翌日の放課後、いつも通り、施設に向かった。走りながら、俺は迅の漕ぎ方を見た。夜中に見たのと、同じ漕ぎ方だった。施設に着いた。
奥山さんが迅に「藤代さんから先に計測室に向かってください」と言った。迅は廊下の奥に歩いていった。俺は控え室に入って椅子に座った。少し待っていたが、迅は戻ってこなかった。
控え室を出た。奥山さんは受付に戻っていなかった。多分、計測室の方に行っていた。俺は廊下を歩いた。
歩きながら、ふと二階のほうに向かった。二階の廊下も白かった。蛍光灯の光が白い壁に反射していた。廊下の奥のほうに、誰かが立っているのが見えた気がした。
俺は目を凝らした。誰かが立っていた。廊下の突き当たり、曲がり角の手前。こちらに背を向けて立っていた。
白衣ではなかった。私服。半袖のシャツにデニム。高校生くらいの男。
背格好に見覚えがあった。俺は息を止めた。透。透が廊下の奥に立っていた。俺は動けなかった。
「透」
声に出した。廊下の奥の透は振り返らなかった。
「透」
俺はもう一度呼んだ。透はゆっくり首を回し始めた。回しながら、俺の方を見ようとした。そのとき、廊下の奥のドアが開いた。奥のドアから、奥山さんが出てきた。
「松崎さん、こちらにいらっしゃったんですか」
俺は奥山さんの方を見た。それから、廊下の奥の透の方を見た。透はもういなかった。廊下の突き当たりは、白い壁だけがあった。
ただ、立っていた場所のコンクリートの床に小さな水溜まりがあった。足跡の形をしていた。濡れた足跡が二つ、廊下の奥の壁に向かって続いていた。
奥山さんもその水溜まりを見た。目を見開いた。すぐに業務的な表情に戻した。
「下に戻りましょう。控え室でお待ちください」
「奥山さん」
「はい」
「あの足跡、誰のですか」
奥山さんは少し黙った。それから小声で言った。
「松崎さん、ここでは、よく、ああいうものが残ります」
「ああいうもの?」
「お逃げになるなら、お早く」
奥山さんは俺の方を見た。その目に、初めて業務的でない感情があった。
「お早く。藤代さんと一緒に」
奥山さんはそれだけ言って、廊下を戻っていった。俺はしばらく、その場に立っていた。足跡は消えなかった。セッションが終わって、控え室で迅と合流した。迅はいつも通りの迅だった。
「悠、終わったか」
「終わった」
「帰ろう」
施設を出て、自転車を押しながら、海沿いの道を歩いた。雨が降りはじめていた。迅は少し黙っていた。国道を半分くらい走ったところで、俺は自転車を止めた。迅も止まった。
「悠、どうした」
「迅、夜中に施設に行ってたのか」
迅の顔が止まった。止まり方がわずかだった。普通の人なら気づかないくらいの止まり方。でも俺にはわかった。
「いつ」
「昨日の、夜中。一時頃」
「お前、見たのか」
「見た。家の前を通った」
迅は少し黙っていた。雨が迅のレインコートに当たって、フードの先から水滴が落ちていた。
「悠、ごめん」
迅は頭を下げた。
「言うべきだった」
「何を」
「俺、朔本さんから別の話を頼まれてた」
「別の話」
「お前を観察してくれって」
迅はそれから、ゆっくり話した。二週間ほど前、朔本さんが迅だけにこっそり話を持ちかけたらしい。「研究のことで、二人と話す前に、藤代くんと一対一で話したい」と。迅は最初、断ろうとした。
秘密を作るのが嫌だった。でも朔本さんはしつこく頼んだ。迅は結局、応じた。朔本さんは迅にこう言ったのだった。
「松崎くんには、これから起きることをすべて伝えるわけにいかない。彼は変化のただ中にいるからです。気づきすぎることは、研究にとってよくないし、彼自身にとってもよくない」
「俺は、変化しないんですか」
「藤代くん、あなたは変化がゆるやかです。松崎くんは急です。観察できないところに、観察者役を、誰かが果たす必要があります」
「それを、俺に?」
「やってほしい、とまでは言いません。ただ、彼の様子を、私に報告していただきたいのです」
迅はその話を引き受けた。引き受けて、毎週、夜中に施設に行っていた。
「俺、悠を観察してたんだ」
迅は言った。
「お前が最近何を感じているか。何を見ているか。何を夢に見ているか。施設の中で、俺とお前の様子を見て、夜中に朔本さんに話してた」
俺は迅の横顔を見た。迅は海を見た。雨が迅の顔に降っていた。
