三途の川のせせらぎの音がサラサラと聞こえてくる。
岩で封じられた坂の下、永遠の夜の国。冥府。
その川辺に腰掛け、夜見之宮…否、月讀命は歌を聞いていた。
唄子が現世で歌う歌。今日の歌声も軽やかで、踊るようだ。
その楽しさに誘われるように、死者の魂が1つ、また1つと現世へ降りていく。彼女の歌を1番の観客席で聴きたいと言って、我先にと。
水面の向こうで、安倍晴明の子孫がその霊たちを祓っているのが見えた。唄子は守られ、笑っている。同じ時代を生きる人間と共に。
「……」
月讀命の尊は、白く細い手を胸の前で握りしめる。なぜ胸が痛いのか、かの神は分からなかった。
「我が主」
そこへやってきた長身の男――小野篁――が声をかけてきた。
「閻魔庁にて、大王様がお呼びですよ。なんでも聴きたいことがあるそうで。」
「……そうか……」
音もなく、月讀命は立ち上がる。後ろ髪を引かれるまま、彼は篁と共に冥府の奥へと姿を消した。
◇
異能部隊の執務室での講義初日。席についた唄子と照昌の目の前に置かれているのは、今とは異なる日本語の並び。
「うへぇ〜!古文なんて大学ぶりなんやけどぉ!」
「すごい…」
顔をしかめる照昌と、目が点の唄子。彼女には辛うじてこの国の言葉だと分かるだけの本のページを、瑞樹は何のためらいもなくめくっていく。
「そもそも小野篁とは、平安時代初期に活躍した官僚です。」
ぱら、ぱら…と紙が動く音を伴奏に、彼の声が歴史を奏でる。
「今昔物語と篁物語が、1番分かりやすい彼の逸話と物語であり、死霊使いの資料になりそうなものですから。…あった、今昔物語はここです。」
彼が指さしたページ。そこに書かれていたのは、死んだ同僚を冥府の役人である篁が閻魔大王にお願いして生き返らせたというもの。
さらに瑞樹の解説は続く。「篁物語」は創作とされている。しかしそこには、恋人であり異母妹でもある女性が、亡くなった後も亡霊として篁に会いに来たと描かれていた。
「死霊使いは、叔父上でさえ会ったことがないほど希少な異能。そのため、参考どころが全て平安時代ですが…」
解説を終えた瑞樹が、渋い顔で伝える推察。
「小野さん、貴女と小野篁の共通点といえば、名字、歌、そして冥府との繋がりです。なので、この辺りを元に、貴女の能力制御を模索していきましょう。」
「歌ぁ?」
唄子が頷く前に疑問を呈したのは、照昌だった。
「確かに、神宮寺はんが読んでくれた「篁物語」には和歌もぎょうさんあったけど、こら創作なんやろ?小野ちゃんの歌と、小野篁、どう関連あるん?」
なるほどと思い、唄子もまた瑞樹を伺う。すると、彼はさらに2つの本を広げて見せてくれた。
「小野篁…別名、参議篁は、歌人として有名ですよ。百人一首、そして古今和歌集に歌が残っています。」
「ほんまや…!」
「また、和歌だけではなく、漢詩も得意だったそうです。遣唐使派遣を痛烈に批判した歌は、当時の人に衝撃だったとか。」
「はえ〜……!」
感嘆を漏らす照昌の隣で、唄子は先祖の和歌を眺める。そしてつい、彼女はその歌を口ずさんだ。
「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出いでぬと…人にはつげよ あまのつり舟…」
隣に記載されている解説が目に入る。どうやら、罪人として隠岐へ流される際に、都に残す家族を思って詠ったものだそうだ。
先程の異母妹との物語といい、家族愛の深い人物なのかもしれない。唄子がそう思った時、ふと浮かんだとある男性。
夜見之宮と長澤が初めて出会い、喧嘩しそうだったあの夜。突如現れた長身の男性は、唄子のことをなんと呼んだだろうか。
娘…と、確かに彼はそう言っていた。
「あ…私、この人に会ったかもしれません…」
「……え?」
「ほんまか?小野ちゃん!」
呆然とする瑞樹と、身を乗り出す照昌。対照的な彼らに唄子は頷くと、数日前のことを彼らに話し伝えた。
「ちょ…っと待ってください?ツッコミどころが多すぎる。」
