海から、お迎えにあがりました


「終わりです」

朔本さんの声で目を開けた。部屋の電気が明るくなっていた。俺はしばらく動かなかった。動こうとしたとき、自分の手が自分の手として動くかを確認しなければならなかった。

右手を握って開いた。いつもの握り方だった。電極を外して、廊下を歩いて、控え室に向かった。

控え室には、迅がすでにいた。迅は俺の顔を見て止まった。ペットボトルの水が、迅の口から少し離れた。

「悠、お前、いま、俺の顔、見てるか」
「見てる」
「俺が見えるか」
「見える。ちゃんと迅だ」

迅は頷いた。ペットボトルを置いた。

「俺もお前がちゃんと悠に見える」
「よかった」

迅は俺の顔を改めて見た。久しぶりに本物の俺を見つけた、という顔だった。日に焼けた首筋。汗の張りついた前髪。眉のすぐ下にある、小さな古傷――中二のときに堤防で転んでできた傷。全部、ちゃんと、迅だった。
迅は立ち上がって、俺の前まで歩いてきた。歩いてきていきなり俺を抱き寄せて、すぐに引いた。

「悪い」

迅は言った。

「確認したかった」
「何を」
「お前が、ちゃんとここにいるか」
「いる」
「うん」

迅は再び頷いた。俺は自分の胸のあたりに、迅の腕の温度がまだ残っているのを感じた。

「悠、いま、俺、変なことを言うけど、途中で、お前の体にいた気がする」

俺は息を止めた。

「俺もだ。途中で迅の体にいた気がした」

迅は少し俺を見た。それから低い声で言った。

「俺たち、入れ替わってたのかな」
「わからない」
「俺、お前の祖父さんの夢、見た」
「俺は迅の祖父さんの夢、見た。同じ場所で、別々の祖父さんと立ってた」

俺たちはそれ以上、何も話さなかった。朔本さんが控え室に入ってきた。

「お疲れさまでした」

ファイルを開いた。グラフが入っていた。

「お二人は別の階の別の部屋にいました。それでも、お二人の脳波はこれまでよりも強く同期していました」

朔本さんはペンでグラフの中央を指した。

「ここ、二十分から四十分のあたり、お二人の脳波がほぼ完全に一致しています」

俺はグラフを見た。二十分から四十分のあたり。俺が迅の体にいると感じた時間と重なっていた。

「先生、俺たちの自我は、これからどうなるんですか」

朔本さんは俺を見た。眼鏡の奥の淡い色の目で。

「松崎くん、いい質問です」

朔本さんは頷いた。

「私の予測では、お二人の自我はこれから数週間のうちに不安定になります。お互いの記憶や感覚が混じる時間が増えるでしょう」
「それは戻りますか」
「戻るかどうかは、わかりません」

朔本さんの声は平らだった。

「戻らない場合、お二人はどこかの時点で、自我を共有することになるかもしれません。共有された自我が再び二つに分かれるかどうかは、誰にもわかりません」

朔本さんは紅茶を一口、ゆっくり飲み下した。

「もちろん、そうなる場合、私はそれを最も詳細に記録いたします」

朔本さんはにっこり笑った。

「観察者として」

俺は朔本さんを見た。朔本さんは俺を見ていた。にこにこと。

その瞬間、俺ははっきりと思った。朔本さんはこれを待っている。楽しんで待っている。


施設を出て、自転車を押しながら海沿いの道を歩いた。少し二人とも何も話さなかった。国道に出るあたりで、迅が言った。

「悠」
「ん」
「俺、お前のことを忘れたくない」

俺は迅を見た。迅は海を見た。

「自我が混ざったら、お前と俺の区別がつかなくなる。お前を忘れるというか、お前と俺が同じになる。俺はそれを嫌だと思ってる。お前はお前でいてくれ。俺は俺でいる」

俺は頷いた。迅の声は低くて、固かった。固いことが迅にしては珍しかった。普段の迅はもっと軽い。

「迅、ありがとう」
「は?」
「いや、ありがとう」
「気持ち悪いな、お前」

迅は笑った。俺も笑った。笑った迅の横顔を俺は見た。

その横顔は迅の横顔だった。藤代勇助の輪郭は、もう重ならなかった。少なくとも、その瞬間は。