海から、お迎えにあがりました


水曜日のセッションは、新しいプロトコルだった。

「来週から計測のプロトコルを少し変えます」

朔本さんは紅茶を注ぎながら言った。

「これまではお二人に同じ時刻に同じ部屋で計測していました。来週からはお二人を別々の階の別々の部屋に分けます」
「離れるんだな」

迅が軽く言った。

「ええ。離れて、お二人の脳波の同期が、距離に関係なく維持されるかを確認したいのです。秒単位で揃えます。同期セッション、と呼んでいます」

朔本さんはにっこり笑った。

「楽しいですよ、きっと」

楽しい、と俺は心の中で繰り返した。楽しいセッションとは何だろう。奥山さんに案内されて、俺は二階の第二計測室に入った。迅は一階の第一計測室。

俺は靴を脱いで椅子に横になり、電極を頭に装着した。最近は自分でできるようになっていた。部屋の電気が自動で暗くなった。

「松崎くん、聞こえますか」

スピーカーから朔本さんの声がした。

「はい」
「これから九十分計測します。同じ時刻に別室で藤代くんも計測しています。普段通り、リラックスして、目を閉じてください」
「はい」
「では、始めます。良い航海を」

良い航海を?

朔本さんはたまにそういう、芝居がかった言葉を使う。スピーカーが切れた。最初の十分はいつも通りだった。二十分くらい経ったときだった。

俺はふと自分の呼吸の感覚がおかしいことに気づいた。息を吸う深さがいつもと違った。吸う長さも違った。それは迅の呼吸のリズムだった。

迅が計測のときにいつもしている、少し深い、ゆっくりした呼吸。感じた瞬間、俺の体の感覚が変わった。自分の手の位置がいつもと違った。少し長い手だった。少し骨ばっていた。指の節が太く、爪の形が四角い。バスケで何度も挫いた右手首が、わずかに歪んで覚えている。足の長さがいつもより長く、肩の幅がいつもより広かった。

俺は目を開けた。これは迅だ、と思った。
俺は迅の体で目を覚ましている。混乱は一瞬だった。

混乱の次に来たのは、奇妙な納得だった。俺は迅で、迅は俺で、それはずっとそうだった。ずっとそうだった、というのが、夢の中の感覚に似ていた。俺は目を閉じた。

閉じた目の裏に、海の景色が広がった。黒い海。月のない夜。波。

俺の左右に人が立っていた。俺の右の人間。それは迅ではなかった。迅はいま、俺の体に入っているはずだった。

俺の右に立っている、若い、漁師の作業着の男。それは別の人間だった。藤代勇助。迅の祖父だった。

俺は迅の夢を見ていた。迅がこれまで見てきた、迅の祖父の記憶を、俺はいま共有していた。そのとき、水しぶきが上がった。夢の中の海の水が、現実の俺の頬に飛んできた。

冷たい。塩辛い。そして、視界が、急に、海の中に変わった。俺は、もう、夜の海の上に立っているのではなかった。

海の中にいた。冷たい黒い水が、俺の肩まで来ていた。鼻と口の前を、白い泡が流れた。水の中で目を開けると、まわりに人がいた。

藤代勇助が、俺のすぐ横で、流木の端を必死に掴んでいた。少し離れたところで、七尾善次郎が、もう一本の流木にしがみついていた。そして、俺たちの周りに、別の人々がいた。女の人が二人。

子供が三人。年取った男が一人。みんな、俺たちに手を伸ばしていた。俺は自分の手を見た。

骨ばっていた。皺がよっていた。俺は松崎春一だった。

俺の前に、五歳ぐらいの女の子がいた。濡れた前髪が目に貼りついていた。口を開けた。

「おじさん」

声は、海の中でこもっていた。

「おじさん、つかまらせて」

俺は流木を見た。流木は、三人ぶんの浮力しかなかった。俺は女の子から目を逸らした。流木を強く握りしめた。

握りしめて、女の子の手を、振り、ほどいた。女の子の手が、俺の手から離れた。女の子は、黒い水の中に沈んでいった。沈みながら、目だけが、ずっと俺を見上げていた。

水の中で、女の子の口が、もう一度動いた。声は聞こえなかった。けれど、唇の動きでわかった。

 はなさないで。

その女の子の後ろのほうから、年取った女の人の声が、海の底から響いてきた。その声は、もう口の動きではなく、はっきりと耳の奥に届いた。

 おじいさん。
 お迎えに、参りました。
 帰りましょう、海の底へ。

俺は目を閉じた。閉じた目の裏に、女の子の顔が焼き付いていた。俺の喉の奥から、海水と海藻のような苦い味がせり上がってきた。俺は口を開けて、息を吸おうとした。

口の中に、水が、入った。冷たい。塩辛い。

海の底の味。俺は咳き込んだ。咳き込んだ、その瞬間に、視界が白く戻った。