海から、お迎えにあがりました


翌朝、駅前で迅と落ち合った。迅は俺より早く着いていた。自販機の前で缶コーヒーを飲んでいた。

「悠、起きるの遅い」
「俺、九時前に着いた」
「俺、八時半に着いた」
「お前、早すぎ」
「早起きしたら、止まらなかった」

迅は笑った。俺たちは自転車にまたがって、海沿いの国道を走った。夏の朝の海は、まだ少し冷たい風が吹いていた。海岸線を東に走った。

「どこ行く」
「西の浜」
「いいな」
「あそこ、人いないから」

西の浜は、海月町から自転車で三十分くらいの、観光地ではない海岸だった。小さな漁港の隣の岩場の続く磯。子供のころ、たまに三人で行った。着くと本当に人がいなかった。

岩場と、白い砂と、それから、波。波は低くて、ゆっくりだった。俺たちは自転車を停めて、岩場の上に座った。
迅はジャケットを脱いで、後ろに敷いた。半袖から伸びた腕が、夏の朝の光の中で、思っていたより細かった。バスケで鍛えた頃の薄い筋肉の線が、薄日に浮かんでいた。

「海、見るの、久しぶりだな」

迅が言った。

「うん」
「ふつうに、海として見るの」
「うん」

施設に通うようになってから、俺たちは海を、海として見られなくなっていた。海は、祖父たちの記憶の場所で、夢に出てくる場所で、何かが滲み出てくる場所だった。でも、その朝の海は、ふつうの海だった。しばらく俺たちは何も話さなかった。

迅は缶コーヒーをゆっくり飲んでいた。俺は海を見ていた。ふと迅が言った。

「悠、お前さ、卒業したら、どうする」
「決めてない。たぶん大学」
「どこに」
「どこでもいい」
「俺もどこでもいい」

迅は缶を岩の上に置いた。

「俺、お前と、近いとこに、行きたい」

俺は迅を見た。迅は海を見ていた。

「同じ大学が、もし、ある分野で被ったら、それでもいいし。違う大学でも、行きやすいとこなら、それでもいい。とにかく、近く」
「うん」
「変な意味じゃなくて」

迅は俺を見た。

「結婚するとか、そういう話じゃなくて」
「うん」
「それよりもっと、変な意味で」
「変な意味」
「うん。お前がいる場所に、俺がいる。そういう、変な意味で」

俺は頷いた。

「俺もだ」
「お前も?」
「俺もそう思ってた」
「ふうん」

迅は笑った。笑って、缶コーヒーを、もう一口、飲んだ。俺は自分の中で、何かがまた整理された気がした。迅と離れない。

これからも。たぶん、ずっと。それは約束ではなかった。約束より、もっと当たり前のことだった。

そのとき、海から音がした。波音の中に、別の音が混じった。ぴしゃ、と、何か水を弾く音。俺たちは海の方を見た。

波の中に、何か、見えた。俺は目を凝らした。子供の、手。波の表面から、子供の手が突き出ていた。

二本。三本。四本。子供の手は、岸に向かって伸びてきていた。

しかし、子供の体は見えなかった。ただ、手だけが、波の表面から突き出ていた。迅も見ていた。

「悠、俺たち、見えてる」
「見えてる」
「他の人は」
「いないから、わからない」
「お前、怖いか」
「怖い。お前は」
「俺も」

俺たちは岩の上で動かなかった。子供の手は岸まで伸びてこなかった。波打ち際のほんの少し手前で止まった。俺たちのほうに、手のひらが向けられた。

「ねぇ」

声が、聞こえた。子供の声だった。

「ねぇ、迅のおじいちゃん、悠のおじいちゃん」
「ねぇ」
「私たち、まだ、ここに、いるよ」

俺は息を止めた。迅も。

「私たちは、ずっと、ここに、いる」
「祖父さんたちが、振りほどいた、人たち」

迅が、小声で言った。

「だな」

俺は立ち上がって、波打ち際まで歩いた。迅もついてきた。俺たちは、波打ち際で止まった。子供の手が、すぐ目の前にあった。俺はしゃがんで子供の手を見た。

「ごめん」

俺は言った。

「ごめんって、伝えてくれって、祖父さんに、頼まれた気がする」

子供の手はしばらく動かなかった。それから、ふと波の中に引いていった。引いていって、消えた。迅がしゃがんで俺の隣に座った。

「悠、お前、いま、ちゃんと、悠だな」
「うん」
「お前の声で、ちゃんと、ごめんって、言った」
「うん」
「俺も、たぶん、いま、言える」

迅は、波打ち際に両手をついた。

「ごめん、です」

迅は、波に頭を下げた。

「俺の祖父さんが、あなた方の、お父さんを、振りほどいた。ごめん、です」

迅は、しばらく頭を下げた。波が迅の指先を薄く濡らした。濡れた指を迅は引いた。引いた指は、ふつうに濡れていた。

塩辛い、ふつうの海水の濡れ方だった。そこに、何か、特別なものはついていなかった。俺たちは岩場に戻って、しばらく座っていた。

「悠、いま、俺たち、ちゃんと、向き合ったよな。あの子たちと」
「向き合った」
「これで、何か、変わるかな」
「わからない。変わらないかもしれない」
「変わらなくても、向き合った、っていう事実は、残る」

風が強くなった。迅の前髪が、また、乱れた。迅は片手でそれを直した。直しているとき、迅の指が震えていた。

俺は迅の手を取った。迅の手を、自分の手で握った。握って、しばらく握っていた。

迅は何も言わなかった。俺も言わなかった。握った迅の手は、温かかった。