海から、お迎えにあがりました


ドアが開いた。開いた先は暗かった。いや、暗くはなかった。明かりはついていた。

橙色の、保管庫のような明かり。俺はエレベーターから降りた。降りた瞬間にドアが閉まった。

閉まる音は、上の階よりも重かった。廊下は長かった。両側にドアが並んでいた。

「資料保管室 一」
「資料保管室 二」
「資料保管室 三」
「資料保管室 四」

四つあった。俺は最初のドアに手を伸ばした。ノブは回った。鍵がかかっていなかった。

開けた。部屋の中は整然としていた。壁の三方に金属のキャビネットが並び、引き出しにはそれぞれシールが貼ってあった。年号、番号、被験者の名前。いちばん左のキャビネットの、いちばん上の引き出し。

「一九九八 第一群 G-1〜3/C-1〜3」

引き出しを開けた。中には薄いファイルが六冊入っていた。一冊目を抜いた。表紙に高校生くらいの男の子の白黒写真。

詰襟の制服。少し痩せていた。ファイルを開いた。最初の頁に被験者プロフィール。

名前、生年月日、家族構成、学校、それから「完了日」。完了日。一九九八年九月二十日。二枚目の頁にもう一枚、写真が貼ってあった。

カラーの写真だった。アスファルトの上に誰かが倒れていた。撮影者は上からその人を撮っていた。倒れている人の頭の周りに、黒い丸い染みが広がっていた。

詰襟の制服。表紙の少年だった。ファイルを閉じた。閉じた手が震えていた。

二冊目を抜いた。同じだった。別の少年。同じ完了日。

三冊目も。完了日、一九九八年九月二十二日。第一群、三人全員、完了。二つ目のキャビネット。

「二〇〇七 第二群」。同じだった。三つ目のキャビネット。「二〇一五 第三群」。

同じ。四つ目のキャビネット。「二〇二四— 第四群」。引き出しを開けた。

中にはファイルが三冊。一冊目――七尾透。二冊目を抜いた。表紙の写真。

俺の顔だった。学校の生徒手帳の写真。少し荒れた、俺の顔。表紙の右下にシールが貼ってあった。

「C-2 松崎悠 完了日:     」

完了日の欄は空白だった。空白の左に、鉛筆で薄く何かが書かれていた。

「二〇二六/七月 予測」

二か月後。三冊目。迅の顔。

「C-3 藤代迅 完了日:     」
「二〇二六/七月 予測」

俺と迅は、同じ日に完了する予定になっていた。部屋の奥のガラスケースに、目がいった。ガラスケースは温度湿度管理された保管庫だった。

中に透明な密封パックが並んでいた。密封パックの中には、髪の毛が入っていた。一束ずつラベルが貼られていた。

「C-1(一九九八)」「C-2(一九九八)」「C-3(一九九八)」
「C-1(二〇〇七)」「C-2(二〇〇七)」「C-3(二〇〇七)」
「C-1(二〇一五)」「C-2(二〇一五)」「C-3(二〇一五)」
「C-1(二〇二四) 七尾透」

その隣に、空のパックが二つ、用意されていた。ラベルだけ印刷されていた。

「C-2(二〇二六) 松崎悠」
「C-3(二〇二六) 藤代迅」

俺は後ずさって、キャビネットに背中がぶつかった。廊下の方から音が聞こえた。革靴の音だった。ゆっくり、確実に、近づいてきていた。

ドアの磨りガラス越しに人影が浮かんだ。その影は止まらなかった。ドアの前で止まった。ドアノブがゆっくり回った。

ドアが開いた。朔本さんが立っていた。濃紺の三つ揃いのスーツ。鉄縁の眼鏡。

手にはティーカップ。湯気が立っていた。朔本さんはにっこり笑った。

「松崎くん」

朔本さんは言った。

「ようやく、ここまで辿り着いてくださいましたね」

朔本さんは部屋の中に入ってきて、後ろ手にドアを閉めた。閉める動作は優雅で、何の慌てもなかった。何年もこの瞬間を想定して繰り返し想像してきたような、滑らかさだった。

「驚かれている顔ですね。ええ、ええ。当然です。心拍数がいま、おそらく毎分百二十を超えている。瞳孔が開いている。発汗が額と首の後ろに現れている。素晴らしい反応です。完璧なまでに、教科書通り」

朔本さんはカップを口元に運んで、紅茶を一口、含んだ。

「あなたが、ご自身からここに辿り着く瞬間を、私は楽しみに待っていました。誘導した、と言ってもよろしい。エレベーターのボタンの『B』を、お見せするタイミングは、私が決めていました」
「先生」

俺は声を絞り出した。

「あなたは、誰なんですか」
「私は、慎一郎です。朔本慎一郎。医学博士。元○○大学医学部助教。現、世代継承記憶研究所、所長」

朔本さんはくすりと笑った。

「肩書だけ並べると、立派ですね。実態は、ただの観察者です」

朔本さんはいちばん近くのキャビネットの引き出しを手で撫でた。子供の頭を撫でるような動作だった。

「第一群。一九九八年。私の師、八神博士と、私が、最初に辿り着いた家系セット。当時、私は院生でした。八神先生は四十代の半ば。三人の少年たちが、十七歳のうちに、自死しました。最初の一人は九月二十日の朝、残る二人も午前中のうちに完了。八神先生は紅茶をもう一杯注がれて、こうおっしゃいました」

朔本さんは目を細めた。

「『朔本くん、続けよう』」

朔本さんはわずかに胸に手を当てた。

「あの瞬間が、私の人生の頂点でした」
「先生」
「第二群、二〇〇七年。八神先生がまだ存命だったころ。第三群、二〇一五年。八神先生が最後に見届けられた群。八神先生は二〇一八年に亡くなられました。私は、その遺志を、引き継ぎました」

