その週のはじめ、夜、俺はノートに書いた。
三日連続で、朝起きると枕がわずかに濡れている。
髪の毛の先に、塩の結晶らしきものが混じる日もある。
鏡を見ると、自分の顔の輪郭が、半呼吸ぶん遅れて動く。
これは、もう、毎日のことだ。
毎日のことになった、ということが、いちばん怖い。
怖いけど、いちいち震えていられない。
朝、シーツの濡れているところを、タオルで拭く。
髪の塩を、流す。
鏡を見ないですむ朝は、無理をしない。
慣れたわけではない。
ただ、怖いと思う回数を減らさないと、生活ができないことを、覚えた。
書き終えてノートを閉じた。閉じる、その動作も、いつのまにか慣れた動作になっていた。その週から、学校の中で何かが変わりはじめた。最初は俺の教室の窓だった。
水曜日の朝、教室に着くと、窓ガラスの内側に手形がついていた。濡れた手形。子供の手の大きさ。掌が下、指が上を向いていた。
掃除のあとならわかる。でも昨日の放課後、最後に教室を出るときに、俺は窓ガラスを確認していた。何もついていなかった。教室には鍵がかかる。
夜、誰も入らない。それなのに手形があった。俺は迅にメッセージを送った。
「教室の窓に、子供の手形」
「写真、送れ」
俺は写真を撮って送った。迅から返事が来た。
「俺の教室にも、ある」
「マジか」
「子供の手の大きさ。掌が下、指が上」
「同じだ」
「これ、ヤバい」
二限目の英語の授業中、教室の床から水が滲んでくるのが見えた。教壇のあたりから、四角い染みがゆっくり広がっていた。俺は手を挙げた。
「先生」
「松崎、なんだ」
「足元、水が」
英語の先生は床を見た。
「うん? 何もないけど」
俺はもう一度床を見た。何もなかった。ただ、俺の前の机の脚のあたりに、水滴が一つ、たしかにあった。俺以外には見えないらしかった。
「松崎、トイレか?」
「あ、はい」
「行ってこい」
トイレに行く廊下で、迅とすれ違った。
「悠」
迅は俺の腕を引いて、廊下の隅に押し付けた。
「お前も見たのか」
「水?」
「水」
「教壇の前から、染みが」
「俺の教室は、教師の足元から」
「教師は気づいてない」
「うん」
迅は俺の腕を離した。腕に少しだけ、湿ったあとが残った。
「これ、俺たちの目にしか見えてないな」
「他の生徒は」
「俺の教室では、誰も騒いでなかった」
「俺たち、もう同じものを見てる」
迅はそう言って、廊下の先を見た。廊下の奥、突き当たりの曲がり角の手前に、誰かが立っていた。
「迅」
「うん、見えてる」
立っていたのは子供だった。七、八歳くらいの女の子。濡れたワンピース。髪の毛から水が滴っていて、足元のリノリウムに水溜まりが広がっていた。
女の子は俺たちを見ていた。口を開いた。何か言ったが声は聞こえなかった。口の形だけで、何を言っているかわかった。
「たすけて」
俺は息を止めた。迅も止めていた。女の子はもう一度、口を開いた。
「ちちおや、はなさないで」
その瞬間、廊下の奥のドアが開いて、男子生徒が二人、出てきた。二人は廊下を歩いてきて、女の子のいた場所を通り抜けた。女の子のいた場所には、もう何もなかった。廊下の床も乾いていた。俺たちはしばらく、その場に立っていた。
「祖父さんたちが、振りほどいた子供」
迅が低い声で言った。俺は頷いた。
「俺たちの中の何かが、見えるようになった」
「うん」
四時間目の終わりのチャイムが鳴った。午前の授業の終わりを告げる、ふつうのチャイム。ふつうのチャイムの、はずだった。その音の中に、別の低いノイズが混じっていた。人の声に似たノイズ。
「みなさん」
「みなさん」
「お忘れに、ならないで、ください」
俺は廊下に立ち尽くしていた。迅が、隣で息を止めていた。チャイムは、ふつうのチャイムに戻った。
