海から、お迎えにあがりました


施設を出た。外はもう夕方だった。迅と二人で自転車を押しながら、海沿いの道を歩いた。

「悠、あの先生、ヤバいな」
「ヤバい」
「ヤバいんだけど、嫌いになれない。紅茶もうまいし」
「紅茶はうまい」
「俺たちのこと、心底、楽しそうに見てるのが、なんか」

迅は途中で言葉を切った。

「なんか、芝居の役者を、客席から見てる人みたいだ」
「俺たちが、役者?」
「で、向こうが、観客」

俺は迅の言葉を口の中で繰り返した。役者と観客。たしかにそうだった。朔本さんは俺たちを助けると言いながら、俺たちが苦しむ姿を楽しんでいた。


家に帰って夕飯を食べて、風呂に入って、自分の部屋に戻った。机の前に座ってから洗面所に行って、鏡を見た。鏡の中に俺がいた。俺の、はずだった。

自分の顔をゆっくり確認した。色の薄い肌。長めの睫毛。線の細い顎。母さんに昔「悠は静かな顔をしてる」と言われた、自分の顔。目、鼻、口、輪郭、全部、自分のもののはずだった。

確認しながら、ふと思った。これが本当に自分の顔か。確認しなければ自分の顔だとわからないこと自体が、おかしいのではないか。俺は鏡の中の自分を少し見た。見ていると、輪郭が揺らいだ気がした。

目の位置が少しずれた気がした。口の端の上がり方が、迅のそれに似てきた気がした。鏡の中の俺が、ゆっくり迅の顔になりかけた。俺は目を閉じた。

閉じた目の裏で、二本の波形が流れていた。二本のはずなのに一本に見える波形。目を開けると、鏡の中にはまた、俺の顔があった。俺の顔。

ただ、髪の毛の先から水滴が一つ、頬に落ちていた。風呂から上がって、髪は乾いていたはずだった。俺はその水滴を、指で拭った。拭った、その瞬間、鏡の中の俺の手が、わずかに遅れて動いた。

半呼吸ぶん。俺はもう一度、指を頬に当てた。鏡の中の俺は、また、わずかに遅れて、指を当てた。俺はまばたきをした。

鏡の中の俺は、半呼吸ぶん、遅れて、まばたきをした。俺はしばらく鏡を見ていた。鏡の中の俺は、しばらく、半呼吸ぶん、遅れて、俺を見ていた。