黄泉の歌姫は月と海の狭間に揺れる

 青空の下に広がる海。そこに浮かぶ軍艦は、まさに鋼鉄の城だ。
 屈強な男性たちが出入りする門。恐る恐る唄子がそこへ近づいていくと、そこで1人の軍人がこちらへ向けて敬礼をした。

 よく見れば、それは天珠だ。制帽を目深に被っているせいで殆ど顔が見えず、唄子は彼だと気付くのに時間がかかってしまった。

「堂児さん…!」

 小走りに駆け寄る。彼女がやっと堂児の元へつくと、彼は敬礼を解いて話し始めた。

「お疲れ様です、小野さん。隊長から伺ってます。第一食堂まで案内するので、ついてきてください。」
「は、はい……!」

 門を入れるようにしておくとは、彼の迎えのことだったのだ。
 天珠は守衛に軽くなにか告げると、なにもおかしな事などないかのように唄子を鎮守府内へ招き入れた。

 当然だが、沢山の白い目が突き刺さる。前日と違い、人の多い場所を通るため余計にそう感じた。
 俯いた彼女は、昨日と同じように必死に天珠の足を追いかける。

「……白い目が怖いなら、背筋を伸ばして跳ね返せ。」
「……え?」

 ふと立ち止まった天珠の声が、唄子の頭上に降り注ぐ。
 油の足りないカラクリのような動きで彼を見上げれば、制帽の影が落ちる暗い顔がこちらを睨んでいるではないか。

「っ、あの、」
「隊長が、俺に下さった言葉です。」
「……え?」

 表情に反して、天珠の声音はどこか柔らかい。そして彼は「失礼」とひと言添えると、唄子の肩と背に手を添えぐっと力強くそれぞれを押す。

「きゃ……!」

 自然と、背筋が伸びる。目の前に広がる海軍庁舎の廊下。行き交う軍人さん達の多くは、こちらに見向きもせずに過ぎ去って行く。
 窓から降り注ぐ光が、ひらけた視界を輝かせた。

「俺も…周囲に怯えて、隊長の靴だけ必死に追いかけてたことがある。」
「そう……なんですか……?」
「あぁ。」

 隣に立つ天珠を見上げる。堂々たる姿からは、自分のように俯くところは想像がつかない。
 けれど、唄子はふと気づいてしまった。天珠は決して睨んでいた訳ではないことに。そして彼は、帽子をさらに深く被り直す。それは、周囲の視線から身を守っているようにも見えた。

「……そんな俺に隊長が仰ったのが、さっき貴女に言った言葉だ。」
「……背筋を伸ばして、跳ね返せ…?」
「そう。堂々とさえしていれば、睨まれても睨み返せるから、と。」
「睨み返すって…」

 相変わらずの長澤節に、唄子はくすりと笑ってしまった。天珠もまた、わずかに口角が上がる。

「怖ければ、頼ってください。隊長が貴女を彼の家に迎えた以上、俺は貴女のことを、安倍同様、後輩と認識しています。貴女が軍人かどうかなど関係なく。」
「堂児さん…」
「後輩を守るのは先輩の務め。ここに貴女がいる事を咎める輩がいれば、俺が貴女を守ります。だから、」

 唄子の背を優しく叩く、天珠の大きな手。

「貴女は、背筋を伸ばしてさえいれば、大丈夫です。」
「……はい」

 その温かさは、着物を通してしっかりと伝わっていた。

「……足を止めてすみません。急ぎましょう。第一食堂まで、あと少しです。」
「わ、わかりました…!」

 そして、2人並んで歩き出す。顔を上げることが出来た彼女が見る景色は、足元よりもずっと光に満ちていた。



 お昼時の食堂は、多くの人で溢れかえっていた。
 そんな中、とある長机に向かい合って座る長澤と唄子。彼女の前には、お皿に盛られたライスカレー。

「食わないのか?」
「えっ?」

 大口をあけてカレーを頬張る長澤が尋ねる。山盛りの一角を匙に乗せ、彼は自慢げだ。

「海軍のカレーは美味いぞ。せっかく来たんだから食っとけ。」
「ええっと…」
「安倍なんてなぁ、初めて連れてきてやった時はあの糸目かっぴらいて喜んでたぞ。こないなハイカラ料理初めてや〜なんて言ってな。」
「あの…」
「京都の実家で良いもん食ってただろうに。くく。」

