海から、お迎えにあがりました


朔本さんは俺を所長室に通した。外は雨が降りはじめていた。窓の曇りガラスの向こうに、雨の音だけが聞こえた。

机の上に、ティーポットとティーカップが二客、用意してあった。湯気が立っていた。部屋の隅では、いつものように、低い音量でチェロが鳴っていた。

「今日は、アッサムです」

朔本さんは紅茶を注いだ。

「ダージリンより、少し力強い味です。雨の日に、合います」

俺は受け取って、口元に運んだ。うまかった。雨の匂いと、紅茶の匂いと、それから、部屋の中の何か他のものの匂いが、混ざっていた。何か他のもの。湿った、土の匂い。

「松崎くん」

朔本さんは、両手を組んで俺をまっすぐ見た。

「今日、私があなたを呼んだのは、あなたに、ある質問を、お伺いするためです」
「はい」
「あなたは、最近、ご自分の体の輪郭が、ときどき、ぼやけたように、お感じになることはありませんか」

俺は答えなかった。朔本さんは紅茶を一口、飲んだ。

「鏡を見たときに、自分の顔の中に、ご自分のものでない要素が、わずかに、混じることは」
「……」
「夜、目を閉じたときに、ご自分のものでない、海の景色が、現れることは」

俺は答えなかった。朔本さんは目を細めた。優しい笑い方だった。

「ええ、ええ。お答えにならなくて、結構です。お答えにならない、その沈黙が、私への、お答えです」

朔本さんはカップを置いた。

「松崎くん。私は、あなたに、お伝えしておきたい。あなたは、現在、非常に、貴重な、変化の只中に、おられます」
「貴重な、変化」
「ええ。あなたの体は、いま、松崎悠であり、同時に、松崎春一でも、藤代勇助でも、七尾善次郎でも、ありつつあります」
「先生、それは、いいことなんですか」

朔本さんは、わずかに首を傾げた。

「いい、悪い、で、お話ししたい話では、ありません。これは、現象です。現象を、いいとも、悪いとも、評価することは、私の任ではない」

朔本さんは紅茶のカップを両手で包んだ。

「ただ、私は、その現象に、最大限の敬意を、払っております」

そのとき、部屋の電気がふと揺らいだ。蛍光灯が、一瞬、点滅した。俺は天井を見上げた。蛍光灯の周りに、薄い水のような揺らぎが、見えた。朔本さんも見上げた。

「ええ、ええ」

朔本さんはにっこり笑った。

「来ましたね」
「来た、って、何が」
「松崎くんの中の、他の方々が」

蛍光灯の揺らぎが止まらなかった。揺らぎは徐々に強くなった。そのとき、部屋の角の観葉植物の鉢の、土の表面が湿ってきた。植物の根元から、水が滲み出ていた。

「先生」
「ええ。私の研究所では、よくあることです」

朔本さんはティーカップを机に置き直した。水は徐々に観葉植物の鉢から溢れ出し、机の脚に流れた。塩の匂いがした。机の下の絨毯が、徐々に湿っていった。

「先生、これ、止めないんですか」
「止める方法を、私は、存じません」

朔本さんは椅子の上で、優雅に足を組み替えた。

「ご自分の中の何かが、外に、出ようとしているのです。私の力では、止められない」

俺は足元の絨毯を見た。絨毯の上に水が広がっていて、その中にふと、小さな白いものが見えた。子供の手のひらだった。絨毯の下から、子供の手のひらが押し上げてきていた。

俺は椅子から後ずさった。朔本さんは動かなかった。机の向こうから俺を見ていた。楽しそうに見ていた。

「松崎くん。私は、こういう瞬間のために、生きています」

朔本さんはにっこり笑った。

「私は、こういう瞬間を、十数回、目撃して、参りました。けれど、毎回、毎回、初めて目にしたかのように、心が、震えます」
「先生、あんた、これを、好きなのか」
「ええ、ええ。心から、愛しております」

朔本さんはティーカップを再び持ち上げて、紅茶を一口飲んだ。

「人は、自分が、本当に、愛するものを、見つけられずに、一生を、終えることが、多い。私は、幸運な、人間です。私は、自分が、愛するものを、若いうちに、見つけた」

絨毯の上の子供の手のひらは、もう形をなくしていた。水は止まっていた。蛍光灯の揺らぎも、収まっていた。俺は息を整えた。

「先生」
「ええ」
「俺と、迅を、生かしてくれませんか」

朔本さんは、わずかに目を見開いた。それから、ゆっくり笑った。声を出さない、深い笑い方だった。

「松崎くん。それは、私が、答える、問いでは、ありません」

朔本さんは立ち上がって、机の向こうから俺の方に歩いてきた。俺は固まった。朔本さんは、俺の前で足を止めて、俺を見下ろした。近くで見ると、朔本さんの目の中には何もなかった。底のない井戸を覗き込むような目だった。

「松崎くん」

朔本さんは、優しい声で言った。

「あなたが、生きるか、死ぬかは、あなたが、決めるのです」
「俺が」
「ええ。私の予測は、ただの、予測です。あなたが、私の予測の通りに、ならない、選択を、取ることは、いつでも、可能です」
「先生は、それを、許してくれるんですか」
「許す、許さないの、話では、ありません。私には、あなたを、止める、力は、ありません」

