朔本さんに「行きます」と返事をしたのは、その週の金曜日だった。決めたきっかけは特になかった。母さんに話したら思ったよりあっさり同意した。
「先生に紹介された施設なら、ちゃんとしたところでしょう」
そう言って母さんは、朔本さんが持たせてくれた薄いパンフレットをめくっていた。表紙には淡い青色で施設の名前が印刷されていた。
「世代継承記憶研究所」
下にローマ字で「Generational Memory Research Institute」と書かれていた。
「研究所、っていう名前だけど、治療もしてくれるんでしょう」
「そう、書いてあるね」
「お父さんに相談してみる」
父さんはその夜は遅かったので、相談は翌日の朝になった。「行きたいなら行ってこい」とだけ言って新聞を読み続けていた。俺の家はそういう家だ。父も母も俺のことに干渉しない。
透が死んでから、その傾向は少し強くなった。何かを言って俺をさらに追い詰めることを、二人とも恐れていた。自分の部屋でパンフレットを開いた。
世代継承記憶研究所について
当研究所は二〇一八年に設立された、エピジェネティクス及び世代間トラウマに関する民間研究機関です。心的外傷的経験が遺伝子発現を介して次世代に継承される可能性について、長年にわたる基礎研究を行ってまいりました。
近年、研究の応用として当研究所が独自に開発した「世代継承的トラウマ・カウンセリング」(GTC)プログラムを限定的な対象に試験的に提供しています。
従来のカウンセリングでは扱いきれなかった、被験者自身が経験していないにもかかわらず継承されている心的負荷について、科学的に取り組むことを目的としています。
所長 朔本 慎一郎(医学博士)
所在地 ○○県○○市海月町三丁目十二
※当プログラムは健康保険適用外の試験的研究です。被験者の負担金は研究助成により無料となります。
俺は何度か読み返した。書かれている内容はわかった。何かが家系から伝わって、それが自分に影響している。それを科学的に調べる。
要するにそういうことらしい。ただ、わからないのは、なぜその施設が俺と迅に声をかけたのかだった。俺と迅の家系に何があるというのだろう。少なくとも俺の家には特別なことはない。
父さんは普通の会社員で、母さんはパートで、祖父も祖母ももう亡くなっている。祖父のことはほとんど覚えていない。俺が小さいころに死んだ。記憶の中にあるのは、写真の中の痩せた老人の顔だけだ。
迅の家のこともよく知らない。迅も自分の家のことをあまり話さなかった。透の家系のことも、知らない。
知らないことばかりだ、と思った。三人で十年近く一緒にいたのに、お互いの家族のことを俺たちはほとんど知らなかった。朔本さんに承諾の連絡をしたあと、俺は迅にメッセージを送った。
「俺も行くって言った」
「俺もさっき言った」
「いつから」
「来週の月曜かららしい」
「了解」
それで終わりだった。