視線を泳がせる唄子に気づいているのか無視してるのか、長澤の声は途切れない。
 明らかに場違いな自分が、目の前の料理に手を付けて良いのだろうか。どうして女がここに?という囁き声さえ聞こえてくるというのに。
 
 背筋さえ伸ばせば。天珠のアドバイスを意識しながら、唄子は意を決して長澤に尋ねた。

「ほ…本当に…、私が食べても、いいんですか…?」

 恐る恐るの言葉。すると長澤は目を丸くして言った。

「そのためにここに呼んだんだぞ?食べねぇでどうすんだお前……!」

 その言いように、今度は唄子が目を丸くする番だ。

「そ…そのためなんですか…?」
「当たり前だろ。」
「当たり前……!?」

 てっきり、昨日と同じように能力や夜見之宮の話をするためかと思っていたのに。これでは、とんだ思い違いではないか。

「食ったら街に出るからなー。それはともかく、せっかく海軍に入るんだから、カレーは最初に食べねぇと!」
「……」

 本当にカレーの為に呼ばれたらしい。こうなるともう、抵抗するのが馬鹿らしくなってきた。

「だから…海軍には入りませんって…。」

 それだけは呟いて、唄子はいただきますと手を合わせる。匙を手に取り、ライスカレーをすくった。

 ゴロゴロと大きく切られたじゃがいも、お肉。さらりとしたルーから香るスパイス。けれど、辛すぎない。

「美味しい……!」
「だろ?」

 少年のように笑う髭面。自分よりずっと歳上なはずの長澤が、唄子はなんだか可愛く見えた。

 ◇

 食事の後は、本当に横須賀の街に連れ出されていた。カレーのためだけにあんなに怯えて歩いたのかと思うと、余りにもしょうもなくて唄子は笑えてきてしまった。

「小野、お前着物二着しか持ってないだろ?」
「え……!っと、……はい……。」

 図星を突かれ、言いよどみながらも肯定する。だよな、とだけ長澤は返事をすると、真っ直ぐにとある仕立て屋へ入っていった。

「邪魔するぞー」

 そう声をかけると、奥からパタパタ駆けてくるのは店主と思わしき女性だ。

「あらまあ!長澤様!?随分とお久しぶりで。」
「野暮用だ、野暮用。」

 彼女に本気で驚愕され、鬱陶しげに返す長澤。そんな彼に怯まない店主と目があい、唄子は慌てて頭を下げた。

「あらあ…今回はまた可愛らしい子を連れて…!まあ…!」

 浮つく店主。何か勘違いをしてそうだ。唄子は訂正しようと口を開いたが、それよりも長澤のほうが早かった。

「コイツになんか仕立ててやってくれ。すぐ着れるやつも欲しい。普段着3着と余所行き2着くらいか?動きやすいのも頼む。」
「……!?」

 その言葉は、青天の霹靂だ。唄子は大慌てで長澤の軍服にしがみついた。

「要らない!!要らないです、そんなに…!!今のも着れてますから!!」
「なあに言ってんだお前。安倍が心配してたぞ?小野ちゃんの着物は擦り切れてて寒そうだ、って。」
「えぇ…!?!」

