海から、お迎えにあがりました


そのとき、迅が天井を見上げた。

「悠、天井、シミがある」

俺も見上げた。茶色く変色した木の板にシミがあった。透が「お婆さん」と呼んでいた、あのシミだった。ただ、そのシミが少し変わっていた。

濡れていた。シミの形をしたまま、シミの中だけが、まわりの板より濃く濡れていた。そして、シミの一番下のあたりから、ぽたり、と水が落ちた。畳の上に、丸い染みが広がった。

俺は息を止めた。迅も止めていた。ぽたり、と。もう一滴。畳の染みが少し広がった。

「迅、これ、なんで濡れてるんだ。上、屋根だろ。雨、降ってないだろ」
「わからない」

ぽたり。三滴目。迅がシミの真下に立って、手のひらを上に向けて差し出した。四滴目が、迅の手のひらに落ちた。迅はそれを舐めた。

「海の水だ。家の天井から、海の水が」

俺は頷いた。俺たちはしばらくその「お婆さん」を見ていた。「お婆さん」の輪郭が、徐々にはっきりしてきた気がした。シミの中の目のような二つの濃い場所が、こちらを見ていた。

「悠」

迅が小声で言った。

「机、見ろ」

俺は視線を下げた。机の上に、本が一冊、置かれていた。そんな本は、さっきなかった。部屋に入ったとき、机の上には何もなかった。

今、本が一冊、置いてあった。俺は机に近づいた。古い布張りの装丁の本だった。背表紙の文字は薄れて読めなかった。迅も近づいてきた。

「これ、誰が」
「わからない」

俺は本を開いた。中は本文ではなかった。ページがくり抜かれて、本の真ん中に四角い穴が開けられていた。穴の中に、小さなノートが収まっていた。A6サイズの薄い黒い表紙のノート。

「透のノート」

迅が言った。

「俺たちに、見せたかったんだな」
「うん」

ノートを開いた。最初のページ。

 二〇二三年五月二日
 今日、図書館で祖父の本の中から奇妙な紙を見つけた。古い名簿のコピーで、祖父の名前と、悠の祖父の名前と、迅の祖父の名前が並んでいた。同じ部隊の名簿らしい――いや、部隊ではなく、同じ漁船の乗組員名簿。
 俺たちの祖父が知り合いだったという話は聞いたことがない。同じ町にいたことくらいは知っていたが、同じ船に乗っていたなんて。

俺は息を止めた。迅も隣で止めていた。

「透、知ってたのか」
「うん」
「俺たちが何も知らないうちから」
「うん」

ページをめくった。

 二〇二三年五月二十日
 市立図書館の郷土資料コーナーで、祖父の船について調べてみた。記録は断片的にしか残っていない。
 桜崎丸。終戦の翌年の冬。海月町から物資輸送のために徴用された木造の小さな漁船。引き揚げ者を乗せていた。十八名乗船、生存者三名。
 その三名が、藤代勇助、松崎春一、そして七尾善次郎――俺の祖父。
 偶然と片付けられない気がした。