彼女の話を聞き終えたとき、瑞樹は本気で頭痛を感じていた。青ざめたまま、彼はくいと眼鏡の中央を指で押し上げる。
「……月讀命と、弘道が喧嘩しそうだった?」
「…はい。」
「喧嘩売ったって、長澤はんも言うとったなぁ。」
瑞樹の確認に頷く唄子。合いの手のように嫌な事実を照昌は反復した。
「それを……弘道より背の高い男が止めた?」
「……はい……。」
「小野篁も、六尺二寸(約188cm)の大男って書きたーるね。」
瑞樹による、唄子の話の復唱が続く。頷く唄子と、資料を手に確認する照昌。
「で……その人物は、恐らく月讀命と思わしき者を我が主と呼び……小野さん、貴女のことを娘と…」
「はい…。あ、あと…!この間、夜見之宮さんも、篁の子孫って、私のこと……。」
「…………」
最後の確認に、唄子は補足まで添えてしまった。
瑞樹からの返事はない。代わりに彼は、大きく椅子の背を軋ませ、天を仰いでしまった。
「神宮寺は〜ん!呼吸してや〜!!」
「もう…本人に会えるなら本人から聞いて下さいよ、能力のこと……」
「匙投げんといて!頑張って、神宮寺はん!」
処理落ち。瑞樹の様子はまさにそんな雰囲気だ。
実家が神社であり、大学でも神道や神話を学んでいた瑞樹。
彼からすれば、化け物級の神や偉人と平然と会話をする唄子と長澤の神経の方が、よっぽど謎めいていた。
◇
その日の夜。月をも隠す曇り空の下。
長澤邸の居間、庭先に集まる天珠と照昌。火鉢の炭を確認する若い2人の後ろでは、瑞樹と長澤までが庭に注目していた。
庭に立つ唄子は、悴む手に息を吹きかける。冷えているのは、何も寒さのせいではない。
「今日は、貴女の歌を聞きに来ました。能力の現状把握なので、好きなように歌ってください」
「は、はい…!」
瑞樹のテノールが穏やかに告げる。そう、今宵は異能部隊全員の前で、唄子のリサイタルなのだ。
「ひゅーひゅー!歌姫ー!小野ちゃーん!」
「訓練の一環だぞ?あんまり茶化すな……」
既に拍手を贈る照昌と、呆れ顔の天珠。
その後ろでソファに座る瑞樹と長澤は、ただ真っ直ぐに唄子を見つめている。
「……よ、よろしくお願いします……!」
人前で歌う緊張。心臓が口から飛び出そうなままお辞儀をすれば、まばらだが温かい拍手が返ってきた。
冬の空気を、腹いっぱいに吸う。そして頭に浮かんだ旋律を、自分自身という楽器を通して音色にした。
とあるカフェーでよく耳にしたジャズ。英語の歌詞はわからないけれど、メロディに香る異国情緒が唄子は好きだ。
ラララと奏でる中、踊るように集まる淡く白い光。
若い男女だろうか。はたまた、働き抜いた男だろうか。輪郭の曖昧な彼らは、唄子の歌を喜ぶように揺れていた。
最後の一節が冬に溶けていく。それにともない、光の粒も雪のように舞い上がる。
ありがとう、と…唄子を包んだ粉雪たちが囁いたような気がした。
そこに巻き起こったのは、熱狂のような拍手喝采。
ハッとした唄子は正面を見る。するとそこには、信じられないほど温かい4人がいた。
「凄い…!!」
短いが実直な感想とともに、大きく手をたたく天珠。
「何々〜!?確かに死霊やったけど!!めちゃ穏やかやったやん!!どないしたん!?凄いわあ、小野ちゃん!!」
両手を挙げて拍手する照昌は、大興奮だ。
「これほどとは…。確かに使いこなせば、死霊の軍を率いるのも夢じゃないかもしれませんね。」
瑞樹の冷静な分析。彼の拍手も鳴りやまない。
その隣。何も言わずゆっくり手を叩く長澤。
だが彼の瞳はこの場の誰よりも熱っぽく、唄子を射抜く。
「ッ……!!ありがとう…ございます……!」
胸がいっぱいで、声が出ない。なんとか絞り出した感謝は、熱い涙のオマケだった。
家の中に迎え入れられる。中へ入る前に、唄子はチラリと井戸の方を確認してしまった。
さざ波の音も、月明りもない。
初めて生者に受け入れられた歌が夜見之宮に届かないことが、唄子の中の満月にかかる一筋の雲だった。
