海から、お迎えにあがりました


去年の七月二十二日。放課後。屋上に着いた俺と迅。透がフェンスの向こうに立っていた。

「透!」
「何やってる!」

俺たちは叫んだ。透は振り返って、笑った。

「悠、迅」

透の声がした。

「俺、今から行く」
「どこに」
「祖父さんのところに」
「透」
「祖父さんを、引き上げないと」
「引き上げる?」
「うん。引き上げないと、祖父さんは、ずっと、あの海の中にいる」

透の目は、透の目ではなかった。別の誰かの目だった。七尾善次郎。透の祖父。透の中に、祖父が入っていた。

「透、来るな」

俺は手を伸ばした。その瞬間、俺の手が俺の手でなくなった。俺の手は、骨ばっていた。指が太かった。

日に焼けて、皺がよっていた。俺は、松崎春一の手で、透に向かって伸ばしていた。そして、迅も。俺の隣で、迅も、藤代勇助の体になりかけていた。

俺と迅と透の体が、それぞれの祖父の体になっていた。俺たちは、八十年前の海に戻っていた。俺は海の中に立っていた。夜の海。

月のない夜。俺の周りで、人が溺れていた。女の人。子供。

手を伸ばしてきていた。俺の手は、流木をつかんでいた。流木は、三人ぶんの浮力しかなかった。俺の左に、藤代勇助が、流木の同じ端をつかんでいた。

俺の右に、七尾善次郎が、流木の反対側をつかんでいた。子供の手が、流木に伸びてきた。俺はその手を振りほどいた。振りほどいた瞬間、子供の顔が見えた。七歳くらいの女の子。

「ちちおや、はなさないで」

その声を、俺は聞いた。聞いて、振りほどいた。俺は屋上に戻った。体が震えていた。

俺の隣で、迅も震えていた。俺たちは祖父の記憶を体験した。数秒の中に、何時間分もの記憶が流れ込んだ。俺は理解した。

去年の七月二十二日、屋上に来た俺たち三人は、ほんの数秒の間、祖父たちの記憶に呑まれていた。その時、透は気づいたのだ。このまま三人で立っていたら、三人とも、海の中に引きずられて、自分を失う。

だから、透は自分を切り離した。自分一人で、海の中に行くことを選んだ。俺と迅を、残すために。

「悠」

迅が言った。

「俺、いま、わかった。透は、俺たちを、巻き込まないように、自分から、行った。俺たちは、見殺しにしたんじゃなかった。動けなかったんじゃなかった。透は、もともと、俺たちが動かなくていいように、選んだ」

俺は涙が止まらなかった。迅も泣いていた。二人で、フェンスの前でしばらく泣いた。そのとき、俺の体が引っ張られた。

フェンスのほうへ。俺は驚いて、フェンスに手をついた。俺の体が、自分の意志でない方向に、動こうとしていた。

俺の中で、誰かが、低い声で呟いた。俺の声では、なかった。俺より、ずっと、年上の男の声。

 悠
 お迎えに、上がりました
 海まで、ご一緒、いたしましょう

声は、俺の喉の、すぐ奥から聞こえた。俺の口が、動いた。動かしたのは、俺ではなかった。

「悠!」

迅が叫んだ。迅も同じだった。迅の体も、フェンスのほうへ、引っ張られていた。俺の中で、松崎春一が、起き上がろうとしていた。

引き上げに行こうとしていた。孫の体を使って。海に。

「悠!」

迅の声が、響いた。

「悠、俺の名前、言え!」
「迅!」

俺は叫んだ。

「悠!」
「迅!」
「俺たちは、二人だ!」

俺は叫んだ。

「俺たちは、二人だ! 一つじゃない!」

俺は迅の手をつかんだ。迅も俺の手をつかんだ。二人で、フェンスから互いに引き戻した。

「悠、お前、覚えてるか」

迅が叫んだ。

「中三のとき、堤防で、俺たちが何の話をしたか」
「覚えてる!」
「何の話、した」
「タピオカが、うまかった話!」
「そう! その次は!」
「数学の小テストが、ヤバかった話!」
「そう! その次は!」
「透が、屋上の鍵を見つけた話!」

俺と迅は、思い出した記憶を次々に叫んだ。俺たちが、十年以上、一緒に積み上げてきた、何の意味もないたくさんの小さな記憶を。積み上げてきた記憶の数の多さが、八十年前の祖父の記憶の、深さに勝った。俺たちの中の祖父が、薄くなっていった。

ゆっくり薄くなっていった。そして、消えた。俺と迅は、屋上のコンクリートの上に座り込んでいた。

フェンスのこちら側に。互いの手を、握ったまま。風が、頬に当たっていた。

「迅、祖父さん、帰ったかな」
「帰った」
「もう、来ないかな」
「わからない。でも、俺たちは、生きてる」

迅は俺の手を強く握った。そのとき、俺はふと、屋上のもう一つの場所を見た。フェンスのそば。そこに、誰か、立っていた。

透だった。透の輪郭が、薄く、光の中に見えた。夏の制服。俺たちのほうを見ていた。

笑っていた。中学一年の体育館で見たのと、同じ笑い方で。俺は口を開いた。

「透」

透は頷いた。頷いてゆっくり薄くなった。最後にもう一度笑って、消えた。風が、屋上を吹き抜けた。迅が俺の手を引いた。

「悠、立てるか」
「立てる」

俺たちは立って、二人で、屋上のフェンスのそばに、しばらく立っていた。下のグラウンドから、ブラスバンドの練習の音が、まだ聞こえていた。トランペットの少し外れた高音が、空に向かって伸びていた。

「迅、俺、お前と、これからも、一緒にいる。一つには、ならない。ずっと、二人で、いる」

迅は俺の手をもう一度握った。

「悠、お前、ありがとな」
「俺も。何が、ありがとな、なんだ」
「いろいろ」

迅は笑った。俺も笑った。笑いながら、屋上のドアの方に歩いた。

ドアを開けて、階段を降りた。降りる足音が、二人ぶん。ちゃんと、二人ぶん、だった。