海から、お迎えにあがりました


屋上から降りて、警察に向かう途中、俺たちはもう一度自転車を停めた。街灯のない海沿いの道だった。空には星が出ていた。海の上に、月が低く出ていた。迅の横顔に、低い月の光だけが当たっていた。鼻筋。顎の線。今日いちにちでくたびれた目元。それでも、迅の顔は、ちゃんと、迅の顔だった。俺は安堵した。

「悠、俺たち、いま、ちゃんと、生きてるよな」
「生きてる」
「祖父さん、もう、いないよな」

俺は自分の中を確かめた。中は静かだった。俺は、俺、だった。

「いない」
「俺の中にも、いない」

迅は両手を自分の頬に当てた。

「俺、ちゃんと、迅だ」
「迅だ」

迅は笑って、目を伏せた。

「悠、お前、いま、ありがとな」
「俺も」
「ありがとな、しか、言葉が、ない。ない、けど、たくさんある」
「ある」

俺たちは自転車にもう一度またがった。警察に向かう途中、迅のスマホが鳴った。迅は画面を見た。

「非通知だ」
「先生か」
「だろうな」

迅はスピーカーにして出た。

「もしもし」
「藤代くん」

朔本さんの声だった。夜の海沿いの道の上に、朔本さんの淡い声が流れた。

「ええ、ええ。屋上で、お見事でした」
「見ていたのか」
「ええ。屋上には、私の小さな、機材を、設置してありました。あなた方の脳波は、いま、私の手元に、流れて、参りました」

迅の手が震えていた。俺は迅の手からスマホを取った。

「先生」
「松崎くん。お久しぶりです」
「あんた、今、どこにいる」
「東京の、駅の、ホームにおります」
「逃げたのか」
「逃げる、という言葉は、私には、似合いません。私は、移動、しているだけです」

朔本さんの声は、相変わらず穏やかだった。

「松崎くん、藤代くん。お二人は、私の予測を、外しました。これは、私の研究にとって、極めて、貴重な、データです」
「データ」
「ええ、ええ。私が、これまで、観察してきた、十二名の被験者の中で、初めて、私の予測を、外した、二名です。お二人は、私の研究の、最大の、貢献者です」

朔本さんは、薄く笑った。

「あなた方の、貢献に、心から、感謝、申し上げます」

俺は息を整えた。

「先生、俺と、迅は、今から、警察に行く」
「ええ、ええ。お止めしません」
「あんたを、告発する」
「告発、お受けします。私が、捕まる、可能性は、高い」
「捕まれば、いい」
「ええ、ええ。捕まることも、私の、人生の、一つの、終わり方です。それも、悪く、ない」

朔本さんは、淡く笑った。

「ただし、松崎くん。一つだけ、お伝えしておきたい」
「何だ」
「私は、捕まる、前に、もう一つ、観察を、始めます」

俺の喉が、ぐっと詰まった。

「第五群か」
「ええ、ええ。すでに、候補は、見つけてあります。北の、ある町に。あなた方とは、少し、家系のパターンが、異なりますが、似た、構造を、持つ、家系です」
「先生」
「ええ」
「やめろ」

朔本さんはしばらく無言だった。それから低い声で笑った。

「松崎くん。あなたが、私に『やめろ』と、おっしゃるのは、論理的に、整合しません」
「なぜ」
「あなたは、私を、止める、立場ではない。あなたは、私の、被験者です」
「俺は、もう、被験者じゃない」
「ええ、ええ。卒業生、です」

朔本さんは、優しい声で言った。

「卒業生は、母校の、未来の、後輩に、対して、口出しを、する、立場では、ありません」

俺の手の中で、スマホが震えていた。俺はスマホを強く握った。

「先生」
「ええ」
「次の三人が、どこにいるか、教えろ」
「お教え、できません」
「教えろ」
「松崎くん、ご無理を、おっしゃる」

朔本さんは笑った。

「お教えしては、観察の、意味が、ありません」
「俺たちが、その三人を、助けに、行く」

朔本さんは、また、しばらく無言だった。無言の向こうで、駅のアナウンスが聞こえた。ホームに、電車が入ってきている音だった。

「松崎くん」
「ええ」
「あなたは、いま、ご自身の、能力の限界を、超えた、ことを、おっしゃっています」
「やってみる」
「ええ、ええ。やってみる、のは、結構です」

朔本さんは、薄く笑った。

「私は、その挑戦を、楽しみに、観察、しております」
「観察するな」
「観察は、私の、本質です。私から、観察を、奪わない、でください」

朔本さんは、優雅に言った。

「松崎くん。迅くん。最後に、一つ、申し上げます」
「何だ」
「お二人とは、もう、お会いすることは、ないかも、しれません」
「ない方が、いい」
「ええ、ええ。ですが、もし、再び、お会いする機会が、ございましたら――」

朔本さんは、わずかに笑った。

「その時は、また、海から、お迎えに、上がります」

俺の指の先が冷たくなった。

「では、電車に、乗ります。お元気で、松崎くん。藤代くん」

電話は切れた。俺はしばらくスマホを見ていた。迅は、隣で海を見ていた。

「悠、俺たち、第五群を、助けに、行くのか」
「行きたい」
「俺もだ」
「でも、いま、どこに、いるか、わからない」
「探す」

迅は頷いた。

「俺たち二人で、探す。絶対に、見つける。あの子たちを、海から、引き上げる」

迅は、自分の頬を、両手で、軽く叩いた。

「行こう」

俺たちは自転車にまたがって、警察に向かった。夜の海沿いの道を、二台の自転車が走った。道は、長かった。走りながら、俺は、自分の中のすべての記憶を確かめた。

松崎春一の海の中の記憶も。藤代勇助の流木の記憶も。七尾善次郎の、引き上げられた、後の、記憶も。それらは消えなかった。

消えないまま、俺の中にあった。ただ、それらは、もう、俺を引っ張らなかった。俺の中に住んでいる、別の人たち、として、そこにあった。俺は、その別の人たちと一緒に、生きていく。

俺は、俺として。迅は、迅として。二人で、一緒に。