岩で封じられた坂の下、永遠の夜の国。冥府。
その川辺に腰掛け、夜見之宮…否、月讀命は歌を聞いていた。
唄子が現世で歌う歌。今日の歌声も軽やかで、踊るようだ。
その楽しさに誘われるように、死者の魂が1つ、また1つと現世へ降りていく。彼女の歌を1番の観客席で聴きたいと言って、我先にと。
水面の向こうで、安倍晴明の子孫がその霊たちを祓っているのが見えた。唄子は守られ、笑っている。同じ時代を生きる人間と共に。
「……」
月讀命の尊は、白く細い手を胸の前で握りしめる。なぜ胸が痛いのか、かの神は分からなかった。
「我が主」
そこへやってきた長身の男――小野篁――が声をかけてきた。
「閻魔庁にて、大王様がお呼びですよ。なんでも聴きたいことがあるそうで。」
「……そうか……」
音もなく、月讀命は立ち上がる。後ろ髪を引かれるまま、彼は篁と共に冥府の奥へと姿を消した。
◇
異能部隊の執務室での講義初日。席についた唄子と照昌の目の前に置かれているのは、今とは異なる日本語の並び。
「うへぇ〜!古文なんて大学ぶりなんやけどぉ!」
「すごい…」
顔をしかめる照昌と、目が点の唄子。彼女には辛うじてこの国の言葉だと分かるだけの本のページを、瑞樹は何のためらいもなくめくっていく。
「そもそも小野篁とは、平安時代初期に活躍した官僚です。」
ぱら、ぱら…と紙が動く音を伴奏に、彼の声が歴史を奏でる。
「今昔物語と篁物語が、1番分かりやすい彼の逸話と物語であり、死霊使いの資料になりそうなものですから。…あった、今昔物語はここです。」
彼が指さしたページ。そこに書かれていたのは、死んだ同僚を冥府の役人である篁が閻魔大王にお願いして生き返らせたというもの。
さらに瑞樹の解説は続く。「篁物語」は創作とされている。しかしそこには、恋人であり異母妹でもある女性が、亡くなった後も亡霊として篁に会いに来たと描かれていた。
「死霊使いは、叔父上でさえ会ったことがないほど希少な異能。そのため、参考どころが全て平安時代ですが…」
解説を終えた瑞樹が、渋い顔で伝える推察。
「小野さん、貴女と小野篁の共通点といえば、名字、歌、そして冥府との繋がりです。なので、この辺りを元に、貴女の能力制御を模索していきましょう。」
「歌ぁ?」
唄子が頷く前に疑問を呈したのは、照昌だった。
「確かに、神宮寺はんが読んでくれた「篁物語」には和歌もぎょうさんあったけど、こら創作なんやろ?小野ちゃんの歌と、小野篁、どう関連あるん?」
なるほどと思い、唄子もまた瑞樹を伺う。すると、彼はさらに2つの本を広げて見せてくれた。
「小野篁…別名、参議篁は、歌人として有名ですよ。百人一首、そして古今和歌集に歌が残っています。」
「ほんまや…!」
「また、和歌だけではなく、漢詩も得意だったそうです。遣唐使派遣を痛烈に批判した歌は、当時の人に衝撃だったとか。」
「はえ〜……!」
感嘆を漏らす照昌の隣で、唄子は先祖の和歌を眺める。そしてつい、彼女はその歌を口ずさんだ。
「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出いでぬと…人にはつげよ あまのつり舟…」
隣に記載されている解説が目に入る。どうやら、罪人として隠岐へ流される際に、都に残す家族を思って詠ったものだそうだ。
先程の異母妹との物語といい、家族愛の深い人物なのかもしれない。唄子がそう思った時、ふと浮かんだとある男性。
夜見之宮と長澤が初めて出会い、喧嘩しそうだったあの夜。突如現れた長身の男性は、唄子のことをなんと呼んだだろうか。
娘…と、確かに彼はそう言っていた。
「あ…私、この人に会ったかもしれません…」
「……え?」
「ほんまか?小野ちゃん!」
呆然とする瑞樹と、身を乗り出す照昌。対照的な彼らに唄子は頷くと、数日前のことを彼らに話し伝えた。
「ちょ…っと待ってください?ツッコミどころが多すぎる。」