ページをまためくった。日付と調べた内容が、几帳面に書かれていた。透の字は丁寧で小さかった。そのとき、下の階で音がした。

ぎし、と床が軋む音。俺は顔を上げた。迅も顔を上げていた。二人でしばらく息を止めて聞いた。

再び音がした。同じ場所だった。床が誰かの体重を受けて軋むような音。

「悠、いま、聞こえたよな」
「聞こえた」
「家、入った時、鍵閉めたよな」
「閉めた」

迅は立ち上がって、ドアの前で耳を澄ませた。俺は机の前に座ったままだった。立ち上がる気がしなかった。ぎし、ぎし、と。

下の階で誰かが歩いていた。廊下を玄関から居間へ、居間から階段の下へ。足音は階段の下で止まった。俺と迅は顔を見合わせた。

足音は階段を一段上ってきた。ぎし。二段目。ぎし。

三段目。迅は俺のところに戻ってきて、座る前に俺の頭の上に片手を置いた。置いて、髪を軽く撫でた。

「大丈夫」
「うん」
「俺がいる」

足音は四段目で止まった。しばらく止まったまま動かなかった。それから、ゆっくり階段を降りていった。ぎし。

ぎし。ぎし。居間の床を歩いた。玄関に向かった。

玄関のドアは開かなかった。ドアの前で足音は止まった。止まってから、足音は消えた。俺たちはしばらく動けなかった。

「悠、いま、いたの、誰だろうな」
「わからない」
「ノート、最後まで読もう」
「うん」

俺たちは透のノートを最後まで読んだ。ノートのほとんどのページは、透が郷土資料を調べた内容だった。三人の祖父たちが、同じ船の生存者だったこと。

三人とも戦後、ほとんど顔を合わせなかったこと。三人とも似た病で死んだこと。そして、最後のほうのページにこう書かれていた。

 二〇二四年七月十六日
 調べがある程度、見えてきた。
 俺と悠と迅の家系は、十数代遡ると同じ祖先に行き当たる。江戸時代の終わり、この町にいた漁師の一族の子孫だ。
 その一族は明治以降、いくつかの家に分かれた。松崎、藤代、七尾、その他。三人の祖父たちは、それぞれの家で生まれて、それぞれの形で戦争に行き、戦後、同じ船に乗り合わせた。
 偶然ではないかもしれない。
 最近、変な夢を見る。
 水の中に沈んでいく夢。
 俺の手は誰かを振りほどいている。
 その誰かは、小さな子供の手をしている。
 覚醒すると、自分の手がしばらく自分の手じゃない感じがする。
 多分、悠と迅の中にも、それぞれの祖父がいる。

俺はノートを閉じた。最後のページの先に、もう一枚だけ書き込みがあった。

 二〇二四年七月二十二日

その日付は、透が屋上から落ちた日だった。

 今日、悠と迅に話す。
 屋上で話す。
 話したら、何かが変わる。
 でも、話さないと、もっと変なことになる。
 俺はもう、夢の中で自分が誰なのか、わからない時間が長くなっている。
 覚醒しても、自分の手が自分の手じゃない気がする時間が増えている。
 悠と迅まで、こうしたくない。
 遺書も書いた。
 話すことがうまくいかなかった場合のために、書いた。
 話せたら、遺書は破る。

俺はノートを閉じた。部屋の中はしんとしていた。海から差してくる光が、ノートの黒い表紙を照らしていた。

「透は、あの日、俺たちにこれを話そうとしてた」
「うん」
「そして、話す前から、もう決めてた。話してうまくいかなかったら、自分がいなくなることを決めてた」
「うん」

迅はノートを両手で持ち上げた。

「これ、持って帰ろう」
「うん」

引き出しを開けた。中に消しゴムとシャープペンと、それから誰かの写真があった。白黒の写真だった。軍服――ではなく、漁師の作業着を着た若い男が三人並んでいた。

「桜崎丸」と書かれた漁船の前で写っていた。真ん中の男は目元が迅に似ていた。右の男は口元が俺に似ていた。左の男は顔の輪郭が透に似ていた。写真の裏に、薄く文字が書かれていた。

 松崎春一 藤代勇助 七尾善次郎
 昭和二十一年一月 出航前

俺の祖父。迅の祖父。透の祖父。俺たちの祖父たちが若い頃、同じ船に乗る前に撮った写真だった。

「悠」

迅が言った。写真を俺の手から取り戻して、自分の鞄に入れた。

「俺たち、この三人に似てるな」
「似てる」
「八十年前の顔が、今、俺たちの顔として生きてる」
「うん」

家を出るとき、玄関で迅が振り返った。

「もう、来ないか」
「来ないと思う」

迅は頷いた。俺たちは玄関の鍵を閉めた。鍵はまた固かった。何度か回して、ようやく閉まった。

外に出ると、もう昼が近かった。商店街は土曜日の昼前で少し人がいた。古い雑貨屋のおじいさんがまた店の前で猫に餌をやっていた。白と茶色のぶち猫。

俺は猫を見た。猫は俺を見上げた。俺はその目から目を逸らせなかった。

猫の目が、人間の目に見えた。ほんの一瞬。俺が逸らした次の瞬間には、猫はもう普通の猫の目だった。

「迅、いま、あの猫」
「人の目してたな」

迅も気づいていた。

「もう、こういうの、たくさんあるな、これから」
「あるな」

俺たちは自転車にまたがって、商店街を抜けた。