その夜、俺は午前二時に目を覚ました。枕元のスマホで時間を確かめた。〇二:〇七。目が覚めた理由は、たぶん、音だった。
部屋の中で、何か、ポチャン、と、軽く水が跳ねたような音。俺は上半身を起こした。部屋の電気は消えていた。窓の外の隣家の常夜灯の、わずかな光だけが、カーテンの隙間から差し込んでいた。
部屋の中を見回した。机の上、本棚、勉強用の椅子、いつものぬいぐるみ。何も動いていない。俺はもう一度横になろうとした。
横になった瞬間、また、ポチャン、と聞こえた。今度はわかった。足元のほうから聞こえた。俺は布団の中で足の指を動かした。
足の指の先が、何か冷たいものに触れた。濡れていた。布団の中で、足の指の先が、水に触れていた。俺は布団をはねのけた。
ベッドの足元の白いシーツの上に、水の溜まりができていた。直径、三十センチほどの、丸い水の溜まり。水は、シーツに染み込もうとしていた。俺はその水溜まりを見た。
水の表面が、わずかに揺れていた。俺の動きで揺れたのか、もともと揺れていたのかはわからなかった。俺はベッドから降りた。降りた両足の足の裏に、また冷たいものが触れた。
床も濡れていた。ベッドの下のフローリングの床に、ベッドのあたりから机の方に、薄い水の跡が続いていた。足跡だった。子供の足の大きさの、濡れた足跡。
足跡は、俺のベッドのあたりから、机の方に向かっていた。机の前で止まっていた。俺は机を見た。机の上の抽斗の取っ手が、まだわずかに揺れていた。
ついさっき、誰かが、開けて閉じた、ように。俺は抽斗を開けた。中に、透のノート。その横に、朔本さんからもらった、郷土史の文庫本。
その横に、俺自身が買ったA六サイズの黒い表紙のノート。並んで入っていた。だが、ノートの一冊だけが、水で濡れていた。透のノートだった。
透のノートの表紙の紙が、すっかり湿って、波打っていた。俺はノートを抽斗から取り出して、開いた。最初の頁が、水で滲んでいた。透のボールペンの字が、青く流れて、頁の下のほうに溜まっていた。
その流れた青い文字の中に、いつのまにか、新しい一行が書き加えられているのが、わかった。透の字では、なかった。子供の書きはじめのような、ぎこちないひらがな。
ちちおや
俺はノートを両手で握りしめた。握りしめた両手から、水が、ぽたぽたと、机の上に垂れた。水は、塩辛い、海の匂いがした。
俺は、迅に電話をかけた。午前二時十六分。迅は、二回のコールで出た。
「悠」
「迅」
「どうした」
「俺の部屋、海、来てる」
迅は息を呑んだ。
「動けないなら、目を、閉じるな」
「閉じてない」
「電気、つけろ」
「つけた、つけた」
俺は、勉強机の上の卓上ライトをつけた。橙色の丸い光が、机の上を照らした。光が照らしたところは明るくなった。光が照らさないところは、まだ暗かった。
「迅、俺、十五分そっち行く」
「来るな。寝てろ」
「行く」
「迅、待て、来るな」
「もう、自転車、出てる」
電話の向こうで、玄関の戸が開く音が聞こえた。
「迅、雨だぞ、外」
「知ってる」
「合羽、着てけ」
「うん」
俺は、電話を切らずに、ベッドの脇に座っていた。足の裏が濡れているのがわかった。濡れたまま、座っていた。光のあたっていないところ――たとえばベッドの下、たとえば机の下、たとえばクローゼットの扉の隙間。
そのどこからも、何かがこちらを見ている気がした。しかし、見ているものを、見返してはいけない気がした。俺は、卓上ライトの橙色の光だけを見ていた。光はただの光だった。
ただの光が、いま、いちばん頼りになった。十六分後、迅が来た。玄関の呼び鈴を夜中に押せないので、迅は俺の部屋の窓に、外から小石を投げた。
俺は窓を開けた。迅が、外で、ずぶ濡れで立っていた。合羽は、ほとんど役に立っていなかった。
「悠、入る」
「うん」
「下、両親」
「父さんは出張、母さんは寝てる」
「了解」
迅は靴を脱いで、俺の部屋に上がった。入った瞬間、迅は止まった。
「悠、部屋、海の匂いがする」
「うん」
「お前、大丈夫か」
「うん」
迅は俺のそばに来て、俺の肩に手を置いた。肩に、迅の冷たい手の重さが乗った。冷たかった。雨に濡れた手だった。俺はその冷たさで、少し戻った。
「迅、ありがとう。お前、いま、来てくれた」
「あたりまえだ」
「うん」
「悠、お前、一人にすると、海に連れていかれそうだ。俺がいる」
「連れていかれない」
迅は俺の隣に座った。座って、俺の肩に、自分の肩を寄せた。迅の合羽からは雨の匂いがした。俺の足元からは海の匂いがした。
二つの匂いが部屋の中で混じった。混じったその匂いの中で、迅の肩の温度だけは、まだぬくかった。俺たちはしばらく無言で座っていた。夜がゆっくり進んだ。
午前三時を過ぎたあたりで、床の水跡が、薄くなって消えはじめた。四時には、ほとんど消えていた。ただ、透のノートだけは、湿ったまま、抽斗の中に戻っていた。
「迅、今夜、ここ、泊まってけ」
「泊まる」
「布団、出す」
「いや、そのままでいい」
「風邪、ひくぞ」
「ひかない」
俺たちは薄く笑った。笑って、俺は、押し入れから、客用の布団を引きずり出した。迅はTシャツに着替えた。俺の、二回り、大きいTシャツ。
迅は、客用の布団に入った。俺は自分のベッドに戻った。電気は、卓上ライトだけ、つけたままにした。
「悠、寝ろ。俺、起きてる」
「お前も寝ろ」
「俺は起きてる」
「迅、ありがとう」
返事はなかった。返事の代わりに、布団の中で迅が小さく寝返りを打つ音がした。俺はベッドの中で目を閉じた。閉じた目の裏に、海はもうなかった。
代わりに、迅の、寝ぐせの、襟足が、見えていた。俺はその寝ぐせの襟足を、しばらく見ていた。見ているうちに、いつのまにか、眠っていた。朝、目が覚めたときには、雨は止んでいた。
迅は、まだ、客用の布団で寝ていた。迅の目の下に、隈があった。迅は、約束通り、起きていたのだった。俺はそれを見て、しばらく動けなかった。
それから台所に立った。迅のための、卵焼きを焼いた。砂糖を、少し多めに入れた。迅は、甘いほうが好きだったから。

