一九九八年九月二十日。海月町の小さな漁港の上に、秋の高い雲が流れていた。秋分の前日で、海風はもう冷たくなりはじめていた。漁港の南側に建つ白い二階建ての建物の屋上に、一人の少年が立っていた。
十七歳。詰襟の制服の半袖シャツが、海から吹いてくる風に揺れている。足元のコンクリートには、四つ折りの白い紙が、握り拳ほどの石で押さえられていた。風に煽られて紙の端がめくれ、また戻る。
めくれ、また戻る。少年の名前は書かない。書く必要がないからだ。彼の名を知る者は、もうこの世にほとんどいない。
当時の警察記録、母親の墓石の裏に刻まれた文字、そして屋上から見える海の、いちばん深い水の底に。それだけだ。少年はフェンスを越えていた。フェンスの向こう、屋上の縁の細いコンクリートの上に立っている。下まで四階分。
「ここまで、よく来てくれたね」
低い声が風にさらわれた。
「ありがとう」
少年はもう一度海の方を見て、ゆっくり息を吐いた。吐き終える前に、口の中で小さく呟いた。
「祖父さん。いま、お迎えに、上がります」
屋上に少年以外の姿はなかった。少なくとも、目に見える形では。少年は深く息を吸って、もう一度ゆっくり吐いた。吐き終わる前に踏み出した。
落ちるというより、空気の中へ歩き出したように見えた。体は回転しながら落ちていった。途中で、ポケットから一枚の写真がこぼれた。写真は風につかまえられて屋上のほうに舞い戻り、白い紙のすぐ隣にふわりと着地した。
写真には三人の少年が写っていた。中学の卒業式の朝に撮ったらしい。同じ制服、同じ角度の笑い方。三人ともよく似ている。
その写真の右下の隅――桜の枝の葉と葉の隙間に、白いぼんやりとした影が一つ写り込んでいた。額の位置に目のような薄い二つの点があった。その点は、写真の中からずっとこちらを見ていた。
その日の夕方、海月町のある建物の地下――白いタイルの保管室で、四十代の男が薄いファイルを開いていた。濃紺の三つ揃いのスーツに、鉄縁の眼鏡。手には銀色の万年筆を握り、青いインクで一行だけ書き加えた。
完了日 一九九八年九月二十日
万年筆のキャップを丁寧に閉め、ファイルを閉じる。引き出しに戻すと、すでに同じ表紙のファイルが二冊、並んでいた。同じ日の午前中に「完了」した、別の二人の少年たちのものだった。男は引き出しを閉めて、棚の上の白い陶器のティーカップを手に取った。
紅茶はまだ温かい。一口含んで、ゆっくり飲み下す。それから独り言のように呟いた。
「次の、お三方を、お迎えに、上がらないとね」
「ええ、ええ」
部屋には誰もいなかった。男の独り言を聞いている者はいなかった。少なくとも、目に見える形では。部屋の隅では、低い音量でバッハの無伴奏チェロ組曲・プレリュードが流れていた。
それから二十六年が経った。

