海から、お迎えにあがりました


所長室は廊下と同じくらい白かった。部屋の中央に大きな机があり、その向こうに朔本さんが座っていた。学校で会ったときと同じ濃紺の三つ揃いのスーツに、白いシャツ、鉄縁の眼鏡。手元のファイルから顔を上げて、にっこり笑った。

「ようこそ。松崎くん、藤代くん」

立ち上がって、机を回り込んできた。

「我が研究所へ、よくお越しくださいました」

朔本さんはそれぞれの椅子を手で示した。芝居がかった優雅な動作だった。

「どうぞ、お掛けください。紅茶、いかがですか。今日はダージリンを淹れております」

机の上には白い陶器のティーポットとティーカップが三客、並んでいて、最初から俺たちのぶんも用意してあった。湯気が立っていた。

「いただきます」

迅が即答した。

「お前、紅茶飲むのか」
「飲む。今日から飲む」

朔本さんがくすりと笑った。

「藤代くんは、適応が早い」

朔本さんは丁寧に三客のカップに紅茶を注いだ。湯気の角度まで計算しているような所作だった。迅は一口飲んで「うまい」と言った。

俺も飲んだ。たしかにうまかった。これまで飲んだ紅茶の中で、いちばんうまかった。

「お気に召して何よりです。研究所の運営費はほとんど人件費と機材費に消えるのですが、紅茶代だけは別枠で確保しています」

朔本さんは椅子に座り直して、両手を組んだ。

「私は、研究の現場には、優雅さが必要だと考えております。優雅さがないと、人は粗野になり、粗野な人間は粗野なデータしか取れない」

朔本さんはそう言って、もう一度にっこり笑った。笑い方は柔らかいのに、笑いに辿り着くまでの目の動きが、どこか人間のものでない気がした。

「さて」

朔本さんは机の上のファイルを二冊、並べて開いた。背表紙にそれぞれ「松崎悠」と「藤代迅」と書かれていた。

「今日は、まず私の研究について、少しお話しします。退屈かもしれませんが、お付き合いください。エピジェネティクスという言葉を、お聞きになったことがありますか」
「ないです」

迅が答えた。

「結構です。学校では教わりませんから。生物の授業でDNAという言葉は聞いたことがあるでしょう。私たちの体の設計図がDNAに書かれているという話。これは半分、本当です」
「半分」
「ええ。設計図はあります。けれど、設計図のどの部分を読み、どの部分を読まないか、それを決める仕組みが別にある。その仕組みのことを、エピジェネティクスと呼びます」

朔本さんは紅茶を一口、含んだ。

「ここからが、本題です」

カップを置く音が、磁器同士の乾いた小さな音だった。

「『どの部分を読むか』という、その仕組みの一部が、親から子へ、子から孫へ、受け継がれることがある」
「……」
「たとえば、戦争で苛酷な経験をした人の孫が、その経験をしていないのに、似たような不安や悪夢を持つことがある。あるいは、飢饉を経験した世代の孫の代に、特有の代謝異常が出ることがある」

朔本さんは机の引き出しを開けて、薄い冊子を取り出した。

「これは私の論文です。今年の春にある国際学会で発表しました。日本語訳もつけてあります。後でゆっくり、お読みください」

冊子を机の上に置いて、俺たちのほうへ滑らせた。

「結論だけ、申し上げます。八十年前、海月町出身の三人の若い男たちが、ある『出来事』を共に経験しました。その経験は、彼らの体に深く刻まれた。刻まれただけでなく、彼らの孫の世代――三人の十七歳前後の少年たちに、エピジェネティックに継承された」

俺は朔本さんを見た。

「三人とも、互いに血のつながりはありません。少なくとも、近い世代では。ただし、十数代を遡ると、共通の先祖に行き当たります。海月町の、ある古い漁師の一族の子孫です」

朔本さんは冊子を開いて、ある一頁を指差した。俺は身を乗り出した。そのページに、三つの名前が並んでいた。

 七尾善次郎
 藤代勇助
 松崎春一

俺の祖父の名前があった。迅の祖父も。そして、透の祖父も。俺は朔本さんを見た。朔本さんは俺の目を見て、にっこり笑った。

「ええ、ええ。お察しの通りです」

朔本さんは紅茶のカップを口元に運んだ。

「あなた方三人――松崎悠くん、藤代迅くん、七尾透くん――は、その『継承』を受けた孫世代の三人組です」
「先生」

俺は声を絞り出した。

「祖父たちは、戦争で、何かをしたんですか」

朔本さんは紅茶を一口、ゆっくり飲み下した。

「したというより、しなかったのかもしれません」
「しなかった?」
「彼らは、生き残ったのです」

朔本さんはカップを置いて、両手を組んだ。

「一九四六年、終戦の翌年の冬のことです。当時、海月町から物資輸送のために徴用された小さな漁船――『桜崎丸』が、引き揚げ者と物資を乗せて港を出ました。引き揚げ者の中には、戦争で家族を失った女性や子供たちもいました。船員と乗客、合わせて十八名」