朔本さんは、わずかに頭を傾けた。

「ただし、私には、あなたを、観察する、力は、あります」

朔本さんの手が、俺の肩にふと置かれた。軽い置き方だった。しかし置かれた瞬間、俺の中で何かがふと引っ張られた。

朔本さんの手から、何かが、俺の中に入ってきた。それは、八神博士、と自己紹介した。俺の中の奥のほうで、声がした。

「ようこそ。松崎くん」

俺は肩を引いた。朔本さんの手が離れた。朔本さんはふとにっこり笑った。

「ええ、ええ。今、聞こえましたね」
「先生」
「あなたの中に、八神博士も、入りました。私の、師です」
「あんた、八神を、自分の中に、飼っていたのか」
「飼う、という言葉は、適切ではありません。先生は、私の中に、お住まいに、なっておられる」

朔本さんは自分の胸をぽんと叩いた。

「私は、先生を、お送りする、舟、です」

朔本さんはにっこり笑った。

「ええ、ええ。私も、生身の人間として、長くは、生きられない。私は、まもなく、私の体を、誰かに、譲ります」
「先生は、自分を、誰かに、譲るのか」
「ええ。譲ります。継承の、研究者として、自分自身に、その方法を、試さない、わけには、参りません」

朔本さんは紅茶をもう一口飲んだ。

「先生、祖父から孫に、っていうのは、血縁の話だろう。あんたと八神は、血縁じゃない」

朔本さんはにっこり笑った。

「ええ、ええ。鋭い、ご指摘です」

朔本さんはカップを置いた。

「血縁での継承――これは八神先生のお仕事の前半でした。後半、先生は、別の問いに、移られました。**血縁を介さずとも、人は人を、継げるか**」
「継げるのか」
「ええ。条件は二つ。一つ、極めて長期にわたる、脳波の同期。一つ、対象に対する、深い、献身的な、観察。八神先生は、これを『**自発的継承**』と呼ばれておりました。血の継承の、人工版です」
「あんたは、それを」
「ええ。私は二十六年、八神先生のおそばに、おりました。先生は晩年、ご自身を被験者として、私との同期を、深めていかれました。先生がお亡くなりになる、最後の三ヶ月。私は先生の病室で、毎晩、先生と並んで眠りました。先生の脳波と、私の脳波の、同期係数は、〇・九を超えました」

朔本さんは自分の胸を軽く撫でた。

「先生がお亡くなりになった、その瞬間。先生は、私の中に、お引越しになりました」
「引越し」
「ええ。比喩ではありません。物理現象です。お祖父様の海の記憶が、お二人の体に滲み出てくるのと、原理は、同じです。長く、深く、同期した二つの脳の間では、片方が肉体を失っても、もう片方の中に、その人の記憶のパターンが、定着します」

朔本さんはもう一口、紅茶を飲んだ。

「先生は、いま、私の中で、私と一緒に、紅茶を、飲んでおられます」
「……」
「私はね、悠くん。八神先生の、二十六年の研究の、最後の被験者であり、最初の成功例なのです」

朔本さんはにっこり笑った。

「ですから、私が次に、誰かに譲るのも、研究の、自然な続きです。**血を介さない継承**――その第二例を、私自身で、実演しなければ、なりません」
「あんた、本当に、人間か」

朔本さんはふと声を出して、笑った。これまで聞いたことのない笑い方だった。楽しそうな、心からの、笑い方だった。

「松崎くん。あなたは、何度も、同じ問いを、口にしますね」

朔本さんは目を細めた。

「それは、あなたが、その問いに、答えを、欲しているからです」
「答えを」
「ええ。あなたは、私が『人間ではない』と、答えてほしいのです。そうすれば、あなたは、私に対して、罪悪感なく、対抗できる」
「……」
「けれど、私は、人間です。残念ながら、人間です。人間として、生まれ、人間として、育ち、人間として、これを、選んだ」

朔本さんは紅茶のカップを置いた。

「人間が、これを、できるのです。松崎くん。これは、最も、大切な、ことです」

朔本さんは椅子に座り直した。

「私の中の、人間性が、これを、選んだ。私は、自分が、選んだのです。誰にも、強制されず」

俺は立ち上がった。足が震えていた。

「俺、帰ります」
「ええ、ええ。お引き止めしません」

朔本さんは、わずかに頭を下げた。

「松崎くん」

俺がドアの前に立った瞬間、朔本さんが言った。

「藤代くんを、大切に、なさってください」
「先生に、言われなくても」
「ええ、ええ。あなた方の、関係を、私は、心から、楽しみに、観察、しております」

朔本さんはにっこり笑った。俺はドアを開けて、廊下に出た。廊下の床に、水溜まりが続いていた。

水溜まりは、所長室の前から、廊下の奥のドアに向かって、続いていた。俺はその水溜まりを踏まないように、玄関に向かった。途中で、迅と、八木さんに会った。

「悠」

迅が駆け寄った。

「大丈夫か」
「大丈夫」
「青いぞ、お前」
「大丈夫」
「帰ろう」

迅は俺の腕を取った。腕を取られた瞬間、俺の中の八神博士の声が、引いていった。引いていって薄くなった。迅の手の温度が、俺の中の他のものを押し戻していた。俺は迅の腕の中で息を整えた。

「迅、先生、人間だって、自分で、言った。人間が、これを、できるって」

迅はしばらく黙った。それから低い声で言った。

「だから、最悪なんだ、あの人」
「うん」
「人間が、選んでる」
「うん」