学校に着いたのは、夕方の七時近くだった。校門は閉まっていなかった。部活の連中が遅くまで残っているのだろう。グラウンドの方からブラスバンドの練習の音が聞こえていた。俺たちは自転車を駐輪場に放り込んで、校舎に向かった。
「屋上の鍵、用務員のおじいさんが持ってる」
迅が言った。
「説明する暇、ないぞ」
「説明しなくていい。前に一度だけ、貸してくれたことがある」
「いつ」
「中三のとき。あの人、たぶん俺たちに弱い。透が前に、お弁当のおかずを分けて、よく話してた」
俺たちは用務員室に向かった。ドアを開けると、痩せた、白髪のおじいさんが新聞を読んでいた。俺たちを見て、目を上げた。
「お、お前ら」
「お久しぶりです」
迅は頭を下げた。
「屋上の鍵、貸してくれませんか」
「屋上?」
「俺たち、ちょっと、話したいことがあって」
「話?」
おじいさんは俺たちをじっと見た。迅の顔。それから、俺の顔。俺の顔を見たとき、おじいさんの目がふと止まった。
「お前」
「松崎です」
「お前、誰かに似てるな」
「祖父に、よく似てると言われます」
「祖父」
おじいさんは何かを思い出そうとしていた。
「松崎春一さん」
俺が言った。おじいさんは目を見開いた。
「春ちゃんか」
「祖父を、知ってるんですか」
「同じ町の人間だった。死んだの、もう二十年以上前だが」
おじいさんは机の引き出しから鍵を取り出した。
「春ちゃんの孫なら、いいよ。何があってもいい。屋上にも、雪が積もったときの掃除で、たまにあがる。鍵、ここだ」
おじいさんは鍵を俺に渡した。
「ただし、フェンスを越えるなよ」
「越えません」
「絶対だぞ」
「絶対」
おじいさんは目を伏せた。
「春ちゃんも、若い頃、たまに、海を見てた。海を見てるとき、別の何かを見てる目をしてた。俺は子供だったが、覚えてる」
俺は鍵を握りしめた。
「祖父も、そういう人だったんですね」
「そういう人だった。優しい人だったが、ときどき、何かに憑かれてる目をしてた」
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。おじいさんはそれだけ言って、新聞に戻った。階段を上りながら、迅が言った。
「お前の祖父さん、海を見てたんだな」
「うん」
「俺の祖父さんも、たぶん、そうだった。母さんが言ってた。夜中に海を見に行ってた、って」
「俺たちは、その続きだ」
「続きにはしない」
「うん」
屋上に着いた。鍵を開けた。ドアを押した。重かった。
開けると、屋上の風が顔に当たった。夏の夕方の、湿った風だった。屋上は広かった。コンクリートの平らな床。
フェンス。フェンスの向こうに海が見えた。海はもう暗くなりはじめていた。空に、最初の星が一つ、出ていた。俺たちは屋上の真ん中まで歩いた。
「あの場所だ」
迅が指差した。フェンスの一角。去年の七月、透が落ちた場所。俺たちはそこに向かって歩いた。歩きながら、俺は心臓が鼓動するのを感じた。
「迅、俺、覚えてないんだ。最後の数分」
「俺も」
「今、思い出せるかな」
「思い出そう」
フェンスの前に立って、下を覗き込んだ。四階分の高さ。アスファルトの地面が、暗くなりはじめていた。
「透は、ここに立った」
俺は言った。
「フェンスを越えて、向こう側に」
「うん」
「俺たちは、ここに立って、透を見た」
「うん」
「そこから、覚えてない」
「うん」
俺たちは立った。夕方の風が強くなった。俺は目を閉じた。閉じた目の裏に、去年の七月二十二日の屋上が、戻ってきた。