朔本さんは机の上に古い写真を一枚出した。木造の漁船の写真だった。

「悪天候により、桜崎丸は座礁し、沈みました。生き残ったのは、若い船員三人だけでした」

朔本さんは指で写真の中の三人を指した。

「七尾善次郎、二十二歳。藤代勇助、二十一歳。松崎春一、二十三歳」

写真の中の三人は若く、痩せていて、同じ船の甲板に立っていた。俺は彼らの顔をしばらく見た。真ん中の男は目元が迅に似ていた。右の男は口元が俺に似ていた。左の男は顔の輪郭が透に似ていた。

「先生、祖父さんたちは、何をしたんですか」
「何をした、ではなく、何をしなかったか、を申し上げました」

朔本さんは静かに繰り返した。

「彼らは、船から落ちた他の十五名を、助けませんでした。助けなかった、というより、助けられなかった。海は荒れていました。流木につかまるのが精一杯で、流木は三人ぶんの浮力しかなかった」

朔本さんは机の上で両手を組み直した。

「他に流木につかまろうとした人々を、彼らは振りほどきました。女性も、子供も。彼らが振りほどかなければ、流木は沈み、四人とも死んでいたでしょう」
「……」
「だから、彼らの選択を、責めることはできません」

朔本さんはそう言って、もう一度にっこり笑った。

「責められはしないのです。けれど、責められないことと、そのまま生きていけることは、別の話」

朔本さんは椅子の背にもたれた。

「彼らは戦後、それぞれの形で、その記憶を抱えて生きました。三人とも同じ町に戻り、三人とも、互いに顔をほとんど合わせず、三人とも、似たような時期に、似たような病で亡くなった」
「……」
「そして、孫の世代――あなた方が、同じ町で、同じ年に生まれ、同じ友達のグループになった」

朔本さんは俺の目を見た。

「これは、偶然でしょうか」

俺は答えなかった。

「私は、偶然ではない、と仮説しています。彼らの体に刻まれた『海の記憶』は、孫世代の体にも刻まれている。十七歳前後で、それが表面化する。夢、解離、視覚的な異常、そして、最悪の場合、自己破壊的な行動として」

朔本さんは机の上のファイルを撫でた。

「七尾透くんに、何が起きていたかは、もう確かめようがありません。けれど、私は急ぎました。あなた方二人にも、同じことが起こりうる、と考えたからです」
「先生、これは、本当に科学なんですか」

俺は声を絞り出した。朔本さんはしばらく無言だった。それからわずかに笑った。これまでの業務的な笑みとは違う、少し、面白がっている笑いだった。

「正直に申し上げれば、いいえ」

朔本さんは答えた。

「これは、もはや科学では、ありません。論文として体裁は整えていますが、サンプル数は決定的に不足しています。査読は通りませんでした。私が所属していた大学からは、私は追放されています」
「じゃあ、何なんですか」
「信仰、に近い」

朔本さんは紅茶のカップを持ち上げた。湯気が薄く流れた。

「私は、ある『現象』を、信じてしまったのです。信じてしまった以上、見届けるしかない」

カップを口元に運んだ。

「ですから、悠くん、迅くん。私はあなた方を、研究対象として、お招きしました。けれど、私の動機は半分、それです。残り半分は、あなた方を、海に呑まれないように、引き上げることです」

朔本さんはカップを置き、両手を膝の上に重ねた。

「申し上げにくいのですが、私はね、悠くん、迅くん。お二人を、海から、お迎えに上がりました」

朔本さんはにっこり笑った。

「これは、私の、業務上の、決まり文句のようなものです。深い意味は、ありません」

朔本さんは、深い意味のない目で、俺と迅を、交互に見た。

「失礼を承知で、お話しいたしました」

頭を下げる動作が自然だった。練習したような感じはなかった。俺と迅は、少し黙っていた。

その日のセッションはそれでほぼ終わりだった。簡単な脳波計測を受けて、施設を出た。外に出ると、もう夕方だった。

「悠」

迅が自転車を押しながら言った。

「俺、頭がまだ整理できてない」
「俺もだ」
「祖父さんたちが船で生き残るために、誰かを振りほどいたっていうのが。それを、俺たちが継いでるっていうのが。そして、それが透のことに関係してたかもしれない、っていうのが」

俺は黙って頷いた。俺たちは何も話さずに自転車を押して、住宅街を抜け、国道に出た。海が夕日に染まっていた。

夕日の中で、迅の横顔がオレンジ色だった。俺はその横顔をしばらく見た。迅がふとこちらを向いた。

「なんだよ」
「いや」
「見るな」
「うん」

迅は笑った。笑った迅の頬に、夕日が深く当たっていた。