「悠、怒ってる」
「うん」
「怒っていい」
「うん」
「俺が悪い」
「うん」
俺はそれしか言えなかった。頭の中でぐるぐる回っていた。一対一の関係だと思った俺と迅の関係の中に、朔本さんがずっといた。俺が話していたことのすべてが、迅を経由して朔本さんに伝わっていた。朔本さんは俺の頭の中を、迅というルートで覗いていた。
「ごめん」
迅は再び言った。
「ごめん」
雨が強くなった。霧雨が本降りに変わった。
「悠、ちゃんと話したい」
「いま、話してるじゃないか」
「もっとちゃんと。全部」
迅は自転車にまたがった。
「俺の家に来てくれないか。うちの両親、今日、出かけてる。家に誰もいない」
俺はしばらく迅を見た。迅はまっすぐ俺を見た。雨でレインコートが濡れて、フードの中の迅の顔が暗かった。暗い顔の中で、目だけが強く俺を見た。
「うん」
俺は答えた。
「行く」
迅の家に着いた。迅の部屋は二階の海と反対側にあった。机とベッドと本棚があった。迅は机の引き出しからノートを出した。
「これ」
迅はノートを俺に見せた。中には迅の字でぎっしりと書かれていた。日付と、悠の様子、悠の発言、悠の表情、悠の体の動き。それから、迅自身のその日に感じたこと。
「これ、毎日書いてた」
「朔本さんに見せるためか」
「半分。半分は、俺が自分で整理するため」
「うん」
「夜中に朔本さんのところに行くときに、これの半分を見せる。半分は見せない」
「半分」
「俺の、自分が感じたこと、迷ってること、お前への罪悪感――そういうのは、見せない」
迅はノートを開いた。
「これは、俺だけのために書いてる」
俺はノートのあるページを見た。そのページの上の方に書かれていた一行。
「悠が笑った。久しぶりに見た。ずっと笑ってほしい」
その下に。
「朔本さんには、これは言わない」
俺はノートから目を上げた。迅は俺の前に座っていた。雨が窓を叩いていた。
「迅、お前、辛かっただろ」
俺の声が自分でも思ったより、優しかった。迅の目が揺れた。
「辛かった」
迅は答えた。
「ずっと、お前に嘘をついてる気がしてた。観察者を続けるなら、笑っちゃいけない。対象に感情移入しちゃいけない。でも、お前が笑うと、嬉しかった」
迅の目から何かがふっとこぼれた。最初、それが雨なのか涙なのかわからなかった。迅は頭の髪の毛から雨を拭いていなかった。拭いていない髪の毛から、頬に水滴が落ちていた。
それとは別に、目の縁からもう一筋、流れたものがあった。迅はそれをすぐに拭わなかった。俺は立ち上がって、迅の前に行った。しゃがんで目線を合わせた。
合わせたまま、片手で迅の頬の水滴を拭った。雨か、涙か、わからない水滴を。迅は俺の手を避けなかった。避けないまま、また、こぼした。俺は再び拭った。
「迅、もう、観察、しなくていい。俺の様子は、俺が自分で朔本さんに伝える」
「いいのか」
「いい」
「お前がしんどくないか」
「しんどい。でも、お前が二つに割れている方が、もっとしんどい」
迅は頷いた。頷きながら、ふと笑った。
「悠、お前、ちょっと強くなったな」
「強くなったか」
迅は答えなかった。家に帰り、机の前に座った。迅と話してから、何かが俺の中で整理されはじめていた。
書いてみよう、と思った。迅がやっていたように。ノートを出して、新しい一頁にその日の日付を書いた。
「迅は朔本に報告していた」
「俺は怒った」
「でも俺と迅は雨の中で抱きしめあった」
「俺は迅を許した」
「俺たちは二人だ」
書いていくと、頭の中の混乱が少しずつ整理されていった。書くという行為は、自分の輪郭を保つ。迅がこれまでやってきたことを、俺もこれからやる。その夜、海の夢を見た。
夢の中で俺は、黒い海の中に立っていた。俺の左右に二人いた。俺は左を見た。迅だった。
俺は右を見た。透が立っていた。俺たち三人は海を見た。海の中で、もう女たちも子供たちもいなかった。
ただ、海が広がっていた。俺は目を覚ました。布団の中で動かなかった。天井を見た。
白い天井。天井に、ぽたり、と水滴が落ちる音はしなかった。久しぶりに何の音もしなかった。俺は深く息を吸って、ゆっくり吐いた。
その朝、布団から出るとき、自分の手を確認した。自分の手だった。骨ばっていない、いつもの自分の手。その手が、少し自分のものとして安定していた。