「いま、放送、聞いた人、いるかな」
「わからない。俺たちにしか、聞こえてないかもな」
「俺たち、もう、別の世界にいるみたいだ」
「迅、俺たち、ちゃんと、ここに、いるよな」
「いる。俺、お前のこと、見えてる」
「俺も」
昼休み、迅と二人で廊下を歩いていた。歩きながら、迅がふと立ち止まった。
「悠、窓、見ろ」
俺は振り返った。廊下の窓ガラスに、四つ、子供の手形がついていた。さっきはなかったはずだった。
「窓の、外側、内側、どっちだ」
迅は近づいて、指でガラスに触れた。
「内側」
「内側か」
俺たちはしばらく、その手形を見た。四つの手形は、ゆっくり消えていった。消えていく途中で、五つ目の手形が新しく現れた。その手形は子供の手ではなかった。
大人の手だった。掌の真ん中に、何か書いてあった。水で書かれた文字。『たすけて』
俺は迅と顔を見合わせた。俺たちは廊下を歩き出した。体育館の前を通った。体育館の中から水音がした。
ぴしゃ、と。何度も。俺たちは立ち止まった。体育館の入り口の扉の隙間から、水が滲み出ていた。
「中、見るか」
「見たくない」
「俺も」
「でも、見る」
俺たちは扉を押した。体育館の中は暗かった。電気がついていなかった。体育館の床全面に、水が張っていた。
膝の高さまで満ちていた。体育館は海になっていた。水の上に、人が浮かんでいた。うつ伏せに、何人も。
俺は息を止めた。迅も。そのうちの一人が、ゆっくりこちらを向いた。顔は見えなかった。髪が覆っていた。
「あの」
水の中から女の人の声がした。
「あの、子を、お願いします」
俺たちは後ずさり、体育館の扉を閉めた。閉めた瞬間、廊下の床は乾いていた。体育館の中も、たぶん、もう乾いているはずだった。
俺たちは振り返らなかった。廊下を走った。走りながら、迅が言った。
「あの女の人、祖父さんが振りほどいた母親の一人だ」
「うん」
「子を頼んでた。俺たちに。祖父さんの代わりに」
俺は頷いた。俺たちは走って、廊下の突き当たりまで来た。突き当たりの窓に、夕日が当たっていた。夕日の光が、廊下の床に、橙色の長い影を作っていた。
その影の中に、もう一つ、影があった。俺たちのものではない、影。一瞬見えて、消えた。俺たちは、その影が消えた場所に、しばらく立っていた。
「いま、いた影」
「透、かな」
「かもしれない」
「透も、見守ってくれてるのかも」
「だったら、いいな」
俺たちは廊下をもう一度歩きだした。夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。その影の長さは、ぴたりと揃っていた。放課後、施設に向かう途中、海沿いの道を自転車で走っていた。
迅が前、俺がその後ろ。向かい風が強かった。ふと、自転車の後ろから、もう一台の自転車の音が聞こえた気がした。俺は振り返った。
誰もいなかった。俺と迅以外、誰もいなかった。俺は前を向き直した。しばらく走った。
また、自転車の音が後ろから聞こえた。ぎぃ、ぎぃ、と。俺の自転車のすぐ後ろ。一定の距離を保ってついてきている。
俺は止まらなかった。止まると追いつかれる気がした。迅に「速く」と叫んだ。迅は前を向いたまま頷いて、ペダルを踏み込んだ。
俺もペダルを踏み込んだ。後ろの音は、しばらく付いてきた。俺たちのスピードに、ぴたりと合わせていた。俺たちが同時に角を曲がると、後ろの音も曲がる。
信号で減速すると、後ろの音も減速する。俺たち二人ぶんの音ではなかった。三人ぶんの音だった。国道に出るあたりで、後ろの音は止まった。
俺はもう一度振り返った。何もなかった。ただ、海から塩辛い風が吹いていた。

