朔本さんが控え室に入ってきた。手に薄いファイルを持っていた。
「お疲れさまでした、お二人とも」
「先生」
迅が即答した。
「俺たちの天井から、水が落ちてきましたよ」
朔本さんはわずかに微笑んだ。
「ええ。私も観察室で見ておりました。とても興味深い現象でした」
「現象?」
「ええ。事象、と呼んでも、構いません。継承された記憶の表面化、あるいは、より物質的な何か」
朔本さんはファイルを開いて、波形のグラフを見せた。
「ご覧の通り、お二人の脳波の同期は、これまででいちばん強かった。同期が極まると、お二人の体の周囲で、何かが起きるようです」
「水が、降る?」
「水が、降る。海藻が、髪に絡まる。塩の味が、口の中に残る。次は何でしょうね」
朔本さんはそう言ってにっこり笑った。楽しそうな笑い方だった。
「先生」
俺は声を絞り出した。
「なぜ、こんなことが、起きるんですか」
朔本さんは紅茶のカップを両手で包んだ。
「悠くん。『なぜ』は、私の、苦手な問いです。けれども、八神先生のお考えを、一つだけ、お伝えしておきましょう」
朔本さんは紅茶を一口含んだ。
「祖父から孫の体に継がれているのは、知識でも、性格でもなく、海そのものの記憶である――それが、先生のお仮説でした。海の中に投げ出された瞬間の、肺に水が入る感触、髪に絡む海藻、口の中の塩の味、目の前に見えていた女性と子供の顔。それらの記憶が、八十年、ご祖父様の細胞の中で、待っていた」
「待つ?」
「ええ、ええ。発現の機会を、です」
朔本さんは指の先で、ゆっくり、波の形を、机の上に描いた。
「お孫様であるお二人の脳波が、ある閾値を超えた瞬間、その記憶は、お二人の体の中で、再生を、はじめます。八神先生は、これを『記憶物質化』と、仮称されておりました」
「記憶が、物質に、なる」
「ええ。映像や、文字としてではなく、塩の結晶、海藻の繊維、海水に近い体液として、お二人の体から、滲み出している。海の記憶が、お二人の体を通って、漏れ出ているのです」
朔本さんはカップを置いた。
「八神先生のお言葉では、こうです」
「ええ」
「血を流す代わりに、海を、流す」
朔本さんは、ふと目を伏せた。
「お祖父様が、八十年前、海から持ち帰ってこられた、ほんのわずかな一部が、いま、お二人の体を通って、外に、出ようとしているのです」
「先生、これ、止められないんですか」
迅が聞いた。
「止めたいのですか?」
朔本さんは少し首を傾げた。
「止めることは、もちろん可能です。けれど、止めてしまうと、私たちは『何が起きているか』を見届けることができません。あなた方も、ご自身の祖父たちが船で経験したことを、知ることができない」
「……」
「藤代くん、おそらく、選択は、あなた方ご自身に委ねるべき問題でしょう」
朔本さんは紅茶の入った携帯用のサーモを取り出した。控え室にもティーカップが用意してあった。注ぐと湯気が立ち、部屋に紅茶の香りが満ちた。
「いかがですか」
「いただきます」
俺と迅は受け取った。紅茶はやはりうまかった。
「お二人とも、紅茶を飲む顔がよく似ていらっしゃいますね」
朔本さんはくすりと笑った。
「ええ、ええ。私はそういう小さなことを、観察するのが好きなのです」

