その金曜日の夜、十時過ぎ。ベッドの上で何もせずにいた俺は、スマホの着信音で起き上がった。画面に迅の名前が表示されていた。
電話で迅からかかってくることは滅多になかった。普段はメッセージで用事が済む。俺は出た。
「もしもし」
「悠」
電話の向こうで迅が言った。
「ん」
「お前、今、どこにいる」
「家」
「窓、開いてるか」
「閉まってる」
「開けてみろ」
俺は立ち上がって、窓のところまで歩いた。歩きながら、迅の声を聞いた。迅の声はいつもより少し低く、少し滑らかだった。
「迅、お前、いま、なんでそんな声、出してる」
「そんな声?」
「いつもの、お前の声じゃない」
電話の向こうがしばらく無言になった。その無言の中に、息遣いが聞こえていた。息遣いも、いつもの迅じゃなかった。少し深かった。少し年を取っていた。
「悠」
声が戻ってきた。
「ん」
「俺、いま、自分が誰かわからない」
「迅」
「俺、藤代勇助、かもしれない」
俺は窓のサッシに片手をついた。ついた手が震えていた。体全体が何かに引っ張られていた。電話の向こうから見えない糸が伸びてきていて、俺の体の中まで届いていた。
「悠、こっちに来い」
電話の向こうの、迅でない迅が言った。
「いま、すぐ。自転車でこっちに来い。海に行こう」
「海」
「俺たち三人で。海に」
「三人?」
「俺と、お前と、もう一人」
「もう一人、誰だ」
「お前、わかってるだろう」
俺は電話を切って、スマホを机に置いた。メッセージを送った。
「迅、いま、起きてるか」
返事はすぐに来た。
「起きてる」
「いま、お前、電話かけてきたか」
「電話?」
「うん。十分くらい前に」
「かけてない」
俺はメッセージの画面をしばらく見た。迅の文字は、いつもの迅の文字だった。たった今、電話で話していた声は、迅ではなかった。
「悠、お前、大丈夫か」
迅が書いた。
「夢、見てたかもしれない」
「お前、寝ぼけてんのか」
「多分」
「変なの。明日、堤防、行くか」
「行く」
メッセージはそれで終わった。俺はベッドに倒れ込んだ。手のひらの中央に汗がたまっていた。汗の量がいつもより多かった。
その汗を指で拭った。汗の上に、海藻が一本、絡まっていた。その夜、夢の中で俺は再び海に立っていた。海の中で。
俺の左に迅が立っていた。俺の右にも誰かが立っていた。誰かは振り返っても見えなかった。振り返ろうとした、その瞬間に目が覚めた。
時計を見ると午前一時を過ぎていた。布団から出た。喉が渇いていた。階段を降りて、台所に行った。
電気はつけなかった。月明かりが台所の窓から入っていた。冷蔵庫を開けて、麦茶をコップに注いだ。注ぎながら、ふと窓の外を見た。
家の前の道に、自転車が一台、走っていた。午前一時に、自転車を走らせている人間。俺はコップを流しに置いて、窓に近づいた。自転車はもう家の前を通り過ぎて、海の方角に走り去っていく途中だった。
後ろ姿だけが見えた。短く刈り上げた髪の形。背中の肩甲骨の動き方。迅だった。
迅が夜中の一時に、海の方角に自転車で走っていた。海の方角には、施設があった。俺はスマホを手に取った。
メッセージを送ろうとして、止めた。聞いても、迅は本当のことを言わない気がした。本当のことを言うつもりなら、起こしてくれていた。

