海から、お迎えにあがりました


同期セッションの翌日、木曜日の午後、俺は一人で町に出た。迅は委員会で居残りだった。本当は俺も学校に残って迅を待ちたかった。でも教室にいると、昨日の同期セッションの感触が、頭の奥にずっと残っていた。

だから町に出た。商店街の中ほどに、古書店があった。「古書 海月堂」という小さな木の看板。中学の頃、何度か入ったことがある。

漫画も少し置いてある店だった。ガラス戸を押して中に入ると、薄暗かった。本の匂いがした。古い紙とわずかな黴の匂い。

店内のラジオから昭和歌謡が小さく流れていた。奥のレジに、店主のおばあさんが座っていた。眼鏡の奥でこちらをちらりと見て、すぐにまた手元の本に視線を戻した。俺は文庫本の棚の前に立った。

棚の端に、見覚えのある背中があった。濃紺の三つ揃いのスーツ。俺は息を呑んだ。

棚の前に立っている男がこちらを振り向いた。朔本さんだった。朔本さんはにっこり笑った。

「ええ、ええ。松崎くん」
「先生」
「奇遇ですね」

奇遇ではないと思った。たぶん、奇遇ではない。朔本さんは手に古い文庫本を一冊持っていた。茶色く焼けた表紙。

「お買い物ですか」
「いえ、ただ、ぶらりと」
「ぶらり、ですか。ご立派です」

朔本さんは「ご立派」と言って、棚の本を一冊指でなぞった。指は本の上を、ほんの少しだけ滑った。

「私はね、松崎くん。古書店という場所が、何より好きでしてね」

朔本さんは俺に近づいてきた。距離が近かった。

「お分かりになりますか。古書店という場所は、つまり、死者たちの、図書館です」
「……」
「ここに並んでいる本の、書いた方の大半は、もうこの世にいらっしゃらない。けれど、本は、ある。私たちは、死者の声を、棚から、自由に、取り出すことができる」

朔本さんは手の中の文庫を軽く撫でた。

「私は、これを、観察と、ほとんど同じことだと考えております」

朔本さんは俺の目を見た。眼鏡の奥の淡い色の目。

「死者は、たとえ亡くなっても、痕跡を、残します。本に。日記に。写真に。あるいは――遺伝子の、ほんのわずかな変化に」

俺は何も言えなかった。朔本さんはにっこり笑った。

「松崎くん、よろしければ、これを、贈らせてください」

朔本さんは手の中の文庫を俺に差し出した。俺は、反射的に、受け取ってしまった。表紙を見た。

『海月町郷土史 昭和編』著者名は見たことのない郷土史家の名前だった。発行は昭和五十年代。

「五十二頁から、桜崎丸の遭難について、簡単な記載がございます。当時の、海月町の警察と、地元紙の取材を元にした、控えめな記述です。八神先生のお手元にもありました。実物は、もう、ほとんど、市場に出ません」

朔本さんは表紙を指で叩いた。

「私が、長い間、探していた、本です」

俺は、文庫本を両手で持ったまま、固まっていた。

「先生」
「ええ、ええ」
「これ、なぜ、俺に」

朔本さんは、わずかに首を傾けた。子供が何かを考えるときの仕草だった。

「松崎くん。あなたは、知りたいでしょう。あなたのお祖父様が、何を、目撃し、何を、お持ち帰りになったのかを」
「……」
「知らないままで、いることも、できます。しかし、知らないままで、いることは――」

朔本さんは、わずかに目を細めた。

「知ることよりも、ずっと、危ない」

朔本さんはレジに向かい、おばあさんに、自分の選んだ別の本の代金を払った。文庫本ではない。古い医学雑誌の合本だった。朔本さんは本を革の鞄に入れた。ガラス戸の前で振り返った。

「松崎くん」
「はい」
「迅くんに、よろしく、お伝えください」

朔本さんはにっこり笑った。

「あなた方の、お二人、一緒にいらっしゃる姿、私は、心から、応援しております」
「……」
「ええ、ええ。お二人で、いらしてください。ずっと」

朔本さんはガラス戸を開けて出ていった。戸が、閉まった。ラジオの昭和歌謡が続いていた。おばあさんは、もう、こちらを見ていなかった。

俺は、文庫本を両手で持ったまま、立っていた。文庫本の表紙の紙が、わずかに湿っていた。俺の掌の汗のせいだと、思った。家に帰って、机に座った。

文庫本を開いた。五十二頁。「桜崎丸の遭難について」。短い記事だった。

十数行。終戦直後、海月町から物資を運ぼうとした漁船・桜崎丸が、嵐に遭遇し沈没。乗組員と引揚者を含む十八名のうち、生還者は三名。三名の名は、松崎春一、藤代勇助、七尾善次郎。

俺の、祖父。迅の、祖父。透の、祖父。その下に、一行、薄く、追記されていた。手書きの鉛筆の文字。

 三名の口は、終生、固かった。

俺は本を閉じた。机の抽斗を開けて、透のノートの横に入れた。抽斗を閉めた。抽斗の奥から、わずかに、潮の匂いがした。

そんなはずは、ないのだが。そんなはずは、ない。朔本さんが別れ際に言った言葉が、頭の中で繰り返されていた。

 お二人で、いらしてください。
 ずっと。

俺は机の抽斗をもう一度開けて、文庫本を取り出した。ページをもう一度めくった。ふと、表紙の裏側の左上に、薄く印が押されているのに気づいた。緑色の、四角い、蔵書印。

 八神蔵書

俺は本を閉じた。閉じた両手が震えていた。ゆっくり抽斗に戻して、抽斗を閉めた。

迅に、見せようと、思った。二人で、一緒に、震えようと、思った。二人で、震えるなら、たぶん、大丈夫だと、思った。