 予想外の情報源に、唄子はもう狼狽えるしかない。
 店主の方はころころと笑って楽しそうだ。

「さあさあ、お嬢さん。こちらへどうぞ。何も怖がらなくても、どうせ長澤様は使う金有り余ってんですから大丈夫ですよお!」
「え……!?あの!?」

 唄子の手を取り、店の奥へ。助けを求めて長澤を振り向いても、欠伸と共に手を振られるだけだった。



 藤色の矢矧柄に、濃紺の袴。既製品としておかれていた中から選んだ、1番地味なものだ。反物たちはこれよりずっと華やかで、唄子は選ぶのにかなり苦労してしまった。

「古いのを捨てろとは言わねぇが、せっかく仕立てたんだから、届いたら新しいのも着てやれよ?」

 そう言いながらコロッケの半分を一口で齧る長澤。
 唄子の手の中にも、同じものがホクホクと湯気を立てている。

「はい。あの…ありがとうございます。」
「ん。」

 じわりと温かい。サクッと音を立てたコロッケは、ジャガイモの柔らかい甘みが熱を持って口の中を転がった。

「あとは欲しいもんや必要なもんはあるか?今日の夕飯の材料でも、化粧品なんかでも。」
「えっと…それなら…」

 あっという間に全て長澤の腹の中なコロッケ。隣の彼に負けないように頬張りながら、唄子は今日の献立を思い描く。

 昨夜の夕食で、同居人の先輩2人はかなり食べることが分かった。しかも、唄子の料理を口々に褒めてくれる。あの長澤でさえ、取り分けておいた鍋を完食してくれていた。
 こんなに作りがいがあるのは、初めてだった。

「八百屋さんと、お魚屋さんに行きたいです。あと、お米と醤油も買い足したくて…!」
「お前……」

 長澤がポカンとした顔をする。コロッケのつつみ紙をポケットに押し込むと、彼は呆れたように言った。 

「案外食い意地はってるな?」
「それは皆さんの方でしょう…!?」

  降ってきたのは、あまりに心外な受け取られ方。唄子は思わず、彼の軍服を引っ張り講義した。

「昨日のお鍋だって、今日の昼食分まではあると思ってたのに、全部食べちゃうんですもん…!」
「それは堂児と安倍に文句言えよ…。俺は物足りなかったが?」
「大きな器山盛り残しておいたのに足りないなら、長澤さんも一緒です!」
「あぁそう……?」

 流れるように口をつく長澤への軽口。まだ出会ってからたった4日だというのが、最早信じられない。
 そんな唄子の様子に目を細めると、彼はポツリと呟いた。

「うめぇ飯は、そりゃ沢山食いたいだろ。」
「……!」

 何気ないそのひと言。たったそれだけで、唄子の心はジャズのように陽気に跳ねてしまう。

「そうだ、小野。手ぇだせ。」
「手?」

 言われた通りに差し出す。するとそこにちょこんと乗せられたのは、鮮やかな水色の髪紐だ。

「これ…!」

 驚いて長澤を見上げる。いつもの豪快さは鳴りを潜め、彼は穏やかに微笑んでいた。

「やる。似合うだろうと思ったからな。」
「……!!」

 初めて、男性から貰った贈り物。まさかの展開に、唄子は頬が緩みそうだ。

「ありがとう…ございます…!」
「おう。」

 軽い返事を聞きながら、きゅっと大事に髪紐を握りしめる。コロッケのパン粉や油染みを落として仕舞わないよう、唄子は慌てて懐に髪紐を仕舞うのだった。

 その様子を見守った後、長澤は再び口を開いた。

「明日から、1500(ひとごまるまる)に異能部隊の執務室に来い、小野。門の通行証は瑞樹が手配してるから、今日にでも堂児か安倍が持って帰ってくるだろう。」

 昨晩の言葉と似た内容。今日の前科を鑑みて、唄子はつい尋ねた。

「……またカレーですか?」
「バァカ、カレーのために通行証が取れるかよ。」
「あ、はい。」

 長澤の口から常識的な言葉が聞けるとは。なんだかおかしくて、笑い声を抑えるのに必死だ。
 そんなことおかまいなしに、彼からの真面目な連絡は続く。

「異能部隊に入らないとしても、お前は力の使い方を覚えるべきだ。身を守る為にもな。瑞樹がお前の家庭教師になる。だが、アイツも仕事が多いから家まで来るのは無理だ。」
「あ、なるほど…。だから、私が軍の庁舎に…」
「そういうこった。」

 漸く合点がいった。
 昨夜のような怖い思いは、できるならしたくない。長澤の提案以上に、頼れるものはないのは明白だ。

「わかりました。お伺いします。」
「よし」

 唄子の返事に、長澤はニッと笑う。いつか自分も、この人の自信にちゃんと並べるだろうか…なんて。
 気の遠くなりそうな目標を、唄子はこっそり心に決めた。