朔本さんはくるりと俺の方に向き直った。

「松崎くん。あなたと藤代くんと七尾透くんは、第四群です。私が単独で観察する、最初の家系セット。私の人生の、後半戦のはじまりです」

朔本さんは紅茶を飲んだ。

「ええ、わかります。あなたは今、いくつかの問いを抱えていらっしゃる。一つ目――『なぜ三十年も、この行為が露見しなかったのか』」

朔本さんは指を一本立てた。

「答えは単純です。連鎖自殺は、地方の小さな町で、八年おきに発生する。三人ぶんの遺書、警察への単純な聴取、それぞれ別の高校。新聞は、一面では報じない。週刊誌が記事にしようとした年もありましたが、八神先生のお力で、止めていただきました。八神先生はある時期、内閣府の精神保健関連の有識者会議に出ておられました」
「……」
「二つ目――『被験者の家族はどうしている』」

指を二本に。

「ご家族は、悲しみます。けれど、悲しみは、私を告発する力には、なりません。彼らはご自身のお子さんが『なぜ』死んだのか、答えを必要としています。私は、答えを与える人間です。『お孫さんは、貴重な研究の対象でした。彼らの死は、医学に貢献しました』。これだけで、ご家族の多くは、嗚咽しながら、頷きます」

朔本さんはにっこり笑った。

「悲しみは、私の、最大の同盟者です」

俺は喉が乾いていた。

「三つ目――『なぜ、ここまで丁寧に説明してくれるのか』」

指を三本。

「これも、簡単です。観察者として、私は、被験者の最終段階での反応を、最も詳細に記録する必要があります。あなたは、今、私の話を聞きながら、ご自身の心拍と呼吸を整えようとしている。声を、出そうとしている。逃げようとしている。それらの全てを、私は、上の階の機械で、計測中です」

朔本さんは天井を指差した。俺の頭に貼ってあるはずの電極は、もうない。さっき計測室を抜けて廊下に出たときに外した。

「電極を外しても、計測は続いています。あなたの服には、極小の脳波検出器が縫い付けられています。最近のセンサー技術は、目を瞠るほど進歩しております。さらに言えば、迅くんの服にも、同じものが」
「……」
「ええ、ええ。あなた方は、紅茶を、楽しんでくださっているだけで、十分に、データを提供してくださっていました」

朔本さんはカップを置いた。カップが机に当たる音が、磁器の乾いた小さな音だった。

「松崎くん、私は今、人生最高に楽しい時間を、過ごしております」

朔本さんは両手を組んで、ゆっくり微笑んだ。

「あなたが、地下に来た。ご自身の完了日を見た。私の正体を理解した。これから、あなたは、藤代くんに、知らせる。私を逃げ出そうとする。私はあなた方が逃げ出そうとする様子を、観察する。観察しながら、紅茶を、飲む。バッハを、聴く。これが、人生でなくして、何でしょうか」

朔本さんは目を細めた。

「私は、芸術家です、松崎くん。観察という芸術の」
「先生、あんた、人間か」

俺は声を絞り出した。朔本さんは声を出して笑った。これまで見たことのない笑い方だった。楽しそうな、心からの笑い方だった。

「松崎くん。人間とは、何ですか。あなたは、人間ですか? あなたの中には、もう、藤代勇助も、七尾善次郎も、入りはじめている。あなたの体はいま、複数の自我の寄せ場、になりつつある。あなた一人で、あなたではない」

朔本さんは俺に一歩近づいた。

「あなたが私に対して『人間か』と問うのは、論理的に、整合しません」

朔本さんはもう一歩。

「私のほうが、まだ、一人の人間として、纏まっております」

朔本さんは、ふと、自分の胸を、ぽんと、叩いた。

「――八神先生と、二人ぶん、纏まっております」

朔本さんは、また、一歩、近づいて、俺の肩に手を置いた。肩に置かれた手は、軽かった。

「悠くん」

朔本さんは、低い声で言った。

「私は、二十六年、お待ちしておりました」
「……」
「八神先生が、第一群を完了させた、あの一九九八年から、二十六年です」
「先生」
「ええ、ええ。私はね、悠くん。お二人を、お招きしたのではありません。お二人を、海から、お迎えに、上がりました」

朔本さんはもう一度、にっこり笑った。

「これが、私の、正式な、業務の、呼び方です」
「お迎え」
「ええ、ええ」
「俺たちを、どこへ」
「海月町から、約十メートル下、海底へ」
「……」
「お祖父様三名が、八十年前、振りほどいてきた、十五名の女性と子供の、いらっしゃる、場所です」

朔本さんは、優雅に頭を下げた。

「お迎えに上がるのは、私の、業務上の、儀礼です。ご気分を害されたなら、申し訳、ございません」

俺はドアの方に振り返り、走った。朔本さんは追わなかった。後ろから声だけが聞こえた。

「お逃げになる必要は、ありません。すべては、予定通りに、進んでおります。お逃げになる、その動きすら、私のシナリオの中にあります」
「松崎くん」

朔本さんの声は、優しかった。

「あなたが、藤代くんと共に、私を呪いながら、海に向かって、走り出す姿を、私は、心から、楽しみにしています」

俺は廊下に出て、エレベーターまで走った。ボタンを押した。ドアが開くまでの数秒間が、何分にも感じられた。ドアが開いた。

中に飛び込んで、一階のボタンを押した。ドアが閉まる瞬間、廊下の奥の最初のドアから朔本さんが出てきた。俺の方を見て、片手を、ゆっくり振った。

子供にお別れをする、おじいさんのような振り方だった。ドアが閉まった。エレベーターが上に動きだした。