彼女の話を聞き終えたとき、瑞樹は本気で頭痛を感じていた。青ざめたまま、彼はくいと眼鏡の中央を指で押し上げる。
「……月讀命と、弘道が喧嘩しそうだった?」
「…はい。」
「喧嘩売ったって、長澤はんも言うとったなぁ。」
瑞樹の確認に頷く唄子。合いの手のように嫌な事実を照昌は反復した。
「それを……弘道より背の高い男が止めた?」
「……はい……。」
「小野篁も、六尺二寸(約188cm)の大男って書きたーるね。」
瑞樹による、唄子の話の復唱が続く。頷く唄子と、資料を手に確認する照昌。
「で……その人物は、恐らく月讀命と思わしき者を我が主と呼び……小野さん、貴女のことを娘と…」
「はい…。あ、あと…!この間、夜見之宮さんも、篁の子孫って、私のこと……。」
「…………」
最後の確認に、唄子は補足まで添えてしまった。
瑞樹からの返事はない。代わりに彼は、大きく椅子の背を軋ませ、天を仰いでしまった。
「神宮寺は〜ん!呼吸してや〜!!」
「もう…本人に会えるなら本人から聞いて下さいよ、能力のこと……」
「匙投げんといて!頑張って、神宮寺はん!」
処理落ち。瑞樹の様子はまさにそんな雰囲気だ。
実家が神社であり、大学でも神道や神話を学んでいた瑞樹。
彼からすれば、化け物級の神や偉人と平然と会話をする唄子と長澤の神経の方が、よっぽど謎めいていた。
◇
その日の夜。月をも隠す曇り空の下。
長澤邸の居間、庭先に集まる天珠と照昌。火鉢の炭を確認する若い2人の後ろでは、瑞樹と長澤までが庭に注目していた。
庭に立つ唄子は、悴む手に息を吹きかける。冷えているのは、何も寒さのせいではない。
「今日は、貴女の歌を聞きに来ました。能力の現状把握なので、好きなように歌ってください」
「は、はい…!」
瑞樹のテノールが穏やかに告げる。そう、今宵は異能部隊全員の前で、唄子のリサイタルなのだ。
「ひゅーひゅー!歌姫ー!小野ちゃーん!」
「訓練の一環だぞ?あんまり茶化すな……」
既に拍手を贈る照昌と、呆れ顔の天珠。
その後ろでソファに座る瑞樹と長澤は、ただ真っ直ぐに唄子を見つめている。
「……よ、よろしくお願いします……!」
人前で歌う緊張。心臓が口から飛び出そうなままお辞儀をすれば、まばらだが温かい拍手が返ってきた。
冬の空気を、腹いっぱいに吸う。そして頭に浮かんだ旋律を、自分自身という楽器を通して音色にした。
とあるカフェーでよく耳にしたジャズ。英語の歌詞はわからないけれど、メロディに香る異国情緒が唄子は好きだ。
ラララと奏でる中、踊るように集まる淡く白い光。
若い男女だろうか。はたまた、働き抜いた男だろうか。輪郭の曖昧な彼らは、唄子の歌を喜ぶように揺れていた。
最後の一節が冬に溶けていく。それにともない、光の粒も雪のように舞い上がる。
ありがとう、と…唄子を包んだ粉雪たちが囁いたような気がした。
そこに巻き起こったのは、熱狂のような拍手喝采。
ハッとした唄子は正面を見る。するとそこには、信じられないほど温かい4人がいた。
「凄い…!!」
短いが実直な感想とともに、大きく手をたたく天珠。
「何々〜!?確かに死霊やったけど!!めちゃ穏やかやったやん!!どないしたん!?凄いわあ、小野ちゃん!!」
両手を挙げて拍手する照昌は、大興奮だ。
「これほどとは…。確かに使いこなせば、死霊の軍を率いるのも夢じゃないかもしれませんね。」
瑞樹の冷静な分析。彼の拍手も鳴りやまない。
その隣。何も言わずゆっくり手を叩く長澤。
だが彼の瞳はこの場の誰よりも熱っぽく、唄子を射抜く。
「ッ……!!ありがとう…ございます……!」
胸がいっぱいで、声が出ない。なんとか絞り出した感謝は、熱い涙のオマケだった。
家の中に迎え入れられる。中へ入る前に、唄子はチラリと井戸の方を確認してしまった。
さざ波の音も、月明りもない。
初めて生者に受け入れられた歌が夜見之宮に届かないことが、唄子の中の満月にかかる一筋の雲だった。


