と、迅。そして、たぶん、見えないところに、透もいる。
三人で、いる、ような気もする。二人で、いる、ような気もする。どちらも、本当だ。

